家族になんと話を切り出せばいいか考えあぐねていた。そう、沖縄取材のことだ。前から沖縄には取材に行きたいと思っていた。しばしば同類のように語られてきた福島と沖縄とで、いったいどのような問題が共通していて、どのような問題が異なるのか、現地の人に話を聞きながら取材したいと思っていたのだ。
だが、夏休みにいくら仕事だからといって、ぼく1人だけ南の島に乗り込むわけにもいくまい。ようやくコロナも落ち着きつつある夏に1人取材旅行を敢行した場合の、妻の壮絶な怒りは想像できる。飛行機に乗りたいと常々言っている娘は、もう2度とぼくの言うことを聞いてくれないかもしれない。抜け駆けだけはできない。じゃあ、百歩譲って家族も連れて行くとする。ぼくは取材に集中し、妻たちはどこかで遊んでいればいいということか。いや、それじゃあ家族で行く意味がなくなるし、ぼくが仕事をしているときに妻たちは遊んでうまいものを食っているというのではあまりに不公平だ。
どうすれば……と悩んで閃いたのが、小学2年の娘や妻と共に沖縄を巡る、いわば学習旅行のような旅程を組み立てればいい、ということだった。ぼくも取材をする。妻や娘も取材をする。そして、彼女たちと語りあったこと、お互いの気づきや学びを記事にすればいいのだ。そうすれば、彼女たちの同行は取材に欠かせないものになり、したがって「経費」に計上できるはずだ。彼女たちが同行して初めてぼくの記事は完成するのだから、沖縄旅行の費用はすべてまぎれもない「取材費」であるはずだ。
これはナイスアイデアだと思った。さっそく妻に打診してみると、「現地のガイドも教育旅行とかを手がけている人にお願いしてみたら?」と逆提案してくるほど乗り気だった。経費にできるかもしれないというのが刺さったようだ。経費に厳しい妻の性格を知り抜いた上での提案である。断られるはずがないと思っていたがそのとおりだった。娘は、社会科見学だということに少し不安もあったようだが、「勉強のあと2日間は海で遊べるから!」と説得した。
残った懸念は、現地のガイドを誰に頼むのかということだったが、ぼくはすでに、1人で取材しようと思っていたときから候補を決めていた。地元の那覇でライターとして活動しているシマさんこと島袋寛之さんだ。『新復興論』を出す前だったと思うが、シマさんとはゲンロンカフェで初めてお会いしたときに意気投合し、5年ほど前にも、シマさんがナビゲーターを務める那覇のコミュニティFMの番組に出演させてもらったことがある。さらにその前、シマさんたちが東北を巡ったときには、ぼくの主催する食のイベント「さかなのば」に参加してもらったこともあった。ゲンロンの読者なら、2016年に開催され、よくも悪くも話題になった「ゲンロンカフェ沖縄出張版」を思い出す方もいるだろう。あのイベントを主催したのがシマさんであった。
おまけに、そのシマさんは今年6月、編集プロダクション業と平和学習事業を手がける「株式会社さびら」を立ち上げたばかりだった。シマさんによれば、さびらは、沖縄を訪れた人たちにさまざまな研修プログラムやワークショップを提供する会社で、小学2年になるぼくの娘でも十分に対応できるとのことだった。むしろ小学2年生向けのプログラムを開発するのにリケンさんたちの家族旅行を活用させてもらいたい、というメッセージももらっていた。まさに渡りに舟というやつだ。シマさんにお願いすると、沖縄初心者ファミリー向けの1日ツアーを組んでもらえることになった。かくして小松家3名、4泊5日の沖縄学習旅行が始まったのである。
全然ちがう、8月15日
8月15日の終戦記念日。早朝に家を出た我々は、常磐自動車道を南下して茨城空港へと向かい、飛行機で那覇へと飛んだ。茨城から那覇までは3時間と、それほど過酷な旅ではない。那覇空港に到着後、「ゆいレール」で県庁付近まで移動し、歩いてホテルへ。そのあとは、妻と娘からのリクエストもあり、さっそく買い物に出かけることになった。突き刺すような夏の陽光を浴びながら国際通りを歩き、牧志公設市場の周辺の店を品定めしていく。
ぼくは、公設市場のそばの、古いアーケード街が大好きだ。島ラッキョウやら豚の煮込んだのやらがダダダっと店頭に並べられ絶妙な芳香を漂わせている。夏の天気もあいまってか、台湾やベトナムあたりとも似た独特の南国アジア情緒を感じるのだった。ぼくは東北の人間だけれど、むしろ南のほうにルーツがあるのではないかと思ってしまうほど、このゆるい空気がフィットする。身体がどことなく喜んでいるようだ。ショッピングのあとはホテルへと戻り、近くの居酒屋でオリオンビールを存分に胃に流し込み、早めに休んで次の日のツアーに備えた。
旅の2日目は、シマさん率いるさびらのツアーである。ホテルの下で待っていると、ワンボックスの車がやってきた。運転席には、シマさんではない若い男性が座っていた。さびらのスタッフ、野添侑麻さん(以下ユマちん)である。ユマちんは、さびらの平和学習事業の期待の新人だそうで、すでにさまざまなツアーガイドなどを手がけているというから心強い。
沖縄入りした日が8月15日だったこともあり、ぼくは何気なく「8月15日って沖縄ではどんな捉え方なんですか?」と聞いてみた。ユマちんはハンドルを握りながら「8月15日って、本土では戦争が終わった日とされてますけど、沖縄戦が終わったわけじゃないんです」と語り始める。
「一般的には、6月23日に沖縄本島の組織的な戦闘が終了したといわれてて、この日が慰霊の日になってますけど、1961年の段階では、慰霊の日は6月22日だったんです。二転三転してるんですよね。それに、8月15日以降も戦っていた部隊はあるし、9月まで戦闘が続いてましたから。8月15日ってのは、全然ちがいますよね」。
全然ちがう。その一言がすべてだった。ぼくは、先の大戦は8月15日に終わったのだと当たり前のように考えていた。なにしろその日が「終戦の日」なのだ。その日は、たいてい実家にいて、夏バテした身体をソファに放り投げ、朝から高校野球を見、お昼前あたりからだらだらとNHKで放送されているニュースを見始め、正午に鳴らされるサイレンと共に黙祷を捧げる、そんなふうに過ごしてきた。
だが、その「終戦」は、いったい誰に向けられた言葉だったのだろう。実際、あの日の沖縄で玉音放送を聴き、「戦争は終わったんだ」と実感できた人はどのくらいいたのか。その瞬間から、何かがズレていたのではないか。そしてそのズレは、修正されることもなくこうして80年も経過してしまったのではないか。自分で声をかけておいてなんだけれど、ぼくの質問とユマちんの答えのギャップこそが、本土と沖縄の意識のズレそのものなのだと感じられ、しょっぱなから自分が恥ずかしくなってしまった。
最初の目的地に向かう道中、「新都心」という新しいエリアを通った。助手席から外を見てみると薄茶色の巨大な建物がある。看板も何もないので巨大なマンションのように見えるが、こんな中心部にマンションというのもしっくりこない。なんの建物かを聞くと、シマさんがショッピングモールだと教えてくれた。建物はちょうど弧を描くような形状をしていて、その弧の内側に入って初めてテナントの巨大看板が見える構造になっていた。道路からは、ほとんど建物の背中しか見えない。
シマさんは言う。「住民に向いてないっていうか、まちに向いてない。結局、外からくる人にしか向いてないんですよ。今の沖縄は観光産業に依存してて、米軍基地が返還されたところに大きなモールができてます。でもほとんど県外資本なんですよ。まちづくりそのものが巨大資本と結びついたものになってるんで、沖縄振興のための費用なのに沖縄に還元されにくい。こういう場所、他にもたくさんありますよ」。
地域づくりそのものが巨大資本と結びついている。それもまた、沖縄を端的に示す一言かもしれないと思った。沖縄外の資本がモールを作り、全国チェーンがテナントに入店し、売り上げは本社が回収してしまう。住民は、そこに働き手として就職するから、たしかに恩恵はあるのかもしれないけれど、沖縄の最低賃金が示すように、観光に関わる労働者の時給は決して高いわけではない。そこで生まれる富が外に流出してしまっているのだ。いや、流出というか「収奪」と言ってもいいかもしれない。だが、沖縄全体が観光産業に頼らざるを得ないのもまた現実であり、そうであるがゆえに、巨大なグローバル資本の渦に飲み込まれずにいられなくなってしまう。まちに背を向けたモールは、その矛盾を表しているようにも思えた。
丘の上から見えた戦後
車は那覇市を北上し宜野湾市へと入った。最初の目的地が嘉数高台公園だ。ユマちん曰く「沖縄の教育旅行の総本山みたいなところ」だという。車を降りると、目の前にこんもりとした丘がある。その頂上には、少し年代を感じる、青く塗装された展望台があるのが見えた。
歩き始めると、すぐに汗が噴き出してくる。汗は首筋を流れ、シャツにへばりつく。ちょっと歩いただけで、胸や腹のあたりが濡れてきた。だが、こういう暑さの中で沖縄戦は繰り広げられていたのだ。兵士も、住民も、この暑さのなかを生き抜き、戦い、あるいは逃げ惑い、命を奪われた。そう考えると、この暑さを耐えることが当時この地に生きた人たちを思い偲ぶ小さな回路になるのではないかと思えてくる。よそ者であり、この地になんの関わりもないぼくは、この暑さに救われるような気持ちになっていた。
高台の階段を登っていくと、巨大な石の塊のようなものがあった。トーチカだ。米軍は、1945年4月1日、沖縄本島の中部西海岸からこの地に上陸した。米軍を迎え撃ったのが、この高台に陣取った日本軍である。日本軍は激しい戦闘の末に撤退、南部方面へと移っていく。その過程であまりにも多くの命が奪われたことを、多くの読者はすでにご存じだろう。
目の前のトーチカは、銃撃の痕跡なのだろうか、形がかなり崩れてしまっていた。さすがに現物の迫力は強く、さっきまで暑い暑いと騒いでいた娘も少し静かになり、ここで何かとんでもないことが起きていたということをうっすらと感じたようだった。「中に入ってみたら?」とぼくが促すと、娘は少し躊躇いながらも身をかがめて中に入っていった。米軍を狙う日本兵の銃身が出されていたはずの穴から顔を出し、娘はぼくのカメラに笑顔を向けてくれた。
トーチカのそばには、日本軍が使っていた陣地壕の跡がそのまま残されていた。陣地壕は石灰岩質の地面に穴を掘り、くり抜いて作られた日本軍の陣地だ。現在は入り口が封じられているので中に入ることはできないが、この暑さのなか細い壕の中を動き回り、身を潜め、米軍と対峙していた兵士の姿を想像することならできた。ユマちんによれば、嘉数地区には無数の陣地壕が作られ、その構築には多くの住民も駆り出されたという。「地元の住民も日本軍の駐留を歓迎したんです。家に泊めたり、一緒になって陣地壕の穴を掘ったり。でもその結果、日本軍はアメリカ軍に情報が渡るのを恐れていました。そのため撤退するときに自害することを求められた住民も多かったそうです」。住民と兵士たちの距離の近さ、関係の濃密さが、不幸にもさらなる悲劇をもたらしたのかもしれない。
階段を登り切ると、向こう側に普天間飛行場が見えた。あまりのデカさに「うわぁぁ……」と思わず声が漏れた。木々の緑と無数の住宅に囲まれたところに灰色の広大な飛行場がある。飛行場と周囲の住宅地とを隔てるのはフェンスだけだ。距離が近すぎると思った。ぼくから見て手前のほうに、きれいに列を整えて置かれたオスプレイが見えた。さっきまで「沖縄戦」、つまり過去の戦跡を巡っていたのに、そこだけは現在だった。今だった。
基地の左側には美しい海が広がっている。そこから米軍が上陸してきたんだなと理解できた。なるほどこの場所なら上陸してきた米軍の動きもよく見えたはずだ、それでここが陣地に選ばれたのだろう。そしてすぐ、当時米軍が侵攻してきた土地にそのまま普天間飛行場が作られているという事実に気づかされた。普天間飛行場について調べてみると、沖縄県のウェブサイトにこんな記述があった。
「住民が避難したり収容所に入れられている間に、米軍が利用価値の高い土地を強制的に接収したため、戻ってきた住民は自分の故郷に帰りたくても帰れず、その周辺に住むしかないという状況でした」[★1]。目の前の景色の中に、戦前、戦中、戦後がすべて揃っていた。ユマちんがさっき語った「沖縄の教育旅行の総本山」の意味が、ようやく理解できた。
言葉にならない呻きしか出せないぼくを横目に、娘は汗だくになりながら、盛んにメモを取っていた。メモには「アメリカのきち」とか「ひこうじょう」とか、娘が見たものが記されていた。
ぼくは、旅行前に娘の使う簡単な「取材メモ」を作っていた。「なにを見ましたか?」「だれがどんな話をしていましたか?」「どう感じましたか?」という3つの項目が書かれていて、なんでも自由に記入できるようにした。
見聞きしたもの、感じたことをみんな書き残しておいて欲しいと思ってこんな取材メモを作ったのが、案外役にやっていたようだ。と同時に、娘はユマちんやシマさんに、「なんでアメリカの基地が沖縄にあるの?」「飛行機、うるさっ!」「落ちてきたら危なくないの?」と素朴な疑問をぶつけていた。どれも幼稚な反応かもしれないが、娘の感じる疑問はすべて正論にも聞こえた。シマさんもユマちんも、娘の質問に呆れることなく、丁寧に「そうだよなあ」「オレたちもそれで困ってんだよー」と、共感しながら相手をしてくれていた。
妻は、自分では多くを語らないものの、「今のメモした?」とか、「これも紙に書いておいたら?」とか、ちょくちょく娘に声をかけていた。娘にとっては、ユマちんやシマさんの言葉は当然難しいし、専門的な用語も出てくる。そこで妻が翻訳して伝えることで、娘の取材を支えているようだった。妻は、娘に伝えるという役割を課せられたことで、ユマちんやシマさんと同じ「語り部」として、その風景に立ち会っているようにも感じられた。
15分に1度くらいの感覚で、何かしらが頭上を飛んでいく。驚いたのは、その展望台にテレビカメラを担いだ人たちが何人か常駐していたことだ(後で訪れることになる嘉手納飛行場でもそうだった)。何かがあったときに、すぐに報道機関に録画データを渡せるよう地元のカメラマンが委託されて現場に張り付いているのだそうだ。いつもはいない軍用機が着陸してこないか、あるいは事故やトラブルが起きないか。何かが起きる可能性は、ゼロではない。高台を後にした我々は、その「何か」が起きた現場へと向かった。
若き語り部の思い
車に乗り、ユマちんの運転で宜野湾の町内を目指す。先ほどからこの青年と話していて驚かされっぱなしだった。ユマちんの語る情報の量がものすごかったからだ。頭上を飛んでいく米軍機の名前やら、歴史的な出来事やらがスラスラと言葉に出てくる。ぼくは、その解説のおかげで、目の前の風景が、あるいは現在の沖縄の課題が、沖縄の戦争の歴史と切り離すことができないのだと学ぶことができた。ユマちんは、見た目も語りも温厚だったが、その豊かな知識と情報量に、「ガイド」に対する思い入れ、意気込みの強さを感じたし、ぼくはこれほどの密度と熱量で福島に向かい合ってきただろうかと反省も促された。
ユマちんは、かつては地元の新聞社『琉球新報』に勤めていたそうだ。きっと記者だったに違いないと思ったが、記者職ではなく事業系のセクションで、イベントの企画や運営などに関わってきたのだという。ではなぜ彼は、こうして立ち上げられたばかりの会社の教育旅行担当として転職してきたのだろうか。その思いを聞いてみると、ユマちんは、平和学習に対する「違和感」から話し始めた。
「沖縄ってもともと平和学習が盛んで、小学校の低学年でも、子ども用の絵本なんかで沖縄戦の歴史を学ぶんです。高学年になると普通の本も読むし、語り部の話を聞いたり、いろいろなプログラムを通じて平和学習を受けます。だけど、沖縄では大変な戦争があった、こんな凄惨な被害があったんだと繰り返して学ぶことが、かえってトラウマを植えつけるような教育になっているような気がして、少し疑問を感じてました。ぼく自身、平和学習を受け止めきれなかったのかもしれません。それがずっと問題意識として残っていて、沖縄を学ぼう、ではなく、なぜ沖縄を学ぶことが必要なのかっていう前提から考えなくちゃと思うようになったんです」。
たしかに、ユマちんが言うとおり、沖縄を知ろう、学ぼうとよく言われる。ぼくも当たり前に、沖縄では大変な犠牲があったこと、今なお巨大な負担を押しつけられていることをそれなりにだが学んできた。そこには当然ながら「被害者」としての沖縄の姿が浮かぶ。だからこそ、その沖縄の歴史をぼくらは学ばなければいけないと思ってきたわけだけれど、たしかに「なぜ沖縄を学ぶことが必要なのか」と聞かれると、「そこで戦争があってすさまじい犠牲があったからだ」としか言いようがない。リアクションに窮するぼくを横目に、ユマちんは話を続ける。
「戦後80年じゃなくて、戦前1年かもしれないって想像力を持つことで、今の社会の流れを変えられるかもしれないって思ったんですよね」
またこの青年にハッとさせられた。先ほど、高台から見た風景に戦前や戦中、戦後が垣間見えたとぼくは書いた。その戦前とは「第二次世界大戦の前」という戦前だ。ところが今ユマちんが語った「戦前」とは、次に来るかもしれない戦争の前という「戦前」なのだ。同じ「戦前」でも、持つ言葉の意味が異なる。 北朝鮮や台湾など、日本周辺での有事が想定され、軍備の増強や憲法改正などさまざまな動きがある今、この地はたしかに戦争に備えた「戦前」の状態だといえる。そして、戦前だということは、この地が再び戦火に包まれる可能性があるということだし、隣国に爆弾を落とす爆撃機を送り出す、いわば加害者の立場にもなり得るということかもしれない。
いや、それだけではない。戦前だということは、沖縄の人たちが戦争に向かう大きな流れにすでに巻き込まれているということでもある。終わった戦争を学ぶのか、これからくるかもしれない戦争を学ぶのかで、思考のベクトルは大きく変わってくる。そのことを、まさか終戦記念日の翌日に痛感させられるとは思ってもみなかった。ぼくの「戦後」が生み出していたズレは想像以上に大きかったのかもしれない。
「15年くらい前、本土の高校生が沖縄に来たときに、ある生徒が語り部に対して『あんたたちは負け犬なんだ』と暴言を吐いたってことがあったんです。県に謝罪があったと聞きましたけど、そこで痛感しました。なぜ学ぶ必要があるのかから伝えないといけないなって。戦争体験者たちの多くは、もう高齢ですし、これからは当事者がいない時代に戦争を伝えないといけませんよね。そこでは、何かを押しつけるんじゃなく、みんなで話したいんです。外から来る人たちの気持ちも聞いて、一緒に話したいんですよね。そういう平和教育の形を考えたくて、さびらに転職しました」。
ぼくたちは、あまりにも当たり前に、「なぜ学ぶのか」なんてことを問わずに、沖縄で起きた戦争を学んできたと思う。ある強い体験をした人、語り部たちの言葉は、たしかに届く。そして刺さる。けれど、その声が「正しいもの」であるがゆえに、それを受け取った人たちは、自分で考えることをやめてしまう。当事者の声を額面通りに受け取り、その言葉を守ればいいからだ。そうした学びは、どこかで若者たちの思考のベクトルを狭め、そしてまた同時に、沖縄を「戦後」に押し留めてきたところがあったのではないか。
だが、これからは、戦争を直接は体験していない世代が沖縄の語り部になっていく。戦争を体験した当事者はいなくなる。だからこそユマちんたちは、過去の戦争ではなく、彼らにとっての日常である「今の沖縄」を伝えよう、対話しよう、学びの場を提供しようと考えるようになったのではないか。そこまで考えて転職したユマちんもすごいが、そういう若者の声を聞き、学習旅行の会社を立ち上げ、彼らの声を、彼らのつくる学びを社会に開こうと起業したシマさんもすごい。ぼくは、ひょっとするととんでもないツアーの誕生に立ち会っているのかもしれない。
打てないホームラン、途切れる会話
ユマちんが運転する車は、いつしか大通りから細い路地に入り、ある建物の近くの空き地で止まった。普天間バプテスト教会付属緑ヶ丘保育園。上空を飛行する米軍のヘリコプターから部品が落ちてきた保育園なんだとシマさんが教えてくれた。新聞記事などによると、2017年7月のある日の日中、「ドン」っという音を聞いた保育園の職員が外に出て確認すると、屋根の上に円筒状の落下物を見つけたのだという。米軍はあとになって、見つかったものが米軍のヘリコプターの一部であると認めたものの、飛行中の機体から落下した可能性は低いと説明したという。このため、幼稚園には、ウソつきだ、でっち上げだろうという誹謗中傷も寄せられたそうだ。
子どもを保育園に通わせた母親たちは、園児たちが安全に外で遊べる環境になって欲しい、せめて、子どもたちの通う学校や幼稚園のそばを飛ばないで欲しいと訴えたが、今なお状況が改善されたようには見えない。ぼくが訪れた日も、ヘリコプターや輸送機が何度も音を立てて上空を飛行していた。これがぼくの暮らす福島県だったら、保育園の上空から米軍機の部品が落ちてくるかもしれないなんて恐怖感に苛まれることはまずない。本土では考えずに済むリスクを、ここに暮らす人たちに背負わせ続けていることに、やはり罪悪感を覚えてしまう。親たちは、米軍の基地は全部要らないと言っているわけではない。せめて、子どもたちには当たり前の日常を送ってもらいたい、配慮してもらいたいと訴えているだけなのだ。「戦後80年は、戦前1年かもしれない」。ユマちんの言葉が、再び頭の中で繰り返される。
保育園を後にしたぼくたちは、そのまま住宅地を進み、普天間第二小学校の前で車を止めた。目の前の風景は、ちょっと信じがたいものがあった。学校のすぐ隣が、先ほど高台から見た普天間飛行場なのだ。その証拠に、学校の敷地の端にフェンスが建てられている。そのフェンスを越えれば米軍基地なのである。あらためて距離の近さを実感する。校庭にも、そのフェンスは伸びていた。小学生が体育の授業をしたり、休憩時間に遊んだりする、そのすぐ脇に飛行場があるということだ。
校庭の端っこには、屋根のついたベンチのようなものがあった。ユマちんによれば、それは軍用機がすぐ近くを飛んできたときに逃げ込むシェルターなのだという。実用は2018年からストップしていて、今は使われていないそうだが、多いときには10分に1回くらいのペースで飛んでくるようなので、ほとんど授業になんてならなかっただろう。児童たちは、当たり前の小学校生活を大きく傷つけられている。話を聞いていて唖然とするほかなかった。
その様を見て、娘はこんなことを言い出した。「えー! これじゃあ校庭で野球やってもホームラン打てないじゃん! だってホームラン打ったらボールが基地の中に入っちゃうってことでしょ? それじゃ思い切り野球できないんじゃん。かわいそうだよ」。娘なりに、普天間の小学生に共感しようとしたということなのだろうか。それを聞いたシマさんもユマちんも、盛んに頷きながら「そうなんだよ」「ほんとにそうなんだよなあ」と、娘の話を聞いていた。
シマさんが娘に聞いた。「ねえ佐和、この小学校さあ、教室のガラスが2重になってんだ。なんでか分かる?」。娘は「うーん、飛行機の音がうるさいから? でも、それだけじゃあうるさくて先生の話も聞こえないじゃん。最悪だよ」と答えた。
すると、ユマちんがぼくたちに向かって、こんな話をしてくれた。「これって普天間だけじゃないですけど、米軍のヘリコプターとかが飛んでくると家族の会話が一旦止まるんです。無言になって、ヘリが飛び去るのを待って、また会話が続く。これが沖縄の日常なんです。そういうことを、押しつけがましくなく話したいんです」。
ユマちんの説明のおかげで、この地に暮らす人たちの日常が、まるで映画のワンシーンのように頭の中に浮かんだ。だが、何かがおかしい。その人たちの暮らしが、ではない。そんな暮らしを長年にわたって沖縄に押しつけてきた「何か」がおかしいのだ。
家族の会話が途切れる。その瞬間は、誰も傷ついていないし、騒音を我慢してヘリコプターが通過するのを待てば会話は再開される。けれど、そのシーンが極めて日常的なものとして想起できたがゆえに、沖縄の基地が地元の人たちの何を奪っているのか、リアルな手触りを持って感じられるような気がした。
「ユマちん、それって、当たり前に、命が脅かされることなく、自分らしく、子どもらしく、この地域で生きられるっていう、そういう権利が奪われてるってことだよね?」
「そうなんですよ。基地問題って、歴史問題でもあるし、人権問題でもあるし、めちゃくちゃ複合的なんです。基地問題として語ると、多くの人たちは沖縄特有の問題だって処理をするかもしれないけど、人権問題なんだと捉えると、今よりも自分の問題として考えることができますよね。だから、この問題って『沖縄の日常だ』でかたづけちゃいけない問題なんです」
「そうか、地域によって差はあるかもだけど、ここでは人権が制限されてるってことだよね。でも、権利が制限されるって言っといてあれだけど、それって異常事態だよね。さっきユマちんが『戦前として考える』って言ってたけど、それってつまり戦中なんじゃないの?」
「戦中」なんて言葉が出てきてしまい自分でもゾワっとする気持ちになった。でもユマちんは、「うん」と言わんばかりに一度大きく首を縦にふって頷き、こう続けた。「さっき、沖縄戦っていつ終わったのかって話したじゃないですか。6月22日とか23日とか、9月7日とか。誰かが決めて沖縄では戦争は終わったってことになってますけど、10分に1度ヘリや輸送機が飛んでくるなんて日常に、慣れちゃいけないし、暮らせるはずがないですよ」
ハッとして、ぼくは聞いた。「沖縄は、終戦してないってこと?」
今度はシマさんが頷いた。ああっと天を仰ぐような気持ちになった。8月15日。この終戦記念日に、妻や娘と共に学びの旅をしよう、今日は戦争について考える最もふさわしい1日だから沖縄を学んでみよう。そんなふうに思ってここにやってきた自分がさらに恥ずかしくなった。
ぼくは、1年に1度、この8月15日くらいしか戦争について考えてこなかった。しかも、多くの場合それは「過去の戦争」だった。けれど沖縄の人たちは(ユマちんもシマさんもだが)、毎日、それこそ家族との会話を途切れさせるたび、どこかで戦争について考えてきたということなのではないか。そして、現実としてここに暮らし続けてもいる。その圧倒的な非対称さに気づき、ぼくは言葉を失った。沖縄に、多くの問題を押しつけてきた「何か」は、ぼくの中にもあったのだ。返す言葉がなかった。
その刹那、小学校の上空を、ギューーンと音を立てて1機の輸送機が飛び去っていった。娘は耳を塞いでいる。妻も、なんともいえない表情で上空を見上げていた。ユマちんは腰に手を当てながら空を見上げ、シマさんはなんてことないというような素振りで、車に向かって歩いていった。10秒くらいだったろうか。ぼくたちの会話は止まり、言葉が失われた。まさに失語の10秒間。たった10秒だけれど、これまでに奪われてきた会話の時間の総数は、沖縄全体でいったい何時間になるだろうか。そんなことを考えた。
タコライスの聖地にて
普天間飛行場の次の目的地は、普天間からは少し北にある金武町だ。なぜ普天間からだいぶ離れた金武に足を伸ばすかというと、そう、タコライスを食べに行くためである。タコスの中身をご飯にかけていただく、あれだ。シマさんによれば、金武は人口1万人ほどの小さな町だが、アメリカ海兵隊のキャンプ・ハンセンがあり、町の面積の実に55%が基地で占められるなど、基地との共生を図ってきた町として知られる。そしてなにより、金武は沖縄のソウルフード「タコライス」発祥の地だという。食を通じて地域に共事することを重要視するぼくのために、シマさんがさりげなく旅程に組んでくれたのだ。目指すは、タコライスの名店「キングタコス金武本店」だ。
道すがら、巨大なショッピングモールが見えた。イオンモール沖縄ライカムだ。以前沖縄を訪れた際、ぼくはここに来て買い物をしているが、むちゃくちゃデカいモールだったのを覚えている。もともとこの場所は米海兵隊のゴルフ場で、返還されたあとにショッピングモールになったのだという。イオンモールの住所を調べてみると、沖縄県中頭郡北中城村字ライカム1番地である。字の名前が「ライカム」なのだ。その由来を聞いてみると、「琉球米軍司令部」の英語表記「Ryukyu Command headquaters」を略して「Rycom」なのだそうだ。それゆえにこの場所は、沖縄県民からも「ライカム」と呼ばれており、数年前に正式に「字ライカム」になった……。
米軍関連施設の跡地が返還された場所に商業施設ができる。それは、ツアーを出発したばかりの新都心で見た景色と同じだった。ここにも、観光事業に依存する沖縄というものが凝縮されているのだろう。
そうこうしていると、車は金武町にあるキングタコスに着いた。真夏にあちこちを歩いて見て回っていたぼくは死ぬほど腹が減っていたが、空腹を耐え忍んで行列に並び、600円の「タコライス・チーズ野菜」を注文する。数分して、皿ではなく、テイクアウトによく使われる透明なプラスチック容器にぶち込まれたタコライスがきた。かなりの量のライス、タコミート、レタスとチーズがぎっしり詰め込まれていて、ぐうとお腹が鳴る。カフェめしのようなオシャレ感はまるでない。「とにかくまあ食ってけ」と言わんばかりのボリュームである。午前中ずっと汗をかいて喉がカラカラだというのに、タコライスを見ると生唾が出てくる。自分の卑しさに苦笑いしつつ、2階のイートインコーナーに陣取り、ぼくたちは無言でタコライスを食べ始めた。
「うんま!」という言葉しか出てこない。謎の高揚感も手伝ってか、次々にフォークですくい上げて口に運んだ。貪り食うとはまさにこのことだ。だいたい、このボリュームのタコライスをチマチマ食っていたのでは午後のツアーの時間が削られてしまうし、それ以前に、店内が蒸し暑く、早く食べ終わって外の風に当たりたかった。イートインコーナーには冷房などなく、不幸にもぼくたちの座った席は扇風機の真下の死角にあり風も届かない。空腹感と暑さ、そしてとにかく「がっつきたい!」という謎の衝動がひとつの塊となり、それがフォークにも乗り移って、タコライスの牙城を切り崩していく……。
タコライスの味に、もはや詳細な説明は要らないだろう。なにしろ、このタコライスこそ原初にして完成形なのだ。ぼくは、追加で注文していた「チキンバラバラ(フライドチキン)」にも手を出しつつ、腹が満ちていく多幸感を存分に味わいながら、汗をふくことも忘れて夢中で食べ続けた。娘も妻も無言だった。人は、本当にうまいものをベストタイミングで頬張っているとき、余計なことを口走ることはない。
タコライスは、もともとはキャンプ・ハンセンの米兵に向けて提供されていたものだ。この地にキングタコスの前身である「パーラー千里」がオープンしたのは、日本が好景気に沸いていた1982年。円高が進んで、軍人でもなりたての兵士だとなかなか贅沢な暮らしはできない状況だったそうだ。そこで店主が、金のない軍人でも安くて腹いっぱい食べられる料理を提供しようと、白米を使ったタコライスが考案されたのだという。キャンプ・ハンセンの門前町ゆえの味なのだ。
食後、店の周囲を少し散歩して歩いた。周辺には、バーやクラブなど飲食店が多く立ち並んでおり、「新開区」とも呼ばれているようだ。なんともいえないアメリカンレトロなデザインの看板が目立った。ずっと前からこんな風景があったのだろうか。店じまいしてしまったところもいくつかあった。
散歩をしながらスマホで調べてみると、キャンプ・ハンセンもまた、沖縄戦をきっかけにこの地に建設された基地だと分かった。キャンプ・ハンセンの前身は、米軍が金武一体に侵攻した際に建設した「金武飛行場」だそうだ。その後、射撃場となり、朝鮮戦争の開戦をきっかけに艦船による演習も始まり、1957年よりキャンプ・ハンセンとしての運用が始まった。
キャンプ・ハンセンに拠点を置く部隊は、有事の際に初期対応にあたる第31海兵遠征部隊という部隊で、沖縄県内の米海兵隊の主力だという。主力ゆえに実弾を使った訓練も日常的に行われており、過去には、流れ弾が付近の住宅に着弾するという事件が起きている。ぼくが沖縄にきたひと月ほど前の2022年の7月にも、金武町内の民家の窓ガラスが割れ、銃弾のようなものが落ちているのが見つかったばかりだった。
また、金武町では、水道水や地下水から有機フッ素化合物「PFAS」が検出されるということも続いたそうだ。PFASは消火剤の泡立ちをよくするために使われる化学物質だが、自然環境の中では分解されにくく、人の体内に入ると健康に深刻な影響を及ぼす可能性があると指摘されている。このため金武町では、水道水や地下水の汚染状況を調べるための検査が定期的に行われてきた。その調査で、国の基準を上回って計測されたことが過去に複数回あり、浄水場の濾過層に活性炭を敷き詰めるなどの対応を迫られたというニュースもあった。キャンプ・ハンセンが汚染源と考えられることから、町は基地内の立ち入り調査などを国や県に求めているが、調査の目処は立っていないようだ。米軍と住民との合意形成が図られた痕跡もない。
アメリカから強く影響を受けた金武の町並みは、異国情緒溢れる魅力的な景色に見える。観光情報サイトなどにも、「レトロな町並み」、「インスタ映えポイント」、「アメリカンカルチャー」などの言葉が並んでいた。それらは、この町の大きな魅力であるのはたしかだ。そして、それら沖縄の魅力は、メディアではしばしば「チャンプルー文化」という言葉で紹介される。沖縄では、特に琉球王朝時代、中国や日本、朝鮮や東南アジアとの交易を通じて多種多様な文化が融合した。そのことが沖縄の特異な文化を育んだのだという。融合したのは、もちろんアジアのカルチャーばかりではない。タコライスやステーキなど、アメリカの影響を受けた沖縄の食文化に対しても、この「チャンプルー文化」はよく使われる。
ただ、そうしたポジティブなマジックワードだけでは、分かりやすい沖縄の魅力を拾い上げることはできても、「なぜチャンプルーにならざるを得なかったのか」の歴史までを窺い知ることはできないだろう。だから多くの観光客は、上っ面だけを消費するだけになってしまい、基地問題や人権問題にまで意識を働かせることはなくなってしまう。現実を漂白する言葉として、このチャンプルー文化という言葉が使われてしまっているわけだ。ある情報サイトには、「沖縄県が過去にアメリカに占領された時代があったのをご存じですか? 知ってる人はそれだけで沖縄通です」などというような文章が記載されていた。一瞬「そこからかよ!」と思わず頭を抱えたくなったが、「ここからなんだな」とも思った。沖縄ですらそうなのだと。いわんや福島をや。
タコライスのうまさには、キャンプ・ハンセンの門前町としての魅力と課題のその両方が、あまりにも色濃く反映されている。だから「味わうだけでは不十分だ」「そこからさらに学ぶべきだ」と言いたくなる気もする。けれど、それを食うだけでもまずは充分なのではないか。まず食べて、うまい、これぞ本場の味だと思ってもらう。その中から、何人かでもいいから、「なんで沖縄でタコライス?」と考えてもらえたらいい。なにしろぼくもそうなのだ。料理の味や目の前の風景から、その由来や背景、歴史を思い浮かべる。その速度も深度も、人それぞれでいい。(中篇へ続く)
写真提供=小松理虔
次回は2023年4月配信の『ゲンロンβ80+81』に掲載予定です。
1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
ぼくの実家のそばにも「アメリカ」があった。
アメリカ軍が進駐し、空港は板付基地として接収されていた。
中学生のころ、英語の先生からFENを聞くことができたんだよ、教えてくれた。
今はアビスパ福岡や福岡国体の会場にもなった場所周辺は、
演習場跡だったようで、中には入れなかったけど絶好の遊び場だった。
都市伝説のように、土を掘り返すと不発弾が出てくるといううわさもあり、
子どもたち(ぼくも含め)は、夢中で土を掘り返してた。
そんな場所がたくさんあった。最高の遊び場でもあった。
もともと少し目を凝らすと「アメリカ」が多い。
西戸崎にも。雑餉隈にも、今の海の中道公園は元米軍基地だ。
航空自衛隊の築城基地は、普天間基地の「有事展開拠点機能」の移設先の一つになっている。
土地の記憶やひとの記憶になっている「アメリカ」と、今も生きている「アメリカ」
ぼくには何を考えられるだろう。
そんなことを思いながら読んでた。
理虔さんの文章はゲンロンで出会ってからずっと好きだ。
ゲンロンβ76+77を最後に全編アンケートを控えていた。ゲンロンβ及びゲンロン本誌の刊行のタイミングが不明瞭になり、自分が書きたいペースとズレが生じてきたからだ。持続性にも色々な尺度があると思うが、定期刊行ということが自分にとって大事だと思った次第だ。とはいえ、ゲンロンβを読むことをやめたわけではなく、ゲンロンβ79も面白く読んだ。その中で、小松さんの取材記は、再び感想を書きたいと思わせる素晴らしいものだった。これからは書きたいと思ったものに対して、不定期で書いていくことにしようと思う。その最初が小松さんの沖縄取材記である。
2022年は沖縄復帰50周年であった。私の趣味のひとつとして観劇があるが、沖縄を舞台にした演目を多く見たことでそれを実感していた。その中で、2022年12月初旬に観劇したKAAT神奈川芸術劇場『ライカムで待っとく』とこの取材記は響き合うところが多いと感じたので、それを軸として感想をまとめたいと思う。この演目は、アメリカ占領下の沖縄で起こった1964年の米兵殺傷事件を基に書かれたノンフィクション「逆転」(伊佐千尋著、新潮社・岩波書店刊)をもとに、沖縄在住の作家・兼島拓也が書き下ろし、沖縄に出自を持つ田中麻衣子が演出を手掛けたものである。主人公である雑誌記者の浅野が、過去の事件を調べていくうちに沖縄の物語に絡めとられていく様を描いたものである。沖縄のシーンではセリフが沖縄方言が主となり、沖縄特有ののんびりとした雰囲気がありつつも、シーンを重ねるにつれ、重たく緊張感のある展開になっていく。
劇中に「バックヤード」というセリフがあった。小松さんの「新復興論」で福島を表すときに用いられた言葉でもある。劇中の「バックヤード」という言葉は、不都合なものは表に出さないという隠匿性が強調されていた。ある場所の平和を守るために必要な犠牲もある。それは誰でもよく、選ばれたことに意味はない。その物語は知られてはいけない。沖縄の物語はそのようなものであり、主人公である浅野が無意識にそう書いているのだと。いわゆるNIMBYの問題である。対して、小松さんは生産者としてのポジションや誇りを、消費者へ伝えることにベクトルが向いていたと思う。もちろん、福島にも原発問題があるので、すべてをポジティブに伝えることは難しいのだと思う。
バックヤードというのは、経済的・商業的に考えれば、商品を販売して利益を得るのに効率的だから必要なのである。それはシステムとして切り離すことはできず、観光地としての沖縄や生産地としての福島は、経済的な機能としてのバックヤードを期待されている部分があると思う。そこにはつながりが求められる。他方、基地問題や原発問題は、切り離すべきものとして扱われている。ただ、軍事・防衛やエネルギーという分野に限っていえば、沖縄や福島はバックヤードどころかそれらの問題の最前線である。『福島第一原発観光地化計画』やこの取材記のシマさんやユマちんの学習旅行は、その側面に焦点を当てたものであると思う。その「バックヤード」として両面を持つことが沖縄と福島で共通しているのではないかと感じた。
この取材記の中で、ユマちんが本土の高校生とのエピソードとともに、なぜ学ぶ必要があるかから伝えないといけない、という問題意識を語る部分があった。小松さんが共事として考えるゆるい興味から沖縄や福島に関心を持つ回路もあると思う。この取材記や演劇のように、アウトプットやクリエーションをするために学ぶという回路もありそうだ。40代半ばに差し掛かって改めて思うことだが、目的もなくただ学ぶというのは定着せず、継続することも難しい。劇中で、主人公が娘の行方がわからないと知ったときに、タクシー運転手が寄り添う場面がある。役としてはタクシー運転手であるが、ある種の語り部としてタクシー運転手は登場する。ここでタクシー運転手は寄り添うだけである。本土の人たちがそうしたように、自分も主人公に寄り添っていると、タクシー運転手というか、語り部はいう。主人公とタクシー運転手はお互いにそばにいるが、まるで異次元にいるかのように離れている感覚に陥った。劇中のワンシーンなので、極端ではあるが、お互いの日常の遠さにつながる場面だと思った。その遠さを埋めるためだけに、学ぶことを押し進めることは難しいのではないだろうか。
ユマちんがヘリコプターが飛んできた音で会話が止まる日常を語った。それを読んだ後、「違日常」という言葉が思い浮かんだ。私と違う日常ということだけでなく、「こうでない日常」についても思いをいたす沖縄や福島の日常を思い描くイメージに当てはまる言葉だと思う。沖縄には訪れたことがないが、劇中の沖縄方言の語りや、この取材記の文章や写真で日常を少しは想像できる。取材記の中に、普天間飛行場が見える景色に、戦前・戦中・戦後が揃っているという部分がある。これまでの時間の積み重ねが、目の前の景色に凝縮しているということかもしれないし、最前線ということかもしれない。
2021年5月に双葉町の原子力災害伝承館を訪れたことがある。原子力災害伝承館の新しさと伝承館の周囲の2011年のままの町の光景の分断されているように感じた。それらをつなぐのは、新しい施設に向けてのみ並ぶ電柱である。必要なインフラであるが、つながりの寂しさを感じる印象的な景色であった。すべてが私の日常と遠く離れているが、その土地の日常がこうあるべきと思えるときは来るのだろうか。こう書くこと自体が他人事で真面目にコミットしていないと言われれば、その通りだとも思う。ただ、それぞれの日常を取り替えることもできないし、自分の日常に取り込むことも難しいと感じてしまう。
この取材記の最後は、小松さんらしくタコライスを取り上げた食の話題で締めくくられている。その中で、タコライスの来歴と沖縄のチャンプルー文化について書かれている。アメリカ文化と沖縄文化の融合の象徴としてのタコライス。小松さんがいわきの方言として「しゃあんめい」というしょうがないを意味する言葉をゲンロンの何かの番組で紹介していたことがあった。沖縄と福島が「受容力」でも共通しているように思えた。例えば、タコスの具を乗せたライスのように、相手の意見を一旦受け止めることができるだろうか。ユマちんの言うみんなで話す平和の形というのは、相手の言葉を受け止めて、応答することを互いに繰り返し、会話にしていくことかもしれない。その一歩として、相手の言葉を受け止めることが重要なのではないか、そんなことをぼんやりを考えた。