飛び魚と毒薬|石田英敬

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初出:2023年4月18日刊行『ゲンロンβ80+81』
 これから、このゲンロンの誌上をかりて、〈一・五人称〉のクロス・バイオグラフィーとでもいうべきエッセイを連載していこうとおもう。 

 クロス・バイオグラフィー? 〈一・五人称〉?  

 よく分からないことを言い出したとおもわれるかもしれない。 

 ぼく──ぼくかどっちの一人称を基調にするか、だいぶ迷ったがとりあえずぼくで書いていく──が、学問的にも個人的にも、永いあいだ付き合って2年半前の夏に突然に向こう側の世界へ去ってしまった哲学的友ベルナール・スティグレールについて、その思想と生を書くというのがここでの主たるテーマだ。他方、かれについて書いていくと、ぼく自身の人生ともクロスすることになるから、自分のことも書く羽目になる。ある人物について三人称で伝記的に書くというのとはだいぶちがった書き方になるとおもう。とうぜん、ぼくたちが生きてきた時代を書くことにもなるし、思想的あるいは政治的な状況を書くことにもなるだろう。 

 あなたは、シャンタル・アケルマンの映画『私、あなた、彼、彼女 Je, tu, il, elle』を観たことがあるだろうか。ぼくがその作品を観たのは遠い昔で、1976年にカルチエラタンの小映画館オートフォイユ Hautefeuille かサンタンドレデザール Saint-André-des-Arts でのことだ。ある種の行動主義的あるいは現象学的なエクリチュールだと当時思ったのだが、その寡黙なカメラワークは、無機質的に、私 je 、あなた tu 、彼 il 、彼女 elle と人称性を渡り歩いていく★1。そんなふうに人称を移動して書くみたいなことができるといいのだがと考えている。だから〈一・五人称〉のクロス・バイオグラフィーと名づけてみた。

 



 さて、本題に入ろう。 

 ぼくの哲学的友ベルナール・スティグレール Bernard Stiegler は1952年4月1日に生まれて2020年8月5日に亡くなった。この連載には、「飛び魚と毒薬」という総題を掲げるが、この2つのテーマはベルナールの哲学テーマと深く結びついている。「飛び魚」は、哲学の「思惟の自由」、「毒薬」──「どくくすり」と読んでほしい──は、ベルナールの哲学の中心テーマである「技術の問い」を指す。 

 なぜ「飛び魚」かというと、ベルナールが自分の哲学の出発点を述べた、次の文章の一節「独房の中で自分は海面から飛び出した魚のようだった」に由来している。そこを少し引用してみよう。 

 

独房の中でアリストテレスを読みながら、思惟する魂にとって日常の環境とは何か、私は何度も思いを巡らせていました。思索の環境はいかに成立するものなのか、その存在の条件を考えていたのです。そして独房の中で自分は海面から飛び出した魚のようなものだと考えたのです。★2



 独房を「哲学の実験室」に変えていった、ベルナールの監獄生活についてはこれから詳しく語っていくことになるだろう。 

「毒薬」の方はといえば──デリダとかを読んだことのあるひとにはピンとくるだろうが──、プラトンの対話篇『パイドロス』のなかでソクラテスが語ってきかせる、文字を発明したエジプトの技術神テウトとファラオのタムゥス王との議論のエピソードに出てくる言葉──「ファルマコン pharmakon」──で、毒と薬の両方を意味する。そこも、やや長いが、引用しておくことにしよう(ここでは「秘訣」と訳されている)。 

 

だが、話が文字のことに及んだとき、テウトはこう言った。 
  
「王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから」。──しかし、タムゥスは答えて言った。 
  
「たぐいなき技術の主テウトよ、技術上の事柄を生みだす力をもった人と、生みだされた技術がそれを使う人々にどのような力をあたえ、どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは、別の者なのだ。いまもあなたは、文字の生みの親として、愛情にほだされ、文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すことになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。」★3



 このにしてでもある技術や文字と、記憶や知恵との関係をめぐる考察がベルナールの哲学の核心をつくっていくことになるだろう。それについてはこの連載をつうじて詳しく述べていくことにする。連載タイトルの「毒薬」は、だから、「どく/くすり」と読んでほしいのだ。

 



 さて、ぼくはもうベルナールの人生を語り始めてしまった。 

 この文章を読んでくれているあなたがベルナールの哲学をどのぐらい知っているのか、かれの人生のエピソードについて何をどの程度知っているかは分からない。 

 そこで、かれが、どのようにして、偶然にみちびかれて、哲学者になっていったのか? ひとはいかにして「かれ自身にしか知りえない内面のうちでかれ固有の秘密をかかえて哲学者になる」ものなのか?★4 その哲学的生のはじまりをこれから物語ることにしよう。 

 

 



 ベルナール・スティグレール(戸籍上は、ベルナール・ジョルジュ・アラン・スティグレール Bernard Georges Alain Stiegler★5、2つぐらいミドルネームがあるのがキリスト教の名づけの伝統)は、1952年4月1日、パリの南方約20キロのセーヌ・エ・オワーズ県の町ヴィルボン・シュール・イヴェット Villebon-sur-Yvette に生まれた。決して裕福な家庭ではなく、お父さんはラジオ波送信基地の電気技師、お母さんは銀行の速記タイピストとして働いていた。4人兄弟姉妹の(正確には分からないが)3番目か4番目だ。 

 1958年にはパリの北15キロの郊外都市サルセル Sarcelles に一家は引っ越して、少年時代をそこで過ごした。父親に別の女性がいてやや複雑な家庭状況だったみたいだが、お父さんがラジオ・テレビ局の電気技師であったことは、技術やメディアへの関心を育てる伏線になった。あるインタビューのなかで、父親からラジオ技術の手ほどきをうけたこと、『ラジオって、とっても簡単』という入門書を貸してもらって、12、3歳でラジオを組み立てた思い出を語っている。 

 

わたしの父ロベール・スティグレールは技術者、電気技師で、おさないときからこどもにもよく分かるやり方で技術とかテクノロジーの問題に導いてくれたのです。[……]父への尊敬の気持ちから、思春期よりずっと前に、『ラジオって、とっても簡単』という父も使ったかもしれない戦前に出版された入門書を読んだのです。三極管とか五極管とか、それから三〇年もあとになってジルベール・シモンドンの形態動学的分析を読むことになる真空管の仕組みがそこには説明されていました。トランス、抵抗、コンデンサ、増幅器、ヘテロダインなど、要するに、電磁波の送受信を実現する目には見えない電子の世界の仕組みがすべて書いてありました。その後、父からもらった部品で平衡回路や発振回路など、小さな電子機器をつくりはじめたのです。★6



 いま言ったような家庭の事情もあってお母さんは大変だったようだが、熱心に子供たちにしっかりとした教育を授けた。とくにベートーベンやシューベルトなどのクラシック音楽の教養はおもにお母さんから教えてもらったとベルナールは証言している。そのかいもあってか、小学校に上がる前にすでに読み書きができ、1年繰り上げで就学した。

 



 以上が、インタビューなどで語っている最幼年時代の幾つかの事実なのだが、インターネットが発達した現在では少し丹念に調べてみるといろいろなことが分かってくる。 

 ヴィルボン・シュール・イヴェットにはたしかに1935年から2021年までイル・ド・フランス地方をカバーしていた国立ラジオ波放送局TDF(Télédiffusion de France)の放送塔があってウィキペディアにも項目が立てられている★7。お父さんは、サルセルに引っ越した後もORTF(フランス放送協会 Office de Radiodiffusion Télévision Française)の技師として働いていた。フランスでの本格的なテレビ放送の開始はRTF(フランスラジオテレビ放送 Radiodiffusion-Télévision Française : 前記のORTFの前身)が発足した1949年頃のことだ。第二次大戦後1950年代から1960年代にかけて、ラジオやテレビが発達していった視聴覚メディアの勃興期に、父親がそうした仕事に従事している家庭にベルナールは育ったことになる。当時、この町は牛が放牧され、りんごが栽培され、自分の家にも自由にあそべる庭があったとベルナールは語っている。フランスでも高度成長期直前だった1950年代の、のどかな風景ということかもしれない。ただ、その平穏を破るように、1958年頃に、FLN(アルジェリア民族解放戦線)かOAS(アルジェリア独立阻止の極右秘密組織)か分からないが、送信塔へのテロを警戒して、とつぜん機関銃を持った軍隊の隊列が姿をあらわしたと語っている。じっさい調べてみると、アルジェリア独立に反対するOASによるヴィルボン・シュール・イヴェット送信塔の爆破事件が1961年に起こっている★8。アルジェリア戦争のただなか、ドゴール将軍が大統領となりフランスが第五共和制に移行したちょうどその頃、スティグレール一家はパリの北の郊外都市サルセルに引っ越したことになる。 

 

 



 このサルセルという町がまたとても興味深い。 

 ローマの浴場の遺跡があるぐらいだから長い歴史のある町なのだが、第二次世界大戦後1955年から1970年にかけて、戦後ベビーブームとアルジェリアなど旧海外植民地からの引き揚げ者・移民の流入によって急速に人口が増加した典型的な郊外都市なのだ。大規模な都市計画が1950年代に立案されて、箱形の鉄筋コンクリート集合住宅の団地が次々に建設され、8000人の村だったサルセルは5万人を超える人々が住むニュータウンとして広く知られるようになった(戦後の日本でいえば多摩ニュータウンとか千里ニュータウンをイメージしてもらえばいいかと思う)★9。 

 モダンな白いコンクリートの快適な団地というポジティブなイメージと、しかし、いつも工事がつづく舗装もできていない建設用地と、買い物のための商店も稀な立地条件。当時はフランスでも女性の六割以上が無職だったから、主婦たちは退屈しうつ病や自殺が増えたといわれる。Sarcelles の地名から「sarcellite サルセル症候群」(「[女性名詞]団地病,ニュータウン症候群」『プログレッシブ仏和辞典』)という言葉さえも生まれて、コンクリートの非人間的集合住宅が人々の心理と行動にもたらす新興ベッドタウンの都市の憂鬱が、メディアでも特集されるようになったという★10

 



 そんな戦後復興期のパリ郊外の都市でベルナールは少年時代を過ごした。 

 第二次世界大戦終結の1945年から1975年の石油ショックまでの戦後の高度経済成長期を指して、フランスでは「栄光の三十年間 Les Trente Glorieuses」という言い方をする★11。西ドイツやイタリアなどの他のヨーロッパの国と同じように高い経済成長をつづけ、1950年から1974年までの平均賃金は170パーセント増加、消費も174パーセント増加し、都市人口が急速に拡大、社会福祉制度も大きく発達した。テレビ受像機の普及も1954年の100世帯に1台から、1975年には100世帯に86台に増加した。ジャン・ボードリヤールの消費社会論やあるいはアンリ・ルフェーヴルの『都市への権利』が書かれたのはそんな時代だったのだ。 

 

 



 この文章を読んでくれている若い読者にとっては、こうした時代は抽象的な過去としか思えないかもしれない。ところが、ぼくのような年回りの老人になると、まったく具体的に思い浮かべることができる。 

 ぼくは1953年10月生まれだからベルナールとは1歳半の差でほぼまったく同年齢といっていい。ぼくの場合だと、父親が勤めていた毛織物会社の工場があった千葉県市川で生まれ、1950年代末、小学校に上がる前年(1959年)まで市川に住んでいた。そのころの市川もやっぱり町内のあちこちに空き地があって木が茂り、町はずれには原っぱが拡がっていた。うちの場合は父の会社の社宅だったが、焦げ茶色の板塀に瓦屋根の昔ながらの地味な木造家屋の構造をとどめていた。家には電話はなかったから隣の家にときに電話がかかってきたし、テレビもなかったので、ぼくは両隣のおばあさんのところにテレビを見に出かけたものだ(おばあさんたちはたいていお相撲中継で朝潮とか若乃花を見ていた。ぼくは「月光仮面」が見たかったのだが)。伊勢湾台風がやってきて、まだ舗装されていなかった表通りが水浸しになり、家の庭も冠水してドジョウが泳いだのを覚えている(それは記録によると1959年9月のことだ)。 

 ところが、その秋に父親の転勤で関西の尼崎市武庫之荘という阪急電車沿線のベッドタウンに引っ越した。その町は旧市街の外縁部の田畑を埋め立てて建売住宅が建てられ始めていた。町の外に拡がる田畑の向こう何町歩か先では巨大な集合住宅の団地も建設が始まっていた。うちの新しい家(そこも社宅だったけれど)は白いモルタル塗りで、家の前をちょっとした小川が流れ、対岸の白い家は庭に芝生が敷き詰められて小さな白い犬(スピッツかな)を飼っていた。毎日放送だったろうか、テレビ局に勤めているひとの家だった。そこのおじさんはスバル360(たぶん)とかに乗っていた。それも当時はめずらしいことだったと思う。 

 こんなふうに、世界は同じリズムで動いていたのだ。

 



 ベルナールは、サルセルでの少年時代は、いろいろあっても、自分にとっては幸福な時期だったと回想している。 

 いうまでもないことかもしれないが、勉強はすべての教科が得意だったし、まんべんなくよくできた(まあ、そうだろうね)。すでに述べたように、お母さんは大変に教育熱心なひとだったので、経済的な困窮や父親との離婚の危機といった、苦しい家庭内の状況のなかでも子供たちの面倒をよく見ていたらしい。 

 学業優秀な生徒だったが、第4学年(14歳、日本でいえば中学校3年相等、フランスでは日本と数え方が逆で高校最終学年から数えていく)でのひとつの出来事をきっかけに、学校からドロップアウトし始める。 

 それはどんな出来事だったかというと── 

 

 当時ベビーブーム時代の学校には教師不足の問題がありました。十分な養成を受けていない先生が教えていた。もちろんよい先生もいたんですが、全部ではないが能力に問題のある先生たちもいた。英語の先生でも英語がしゃべれない。I will eat. じゃなく、I shall eat. だとか教えていた。 
  
 それで、ある日事件が起こった。四年次の幾何の授業で、その数学の先生はぼくの学級担任でもあったのですが、黒板でタレスの定理の証明をやってみせるように言われたので、皆の前で証明をしてみせたら、違っているというので、いやそんなことはなくて先生の方が間違っているんですよとしっかり証明してみせたところ、彼女は納得しなくて論争になったんですね。で、そういうことなら教科書の著者たちに手紙を書いて聞いてみます、と言って手紙を書いた。そしたらその先生は気を悪くして、ぼくを落第させたんです。自分はふだん挑発的なところはない性格なんですが、本当のことは言うたちなんで、そうなってしまった。★12



 これだけの出来事で落第とはずいぶんだという気がするが、一般にフランスの学校(というか、社会関係一般もかな)はとかく権威ずくのところがある。私は先生なんだから生徒のあなたは従いなさい、みたいなところ。こういう出来事があって、彼は学校がすっかりいやになってしまった。 

 いまはフランスも日本もたぶんそんなことはないんだろうが、ぼくたちの育った時代に急ごしらえの先生たちが学校で教えていたのは日本の1960年代も同じだった。ぼく自身も神戸の東灘区の一番東にある公立中学校に通ったが、1年生のときやはり球の体積をもとめる公式の証明がまちがっていたので、男の先生だったが、クラスのドッジボール片手に休み時間一杯をつかってその先生にまちがいを説明してあげたことを思い出す。でも、その時には先生は納得しなかったみたいだった。あるいは、2年生のときにやってきた代用教員(というのかな)の理科の女性教師は戦争未亡人で、あきらかに知識不足で授業に苦労していた(やさしい性格のひとだったけれどね、ちょっと気の毒な気がした)。で、なんどかまちがいを指摘したら、じゃ、授業はこれから石田くんにやってもらいましょう、ということで、その後、学期のあいだずっとぼくが理科の授業を担当していたよ。どの国もそんな状況だったんだ。ま、先生が能力不足でも生徒は育つから人間ってけっこう大丈夫なものなんだけれどね。 

 だから、世界はやっぱり同じリズムで動いていたのだ。 

 

次回は2023年6月配信の『ゲンロンβ82』に掲載予定です。

 


★1 Chantal Ackerman Je, tu, il, elle 1976. 
★2 Bernard Stiegler Passer à l’acte Galilée 2003 p.33; ベルナール・スティグレール『現勢化──哲学という使命』ガブリエル・メランベルジュ+メランベルジュ真紀訳、新評論 、2007年、50頁に対応。 
★3 「パイドロス」、藤沢令夫訳、274E~275、プラトン全集5『饗宴 パイドロス』、岩波書店、1974年、255-256頁。 
★4 ベルナールがかれの銀行襲撃事件と5年間の服役経験について最初に語った本 Passer à l’acte;『現勢化』のきっかけになったのは、作家で美術評論家のマリアンヌ・アルファンによるインタビューの問い「ひとはいかにしてかれ自身にしか知りえない内面のうちでかれ固有の秘密をかかえて哲学者になるのか?」だった(Passer à l’acte p.9 ;『現勢化』、7頁)。 
★5 姓 Stiegler をスティグレールと記す。発音記号で書けば\sti.ɡlɛʁ\となる。ライン、モーゼルなどドイツとの国境地域に多い、ドイツ系の姓。ひとによっては、スティーグラーとかシュティグレールと発音するひともいるが、本人は上記の発音記号のように発音していた。以下の URL を参照してほしい。URL= https://fr.wiktionary.org/wiki/Stiegler 
★6 Bernard Stiegler Philosopher par accident Entretiens avec Elie During Galilée 2004 p:11; 邦訳 ベルナール・スティグレール『偶有からの哲学 技術と記憶と意識の話』浅井幸夫訳、14頁に対応。ここで語っている本『ラジオって、とっても簡単』La radio, mais c’est très simple! はいまでも版を重ねているようだ : Eugène Asberg La radio? … mais c’est très simple! Dunod, 1998. 
★7 URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Émetteur_de_Villebon-sur-Yvette 
★8 ベルナールのインタビューでは軍隊が姿をあらわしたのは、「1958年頃のことだ」と語っているが、口頭インタビューなので正確な日付けではない可能性がある。同じ事件のことを語っているのか、それより前のことなのか分からない。Wikipediaには、“l'un des deux pylônes est saboté par l'OAS en 1961”とある(★7参照)。 
★9 サルセルの集合住宅団地については以下のURLから市発行の紹介資料 Texte et Images du Grand ensemble de Sarcelles 1954-1976 をダウンロードできる。URL= https://www.roissypaysdefrance.fr/fileadmin/mediatheque/Documents_a_telecharger/Page_MTC/cpvdf10.pdf 
★10 以上は、Olivier Wieviorka, Michel Winock Perrin Les lieux de l'histoire de France, 2017 chap. XXXIV “Sarcelles” (Annie Fourcaut) の記述から。 
★11 やや記述が薄いが以下のウィキペディア日本語版で概要はつかめる。より詳しくは英語か仏語で項目を読んでほしい。URL= https://ja.wikipedia.org/wiki/栄光の三十年間 
★12 以下のラジオ番組内での発言。URL= https://www.radiofrance.fr/franceculture/podcasts/a-voix-nue/du-plomb-dans-l-ame-8116047

 

石田英敬

1953年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、『新記号論』(ゲンロン、東浩紀との共著)、『記号論講義』(ちくま学芸文庫)、編著書に『フーコー・コレクション』全6巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。

2 コメント

  • Hiz_Japonesia2023/04/25 09:27

    さやわかさんの記事にコメントした勢いで書いてしまうことにしました。2006〜2013年、大阪府豊中市と兵庫県尼崎市の中間のあたりに住んでいました。散歩で、猪名川の橋を行ったり来たりしていたら、ヌートリアが泳いでいました。 次回以降も連載をたのしみにしております。

  • Kokou2023/04/30 08:58

     ゲンロンβも残り2号で終刊となってしまうとのことで、寂しいかぎりだ。一時期は、ゲンロンβの全記事に感想を書くほど、楽しみにしていたのだが、刊行ペースが落ちるにしたがって、自分のアウトプットも減ってしまった。終刊までの残り少ない刊行を楽しみつつ、ゲンロン本誌やwebゲンロンがどうなるか見守りたいと思う。  80+81の合併号は、どの記事に感想を書こうか迷ったが、webゲンロンを確認したところ、石田さんとさやわかさんの記事しか選択肢がないようなので、今回から連載が始まった石田さんの記事について、感想を書こうと思う。  この連載では、2年半前に亡くなったベルナール・スティグレールさんについて書かれていくという。私はスティグレールさんの著書は読んだことはないが、2017年にアンスティチュ・フランセで開催されたイベントでスティグレールさん・石田さん・東さんの鼎談を現地まで聞きに行ったことがある。ゲンロンに興味を持たなければ、生涯訪れることはなかった場所だと思う。あれだけのフランス語を聞いたのは、後にも先にも、あの日だけだ。  この連載の冒頭にある<一・五人称>という言葉に、この連載の面白さが凝縮されているように思う。人称といった場合、視点の問題として議論されることがある。一人称や三人称、主観や客観と言いかえることもできるだろう。では、<一・五人称>といった小数点が用いられた場合、それは何を表すのだろう。スティグレールさんのことを書きながら、同時に石田さんのことも語られるという明確な区分けがない人称、人称の混ざり合い、まさにクロス・バイオグラフィーということだと思う。  人称を1と0.5のようにきれいに切り分けることはできないだろう。語りに応じて、混ざり合いの比率を変えながら、連載が進むものと思う。視点は機能として一貫性を求められるが、語りは自分を軸としつつ、これまで/これからの体験や周囲の影響を受けながら、変化を受容するものだと思う。今後の連載を読みながら、私自身の人称の幅が広がることを楽しみに待ちたいと思う。

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