1942年、坂口安吾は「日本文化私観」と題するエッセイを発表した。これは戦後に書かれた「堕落論」と並び、彼の代表作と称される。
簡単に言うと、これはナショナリズムが声高に叫ばれた当時の風潮へ冷や水を浴びせる内容になっている。「伝統」に権威付けられた寺社仏閣や日本画などの文化を知らずとも、いいではないか。今は戦中である。空に飛行機が飛び、いたるところにバラック屋根の住居が立ち並んでいる。だが、そこに日本人の生活があるのなら、それこそが日本文化だし、伝統の息づく場所だろう。安吾は、次のように啖呵を切る。
俗なる人は俗に、小なる人は小に、俗なるまま小なるままの各々の悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。芸術も亦そうである。まっとうでなければならぬ。寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。若し、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新らたに造ればいいのである。バラックで、結構だ。[★1]
ここで安吾は、寺をありがたがっていれば伝統が守られるわけではない、と主張している。それはこの連載の用語で言い換えると、寺は記号でしかない、ということである。既存の記号(「寺」)を固持したからといって、結び付いた意味(「伝統」)が満たされるわけではない。むしろ、記号と意味が強く符合した状態は、実情とはかけ離れがちである、というわけだ。なお彼は、敗戦間もない頃に書いた「堕落論」でも、今こそ日本人は高潔ぶらずに、極限まで愚かしく生き、その過程で自らを再発見し、救う道を探るべきだ(「生きよ、堕ちよ」)と書いている。実情は記号に先行するものであり、前者をより重視すべきというのは、安吾にとって一貫した思想なのだ。
ところで「日本文化私観」の中には「家に就て」と題された章がある。この章では、一見すると主題である「日本文化」とは無関係に思われる、「自宅へ帰ること」に関する安吾の独白が書かれている。
帰る途中、友達の所へ寄る。そこでは、一向に、悲しさや、うしろめたさが、ないのである。そうして、平々凡々と四五人の友達の所をわたり歩き、家へ戻る。すると、やっぱり、悲しさ、うしろめたさが生れてくる。「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。
戦後、安吾は死の8年前に結婚した。だからこのエッセイが描いているのは彼の独身時代で、仕事相手や友人との社交を終え、いざ自宅に帰った時にその家の空虚さ、自らの孤独さに気づく場面である。
ただ、この孤独は、単純に自宅の人気のなさから生まれるものではない。ここには「家」という記号が意味するものと、自らの生活のギャップへの不安が見え隠れしている。これについて哲学者の中村雄二郎は、「疑似家族の崩壊と安吾の『日本文化私観』」と題したエッセイで以下のように記している。
ここに、プライベートな個人を支え、保証する自立的なユニットへの要求とその現実での不在の表出をみることはできないだろうか。現実に多くの家族が寄り集まっている家はあっても、それが自立的なユニットたりえない、虚偽の、擬似的なものでしかなければ、少なくとも安吾にとっては、そこに「帰り」ついたところで、悔いや悲しさからは逃れられない。
では、どうしたらいいのか。[中略]かれは「帰らなければいい」、「いつも前進すればいい」と言うのであり、このことのつながりにおいて、敗戦直後の混乱期に中途半端なきりかえによって事態をのりきろうとする風潮や、ごまかしによる旧秩序の保存や、安易な方向転換の態度に対して、「堕落論」の「生きよ、堕ちよ、その正統な手続きの外に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか」という叫びがなされるのである。[★2]
中村は、安吾が自らとのギャップに不安を覚える「家」が、「堕落論」で糾弾される「ごまかしによる旧秩序の保存」と地続きだと示唆する。それはすなわち、教育勅語を思想的基盤とし、各家庭から天皇までを直結させる、戦中の家族主義的イデオロギーである。これは古来から存在した父権的家族像を、天皇を頂点つまり父として抱く疑似家族像へと敷衍するものだ。ところが安吾が自宅に帰ると、そこにあるのは夜遊びを続け、満足な家庭も持たぬ、一人暮らしの実情である。ゆえに安吾は自らを、国全体を巨大な一家と見なす疑似家族の一員として感じられない。彼はそこに「悔いや悲しさ」を覚える。しかし、ならばこそ安吾は記号より実情を重視すべく、あえて「前進すればいい」と言うのである。
中村は安吾のエッセイを、戦後の日本人が取るべき態度を示すものと考える。日本人は戦後、教育勅語を中心とする疑似家族的イデオロギーを失った。ならば、戦中すでにその父権的な疑似家族像からの疎外感を書いていた安吾の姿勢に学ぶべきものがあるというわけだ。つまり「家」という言葉に紐付けられた社会規範=意味と、我々の「家」の実情とが乖離してしまったとしても、そのまま「前進すればいい」、それに極限まで向き合おう、というのだ。
安吾と中村のこの問題意識は、現代でも形を変えて反復している。戦前、各世帯が「家」を、安定して運営できたのは、天皇を頂点とした「疑似家族」的イデオロギーがあったからこそだった。しかし戦後このイデオロギーは崩壊したため、人々は代替となるイデオロギーとしてロマンティックラブを求めた。だが今では、ロマンティックラブもまた、現代的な家族の求心力としては力不足になった。今や、戦前の巨大な疑似家族(国家)とも、単一の夫婦関係に基づく近代的な家族とも異なる、多様性に基づいた、今日的な「疑似家族」が求められているのだ。
安吾は先のエッセイで、前進、つまり「家」の実情に向き合う手段として、文学こそ適していると言っている。だが後の時代には、特に文学だけが有効な手段というわけではなくなっていった。とりわけ少女漫画やテレビドラマのようなポップカルチャーは、文学を追い越す勢いで家族像をめぐる試行錯誤を重ねていき、「疑似家族もの」をジャンルとして確立させていった。
そもそも、疑似家族ものとは何だろうか。これはプロットの類型に基づいたサブジャンルで、似たようなものには友人や知人、あるいは赤の他人が、ひょんなことから一つ屋根の下で暮らす「同居もの」もある。同居ものは、その名の通り同じ建物で暮らすことにのみ主眼を置いている。これに対して疑似家族ものは、複数の住人たちが、生活や人間関係で衝突や試行錯誤を繰り返し、やがてそれぞれ家族としての役割分担や機能を果たし、成長することを強調して描く。
このサブジャンル名が定着したのは、1990年代末以降のことだ。この時代の疑似家族ものとして、例えば少女漫画では高屋奈月『フルーツバスケット』(白泉社、1998-2006年)など爆発的なヒット作が生まれたし、男性向け美少女ゲームでは『家族計画』(D.O.、2001年)などの人気作が生まれた。こうした層を問わない注目度の高さが、サブジャンル名の一般化を後押ししたものと思われる。
もっとも、サブジャンル名としては一般化していなかったものの、疑似家族を題材にした作品自体は1970年代初頭には既に存在した。最初にこの手の作品がブームとなったのはテレビにおいてである。たとえば『つくし誰の子』(日本テレビ、1971-75年)や『パパと呼ばないで』(日本テレビ、1972-73年)[★3]などは、その代表例だ。ただしこれらのテレビドラマでは、孤児や連れ子を引き取った主人公の悲喜こもごもを描きつつ、やがて皆が一家として団結する内容のものがほとんどであった。作品の特徴は、寄せ集められた者たちが、結局は戦前からある家族像を、他人同士で何とか成立させようとする点だ。これは戦後の混乱期や、集団就職や住み込み下宿などが多かった時代を経た社会の実情を考慮しつつも、古い記号にこだわった妥協的な設定だと言える。すなわち、安吾があえて「前進すればいい」と言い、中村が戦後の日本人にも期待した態度を体現した作品ではない。
一方、少女漫画の方は、初期からこれと似て非なる内容を描いていた。というのも、この連載の第四回で挙げた村上知彦の「〈家〉とのたたかい」という言葉通り、少女漫画はロマンティックラブに根ざした「家」からの脱却を志していたからだ。たとえば同じく第4回で取り上げた大島弓子『バナナブレッドのプディング』(1977-78)は、こうした問題意識に基づいて登場人物たちの同居を描いている。1970年代の少女漫画には家族をテーマに据えた作品が増え、疑似家族も頻繁に取り上げられた。同性愛者や異性装者も、家族のメンバーとしてよく登場する。彼らの存在によって、家事や育児にまつわるジェンダーバイアスなど旧来の価値観が明確にキャンセルされるわけだ。そして登場人物たちにとって何が最適な家族像なのか、その模索自体が作品の主題となる。
こうした設定は1980年代以降になると定番化し、成田美名子『エイリアン通り』(白泉社、1980-84)や川原由美子『前略・ミルクハウス』(小学館、1983-86)など今でも読まれ続けている人気作が生まれた。連載第5回で述べたように、その達成は小説や映像作品などへジャンルを超えて波及していく。1990年代末に疑似家族ものというサブジャンル名が知られるようになったのも、この流れがあってのことである。
だが「疑似家族もの」の隆盛は、必ずしも記号が実情に追いついたことを意味しない。たとえば作家の角田光代と千早茜は、2015年に行われた対談の中で、角田がデビュー作『幸福な遊戯』(1990年)以来、疑似家族ものばかり書いていることを話題にしている。
千早 どうしてずっと疑似家族ものを書いていたんですか。
角田 やはり家族制度に異を唱えたかった。そして結婚に対しても反駁したかった。二十代だったので婚姻よりも自分たちの意志で一緒にいるほうが確かだろうっていう青い思いがありました。でもそれこそ私も考えが二十年たつうちに変わって、そんなに否定するものでもないって。
[中略]
千早 やっぱり変わるんですかね。私もずっと結婚しないって十歳ぐらいの頃から思っていたのに。高校でも大学でも周りから「千早は結婚しないよね」って言われていて。自分には向かないように感じていましたね。それなのに三十過ぎて、今の夫とひょいっと結婚してしまった。ところがそのとき母親や家族に抱いていたいろいろなコンプレックスが急に解消されたんです。結局、家族をつくれない自分のコンプレックスが反抗心を生みだしていたのかなと、がっかりしました。[★4]
右の引用で注目に値するのは、両者が疑似家族ものについて、注釈や追加説明の必要を感じずに一般的な名称として会話していることだ。そこには、疑似家族ものが定番となった時代性が見て取れる。しかし同時に重要なのは、両者ともに旧来的な家族制度に反発を覚えていたが、やがては考えを改めたという、その内容だ。
この2人が人として、女性として、その人生において、家族制度を深く考え、反発や転向を重ねてきたことは疑いない。そして千早が述べるように、最終的に彼女たち自身の人生の問題が解決したなら喜ばしい。しかし、それならば彼女たちはここで、彼女たちのルーツにある少女漫画が目指したように、疑似家族ものをもって新たな家族像を追求する路線は捨てたと言わざるを得ないだろう。
角田や千早のような態度表明は、決して珍しくない。作品についても同様である。疑似家族ものは一般化し、ヒット作も増えた。だがかつての少女漫画のように、思い切った家族像を世に問う作品、つまり安吾の「前進すればいい」という態度を貫く先進的な作品は見られなくなった。文学にせよ映像にせよ漫画にせよ、ひとつ屋根の下に集まった他人たちが旧来的な家族像を目指す作品が大勢を占めている。それらは表面上、家族像の多様さを語っているようでありながら、最終的には単一の価値観への回帰を目指す。少なくともこの連載で筆者が求めるような、人口減少に向かう日本の家族像がどうあるべきか、その問題解決のヒントを示すものではない。
たとえば2018年のカンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを獲得した映画『万引き家族』は、全員が血縁関係にない疑似家族を描いたものだった。その着眼点は評価に値するものの、同作の疑似家族は、貧困にあえぎ行き当たりばったりに万引きを繰り返す破綻した共同体として描かれている。だからこそ、その悲哀は観客の胸を打つ。だが、その感動は疑似家族によって新たな家族の可能性を描いているためではない。また物語のクライマックスは、家族の中で父親役だった男性と別れる際に、子供たちが「父ちゃん」と呼ぶシーンだ。これもかつてのテレビドラマと同様、旧来的な家父長制を不器用に演じようとする人々のいじましさを見せて感動を呼ぼうとするものだ。
では疑似家族を題材にしながら、新たな家族像を提示している近年の作品はないのだろうか。そこで思い出されるのが、2016年に国民的ブームを巻き起こしたテレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』だ。
これは海野つなみの女性向け漫画が原作で、偽装結婚した2人が最終的に愛し合い、正式に結婚、やがて出産に至るという、少女漫画における同居ものや疑似家族ものの定型をなぞるような筋書きである。だが、実はその設定を逆手に取った作りにもなっている。
具体的に説明しよう。作品の初期設定は次のようなものだ。大学院卒の高学歴であるにもかかわらず派遣切りに遭った女性主人公・みくりが、たまたま家事代行者を探していた会社員の男性・津崎の自宅で働くことになる。さらに彼女は時同じくして実家を出ることを余儀なくされ、進退窮まった挙げ句、津崎に「家事全般を請け負う住み込み」として自分を雇わないかと持ちかける。さらに「さすがに、嫁入り前の女性を、住み込みというのは」と否定する津崎に対し、みくりは「ならいっそ、結婚しては」と提案する。ここで、みくりが結婚を提案するのは愛情ゆえではない。このドラマの英語タイトル「We married as a job!」[★5]が示す通り、みくりは結婚を「就職」と捉えて共同生活を始めるのだ。
近年の恋愛や結婚、家庭や家族を描いた作品の中で、本作が際立っているのはここである。2人は雇用契約書を交わし、事細かに職分範囲や雇用条件を決めていく。しかも同時に、彼らはそんな奇妙な結婚の内実を、親兄弟をはじめ知人や同僚には隠すことにした。つまり、これは「愛情関係にない2人が契約をして共同生活するうちに、次第に愛が芽生えてしまう」という少女漫画の定型を完璧におさえているにもかかわらず、その契約内容が労働条件を詳細に取り決めたものになっているがゆえに、定型とは似て非なる関係を描いたラブコメになっているのだ。
2人が愛し合うようになっても、この作品の独自性は貫かれる。やがて本気でみくりを愛するようになった津崎は、偽装や契約ではない、一般的な結婚をしたいと考えるようになり、みくりにプロポーズする。しかしみくりは、これを危ぶみ拒否する。みくりの考えでは、結婚し専業主婦になることは、生活費の保証、つまり最低賃金で労働することとイコールであり、それに加えて雇用者すなわち夫からの「愛」という無形の対価を得ることである。彼女が不安視するのは、この「愛」についてである。
津 崎「しかし、愛情は数値化できません」
みくり「そうなんです。極めて不安定な要素なんです。雇用主の気まぐれで、いつでもゼロに成りうる」
津 崎「その場合、最低賃金労働が続くというわけですね」
みくり「労働時間の上限もないんです。下手をすればブラック企業になりかねません。従業員として、この労働環境でやっていけるのかどうか、不安があります」[★6]
このみくりの拒絶を受けて津崎は、そもそも彼からみくりにプロポーズするという旧来の手順に沿うことが、おかしかったのだと気づく。そして、結婚を仕事と捉える、2人のアイデアを発展させた提案を行うのだ。
津 崎「そもそも、従業員なんでしょうか」
みくり「え?」
津 崎「夫が雇用主で、妻が従業員。そこからして間違っているのでは」
みくり「……?」
津 崎「主婦もまた、家庭を支える立派な職業である。そう考えると、夫も妻も、『共同経営責任者』」
みくり「共同、経営責任者?」
津 崎「この視点で、僕たちの関係を再構築しませんか?」
みくり「!」
津 崎「雇用契約ではない新たなるシステムの再構築です。愛情があれば、システムは必要ないと思いもしましたが……そんな単純な話でもなかったようです」
こうして2人は、同居するマンションの部屋番号から「303カンパニー」と呼称し、「家庭をひとつの会社だと考え、共同経営責任者として運営」することを目指すようになる。津崎の会社での仕事と、みくりのパートタイム仕事と、自宅の家事分担の割合を、すべて「経営責任者会議」で決定する結婚生活を開始するのだ。
ここでは、「不安定な要素」である愛情に重きを置いた近代的ロマンティックラブこそが、昨今話題になる家事分担や経済的なイニシアチブをめぐるトラブルの根源にあることが暴露されている。それは近代的な「家」が現代にそぐわないという提言であり、このテレビドラマはそれについて発展的な提案を具体的に行っているのだ。
それだけではない。最終話ではこの「303カンパニー」の体制が、そこまで盤石なものでないことまで示される。仕事で疲弊した2人は、よくある夫婦のように家事の分担で言い合いをするようになるのだ。輝かしいものに見えても、実際に運用してみると、うまくいかないことがある。それは家庭だろうと、会社だろうと、会社として運営される家庭だろうと、同じなのである。
その過程でみくりは、自分を「面倒」な女性なのだと言い、津崎に結婚を解消することを提案する。これは大学時代の恋人から「小賢しい」と言われた経験から出た言葉で、批評的、分析的にものを考える自分は津崎に相応しくない、という意味である。このみくりの「小賢しさ」は、新しい家族像について机上の空論を示しているようにも見える、作品そのものの弱点をも示している。物語はそこにも正確にメスを入れるのだ。
津崎は、「面倒」は避けるべきだというみくりに対して、面倒を避け続けることは「死に近づく」ことだと言う。さらに、1人でも2人でも、生きていくことは面倒なのだと、自宅ユニットバスの扉越しに、みくりへ呼びかける。
津 崎「どっちにしても面倒くさいんだったら、一緒にいてみるのも、手じゃないでしょうか」
津 崎「話しあったり、無理な時は時間をおいたり、だましだましでも、やっていけないでしょうか」
津 崎「やってやれないことは、ないんじゃないでしょうか」
みくり「……」
津崎の声「みくりさんは、自分を普通じゃないと言ったけど、僕に言わせれば、今更です」
みくり「!」
津崎の声「とっくに知ってました。大したことじゃありません」
みくり「……」
津 崎「世間の常識から言えば、僕たちは初めから、普通じゃなかった。今更ですよ」
この台詞で津崎は、2つのことを試みている。ひとつは、どちらかが歩み寄ることで関係を継続することだ。津崎自身、みくりを拒絶した経験が何度もあり、その時は常にみくりが歩み寄ってくれた。だからみくりが自分を遠ざけようとする今、自分が歩み寄って、そしてすぐに問題が解決しなくても、「一緒にいてみる」ことを選択する。そして彼はもうひとつ、自分たちが「常識」的な、つまりロマンティックラブのような価値観に囚われない結婚をしよう、と宣言しているのである。
ここでみくりは津崎を受け入れ、さらに「面倒」な自分自身をもある程度受け入れることになる。ここにあるのは、自分たちの家庭が常識的なものでもないと知りながら、それでもなお「前進すればいい」という安吾の精神と同じものだ。しかし、その家庭の姿は、安吾が見た孤独な暮らしとは全く異なっている。つまり旧来の意味から解き放たれ、新しい日本の実情に見合った意味へとすげ替えられた、新しい「家庭」を、みくりと津崎は生きようとするのである。
ただ、この作品にも瑕疵がある。まず少女漫画のプロットに則っているがゆえに、セクシャルな話題がロマンティックにしか描かれない。関連して、提示する家族像がどれだけ新しかろうとも、それはヘテロセクシャルによるロマンティックラブを読み替えたに過ぎない、という批判も妥当だろう。実際にこの作品は、原作からLGBTQの扱いがいくぶんぞんざいであり、前時代的と言える部分すらある。連載11回目で触れたように、今後の日本の家族像を模索する上で、セクシャルマイノリティへの観点が更新されていないのは大変残念なことだ。
そこで次回は、『逃げるは恥だが役に立つ』と同じく少女漫画的なプロットを使ったテレビドラマでありながら、さらに新しい家族像を提案した作品『恋せぬふたり』(NHK、2022年)について考察し、現代的な家族像について、この連載の結論を出したい。
★2 中村雄二郎『日本文化の焦点と盲点:対話とエッセエ』、河出書房新社、1964年、229頁。
★3 日本テレビはこの時代、主演・石立鉄男、制作・ユニオン映画の疑似家族ものテレビドラマを7年にわたって連続放映している。これはそのシリーズ2作目である。
★4 「『森の家』文庫化記念対談_インタビュー」、『講談社BOOK倶楽部』2023年3月28日。URL= http://kodanshabunko.com/morinoie/int1.html
★5 原作のタイトルはハンガリーのことわざ「Szégyen a futás, de hasznos.」に由来し、日本語タイトルにこの文言が記されている点がテレビドラマ版と異なる。
★6 以下、テレビドラマの台詞は下記のシナリオ集の電子版から。野木亜紀子、海野つなみ『逃げるは恥だが役に立つ ドラマシナリオ集』、講談社、2017年。
1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
非常に面白い記事でした。それとは知らずに、これから『逃げ恥』のようなことに取り組もうとしていました。基本的にキラキラした流行りものは嫌いなので、TVドラマ版を視聴していませんでした。少女マンガ版を読んでみようと思います。人生の参考になりました。ありがとうございます。
是枝監督の「万引き家族」「ベイビーブローカー」や「真実」などの映画を見て、ぼんやりと思うことはありました。「これ、他人だからうまくいくんだろうな」「他人じゃないからうまくいかないんだよな」「しかし、血縁だろうが他人だろうが、家族って脆いな…」という程度です。このように批評的に考えたことはありませんでした。旧来の家族像をなぞる、目指すもの(天皇の赤子!!)でしかない。私自身、疑似家族ものについては「憧れ」と「どうせ夢だろ」という相反する思いが強烈にあります。その「どうせ」という思いが最近の画期的な作品によって「まさか・・・実現?」というところまで来ているんですね。逃げ恥全然見てませんでした!!!! 血縁とは何なのか。「家族になる」とは何なのでしょう。一緒に暮らしたら家族になれるでしょうか。これからも考え続けていくと思います。その時にこの論考も参考にさせていただきたいです。