日本[語]2.0――超平面化した日本語でのコミュニケーションについて|クリス・ローウィー 訳=樋口武志

初出:2012年8月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #4』

投稿論文をお届けする。筆者はゲンロンの翻訳チームの一員で、ワシントン大学で日本の現代文学と思想を専攻する、25歳の若手研究者。日本滞在中には早稲田大学で小誌編集長の指導を受け、日本思想の最新の動向にも詳しい。ここに掲載するのは、日本語の「書き言葉」の特異性から日本文化の変質と可能性を読み解く意欲的な試みである。(編集部)

閉じこもる日本の批評

 批評は日本社会においてどのような役割を果たしているのだろうか?こうした問いは、アメリカにおける日本文学研究では重要視されていない。理由は様々で一概には言えないが、そもそも日本の批評がほとんど翻訳されていない、ということは大きな原因のひとつだろう。アメリカで日本思想界の巨人とされている柄谷行人でさえ、著作のほんの一握りが英語に翻訳されているにすぎない。他方、現代の日本では、批評は国内のハイコンテクストな状況に閉じこもり、次第に海外からも理解しやすいハイカルチャー(純文学)を巡る議論から離れていった。結果、アメリカの日本文学研究では『源氏物語』や20世紀初頭のプロレタリア文学などの研究がさかんに行われる一方で、1980年代前半にブームとなった浅田彰や中沢新一、それに先行する今は亡き吉本隆明といった重鎮たちの著書でさえ、英語では一作も読むことができない状況となっている。

 そのため、多くが80年代の批評への反撥として生まれてきた90年代の批評が翻訳されていないのも当然というべきだろう。大澤真幸、大塚英志、加藤典洋、福田和也、宮台真司といった面々の著作も、英語では読むことができない。それ以降の、ゼロ年代批評についても事情は同じである。この状況を日本は恥ずべきだと言うのは簡単だが、それ以上に重要視すべきなのは、日本文学が海外では国内の批評的文脈を抜きにして読まれているという事実である。日本では、小説と批評が同じ文芸誌にならび、小説家が批評家であり、批評家が小説家でもある。そんな日本の小説だけを読み、批評との関係を無視することは軽率であるばかりか、文化批評の試みを誤った方向に導きかねない。海外の研究者の役割も文学研究だけにあるのではない。大学で教えるべきは文学なのではなく、文学や批評を含めた文化の総体なのだ。海外で、日本の過去20年の批評が見過ごされてきたことは大きな問題である。

 翻訳の欠如は、海外から見ると、その期間日本には批評が存在しなかったということを意味する。考えてみてほしい。日本文学に興味を持つ海外の学生のほとんどは、大学に入ってから日本語を学ぶと同時に日本文学を学び始める。それはつまり、日本文学についての基礎的な知識と研究を行うために必要な語学力を、在学4年間で養わなければいけないということである。必然的に、この期間で読まれ教えられる文学作品は、ほとんどが英訳されたものということになる。大学院に進むにしても、大学4年間で蓄えられた知識と関心の延長であることが多い。現代日本の批評、思想、そして文学にまつわる言説が、英語圏の学部生たちに向けて体系的に語られない限り、ゼロ年代の批評が海外に届くことはないだろう。ましてや研究の対象にすらならないことは言うまでもない(今の英語圏でのトレンドは、明治後期に起こったカノン形成過程の研究および批判である)。

 過去20年の批評が英語で語られない以上、海外の日本研究の妥当性には疑念を抱かざるを得ない。国内の読者に向けてしかものを書かない日本の批評家に、もどかしい思いを持つ海外の学者たちもいる。迅速なコミュニケーションが可能となったこの時代に、海外の研究者がイメージする「日本文学」の翻訳ばかりが行われる現状は、日本の批評にとってはあまり良いものとは言えない。

 知の最前線を追いかけ続けることは簡単ではないが、それはいつも実りあるものである。刺激に満ちた世界だと知っているからこそ感じる現状へのもどかしさも、この論考を書いた理由の一つだ。日本語の可能性を再考するこの試みが、日本に、そして世界にとって、文化的変容のただ中にある日本語の持つ意味を考える契機となることを願う。

日本語の書き言葉の可能性――声を介さないコミュニケーション

 さて、日本語の書字体系には、書き手と読み手の間に共有されるひとつの美学がある。書き言葉は、必ず音読に先行して存在する、というのがそれである。中国から入ってきた漢字(書き言葉)に大和言葉(話し言葉)を当てはめる訓読みの誕生から、書かれたものとその読み手の間にある不安定な関係が日本語の中でシステム化され、強化されていった。こうした特徴は、西洋文学の伝統には存在しない★1。この不安定さは、日本語に書き方の正しいルール(正書法)がないため、つまりひとつの言葉でも多様な書き方ができてしまうため、話し言葉から書き言葉を特定できない、ということに起因する。これは逆から見ると、すでに書かれた言葉を読む読者が、話し言葉を決定しているということであり、ここではむしろ、その点に注目したい(「読書」という言葉からもわかるように、日本人は「書かれたものを読」んでいるのだ)。見逃されがちではあるが、こうした言葉の特徴は日本人の無意識に深く根づき、近年の社会やコミュニケーションの変化とも密接に関連している。

 アルファベット言語と非アルファベット言語間の、(チョムスキーの用語を借りれば)「表層構造」の違いについては、先行世代の学者や批評家により数多くの研究がなされている。しかし昨今のインターネットの普及によって、日本語の構造自体が大きなパラダイムシフトを迎えている。そこに生まれる可能性について考えることがこの論考の目的である。

 近代社会におけるコミュニケーションは、「伝統」の創出、中央集権化、言葉の標準化といった、上から下への垂直的な規範の適用という秩序的なものであった。しかし、今ではP2Pファイル共有ソフトウェア★2のようにネット上で、個々が相互行為を行う水平なコミュニケーションの手段が存在するようになってきている。各自のコンピュータ同士が通信し合うP2Pのコミュニケーションは、秩序を重んじる社会からは敵対的に見られている。伝統的な規範意識を伴ったシステムのなかでは、人々は言葉を使って規範からの距離を示すことで自らの立ち位置を理解してもらう必要があった。しかし、P2Pのようなゼロ年代の自由な相互行為は、声を介さないコミュニケーションが発達するようなプラットフォームを創りだし、声を介した対面のコミュニケーションを、絶対的なものでなく自己表現の1つの手段、選択肢の1つに変えつつある。

 フラットな社会におけるインターネットという環境は、不特定の個人同士の声を介さないコミュニケーションを可能にした。その過程でコミュニティーが生まれ、自然に人々は自分にとって最も心地よい場所を探したり、創りだしたりするようになる。こうしたコミュニケーションの発生は、実は日本の書き言葉のもつ特徴に起源を見ることができる。漢字中心の思想が次第に薄れ、声を介さないコミュニケーションのあり方が認識されつつある現在、日本語のアーキテクチャともいうべきものが、わかりやすい形で浮かび上がってきている。新しいコミュニケーションのなかで、「漢字には何通りもの読み方がある」という事実が、無意識のうちに再発見され、日本語の美学が日々強化されている。こうした傾向はモダニズムを通過しポストモダンへ移行するとともに広まっていった。インターネットとオタク文化が共通して持つ、声を介さないコミュニケーションへの指向性を体現しているのが、今の日本の書き言葉なのである。

 では、コミュニケーションの多様化と脱中心化は、書き言葉にどのような変化を与えたのだろうか。幾通りもある読み方は、これまでルビという形で視覚化されてきた。ルビは、テクストへのメタレベルの介入を可能にする。つまり、書かれている文字そのものの意味だけでなく、書かれた文字と併存して裏に潜む多様な読みを注記する装置なのである。ルビはそもそも、振り仮名として漢字の望ましい読み方を伝える機能を持っている★3。しかし、声を介さないコミュニケーションは、ルビのついた漢字を、文化のなかで固定化した従来の「漢字」ではなく、意味をそがれた「絵文字」として存在させるようになる。

 ゼロ年代の「書き言葉」に依拠した想像力は、声を介したコミュニケーションを否定しているのではない。ただ単に、そうしたコミュニケーションを、唯一のものでなく、選択肢の1つに変えてしまったのだ。ルビを活用することで、音と聴覚によるコミュニケーションを超えることができる。独自のルビを振ることそれ自体が、コミュニケーションの手段になる。この新しいコミュニケーションは、日本語の新たな地平を切り拓き、日本語の美学を強化し、ニコニコ動画のアーキテクチャや二次創作★4へと駆り立てる源泉となっている。ルビを「ハッキング」することで伝統的な日本語の法則や読み方を乗っ取ることができるのだ。「これまでのルビにも同様の例はある。どこがそんなに新しいんだ?」という人がいるかもしれない。しかし重要なのは、現在の日本におけるコミュニケーションや文化の発達は、超平面的な日本語という言語だからこそ可能であったということだ。

 批評家の東浩紀が言及しているように、超平面とは「文字どおり、徹底的に平面的でありながら、同時に平面を超えてしまうという特徴を意味している。コンピュータのスクリーンに代表される超平面的な世界は、平面でありながら、同時にそこから越えるものも並列して並べてしまう」★5。東がここで言っているのはコンピュータ画面についてだが、書き言葉も「平面でありながら」ルビの使用により言葉の深層(多様な読み)が「並列して並べ」られる、超平面的なものなのである。ルビには視えない言葉の深層を可視化する働きがあるのだ。

「視えざるルビ」と「絵文字化」する日本語

 日本語の超平面性という特性を認識しながらルビを活用した例は、80年代あたりから顕著に見られるようになる。日本のポストモダンを代表する作家、高橋源一郎の文体を見てみよう。彼が1988年に発表した『ジョン・レノン対火星人』には次のような文章がある。

わが息子よオー・マイ・サン!」と受話器の向こうでわたしのママは言った。やっぱりわたしのママになんか相談するんじゃなかった。
〈中略〉
「あなたが為すべきことは既に『聖書』の中に述べられているのです、わが息子よマイ・サン★6

 同じ会話において「わが息子よ」という台詞に2つの異なるルビが付いている。同じ読みでも書き方が異なる字のことを異体字と呼ぶが、この場合、同じ字でもルビにより読み方が異なり、ともに「異体読み」とも言うべきものになっている。高橋の世代――断層世代とも呼ばれる――にとって言葉は社会や国家への反撥を表す手段であった。先述のように、規範意識を伴う秩序的な社会では、自身の立ち位置は、その規範からの距離で相対的にしか測ることができない。高橋はまさに過激な文体の使用によって、彼の立ち位置を明確にしたと言える。彼は、集権化しようとするあらゆる動きから距離をとり、反抗としての言葉によってコミュニケーションを図ったのだ。あの独特な言葉遣いは、距離をとるために必要なもの、高橋なりの「差異によるコミュニケーション」★7だと言える。

 こうした書き方について、アメリカの日本文学研究者マーク・ヤマダは次のように主張している。「『さようなら、ギャングたち』と『ジョン・レノン対火星人』の2作はともに、「ギャングたち」、「テロリスト」、「暴力」といった国家権力や権威的機関に結びついたシニフィアンが集まった記号体系であり、そうした体系からアイデンティティや意図が立ち上がってくる」。ヤマダの議論は明快だが、高橋の言葉についてのこうした分析は、西洋の音声中心主義の優位を後押しするものでしかなく、高橋の言語表現における視認性についてはあまり触れられていない。「そこに書かれている言葉は、プロットやキャラクターを組み立てるためには使われていないようである」と指摘するのみで、結局はシニフィエ(意味内容)を重視した理解で結論づけている。「語り手たちは小説の記号体系の中に住んでいる。彼らはまるで、言葉の効果によってアイデンティティを得ようとしているが、そのあり方は羽田事件や連合赤軍事件を起こしたギャングたちやテロリストたちそっくりだ」★8

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1986年生まれ。ワシントン大学大学院在学中。専攻は日本の現代文学と思想。『ユリイカ』『現代思想』『ゲンロンエトセトラ』などに論文を発表し、翻訳も多数。

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1985年福岡生まれ。訳書に『無敗の王者 評伝ロッキー・マルシアノ』(早川書房)、『insight(インサイト)』『異文化理解力』(英治出版)、共訳書に『ノー・ディレクション・ホーム ボブ・ディランの日々と音楽』(ポプラ社)、字幕翻訳に『ミュータント・ニンジャ・タートルズ:影』など。

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