よい子のためのツーリズム(1)ビーチとマスツーリズムの終わり|速水健朗

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初出:2012年10月31日刊行『ゲンロンエトセトラ #5』
 海辺は、本を読んだり、ものを書いたり、考えごとをするのに、決して適当な場所ではない。何年にもわたる経験で、わたしはそのことを知っているはずだった。温かすぎるし、湿気がありすぎる。それに、頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするには、あまりに居心地よすぎる場所でもある。
――アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈りもの』
 ツーリストやバカンス客たちにとってビーチが特別な場所となったのは、18世紀の後ろ3分の1以降のことだ。当時の海辺は、レジャー・娯楽というよりも、療養、体力回復といった保養のための場だった。海水や海辺の空気に触れることが病気の療養や体力の回復に効果があるとして、人々はビーチに繰り出すようになったのだ。  1860年にある医学の権威はこう発言した。「海の空気は血液を、ひいては、[…]あらゆる器官を刺激し、浄化する傾向のある特性を、最高度に有している」(アラン・コルバン『レジャーの誕生〈新版〉』)と。当時は、ビーチの風に吹かれてさえいれば、人は健康を維持できるという考え方が支配的だったのだ。  イギリスの中産階級の間で広がったビーチ信仰は、19世紀末のヨーロッパの有閑階級に伝染し、彼らがバカンスを過ごす場所としてリビエラなどのビーチのある場所が選ばれるようになる。そして、ビーチの大衆化は、同じく19世紀後半の鉄道普及とともに訪れる。大都市から鉄道でつながれた地方のビーチには、労働階級の人々も群がり始めたのだ。  ただし、注意すべきは18、19世紀のビーチでは、人々は街を歩くときの姿のままビーチでの時間を過ごしていたという。海辺に建てられた小部屋の中でのみ服を脱ぎ、冷水を浴びていたという。

ヤンママとキャバ嬢とホストとやくざの渚

 ビーチの文化史は一旦置いておこう。この夏、僕は海水浴のために千葉の御宿おんじゅく海岸に出かけた。実は、毎年夏になるとここを訪れるのだが、今年でもう12年目である。  今年の御宿はとにかく盛況だった。平日の昼間でも子連れの母親たちで溢れている。駐車場に泊まっているのは、フェイクファーを敷き詰めたダッシュボードにぬいぐるみが並ぶ地元ナンバーの軽自動車である。“ヤンママ”たちだ。土曜になるともっと大勢の人々が渚を埋め尽くす。サークル仲間と来ている大学生にホスト風、キャバクラ風の男女に体育会系の男たち、意外と女性の2人連れも多い。相変わらず、ヤンママたちも大勢いる。  つまり見渡す限りのリア充とDQNといった風景である。ここでは男のグループが女だけのグループに声をかけるという行為が始終繰り返されている。御宿のビーチは千葉きってのナンパスポットとして知られているのだという。房総半島出身者の話によると、千葉の高校生の間では、夏休みにバージンや童貞を失いに行くときには、御宿を目指すのだという。  上記の人々以外にも、本職のやくざの人たちもいた。本職とわかったのは、着ているTシャツに「○UMIYO○HI-KAI ○OS○GE-SOCI○TY XXX(一応伏せ字!)SOLDIER」と書いてあったからだ。ここは暴力団員が多いことでも有名なのだ。いまどきは、公営のプールでも湘南や葉山といったビーチでも、入れ墨を入れた人の入場は禁止されているので、千葉に行くほかないという事情もあるのだろう。  ビーチの文化史で見たように、ビーチが中産階級の保養地だった時代からは、長い年月が経ってしまった。

放射能が怖くない人々の海岸


 今年の人出を見ていると信じられないが、昨夏の御宿ビーチは閑散としており、海に入っている人の姿もあまり目にすることができなかった。たった1年で、ビーチの様子は大きく変わったのだ。ガラガラの砂浜の光景を見ると、いつも思い出すのは冷戦期に書かれたネビル・シュートの小説を映画化した『渚にて』だ。

『渚にて』の世界は原子力兵器が使用された戦争によって汚染され、北半球に人は住めなくなっている。生き残った人々は、まだ汚染されていない南半球のメルボルンに固まって住み、人類最後の日が来るのに脅えている。いよいよここにも危険が迫り、人類滅亡の日が迫る中、人々はカウントダウンパーティを開く。そして、海の向こうから迫ってくる放射性物質の到来を静かに待っている。

 昨年の御宿の海岸に人がいなかった理由には、震災後の自粛ムードもあっただろう。だが何よりここは福島の原子力発電所と同じ太平洋に面しているのだ。距離は離れているといっても、放射能を含んだ汚染水が垂れ流されているのと同じ海だ。

 放射能汚染を警戒するのであれば、昨年以上に汚染水の流出が進んでいるはずである今年のほうが危険性は高いだろう。にもかかわらず、今年の御宿の海岸は、かつてないほどにビーチは人で溢れている。誰もが何もなかったかのように、水着を身につけ海水浴を楽しんでいる(僕も含めてだが)。ビーチの向こうから迫ってきている放射性物質の到来を待つカウントダウンパーティにしては華やかな光景である。

 彼らは人類滅亡を待つカウントダウンパーティの参加者ではない。これはあくまでも文化記号的な見立てだが、彼らは“放射能が怖くない人たち”なのだ。おそらく、“放射能が怖い人たち”には、彼らの無警戒さは理解できないはずだ。放射能が怖い人たちはどこにいるのかを指し示すとしたら、金曜日の夜の首相官邸前ということになるだろうか。

【図1】2011年が嘘のように、御宿のビーチは賑わいを見せていた


ポストフォーディズム的ツーリズム


 僕が今年のバカンスのお供、ビーチで寝そべって読むために持っていった本は、ミシェル・ウエルベックの『プラットフォーム』である。

 この小説のテーマは観光。おあつらえ向きに登場人物である社会学者が、観光産業の現状と未来予測のプレゼンテーションをする場面がある。ちなみにその学者の見てくれはこういう感じだという。「三十歳前後、前髪は薄く、後ろ髪は束ねている。アディダスのジョギングパンツに、プラダのTシャツ、履きつぶしたナイキ。要するにまさしく行動的社会学者という様子」なんていう描写に、書き手の悪意が浮かび上がる。

 さて、この社会学者は、現代的なツーリズムのキーワードとして、「倫理、自己実現、連帯、情熱」を挙げて演説を行う。

「こうした新しい文脈のなかでは、自分のエゴを閉じ込め、みんなと同じ欲求や欲望を持つことを前提とするヴァカンスクラブのシステムが、繰り返し困難にぶつかっても意外ではありません。映画『日焼けした連中』の時代、猫も杓子もヴァカンスといえば太陽の下という時代は永久に過ぎ去ったのです。現代人がヴァカンスに望んでいるものはなにか、それは本物、発見、共感です。もっとわかりやすく説明しますと、かつてレジャー観光におけるフォード主義――つまり、例の有名な《4S》、つまりSea、Sand、Sun...and Sexというあれです――そういう合理主義が幅をきかせた時代がありました。ミッキーやスヌーピーの功績がよく表わすように、今となっては、ポスト・フォード主義の文脈から業界全体の働きを検討しなおす必要があります」


『プラットフォーム』の主人公はこの社会学者ではなく、フランス政府の文化局に勤める41歳の公務員だ。彼は父の死で得た遺産でタイへのツアー旅行に参加する。このツアーの同行者となるのは、自然療法士夫婦に「エコロジスト風」の夫婦といった面々である。つまり彼らは、典型的なリベラルで先進的で知的で資本主義をあまり好まない人々である。彼らは、観光ホテルに泊まって、毎日バスで観光地を巡り、観光客専用のお土産屋に連れて行かれるような観光を嫌っている。

 つまり彼らが嫌うのは、いわゆるマスツーリズムだ。くだんの社会学者が指摘しているのも、いまどきの観光客が求めるものが変わってきているという“マスツーリズムの終焉”のことである。

 この小説は、発展しきった現代の西欧文明社会に飽きつつある人々が、何を求めてツーリストになるのかを描いている。彼らは太陽が輝くビーチには行くが、そこが西洋の資本に独占された場所であると興ざめするのだ。そして、おあつらえ向きに用意されたものではないその国の自然、文化、歴史に触れたがっている。

 そして、セックスツーリズムに対しては厳しい。「倫理」を重要視するのがポストフォーディズム的ツーリストの特徴のひとつだ。彼らから見ると、セックスを目当てにアジアを訪れるセックス観光者は、経済的な優位を傘に貧困国の女性から収奪行為を行う不道徳な人種差別主義者である。そして、彼らの見たいものの共通点とは、資本主義から距離のあるものである。彼らは、背景にシステムが見えない交通手段を好み、背後のサプライチェーンの見えない地元で採れた郷土料理を好むのだ。

文明から最も遠くにあるビーチ


 アレックス・ガーランドの『ビーチ』も、7、8年前にやはり御宿に海水浴に来た折に、ビーチのビニールのベッドで寝そべって読んだ小説だった。『ビーチ』は、小説よりも先に映画を観ていた(映画の邦題は『ザ・ビーチ』)。先日のロンドン五輪で開幕式の演出を務めたダニー・ボイルの監督作品で『タイタニック』で人気者となったレオナルド・ディカプリオの主演作として話題になったが、評判はいまいちに終わった。とはいえ、実際に見るとおもしろい映画である。

『ザ・ビーチ』のレオナルド・ディカプリオは、タイのバンコクはカオサンに逗留する若いツーリストだ。彼は「より美しく、より刺激的で、より危険な何か」を求めて故郷の西欧世界を離れ、このタイにやってきたのだ。

 西欧人にとってのタイのイメージを知るには『エマニエル夫人』を見ておくといい。バンコクに赴任したフランス人大使の若い妻が、異国での開放感、経済的優位(美しい召使いたち)、アヘンをもって奔放なセックスを満喫する。つまりは、オリエンタリズムのフルコースを想起する場所なのだ。

 タイという国にやってくる西欧人たちの求めるものとは「より美しく、より刺激的で、より危険な何か」なのだ。それを求めて、彼らはアジアにまでやってくるのだ。

 まさに、刺激と冒険を求めてタイにやってきたディカプリオが訪れたカオサン通りには、彼とまったく同じような若い西洋人が大勢押し寄せていた。誰もがバックパックを背負い、髪を伸ばし、ジーンズをはいている。資本主義が嫌いでマスツーリズムを嫌う人々が、ここではマスとなり、巨大な資本の市場を形成しているという皮肉な状況が描かれているのだ。

 カオサン通りを離れたディカプリオは、バンガローしかないビーチ、つまりはヒッピー向けの、観光産業の手が入らない場所にやってくるが、ここもまた文明から遠く離れたつもりの西欧人たちで溢れている。しまいに彼は、もっと奥地に、ツーリストのいない禁断のビーチがあるという情報を手に入れ、それを探しに行く。

 禁断のビーチは存在した。信じられないくらいに美しいビーチ。そこは、まだ何ものにも汚されていない場所だった。ついに、楽園に辿り着いたディカプリオは、そこで暮らす人々と生活を共にする。彼らは、文明を捨て、自給自足の生活を維持するヒッピーのようなコミューンを形成し、この楽園生活を満喫していたのだ。

 ただし、この地域が楽園として守られてきたのには理由がある。この奥地の楽園には、大量の大麻が栽培されている。この楽園は、それを守る武装農民たちの土地だ。コミューンの連中は、黙認してもらってここに住み着いている。

 この構造は、とても象徴的だ。結局は彼らのような恵まれたヒッピーたちが、この大麻の最終消費者であり、武装農民たちはそれを供給する生産者なのだ。資本主義の世界を忌避してタイの奥地に自分たちの楽園を見つけた彼らも、市場=資本主義社会を形成する一部であり、単なるより洗練された消費者に過ぎなかったのだ。

先進的、リベラルな人々のビーチ史


 再び、ビーチの文化史の話だ。アメリカでも観光用のビーチは19世紀末より登場する。ただし、アメリカではまたヨーロッパとは異なったビーチ文化が根付いていく。

 19世紀後半のゴールドラッシュ期に、多くの人々が米の西海岸に集まってきた。特にサンフランシスコの海岸近辺は、バーバリ・コースト(野蛮の海岸)と名付けられた品の悪い繁華街が形成されていたが、その名残を残した北側のノース・ビーチは、カウンターカルチャーを生むメッカとなっていく。1950年代にはビートの詩人たちが集まるようになり、1960年代には、同地区のヘイト・アシュベリーが、ヒッピーのたまり場になるのだ。

 一方、ロサンゼルスのヴェニス・ビーチは、椅子デザイナーのイームズらを始め、画家や映画のプロデューサーらが集まる芸術家のコロニーとして知られていた。

 西海岸という場所は、ヒッピーにせよカルト宗教にせよニューエイジにせよロックにせよ、それこそシリコンバレーにしたって反資本主義、反文明社会という様相を背景に持った場所である。『ヴェニス・ビーチ』(未邦訳)という著書のあるチャールズ・ロックウッドは、ここをこう説明する。

「ヴェニスはまた、ヘルスやフィットネス志向のメッカである。有機野菜ショップでしか買わない熱心なヴェジタリアンからゴールドのジムで鍛えているプ口のボディビルダーまでいる。それにヴェニスは身体が機敏な連中をひきつける」(海野宏『ビーチと肉体』より再引用)。

 なるほど、西海岸のビーチにいるような人たちは、日本においてはビーチにはいないだろう。むしろ、首相官邸前にいるのだ。

欧米人同士では寝ることができない


 ウエルベックの『プラットフォーム』に話を戻そう。この小説のテーマは観光であると言ったが、そこにはセックスが大いにかかわっている。すでに述べたが、主人公はタイ旅行のツアーにて自然療法士や「エコロジスト風」ら、先進的な人々と同行するのだが、主人公自身はリベラルなモラリストではない。むしろ、彼らにうんざりしているのだ。

 主人公はホテルのマッサージルームで金銭をもって若いタイ人女性を買い、自然療法士や「エコロジスト風」の人々からひんしゅくと批判を買う。そう、彼自身はセックスツーリストである。

 セックス観光を擁護し、自らもそれを実践する主人公は、ある信念を持っている。彼の主張はおもしろい。彼は、何らかの理由で「欧米人同士で寝ることができなくなってしまった」と指摘するのだ。

「たいてい二十五とか三十とかいった年頃から、新しい性対象との出会いがめっきり少なくなる。それでいて欲求はなくならない。即座に消し去れるような類の欲求ではない。人は残り三十年ものあいだ、成年期のほとんどの期間を、常に欲求不満の状態で過ごすことになるんだ」。

 こうした成熟した社会の中年層が抱える欲求不満を解消するための手段として、主人公は観光を捉えている。

「一方に数億人という西欧人がいる。彼らは欲しいものはなんでも持っている。ただし性の満足だけは得られない。探してはいる。ずっと探しつづけている。しかしなにも見つけられない。そして骨の髄まで不幸だ。もう一方に数億人という持たざる人間がいる。彼らは飢餓に苦しんでいる。若くして死んでいる。不衛生な環境で暮らしている。体と、まだ傷のついていないセックスを売るほか手段を持たない。ことは簡単だ。至って簡単じゃないか」。

 主人公は、欲求不満と経済格差の両方を、国家間の富の移転が発生する一種の貿易である観光というものによって解消され得ると考えるのだ。

ビーチを巡る政治学


 ここまでビーチにまつわるあれこれの事象を並べてきたが、まずウエルベックが捉えたように、先進国と途上国の間に横たわる格差と、資本主義に対する距離感。このふたつは、観光を考える上での重要なポイントだ。

『プラットフォーム』に出てくる自然療法士や「エコロジスト風」たちと主人公の立場の違いは、まさにグローバリズム、自由貿易を巡る議論と同じである。

 例えば、反グローバリズム論者は、貿易は先進国が第三世界から収奪するシステムだと考える。彼らは、コーヒー貿易や巨大スポーツメーカーの海外工場の在り方に批判的だ。だが一方で、自由貿易は当事者国双方に利益をもたらし、格差を解消する手段であるという側面を忘れている。

 自然療法士や「エコロジスト風」は、経済格差を背景とした売春にいそしむ主人公を、差別主義者であり、途上国から収奪する存在だと考えている。だが、主人公は売春を両者に利益を生み(まさに比較優位という言葉を連想させる)経済格差を解消する手段であると考える。また、売春の道徳的側面はさておき、主人公を少しだけ擁護すると、自然療法士と「エコロジスト風」たちもまた、アジアの途上国の女性たちに純真無垢であることを押しつけるオリエンタリズムの視点に陥っているのだということを指摘しておきたい。

 さらにはビーチだ。観光史においてもビーチは特別な存在である。世界中どこにでもあるものであり、特別な場所ではないが、観光資源として多くの人々を引き寄せる。それこそヤンママから詩人やアーティストまで。むしろ、今回僕が訪ねた御宿のビーチとは、リベラルに属する人々のいない、珍しいビーチだったのかも知れない。

 世界的に有名なビーチに、スペインのイビサ島がある。ここに集うのは、やはりヒッピーの子孫的なリベラルな人々である。千葉の御宿のビーチに集まる、強いて言えばアンチリベラルに属するであろう人々とは正反対だ。むしろ、首相官邸前に集まる人々に近い。だが、性的な奔放さでいえばイビサと御宿は近い。ウエルベックが唱えるセックスを巡る先進国的な不幸から遠い世界だ。ビーチを巡る政治学は、そう単純ではないのだ。




 本連載は、新しい観光の在り方を探るものだ。観光はいまや世界最大の産業である。そして、今後の発展が間違いなく見込めると思われている分野だ。いま、観光の世界で起こっていることは、この世界を知るための重要な知見となり得る。

 さて、この連載は毎回、書き手の僕がどこか観光にまつわる場所に出かけるという旅行エッセイであり、観光の歴史や文化史を辿りながらも、これからの世界の観光の本質に迫るルポルタージュでもある、というものを目指している。と言いながらも、いきなり僕が出かけていった場所が、千葉の御宿であるということからも連載の趣旨を汲んでもらえればと思う。あくまで身近なところから考えるというのは、ラーメンやショッピングモールを通した日本論、都市論などを取り扱ってきた僕のいつもの手法だ。

 さて、連載第1回目の記念として、旅にまつわる名言で締めたいと思う。

人が旅をするのは目的地に到着するためではなく、旅をするためである
――ゲーテ
参考文献 ミシェル・ウエルベック『プラットフォーム』中村佳子訳、角川書店、2002年。 海野弘『カリフォルニア・オデッセイ5 ビーチと肉体――浜辺の文化史』、グリーンアロー出版社、2001年。 アレックス・ガーランド『ビーチ』村井智之訳、アーティストハウス、1998年。 アラン・コルバン『レジャーの誕生〈新版〉』上・下、渡辺響子訳、藤原書店、2010年。 アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈りもの』落合恵子訳、立風書房、1994年。
撮影=速水健朗

速水健朗

1973年生まれ。フリーランス編集者・ライター。著書に『ケータイ小説的。 〝再ヤンキー化〟時代の少女たち』(原書房)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)、『1995年』(ちくま新書)、『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)、『東京β』(筑摩書房)、『東京どこに住む?』(朝日新書)など。
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