韓国で現代思想は生きていた(12) 漢字の消えた韓国語|安天

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初出:2014年3月20日刊行『ゲンロン通信 #11』

1 東アジアは漢字文化圏


 東アジアの国々は漢字という共通の文字を、各々の言葉を記す媒体として取り入れ、長く利用してきた。漢字は表意文字であるため、発音がまったく異なる言語間にも意味を通わすことができる。

「象」という文字を見て日本語話者は「ゾウ」と発音される動物を、韓国語話者は「コキリ(코끼리)」と発音される動物を、そして中国語の話者は「ダシアン(大象)」と発音される動物を思い浮かべる(後に明らかになるように「浮かべた」というべきかもしれないが)。発音は違っていても、思い浮かべる動物は同じだ。口頭での言葉は通じなくても、文字はある程度通じる文化的土壌を築き上げてきたのである。

 漢字だけで表記する中国語は言うに及ばず、日本語において漢字のない日本語表記は受け入れがたいだろう。韓国語においてもその70%は漢字語で構成されている。日本語も韓国語も、まさに漢字という共通の文字の上に存在しているといっても過言ではない。

2 漢字を使わずに漢字語を表記


 しかし、実際に韓国に行った人はすでに経験済みだろう。韓国の看板から漢字を見つけ出すのは、もはや簡単なことではない。漢字の看板が目に入ったのなら、それは中華料理店か和食料理店である可能性が高い。韓国では漢字を取り入れないハングルだけの表記が完全に定着して久しい。漢字より英語の看板が多いのが今の韓国だ。

 なるほど、日本人観光客が多く足を運ぶ店のメニューなどには、時にはその翻訳に違和感を覚えることもあろうが、漢字混じりの日本語も併記される。最近は中国からの観光客も増え、簡体字の漢字が併記されることも多い。しかし、韓国語話者だけを想定したメニューで漢字を表記することはほとんどない。日常生活において漢字は、外国語を表記する文字と化した。今もなお韓国語単語の7割が漢字語であると言われているのにもかかわらず、そうなのだ。

 漢字語を漢字で表記しない、というのがどういうことなのかピンと来ないかもしれない。日本語に例えると、ひらがなだけで日本語を表記すると考えればよい。「今日は学校で数学の授業が行われた」を「きょうはがっこうですうがくのじゅぎょうがおこなわれた」と表記するわけだ。読者の皆さんは直ちに、漢字の非表記がもたらす可読性の著しい低下を目の当たりにし、困惑していることだろう。

 実際には、ひらがなだけで日本語を表記する本がまったくないわけではない。幼児向けの本や初級日本語の教材などは、ひらがなだけで記載されたものもある。ただ、それは日本語の習得途上などといった特殊な読者を想定した読み物に限った話で、あらゆる日本語を漢字なしで表記するとなれば、それは大きな社会問題になりかねない。しかし、韓国では実際にそれが起きたのである。幸い、それによる混乱もほとんどない。

3 文字数が同じ


 韓国語の表記手段として漢字を用いなくなった理由は様々あるが、ここでは、韓国語の単語の多くが漢字語であるのにもかかわらず、ハングル(韓国の文字)だけでの表記を可能にしている、ハングル文字の特徴を2つ確認しておこう。これから説明する2つの特徴は「漢字非表記」という選択肢自体を存在たらしめる、いわばアーキテクチャ的な前提条件である。もし、これらの特徴がハングルに備わっていなかったら「漢字非表記」は、ひらがなとカタカナで日本語を全部表記するのと同じように非現実的な選択になっただろう。

 1つ目は、ハングルの1文字が漢字の1文字に対応するという、ハングル設計時からの特徴である。「学校」という2文字をひらがなにすると「がっこう」のように4文字になるが、ハングルは「학교」と、漢字と同じく2文字で表記される。この、漢字とハングルでは文字数が同じという特徴のお陰で、漢字をすべてハングルに置き換えても文字数は増えない。情報処理における時間的経済性は損なわれないのである。10文字で表せた文章を、漢字表記を廃止することで20文字にしなければならないのなら、廃止に対する心理的抵抗は大きかっただろう。しかし、10文字のままなら漢字表記の廃止を単なる「慣れ/不慣れ」の問題として受け止めることができる。

4 分かち書き


 2つ目は、最初はハングルになかったが、今はハングル表記の基本要素となった「分かち書き(띄어쓰기)」の存在である。15世紀の中頃ハングルが作られたとき、分かち書きはなかった。もともと、東アジアの表記文化に分かち書きの伝統はなかったようで、ハングル・漢文・日本語表記すべて分かち書きはなかった。いまも日本語と中国語の表記で分かち書きが取り入れられるのは稀である。

 しかし、現在の韓国語表記において分かち書きは必要不可欠な要素となっている。ハングルにはじめて分かち書きが導入されたのは約120年前のことだ。アメリカでの生活を経て朝鮮に帰国したソ・ジェピル(徐載弼)は日清戦争終結の翌年にあたる1896年、『独立新聞』を創刊する。この新聞は朝鮮史上はじめて、漢字は使わずハングルだけで表記(英語記事はあったが)した新聞であり、彼は西洋語の分かち書きから着想を得て、漢字をハングルで表記する代わりに分かち書きを取り入れたと言われている。ちなみに、『独立新聞』の「独立」とは清王朝からの独立を意味しており、この新聞の創刊には日本も協力した。

 なぜ「漢字表記の廃止」と「分かち書き」は連動するのか? 漢字表記は視覚的に意味を区切る効果を伴う。日本語の和漢混合表記にはこの効果が見事に現れていて、漢字(やカタカナ)の部分が意味の塊として視覚的に区別される一方、ひらがなで意味間の関係性などが表現される。漢字とひらがなとの見た目の違いが、意味の区別と深くリンクしているため、あえて分かち書きを導入して意味間の区切りを視覚化する必要がないのである。
 したがって、もし、漢字を使わずにひらがなとカタカナだけで日本語を表記するとなれば、何らかの形で意味の単位を視覚的に区切る必要があるだろう。漢字表記をせず、ハングルだけで韓国語を表記しようとしたとき、直面したのはまさにこの問題だった。そして、分かち書きの導入をもってこの問題を解決したのである。

 韓国で分かち書きの重要性を喚起するためによく使われる例文がある。「아버지가 방에 들어간다」と「아버지 가방에 들어간다」だ。両文は分かち書きの位置が1箇所違うだけで、それ以外は全部同じだ。しかし、前者は「父が部屋に入る」で、後者は「父カバンに入る」という意味になる。こうして漢字なき韓国語表記において、分かち書きはなくてはならない要素になった。

 その一方で正しい表記をめぐる議論の対象にもなっている。複雑な文の場合、どこに分かち書きを入れれば良いのか、韓国語話者も迷うことが多い。何を隠そう、筆者も韓国語で書いた原稿を依頼主に送ると、校正されてくる箇所のいくつかに必ずこの「分かち書き」の間違いがある。

5 情報通信革命と漢字表記との相性


 偶然ではあるが、漢字表記の全面的な廃止の流れに拍車をかけたのがパソコン、インターネット、携帯電話といった新しい情報通信機器の登場である。90年代まで、新聞のほとんどがハングル漢字混じり文で記事を印刷していた。しかし、ゼロ年代に入ってほとんどの新聞から漢字が消える。漢字をよく知らない世代が大人になったこと以外にも、新しい情報通信機器を使って文字を入力する際に、「ハングルだけでの入力」が「漢字混じり入力」と較べて遥かに便利であることも大きな要因である。

 ハングルのみの表記だとアルファベットと同じく打ちっぱなしで文章ができあがる。漢字に変換する手間がはぶけるのだ。パソコンで日本語を入力するとき、漢字変換は必ず経由しなければならないプロセスだ。より効率的な変換環境を手にするために、もともとパソコンに搭載されている入力アプリではなく、別途「グーグル日本語入力」や「ATOK」などをわざわざインストールして使う人もいる。

 しかし、漢字変換が要らないとなれば、そのようなプロセスが全部不要になるので入力の効率性は格段に高くなる。そのため、90年代からゼロ年代にかけて「ハングルのみの入力」と「ハングル漢字混じり入力」の両方が選択肢として提示されたとき、ほとんどの韓国語話者は前者を自分の基本的な入力方法として取り入れ、結果的にハングルだけでの表記は完全に定着するにいたった。当然ながらネット上の韓国語ページにおいても、ハングルだけの表記がデフォルトになった。

6 それでも漢字なしには成立しない韓国語


 表記上漢字が消えたとしても、7割の単語の意味を支えているのが漢字であることは変わりない。韓国語辞書で単語を調べれば、漢字語の場合その単語の漢字表記が併記されている。新しい概念を作り出すときも、漢字を組み合わせて作るケースが多い。日常生活から漢字の存在感は薄くなっても、漢字が韓国語の根幹を成している事実に変わりはないのだ。

 この「表面における漢字の消滅」と「深層における漢字の絶対的な必要」の衝突は、韓国社会で繰り返し漢字表記の問題を議題化させる原因となっている。表記の問題は単に「どんな文字で表記するか」という問題に収まらず、東洋的価値と西洋的価値の衝突、伝統と革新の対立、保守と進歩の葛藤という様々な社会的な対立軸が重なる問題でもある。それもそのはずだ。かつて韓国は、漢文を絶対的なものとして敬ってきた儒教の国だったのだから。次回は、この問題をもっと掘り下げることにしよう。

安天

1974年生まれ。韓国語翻訳者。東浩紀『一般意志2・0』『弱いつながり』、『ゲンロン0 観光客の哲学』、佐々木中『夜戦と永遠』『この熾烈なる無力を』などの韓国語版翻訳を手掛ける。東浩紀『哲学の誤配』(ゲンロン)では聞き手を務めた。
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