ライプツィヒから〈世界〉を見る(最終回) 「ベルリン森鷗外記念館」と「ドイツ語落語」|河野至恩

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初出:2014年6月30日刊行『ゲンロン通信 #13』
 最終回の今回は、このコラムの連載開始から書きたいと思っていたテーマである、私がライプツィヒに住んだ1年の間に見た、ドイツでの 「日本文学」「日本文化」紹介のあり方と、現地の「日本研究」のかかわりについて記しておきたいと思う。

 今年3月、講談社現代新書から『世界の読者に伝えるということ』という本を刊行させていただいた。世界の読者の視点に立って日本文学・文化を読み直す、というテーマのもと、「世界文学としての日本文学」「日本研究からみた日本文化」などについて語った本だ。今回は、この本には盛り込めなかったドイツでの二つの事例を通し、日本で想像している日本文化の発信と、現地の日本研究、そして現地で日本文化を受け取る受け手の関心が、どうかみあっているのか、かみあっていないのかについて、考えてみたいと思う。

 



 ベルリン中央駅から歩いて15分ほど、 ブランデンブルク門やドイツ連邦議会議事堂からも近いベルリン・ミッテ地区の閑静な一角。森鷗外が下宿していた部屋があった(といわれる)古い建物の2階に、森鷗外記念館 (Mori-Ōgai-Gedenkstätte.以下「記念館」)がある。玄関から記念館の入り口へと続く階段に沿って、『舞姫』からの引用が日本語で記されている。鷗外が住んでいたアパートの1室を再現した部屋の他、展示室、図書館、講演室などがある。

 記念館は、ベルリンを訪れる日本人の観光客にとっては、鷗外のベルリン留学時代を追体験する観光スポットである。しかし、記念館には、ベルリンにおける日本研究、日本文化紹介の拠点という顔もある。記念館の図書館は、膨大な量の鷗外研究の資料が収められており、特に欧米語の鷗外研究については、書籍・論文の全点収集を目指しているという(私がアメリカの大学で書いた博士論文も所蔵されていた)。森鷗外の研究者がヨーロッパ各地からこの図書館のためにベルリンに短期滞在して調査をすることも多いという。私自身、ライプツィヒに住んでいたときは鷗外資料を読むためにこの図書館を何度か利用した。

 また、記念館では、定期的に、鷗外に限らず日本研究全般の研究発表や、日本文化の紹介イベントが企画・実施されている。私がライプツィヒに滞在していた2012年は森鷗外生誕150周年の記念の年であり、記念シンポジウムや講演、鷗外ゆかりの地との文化交流イベントが行われた(私もその一環として2013年2月に森鷗外記念館で研究発表をさせていただいた)。さらに、記念館では、Japonica Humboldtianaという日本研究の学術誌も発行されている。

 このように、記念館は、日本人(特に観光客)の視点から見るのと、現地の日本研究の視点から見るのとでは、大きく異なる姿を現す。記念館を何度か訪れ、いろいろと話を伺っているうちに、その認識のギャップには、大きな問題が隠れていることに気がついた。この問題についてぜひ多くの人に読んでもらいたいのが、記念館の現副館長であり、長年記念館で勤務されてきたベアーテ・ヴォンデさんが『文学』に寄稿した文章である(ベアーテ・ヴォンデ「つれづれなるままにーベルリン森鷗外記念館と記念 のかたち」『文学』14.1(2013年1・2月))。
 ヴォンデさんは、この記念館がいかに世界で類を見ない存在であるかということを強調している。まず、日本国外にあって、日本人個人を記念するためにつくられ、しかもそれがフンボルト大学という学術機関によって運営されているというのは、他に例がないという。また、数多くの文学者が居住・滞在したコスモポリタンなヨーロッパの大都市・ベルリンにおいて、外国人の文学者を記念する唯一の文学館でもあるという。世界各地で文化・学術団体への経営状態の悪化が伝えられるなか、このように外国人の一作家を記念する文学館が持続的に運営されているという状況は、実に貴重だということがわかるだろう。

 しかし、このような記念館を訪れる日本人とドイツ人の間には、かなり異なるメンタリティーがあると指摘する。それは、特に2012年、鷗外の記念の年に顕在化した。この年、日本の新聞・メディアの鷗外関連の企画では、『舞姫』の登場人物・エリス、そしてそのモデルとされたと思われる、鷗外のドイツ人の恋人を扱うものが多かったという。記念館の日本人の訪問者の質問で一番多いのは、「エリスの写真はありますか?」だという。

 いっぽう、記念館のドイツ人の訪問者でエリスについて聞く人は皆無だという。むしろ、ドイツ人は、鷗外の超人的な人物像に興味を持っているという。「当時の時代性を素早く把握し、精神的に消化した上、 驚くほどの早さで完璧な文体で翻訳を仕上げるということ」「異文化間の仲介者、そしてアジアとヨーロッパの文化に対する深い知識をもち、双方を愛してやまないという彼の存在」という、鷗外の多様な人物像、 そしてその業績が評価されている。

 ヴォンデさんの記事を読んで改めて思うのは、ベルリンの森鷗外記念館は、1984年、東ドイツ時代に開館以来、壁の崩壊、財政難などを乗り越え、いまも続いている、希有で奇跡的な存在だというこ とだ。この「奇跡」について知っている人々は日本では少ない。その背後にあったヴォンデさんのような方々の積み重ねてきた努力を考えると、「鷗外というとエリス」という固定観念にとらわれるのではなく、鷗外の人と作品が、ドイツのような場所で、そして世界でどのような意味をもちうるのかを、日本の人々はもっと考えてみてもよいのではないかと思うのだ。

 



 もうひとつ、私のドイツ滞在中にライプツィヒ大学の日本学科で開催されたイベントのなかで特筆すべきイベントとして、ドイツ語の落語公演について書いておきたい。

 演者は三遊亭竜楽師匠。20年以上前に真打ちに昇進した噺家だが、2008年、イタリアで自身初の海外公演を行い、以後、毎年のようにヨーロッパ各地で落語公演ツアーを行っている。レパートリーは6ヵ国語(英語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、ドイツ語)。2011年以降は、ドイツ公演ツアーの一環としてライプツィヒ大学でも毎年公演が行われている。

 2012年の夏のある日、公演を聴きに行った。会場になった大学の教室に開演間近に到着すると、会場は学生や家族連れでほぼ満員。落語自体は日本語とドイツ語で、特にドイツ語では会場は爆笑の渦に包まれていた。また、落語の前後には、竜楽師匠が通訳を通して、話の内容や衣装や扇子などの小道具について解説する。プログラムがすべて終了した後も、師匠は訪れた聴衆に囲まれて質問に答えるなど、余韻はさめやらなかった。この落語公演は、ライプツィヒ大学日本学科の日本文化プログラムのなかでも人気が高く、現在は恒例のイベントになりつつあるという。

 私もこの公演は大いに楽しめたのだが、 大学の日本文化紹介のプログラムとして、どうしてここまで成功しているのか。その理由を考えてみると、「日本研究」を通して日本文化を紹介するという環境に、落語の特性がよくマッチしていることが考えられる。

 まず、落語が、学生にとって日本文化を学ぶ「よい教材」となるということ。日本の話芸という伝統芸能であり、日本文化を学ぶ学生にとっては、伝統的な文化に触れるよい機会である。また、落語が、本を読んで学ぶ文化ではなく、話芸というパフォーマンスであり、聴衆にダイレクトに伝わってくるということ。そして、落語の庶民的な「笑い」は、ドイツ人の学生であっても親しみやすい。日本語を学ぶ学生の多くがこのイベントに訪れていた。
 そして、少し意外かもしれないが、落語はポピュラーカルチャーに注目する現在の日本研究とも研究の関心が重なる。かつては、茶道や工芸、美術など、どうしても正統的な、高級な芸術ばかりを扱うことが多かった日本研究も、最近は、もっと幅広い文化を研究すべきだという観点から、ポピュラーカルチャーに注目しつつある。そのような理由で落語のような大衆芸能、そしてお笑いの文化も、日本研究のホットなトピックになっている。この落語公演で通訳兼コーディネーターを務めていたティル・ワインゲルトナーさんは、最近日本の「お笑い」の研究で書籍を発表した若手の日本学者でもある。

 そして、この落語公演は、ライプツィヒ大学の学生や研究者と、地域の日本人・日本語コミュニティを橋渡しする役割も果たしている。会場には近くに在住する日本人の家族連れが多く来ていたようだった。普段、大学の日本学とはあまりつながりがない日本人の人々も、落語ならば聴きに来て、ひとつの場を共有することができる。

 落語公演は、これらの多くの条件を満たしながら、なお多くの人々に日本文化に触れる機会と、楽しい時間を提供するイベントなのだ。しかも、落語家とコーディネーターの2人を招くだけで実現できる。現地の文脈にマッチした日本文化紹介の例といえるだろう。

 



 拙著『世界の読者に伝えるということ』でも強調したことなのだが、日本文化の「発信」といっても、日本でのイメージと、現地での受け取られかたは大きく異なることが多い。だから、それを受け取る側の関心、現地の日本文化に対する視点、そして日本文化の研究、紹介に関わる人々や組織の事情について、もっと関心をもつべきではないかと思う。当たり前のことのように思われるが、特に「クール・ジャパン」といわれる形の文化発信では、その発信の方法や中身が、日本人の自己像と深く関わってしまっているためか、その当たり前のことができてないことが多いと、アメリカやドイツでの日本文化の受容を現地から見てよく思うのだ。

 今回紹介した2つの事例で鍵になるのは、「日本研究」という場所だ。世界各地の日本文化紹介の現場では、伝統文化から現代文化まで、大学の日本研究という場所が重要な役割を果たしていることが多い。日本文化・社会の文脈を熟知し、文化紹介のできる専門家としての人材を多く抱え、日本文化のファンとなりうる大学生の若者がいる大学の日本研究の場。そこに集まる人々の関心と、環境の諸条件がうまくかみあったとき、ビジネスとしての規模は(いまは)大きくなくても、一時的に楽しいというだけでなく、知的好奇心を深く満たしながら、未来への可能性に満ちた出会いを企画できる。このような場について、日本国内の読者ももっと意識してもいいのではないだろうか。



 本欄も今回で最終回となる。サポートしてくれた編集者・スタッフの方々に、そして何より本欄の読者の皆様に感謝したい。

河野至恩

1972年生まれ。上智大学国際教養学部国際教養学科教授。専門は比較文学・日本近代文学。著書に『世界の読者に伝えるということ』(講談社現代新書、2014年)、共編著に『日本文学の翻訳と流通』(勉誠出版、2018年)。
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