ロシア語で旅する世界(3) 卑語[マート]は禁止できるのか|上田洋子

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初出:2014年6月30日刊行『ゲンロン通信 #13』
 はっきりいって、今はロシアについてなにを書いてよいのかまったくわからない。混迷のウクライナ情勢、クリミアを併合してしまったロシア。その後開き直ったかのようにどんどん保守化し、プーチン大統領の独裁体制はひたすら強まっていっているように見える。

 ソチ五輪をなんだかんだいっても成功させ、文化的にも経済的にも国の存在感をアピールしたロシアの国際的評価は、直後のクリミア併合で一気に覆された。この問題で各国から制裁を受け、4月には経済成長の停滞も報道されていたが、ちょうどこの原稿を書いている時期にプーチン大統領が中国を訪問し、「大国」同士の関係強化をアピールした。欧州が依存から脱却しようとしているロシアの天然ガスは、数年後には中国に流れるようになるらしい。やはりロシアは一筋縄ではいかない。

 実のところ、政治や経済の話は、正直、門外漢のわたしにはまったく手に負えない。特に現在の不安定・不明瞭な状況ではそうだ。だが、保守化の動きのなかで、文学者として、演劇研究者として、どうしても見過ごせない問題がある。それは言語表現の規制だ。

 



 ロシアが昨年、「未成年に対する非伝統的性的関係のプロパガンダ」の禁止法を施行したのは記憶に新しい。端的にいえば、これは未成年に対して性的マイノリティの魅力を宣伝することを禁ずる法律で、犯罪の可能性のない場合は、4000ルーブル(約1万2000円)から100万ルーブル(約300万円)の罰金が科される。すなわち、誰もが目にするマスメディアや映画、演劇などで、このテーマを扱うのはタブーだと知らしめるための方策である。ロシア正教会的、家父長的、19世紀的な価値観を強く打ち出すことで、世界一の領土を誇る広大な国の統一を保っていこうというパフォーマンスだと考えればよいのかもしれない。

 さらに今年、マスメディアおよび演劇、映画、美術その他芸術の上映、上演、展示において、卑語(マート)の使用が禁止されることが決まった。こちらは罰金が2000ルーブル(約6000円)から5万ルーブル(約15万円)。「検閲では許されない罵倒を内容に含む文学、芸術、民衆芸術作品の、演劇・ショー、文化・啓蒙、娯楽・見せ物における公の場での上演・上映・演奏」のオーガナイズが禁じられる。マートの含まれる映画は一般公開ができず、上映はフェスティバルなどの単発的な機会に限られることになる。DVDや書籍などの販売物には「検閲では許されない罵語」が含まれていることが明記され、さらに中身が見られないようにパッキングがされるという。2014年5月5日にプーチン大統領がこのマート禁止法に署名、7月1日から施行される。

 



 マートとは英語のファック・ユーやビッチに相当する言葉で、英語のそれら同様、口語として広く使用されている。日本語ならちくしょうとかくそにあたるだろう。ロシア語の場合、男性性器を指す名詞 хуй や女性性器を指す пизда、性行為を指す動詞 ебать、そしてそれらの派生語などがマートを構成している。マートの起源は古く、10世紀のキリスト教受容以前、異教の生殖信仰にあるとされる。19世紀には国民詩人プーシキンもマートを使った戯れの詩を書いた。ソ連時代にはマートは公の場での使用が許されておらず、それらは新聞にも刊行物にも、テレビや映画にも登場しなかった。つまり、そういった卑俗な言葉は存在しないことになっていたわけだ。
 ひとつの国に公式と非公式の二つの文化コードが並列して存在する状態は、ソ連時代の末期から顕在化されていくわけだが、マートもそのなかで表舞台に出てきた。それまでは地下や国外でのみ出版されていた非公式文学も、どんどん刊行されていった。20世紀マート文学(そんな用語があるとすれば)として代表的なのは、ヴェネディクト・エロフェーエフの『モスクワ-ペトゥシキ』(Москва-Петушки. 1969‐70年執筆、邦訳『酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行き』1996年)や、エドゥアルド・リモーノフ(Эдуард Лимонов, 1943-)の『おれはエージチカ』(Это я, Эдичка. 1979年ニューヨークで出版)である。前者ははみ出しものの酔っぱらいが道化的役割を果たし、社会の不都合があばかれるカーニバル文学、後者はアメリカ文学の影響を強く受けた赤裸々な自伝。特に前者はベストセラーとなり、いわゆる「不適切な語(マートのこと)」まみれなのに、ロシア文学の古典としての地位を獲得した。

『モスクワ-ペトゥシキ』と『おれはエージチカ』は、この時期の二つの文学的な流行を反映している。すなわち、ミハイル・バフチンが指摘するような陽気な民衆言語を駆使して無礼講の状態を作るカーニバル文学の伝統、そして、20世紀アメリカのあけっぴろげで粗野なものをかっこいいとする文化である。

 



 ソ連が崩壊して言論の自由を手に入れた人々は、かなり積極的にマートや俗語を用いるようになった。いわゆる知識人層、そして文学・演劇・美術・映画などの芸術の場では、この現象は顕著だった。一番の理由は、今まで禁じられていたものが持つ、表現の可能性としての魅力であるだろう。言語学者のアンドレイ・シメリョフとエレーナ・シメリョワによると、1990年代に言語が全面的に自由化したという考えはむしろ神話であり、そこで頻繁に使われるようになった多くの言葉が以前からあったものだという★1。彼らの指摘によると、例えば犯罪者のジャーゴンは、1950年代以降、ラーゲリ(強制収容所)からの帰還者たちによって社会に広まった。とはいえこうした非公式の言語が、自由化とともに表現活動に積極的に取り入れられ、かっこいいものとして流行したのは事実である。ラーゲリ言語をロシア文学に取り入れたのは、確かにソルジェニーツィンの収容所文学かもしれないが、そうした非公式言葉が一般に流通するようになったのは、ポスト・ソヴィエトの1990年代以降だといえるのではないだろうか。

 

 1991年、まさにソ連が崩壊した年に、「エーチ(これら)ЭТИ」というアートグループが、モスクワの赤の広場で行った「エーチ・テクスト(赤の広場における ХуйЭТИ-текст (Хуй на красной площади)」というパフォーマンスがある★2。アナトリー・オスモロフスキー(Анатолий Осмоловский, 1969-)をはじめとするエーチのアーティストと、街にたむろしているパンク系の若者、総勢14人が、赤の広場のレーニン廟の前に横たわり、人文字で ХУЙ をかたどった。このアクションは同年に成立した、公の場でマートを使って罵ることを禁じる法律に対するプロテストだったという。エーチのメンバーは裁判にかけられたが、多くの知識人たちが彼らを支持し、3ヶ月の審議の後に犯罪の不在で不起訴になった。

 2008年にアートグループ「ヴォイナ(戦争)Война」がモスクワの生物学博物館で行った反メドヴェージェフの集団セックスアクションも、2012年に女性アートパンクグループ「プッシー・ライオット Pussy Riot」が教会内でプーチン大統領冒涜の歌を演奏したアクション★3も、そして昨年赤の広場でパンク系アーティスト、ピョートル・パヴレンスキー(Пётр Павленский, 1984-)が行った陰嚢を広場の敷石に釘で打ち付けるパフォーマンスも、すべてこうした文脈の上にある。すなわちマートを現実空間に立体化させるという、文学的で、いささか素朴なアートの方法論は、ロシア文化の中ではひとつの強いコンテクストを形成しているのだ。これらのアクションを世界のアートの文脈に照らして、単に「古い」と見なすのは的外れだろう。美術批評家のマラート・ゲリマンは、2014年3月に東浩紀がインタビューした際に、ロシア現代美術の特徴として、「文学性」「ロシア的貧しさ」「自己アイロニー」を挙げていた。民衆言語であるマートを巧みに空間に配置し、時間の枠組みを与えて、笑いと風刺を機能させるのは、ロシア文化の伝統を引き継いだ強い方法なのだ。

 

 ところで、「エーチ・テクスト」はマートの禁止に反対するものだったと述べたが、2014年のマート禁止法を待たずとも、マートはすでに軽度のフーリガン行為として法律で規制されていた。法律の効果か、あるいは粗野な言葉があまりにも氾濫し、人々が辟易してしまったのか、マートをかっこいいと見なす90年代的風潮は次第に薄れ、現代のエリートたち(とくに女性)のなかでは、こうした言葉を使うのをよしとしない人も増えている。また、マスメディアでのマートの使用はここ数年でほとんどなくなった。そうしたなかでだめ押しのように発令されるのが今回のマート禁止法である。とはいえ実際に使われている表現の規制に、ソヴィエト的なものへの回帰を見て取り、危惧を示す人も少なくない。

 



 わたしがこの法律に違和感を感じるのは、芸術におけるマートの使用がジャンル名指しで制限されているからだ。これまでも見てきたように、マートは現代アートにおいても文学においても手法としてひとつの文脈を成している。映画や演劇においては、ある特定の時代や人物の性質を端的かつリアルに表現するために、なくてはならない道具である。例えば今回この『ゲンロン通信』にインタビューが掲載されている作家ウラジーミル・ソローキンの作品は、マートの美学抜きには語れない。彼は小説のみならず、映画やオペラのシナリオおよび戯曲のジャンルでも活躍しているが、90年代の作品は文字通りマートだらけ。それでも彼の戯曲は常に上演され続け、舞台上でマートの力を示してきた。地方の老女たちの放埒な裸と飲酒の描写が衝撃的な映画『4』(イリヤ・フルジャノフスキー監督、2004年)は、ロッテルダム映画祭の金賞を受賞している。『4』の老女たちについてはいささかやり過ぎだと批判されることも多い。確かに政治の側からすれば、こんなものを国の実情として世界に紹介されたら、苦々しいだろう。

 最近のソローキンは抑制されたエレガントなマート使いで、言葉そのものを使う代りにマート的な光景を美しい言葉で描いたり、きめのところだけでぴりっとマートを用いたりしている。『親衛隊士の日』(2006年)のプーチン政権批判や、新作『テルリヤ』(2013年)の世界秩序批判はあまりにも辛辣で、マート的な性と笑いと暴力が、文学という芸術ジャンルの整然とした秩序に組み込まれ、とてつもない破壊力を発揮している。すなわちロシアでは、マートを用いた文学や芸術が、政府の規制を引き起こす力をまだ持っているのだ。

 ところでマート禁止法の罰金が意外に安いのには気づかれただろうか。やはり政治家を含めた一般の人々が普段使っているような言葉に、高額の罰金を課すことは難しいということか。いずれにせよ、わたしはこのマート禁止法を、ロシア語の持つ力の証と見たいのである。

★1 URL=http://www.colta.ru/articles/90s/3195
★2 URL=http://osmopolis.ru/eti_text_hui/pages/id_183
★3 この作品はChim↑Pomのキュレーションによる「ひっくりかえる展」(ワタリウム美術館、2012年)で展示された。
 

上田洋子

1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。著書に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』(調査・監修、ゲンロン)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社)、『歌舞伎と革命ロシア』(共編著、森話社)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010年)など。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。
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