【『ゲンロン6』より無料公開】受信と誤配の言論のために|東浩紀

初出:2017年9月15日刊行『ゲンロン6』

『ゲンロン6』をお送りする。今号の特集は「ロシア現代思想I」である。次号とあわせ、2号連続で現代ロシアの思想状況を紹介する。

『ゲンロン』が日本語以外の言論を中心的に扱うのは、これがはじめてである。特集の監修者には、ロシア文学研究者で、東京大学准教授の乗松亨平氏をお迎えした。『ゲンロン』が編集部の外部から監修者を迎えるのも、これがはじめてである。

 

 ぼくはもともとロシアが好きだった。高校時代はドストエフスキーとソルジェニーツィンを愛読し、タルコフスキーの映画を好んで見ていた。大学入学時には第2外国語として迷わずロシア語を選んだ。修士論文ではデリダと並べてバフチンを読んだ。けれども、ロシア文学専攻でも地域研究の専門家でもないぼくにとって、ロシアへの関心が活かせる機会はそのあとほとんど存在せず、ロシア語の知識もすっかり錆びついてしまった。いまでは、ロシア語はまったく読めないし、話せない。弊社では毎年チェルノブイリに行くツアーを実施しているが、行くたびにそのことを悔しく思っている。

 そんなぼくがこの特集を構想したのは、乗松氏が2015年12月に刊行した『ロシアあるいは対立の亡霊』がきっかけである。ぼくはこの本を読み、たいへん興奮した。というのも、ぼくはこれこそがまさに、あのロシア語が塩漬けになった院生時代に読むべきだった書物だと感じたからである。

 同書は、ぼくの知るかぎり、研究者以外の一般読者に向けられた、はじめての「ロシア現代思想」の概観書である。同書についてはべつの媒体で書評を記したことがあるので、興味ある読者はそちらを参照してほしいが★1、乗松氏はこの著作で、1970年代から現在にいたるロシア思想の歩みを、概念史としては「対立」を鍵として、人物史としてはロトマンの記号学とそれへの応答を軸にして、じつにクリアかつコンパクトに整理している。結果として、同書はロシアの思想状況へのよい導入として機能しており、一読すれば、とりあえずいまロシア語圏の中堅で押さえるべきはオレグ・アロンソン(1964年生)やアルテミー・マグーン(1974年生)といった著者であり、購読すべき批評誌は『青いソファ』であることがわかるようになっている。むろんそこには著者の好みが反映されているのだろうが、どんな紹介も完全に中立であることはありえない。どのような領域であれ、研究の成果を世に広めるうえで重要なのは、文脈を共有しない読者に向け、大胆でわかりやすい入り口を提供することである。同時代のロシアの言論については、いままでそのような仕事がなかった。20年前にもしこの本が出版されていれば、ぼくは細々とでもロシアのテクストを読み続け、いまほどロシア語を錆びつかせなかったことだろう。

 ロシア語に対する個人的な思い入れをべつにしても、そのような入り口の提供は、『ゲンロン0』で言う「誤配」の提供にほかならず、まさに本誌として支援したい作業でもある。そこでぼくは、読後ただちに、ロシア演劇の研究者であり、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』をきっかけに弊社に加わった上田洋子を通じて、乗松氏に連絡を取った。乗松氏と上田は同年齢で、旧知の仲である。ぼくはこの特集の編集を機に知ったのだが、この世代のロシア研究者はたがいにみな知り合いで、仲もいい。彼らは、冷戦が終わり、ソ連が崩壊し、左翼的なイデオロギーの後ろ盾がまったくない状況でロシア語を学んだ第一世代にあたる。その寄る辺なさが、逆に彼らに独特の連帯感を与えているのかもしれない。それはちょうど、ぼくがロシア語を錆びつかせた選択の裏返しにあたる。ぼくが離れたロシアに、彼らはちゃんとつきあい続けたのだ。

 いずれにせよ、ぼくは乗松氏に会い、氏を監修に迎えロシア現代思想の特集を組みたいと相談をもちかけた。乗松氏からは快諾をいただき、また氏の呼びかけで、今号に訳者として参加している早稲田大学専任講師の八木君人氏、共同討議に出席している聖学院大学助教の畠山宗明氏、次号で複数の訳出を担当することになる金沢大学准教授の平松潤奈氏ら、注目すべき研究者の方々(彼らもまた乗松氏や上田と同年代だ)に協力を求め集まっていただくことになった。最初の会合は2016年の6月であり、この特集は、そこから1年以上の準備期間を経てようやく出版されたことになる。今号はじつは、いままでの『ゲンロン』でもっとも準備期間の長い号だ。

 本特集の目次の詳細は、集まった研究者の方々の活発な議論を経て決定された。議論はおもにメーリングリストで行われたが、そこで話し合われた項目は多岐にわたる。だれを紹介するか、なにを翻訳するか、どの項目を年表に入れるかといった議論はむろんのこと、日本では知られていないロシアの文化シーンの紹介から、「ワレリー」か「ヴァレリー」なのか、「エトキント」か「エトキンド」なのかといったカナ転記の規則まで(これもまた今号編集を機に知ったのだが、カナ転記法についてはロシア文学者のなかでも合意は取れていないらしい)、じつに興味深い投稿が数多く飛び交った。もし誌面が許すならば、そのいくつかはそのまま本誌に転載したいくらいである。この意味では、本特集の監修はあくまでも乗松氏ひとりだが、編集者はむしろメーリングリストの参加者全員だと言うことができる。この場を借りて、あらためてお礼を言いたい。本特集の編集は、ぼくにとってもたいへん勉強になった。

 

 特集の狙いや現代ロシアの思想状況、そもそもロシアの現代思想をいま日本で読む意義などについては、監修者の乗松氏が詳細な解説を記している。またぼく自身も巻頭の共同討議で自分の狙いを語っている。それゆえここでは屋上屋を架することは避ける。2号連続の大型企画、日本ではほとんど知られていない「もうひとつの現代思想」のすがたをぜひお楽しみいただきたい。

 ただふたつだけ、『ゲンロン』の発行者として気にしてもらいたいことがあるので、野暮ではあるが短く記しておきたい。

 ひとつは、本誌の特集が、徹底してロシアを「外部から」眺めた、『ゲンロン0』の言葉を借りれば「観光客」の視線でつくられているということである。さきほども記したように、本誌の目的は、ロシア思想の文脈を共有しない読者に向けて、たとえ乱暴でもわかりやすい入り口を提供することにある。そしてそのためには、ときとしてロシアの書き手の自己規定をあえて無視している。

 そのひとつの例が、今号で、極右と言われるアレクサンドル・ドゥーギン氏と、左翼のマグーン氏のテクストをあえて並べて訳出していることである。乗松氏の論文にも訳者による導入にも記されているが、この並びに対してはじつは、翻訳の許諾を得る過程でマグーン氏から強い抵抗を示された。彼の文章とドゥーギン氏の文章は、ロシアでは流通も読者もまったく異なり、けっして同時に読まれるものではないという理由からである。

 乗松氏は、マグーン氏からは、おそらくこの並びは百田尚樹と國分功一郎を並べているように見えるのだと解説してくれた。このたとえはじつにわかりやすい。百田尚樹と國分功一郎を同格で並べて論集をつくる、なるほどそれは國分氏も警戒し反発するにちがいない。けれどもぼくは、まさにその理由によって、本誌ではぜひ両者を並べて掲載したいと考えた。そして現代ロシアの二極化する言論状況を知ってもらいたいと考えた。結果的には、乗松氏の尽力でなんとかマグーン氏の理解を得ることができた。両氏の寛大さにあらためて感謝したいが、そのような判断にいたったのは、要はぼくがロシアの思想や文化に対してあくまでも「観光客」にすぎず、そして本誌『ゲンロン』がそのような非当事者の視点を大事にする方針でつくられているからである。ほんとうは現代日本についても、百田尚樹と國分功一郎を並べる論集をだれかがつくったほうがよい。

 そしてもうひとつは、本特集の狙いが、ロシア「現代」思想の紹介を第一のミッションにしながらも、かならずしもそこに限定されていないということである。ぼくはむしろ、ロシア現代思想を入り口として、ロシアとはなにか、ヨーロッパとはなにか、そして近代の外部(そこにはむろん日本も含まれる)が近代を欲望するときになにが起こるか、読者のみなさんをより普遍的な問いへと誘うことを企てている。

 今号ではそのヒントは、巻頭の共同討議の議論に、とりわけそのなかでも貝澤哉氏の発言に宿っている。貝澤氏は乗松氏らよりひとまわりうえで、ルイクリンやエトキントを著書で紹介するなど、本特集のいわば先駆者にあたる。1998年に『批評空間』に発表され、のち『引き裂かれた祝祭』に収録された氏のバフチン論は、バフチンのカーニバル論を精神分析の忌避の裏返しとして再解釈するもので、いまでも読むと鮮烈な魅力を放っている。

 本特集の視野は、そのような氏に参加していただけたことで、よりいっそう広がり、深みを増したように思われる。氏の発言には多くのヒントが宿っているが、ぼくが個人的にもっとも心を惹かれたのは、やはりバフチンについての指摘だ。

 バフチンの理論はいままでは、ロシア的あるいはソ連的なもの、もしくはバフチンという個性的な才能の産物として、孤立して理解され解釈されることが多かった。しかし貝澤氏は、バフチンの美学理論はむしろ、フッサール現象学の乗り越えの試みとして、同時代の哲学的潮流のなかに位置づけるべきだと指摘している。この指摘はたいへん重要に思われる。20世紀の哲学の多くはフッサールの乗り越えから始まった。その代表がハイデガーだが、バフチン(1895年生)はじつはハイデガー(1889年生)とほぼ同世代である。もしもバフチンの理論的な仕事が、表面的な語彙では隠されているだけで、じつは構造的にはハイデガーの存在論と同じパラダイムでつくられているのだとすれば、バフチンの読解には大きな哲学的可能性が開けることになる。少なくともそれは、同じようにフッサールとハイデガーの強い影響下にあるさまざまな思想、たとえばデリダのようなフランスの哲学者たちの仕事との比較に、新たな、そして実質的な可能性を開くことになるだろう。冒頭で記したように、ぼくはかつて20年以上まえ、修士論文でデリダとバフチンの比較を試みたことがある。デリダの「エクリチュール」とバフチンの「声」は、デリダの音声中心主義批判、パロール批判にもかかわらずじつは似た構造的哲学的機能をもっていると主張しようとしたのだが、関連論文もなく、そもそも両者を比較する論拠もあいまいで、まったくまとまった議論に育たなかった。その失敗はぼくがロシア語から離れた原因のひとつだが、いまならばちがうことができるかもしれない。たとえば、バフチンの顔=人格(リツォー)は、現象学批判の文脈においてじつはデリダのエクリチュールにこそ相当するのではないかといった仮説を、少しは学問的に展開できるのかもしれない。ぼくは貝澤氏の話を聞きながら、そのようなことを考えていた。

 とはいえ、この可能性についてこれ以上記すのは、さすがに今号の巻頭言の役割を超えるだろう。ロシア現代思想特集は次号も続く。この続きは、次号の巻頭言で書けるかもしれないし、書けないかもしれない。

 

 さて、このように今号はロシア特集なのだが、ここからは本誌全体の巻頭言として、少しべつの話を書き記しておきたい。ロシア云々以前に、いままで日本の「批評」の価値ばかりを訴えてきた本誌が国外の言論を特集すること、それそのものに対し違和感を覚える読者もいるかもしれないからだ。そのような読者のため、多少くわしくぼくの考えを説明しておく。

 以下の説明は、単純なものと複雑なもの、ふたつの説明にわかれている。後者は、それを意図したわけではないが結果的に、ロシア特集に並べて収録したフランスの哲学者、ベルナール・スティグレール氏との対話に対する長い追記あるいは応答にもなっている。

 まずは単純な説明から。日本では長いあいだ、海外への「情報発信」が重視されてきた。日本は受信ばかりで発信しない、もっと発信すべきだと言われてきた。

 その指摘はたしかにある時期まで有効だった。昭和が終わるまで、日本は、追いつき追い越せを国是とし、官民ともに必死で外国文化を輸入し続ける国だったからである。つい30年ほどまえまで、学者といえばフランス語やドイツ語ができるものだったし、文学も映画も海外の流行を追いかけていた。

 ところがその状況は、いまや大きく変わっている。マンガやアニメはグローバルな文化産業に成長している。アジアの主要都市の書店に行けば、日本作家の翻訳がずらりと並んでいる。日本のクリエイターやミュージシャンの名前は、日常的に海外のメディアを賑わしている。統計を見ても、海外の日本語学習者数は、1988年から2012年の四半世紀で5倍以上に伸びている★2。村上春樹はノーベル文学賞の最有力候補で、村上隆はもっとも成功した美術家のひとりで、新海誠の新作は中国市場を席巻している。いまでは日本は、ことさらに意識しなくとも、自然に情報を発信できる国になったように見える。日本文化は、ついに世界文化の一部になった。

 ぼくたちはその現実を素直に祝福してもいい。けれども問題は、しばしば指摘されるように、その達成と引き替えに、いま日本人の海外に対する関心が急速に衰えていることである。海外留学生の数は、2004年をピークに大きく減っている★3。テレビでは日本自画自賛番組ばかりが流れている。ヒットチャートにはアイドルとアニソンばかりが並び、翻訳小説はすっかり読まれなくなっている。日本はいつのまにか、受信ばかりで発信しないどころか、むしろ発信ばかりで受信しない国になってしまったようなのだ。

 じつは同じ問題が思想や批評でも生じている。いまや日本の批評もそれなりに翻訳されるようになっている。ぼくの著書は2冊英語になっているし、中国語や韓国語になら、最近は若い書き手も翻訳され始めている。たとえば、本誌に関連する書き手であれば福嶋亮大や濱野智史もすでに訳されている。日本で、日本のことだけを、日本の読者だけを念頭において書いても、いつのまにか国境を越えて海外の読者に読まれてしまう。それが21世紀のグローバル社会の条件であり、その点では批評もまた、アニメやラノベと同じように無意識に「発信」を実現している。しかし、その発信の成果はほとんど日本の読者や書き手に還元されていない。ぼく自身、アメリカや中国や韓国で自分の著書がどのように読まれているのか、ほとんど知らない。ここでも発信ばかりで受信が足りていない。

 かつて日本の哲学者や批評家は、つねに同世代の外国人の動向を気にしていた。英語でもフランス語でもドイツ語でも、興味深いテクストはすぐ邦訳され、その「受信能力」が日本の学問の強みにもなっていた。けれどもいまぼくたちは、同世代のアメリカ人が、ヨーロッパ人が、あるいはアジア人が、なにを考え、なにについて書いているのか、驚くほどわからなくなっている。ぼくは最近、この状況は深刻な問題を孕んでいると感じるようになった。

 というわけで、これからは本誌でも、日本国外の文化や言論状況に積極的に目を向けていきたい。今号と次号のロシア現代思想特集は、その最初の試みということになる。

 

 以上が、第一の単純で短い説明である。多くの読者はこれで納得するだろう。

 けれどもぼくは、本誌には、少数ながら、この説明では納得しない読者が存在するのを知っている。なぜならば、ぼくは、オタク文化の分析で知られる『動物化するポストモダン』の著者だからである。そしてまた、ぼくがかつて支持した「ゼロ年代の批評」は、国内の社会現象やネットカルチャーにしか関心を向けず、そしてその態度こそが批評的だと言い募った言説だったからである。日本のことだけを考えること、海外思想の表面的な輸入など排除し、むしろ日本の政治的で文化的な文脈をできるだけ繊細に捉えること、それこそがほんとうの批評なのだと言われた時期が、この10年のあいだにはあった。ぼくはその主張にかぎりなく近い場所にいた。したがって、その時期にぼくを知り、いまにいたる読者は、本誌のこの新たな展開を裏切りのように感じるかもしれない。

 ぼくはその誤解を解く必要がある。そこで複雑で長い「批評的」な説明が必要になる。もうしばらく巻頭言におつきあいいただきたい。

 さきほどのぼくの認識は、日本の文化や言論は遅れている、停滞している、だから海外に目を向けなければいけないという話とは似ているようで異なっている。

 ぼくは日本の文化が「遅れて」いるとはまったく考えていない。そもそも、2010年代のこのグローバルな、あるいはポストモダンな文化状況においては、ある国が「進んで」いてほかの国が「遅れて」いるという優劣の価値判断そのものが成立しない。コンテンツも言論も、世界中で多様な文脈で生み出され、国境を越えて自由に流通し、混淆し、フラットに消費される、それがぼくたちの時代の条件である。そこでは流通の主体は、生産者にではなく消費者にある。

 流通の主体が消費者にあること。それが意味するのは、ある特定の文脈やジャンルのコンテンツだけを選び消費し続けることも、この時代においてはひとつの選択と見なすべきだということである。ポストモダンはリミックスやサンプリングばかりを生み出すわけではない。同じようにオタクやギークも生み出す。そしてときに、そのオタクやギークのほうがはるかにグローバルであることがありうる。ひきこもりのオタクが、しかしひきこもりであるがゆえに世界中のひきこもりと連帯し「開かれる」、そういう逆説が生じうるのが、このグローバルでポストモダンな世界である。実際にクールジャパンと呼ばれているのはそういう現象だ。海外の作品に触れているから開かれていて、日本の作品にしか触れないのは内向きで閉じているといった評価は、現代では端的にナンセンスである。

 したがって、ぼくはいまでも変わらずに、日本の大衆文化にしか関心がなく、それで満足している消費者は、べつに無理して海外のコンテンツになど手を出すことはないと考えている。これは原理からの帰結でもあるが、日本についてはとりわけそう言える。日本の伝統文化と大衆文化の蓄積は異例なほど厚い。日本の小説だけを読み、日本のアニメだけを見て、日本のネットだけを巡回していたとしても、十分に知的な刺激は得られる。同じことは批評についても言える。戦後日本の批評の歴史は、じつに高度で複雑な文脈を形成しており、けっしてヨーロッパやアメリカのアカデミズムに見劣りするものではない。実際、ぼくはその価値を確信しているからこそ、『ゲンロン』の最初の一年の特集を戦後批評史の回顧にあてたのである。

 ではなにが問題なのか。もしそのように感じているのだとすれば、なぜぼくは、見知らぬ国の見知らぬ人々の言葉をわざわざ本誌に導入するべきだと考えたのか。

 その必要性を説明するためには、この世界に生産者と消費者のふたつの立場があることを理解してもらう必要がある。あるいは『ゲンロン0』の言葉で表現するならば、「親」と「子」ではミッションが異なることを理解してもらう必要がある。

 

 ポストモダンでグローバルな現代においては、消費者がいくら特定の小さな文脈に閉じこもっても、それを非難することはできない。それは時代の倫理である。それゆえぼくは、オタク的世界を支持する。支持せざるをえない。

 けれども、その支持は、「生産性」についての判断とはまた異なっている。オタクは、というよりもすべての消費者は、反復を求める。それはほとんどオタク=消費者の定義である(スティグレール氏が本誌収録の講演で言おうとしているのは、おそらくはそういうことである)。オタクは、同じものが生産され、提供され続けることを求める。その特質は市場の規模的拡大には適しており、それゆえある時期には経済的に有利に働く。クールジャパンにも戦後日本の批評にも、質はまったく異なるけれども、おそらくそのような拡大の時期があった。けれどもその拡大には限界がある。そしてその限界が来たとき、オタク的反復は解を与えない。いくらオタク的世界を肯定したとしても、この問題はどうしても残る。

 ぼくはほとんどの商品に対して消費者である。けれども、批評についてだけは、消費者ではなく生産者の立場に立たされている。

 その立場が、いまぼくに限界を感じさせている。ぼくはこの数年、日本の批評史を背負い、日本の書き手の表現を組みあわせ、日本の読者だけを対象にしても、これ以上はなにも新しい文章を書けないし、なにも刺激的な企画はひねりだせないと感じ続けてきた。『ゲンロン4』の読者は戸惑うかもしれないが、あの「現代日本の批評」の企画もまた、じつはそのような葛藤のなかで行われていたのである。そして他方で、同世代の書き手の迷走を目にするなかで、これはもしかしたらぼくだけの悩みではなく、ぼくの世代、またはより若い世代の「批評的」な書き手一般の、共通の戸惑いなのではないかとも考えるようになった。ひとことで言えば、日本のある世代以下の書き手は、いま一種の自家中毒に陥っているのではないかと考えるようになった。だからぼくは『ゲンロン』をその中毒から解放したいと考えた。国外の文脈の再導入は、そのひとつの手段である。

 これは、『ゲンロン』がこれからは、消費者=子のためではなく、生産者=親のための批評誌を目指すことを意味している。

 子は同じものしか求めない。だから見知らぬ国の見知らぬ言葉など必要としない。吉本隆明の、江藤淳の、柄谷行人の反復しか必要としない。繰り返すが、ぼくは消費者=子はそのままでいいと思う。ポストモダンの倫理はそれを許容する。けれども生産者=親はそれだけではままならない。それだけではなにもつくれない。だからときに、見知らぬ国の見知らぬ言葉の乱暴な導入を必要とする。もしみなさんのなかに、いつか自分で批評を書きたい、なにかしらコンテンツをつくりたいというかたがいるのであれば、そのひとはかならずのち、この乱暴さの重要性に気づくと確信している。

 子は受信を必要としない。親は受信(受精?)を必要とする。その差異はまたつぎのようにも表現することができる。

 ぼくたちが生きるこのグローバルでポストモダンな社会は、インターネットの技術で支えられている。そしてネットはそもそもが、受信ではなく発信ばかりを強化する技術である。ネットは20世紀のあいだは、まだ受信を強化する技術だと信じられていた。ネットがあれば、世界中のひとが世界中の書籍を読むし、世界中の音楽を聴くと信じられていた。けれども検索のカスタマイズがその夢を砕き、SNSの出現がとどめを刺した。

 ネットでは、人々は無限の情報を集めることができる。けれどもなにも受信しない。人々はかつて自分が読んだものと同じものしか読まないし、かつて自分が聴いたものと似たものしか聴かない。そして呟きを一方的に垂れ流し、世界中が注目することを夢見る。

 だから、発信ばかりで受信しない、それはかならずしも日本固有の特徴ではなく、世界中のネットユーザーの、否、これからの世界市民の一般的傾向と言うべきなのだろう。ポストモダンではコンテンツと言論は混淆する。すべては国境を越えてフラットに消費される。しかし、だとすれば、そこでは、その混淆をうまく利用したものこそが、すなわち、できるだけ多くの情報を収集し、多様な文脈を新しいかたちで結びつけたものだけが、ぼくたちを閉じこめる一方的発信の孤独を逃れることができるのではないだろうか。すべての消費者がオタクになり、フィルターバブルに囲まれ、そして同じものの反復に閉じこめられるのがポストモダンのひとつの運命なのだとしたら、それだけますます、そのバブルのなかにノイズを導き入れるものこそが、『ゲンロン0』の言葉を使えば「誤配」を導き入れるものこそが重要になるのではないだろうか。このグローバルでポストモダンでフラットで、成熟も抑圧もなくすべてが消費者=子の論理に覆われるように見える21世紀においては、新しい生産者=親はそのような受信と誤配の能力でこそ定義されるのではないだろうか。ぼくがいま考えているのは、ひとことで言えばそのようなことである。

 現代は消費者と生産者の境界がない時代だと言われる。消費者はだれでも生産者になることのできる時代だと言われる。実際に現代の文化は、消費者がつくりあげたテクスト、消費者がつくりあげた音楽、消費者がつくりあげた動画に満ちている。

 けれどもそれはあまりに皮相的な観察である。ほとんどの消費者=生産者は、同じものを反復することしかできない。だから消費者=生産者が生産するものに囲まれているかぎり、ぼくたちは無限の反復から逃れることができない。ほんとうはその反復から消費者=子を救い出すものこそが、生産者=親と呼ばれるべきなのだ。20世紀の言論人の役割が発信と啓蒙だったとしたら、21世紀の言論人の役割は受信と誤配になるだろう。

 だからぼくは、『ゲンロン』の目次を受信に振り向けることに決めた。そして誤配の扉を開くことを決めた。批評史の反復には飽きた。戦後とか批評とか日本とか、しばらく考えるのを休みたい。

 

★1 「ロシア現代思想というブルーオーシャン」、『表象11』、表象文化論学会、2017年。
★2 1988年に約73万人。2012年に約399万人。国際交流基金の調査による。
URL=https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/result/dl/survey_2015/all.pdf
★3 2004年に8万人強。2014年に5万人強。OECDおよびユネスコの統計による。じつは日本ではOECDの統計には含まれない短期留学が急増している。日本学生支援機構は1ヶ月未満の短期留学を含めた統計を出しており、そちらでは留学生数は2009年以降確実に増えており、2014年の留学者数も8万人を超える。ただし、うち5万人近くは留学期間が1ヶ月に満たない。
URL=http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/ryugaku/__icsFiles/afieldfile/2017/05/24/1345878_1.pdf[編集部注 現在はリンク切れ]

 

革命100周年に問う、共産主義崩壊後のもうひとつの現代思想。

ロシア現代思想Ⅰ
『ゲンロン6』
東浩紀、貝澤哉、乗松亨平、畠山宗明、松下隆志、アレクサンドル・ドゥーギン、アルテミー・マグーン、八木君人、今井新、石田英敬、ベルナール・スティグレール、プラープダー・ユン、黒瀬陽平、速水健朗、井出明、高木刑、大森望、福冨渉、辻田真佐憲、安天、海猫沢めろん、東山翔、マイケル・チャン、ジョン・パーソン、梅沢和木

¥2,400+税|A5|366頁|2017/09/05刊行

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。

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