満洲で愚かさを記す|小川哲

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初出:2020年9月23日刊行『ゲンロン11』
 先日、第168回直木三十五賞に小川哲さんの『地図と拳』が選出されました。本書は満洲を舞台に、日露戦争前夜から第二次世界大戦までの半世紀を、史実とフィクションを織り交ぜて描いた長編小説です。本作の受賞を記念し、『ゲンロン11』に掲載された小川さんのエッセイを無料公開いたします。
 本稿執筆時、小川さんは『小説すばる』(集英社)にて「地図と拳」を連載しており、2018年には取材のために満洲を訪れていました。その訪問の翌年、『ゲンロン10』に掲載された東浩紀の満州にまつわる論考「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」を読んだ小川さんは、東が論じた「悪」の問題を通じて、小説家として自身が書くべき物語のあり方に思い至ります。『地図と拳』とあわせて、どうぞご覧ください。(ゲンロン編集部)


 2017年の11月、僕は、『ゲームの王国』というカンボジアを舞台にした長編を書き終えて、短編の依頼などを受けながら次にどんな長編を書こうか考えていた。僕が決めあぐねていると、担当の編集者がいくつかの題材を提案してきた。その中でも特に惹かれたのは、「満洲の建築家の話」だった。僕は以前より、小説の執筆は建築という行為と似ているところがあるのではないかと考えていた。文章という柱を組み立て、装飾し、読者をある空間に連れていくのだ。それに加えて、満洲という場所も、ある種の建築に思えた。かつて、日本がきわめて人工的につくりあげた国家だからだ。その時点では満洲のことも建築のこともほとんど何も知らなかったが、小説そのもの、満洲という舞台、そして建築家の主人公が、「建築」というキーワードによって貫かれていれば、きっと面白いものが書ける、そう考えた。

 ハヤカワSFコンテストの贈賞式で東浩紀さんと話をしたのは、ちょうど僕が「満洲で行こうかな」と決めかけていたころだった。東さんは『ゲームの王国』を読んでくれていて、その感想を直接伝えてくれた。会話の流れで、東さんから「次は何書くの?」と聞かれ、僕は「満洲です」と答えた(その時点で、僕の次回作が完全に決定した)。僕は東さんから「どうして?」と聞かれることを想定して少し焦っていた。まだ思いつきの段階を出ていなかったし、資料を調べたわけでもなく、今「満洲」について小説を書く必然性がはっきりとはわかっていなかった。だが意外なことに、東さんは「どうして?」とは聞かず、「いいね」とだけ言った。「どうして?」と聞かれなかったのは、東さんにとって「満洲について小説を書くこと」の価値が自明だからだろう、と僕は解釈し、自分の決断は間違っていないのだと、少しだけ背中を押された気分になった。

 そんなことを覚えているので、東さんの論考「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」(『ゲンロン10』所収、以下「悪の愚かさについて」)を読むときは少し緊張した。僕はそのときすでに、集英社の『小説すばる』で、「地図と拳」という満洲を舞台にした長編小説を連載していた。東さんの考える満洲が、僕の考える満洲と違っていたら、作品にも影響が出るかもしれない。僕にとって東さんとは、そういう存在だ。

 結論から言うと、杞憂だった。というよりも、東さんの考えていることが、自分の作品と深い部分で繋がっている気がして、再度背中を押してもらったようだった。


「悪の愚かさについて」は、正確には「満洲」の論考ではない。かつて満洲に拠点を置いていた「七三一部隊」という人体実験を行っていた研究機関の跡地につくられた、侵華日軍七三一部隊罪証陳列館についての話であり、僕たちが大量死をどのように受けいれ、その記憶をどのように継承していくべきかの話である。

 論考のなかで、東さんは七三一部隊の罪証陳列館を、「数値化の暴力」によって固有性を奪われ、人体実験の材料として殺された犠牲者たちに対し、その「意味」を回復するための施設であると分析している。東さんによれば、「悪を記憶する」ためには、2つの段階がある。1つ目は「実証」だ。どんなことが、誰に向かって行われていたのかを明らかにすることで、犠牲者たちがかつて人間として生きていたという実在性を取り戻すことだ。2つ目は「物語化」だ。犠牲者たちが殺された動機を描きだすことで、彼らが無意味に死んでいったわけではないことを示す。犠牲者たちは、ある構想のもとに殺されたのでなければならない。

 先ほども述べたが、「悪の愚かさについて」は直接的には「満洲」の論考ではない(もちろん、「悪の愚かさについて」はまだ完結していないので、今後どのような展開になるかはわからない)。だが、僕はこの論考が確実に「満洲」の論考であると感じた。この東さんの観点は、2つの意味において満洲国そのものの歴史と重なるのだ。


 1つ目は、現在の満洲──中国東北部の都市そのものの話だ。

 僕が満洲へ取材に行ったのは、2018年の6月、ちょうどロシアで開催されたサッカーW杯で日本代表が躍進を続けていたころだった。

「地図と拳」が満洲を舞台にした建築に関する物語であることから、僕は各都市を巡り、かつて満洲を支配していた日本人やロシア人が設計した、19世紀末から20世紀初頭の政府関連施設などの建物を見てまわった(もちろん、七三一部隊の罪証陳列館にも行っている)。アール・ヌーヴォーやアール・デコなど、当時の西洋における最新の流行に沿った建築もあれば、バロックやルネサンスなどの古典様式でつくられた建築もあった。しばしば、それらの意匠に城門や城郭などの要素を取り入れた建築が散見され、かつて日本人が設計したことが一目でわかった。個人的に興味深かったのは、西洋的な建築様式の文脈がなかった当時の中国人が建てた、西洋建築と中国の伝統的な様式を組み合わせた「中華バロック」と呼ばれる建築群だ。バロック建築のモチーフであるアカンサスの葉が白菜になり、レリーフが風水的に縁起のいいコウモリに変わっていたりした。

 もっとも驚いたのは、それらの多くが戦争から70年あまりが経った今でも綺麗に保存されているだけでなく、今もなお中国人たちが利用していたという点にある[★1]。たとえば満洲国の行政機関だった満洲国国務院は吉林大学の校舎として、満洲国第1庁舎は中国共産党の庁舎として利用されていた。日本式城郭建築である旧関東軍司令部も、現在は政府施設として利用されているために中には入れなかった。僕はその事実にひどく驚いた。ロシア人や日本人のつくった建造物は、中国人にとって侵略され、搾取され、虐殺された歴史の象徴である。それにもかかわらず、中国人は憎むべき「かつての敵」の建物を破壊しないだけでなく、今も利用している。

長春の吉林大学白求恩基礎医学部校舎(旧満洲国国務院)。手前の銅像は日中戦争中に中国で医療活動に尽力したカナダ人医師ベチューン
 
 

 いったいなぜだろうか。

 移動のタクシーの中で、中国人の通訳に聞いてみた。彼は質問には直接答えず、「東北地方は観光客が少ないんです」と言った。「外国人はあまり来ません。以前は日本人が団体でよく来ましたが、最近では減りました。今では、日本人にこの地をガイドする仕事はほとんどしていません。日本に旅行する中国人のガイドの仕事がほとんどです」。

 僕が「なるほど」とうなずくと、彼は「東北地方には観光資源が少ないからです」と続けた。「故宮も兵馬俑も万里の長城も、東北にはありません」。

 僕は通訳の人が何を言おうとしたのか1人で考えてみた。東北地方に万里の長城がないことと、かつて侵略者がつくった建物を今も利用していることに、どのような繋がりがあるのだろうか、と。

 そして、1つの結論を出した。侵略者のつくった建物は、都市の歴史そのものなのだ。

 ハルビンや大連は、今では数百万から一千万人の人口を抱える中国でも有数の大都市だが、120年あまり前までは都市として地図上に存在していなかった。中国東北部にはそういった都市が多い。古くから清の都があった瀋陽などを除けば、東北部の大都市は19世紀末期から20世紀初頭に、きわめて軍事的な理由から人工的に形成された。それまでは、いくつかの小さな集落があるだけの、荒野や森林地帯だった。

 19世紀末、日本は清と戦争をした。戦勝国となった日本は下関条約で遼東半島を手に入れたが、三国干渉によって返還することになった。この干渉の見返りとして、ロシアは中国から遼東半島の南端を租借し、東清鉄道[★2]の敷設権を得た。その東清鉄道の鉄道駅として、何もなかったところに突如つくられたのが、たとえばハルビンであり、大連なのだ。日露戦争後は、それらの権益[★3]を戦勝国の日本が引き継いだ。そのため、中国東北部に存在する古い建造物の多くが、侵略者であるロシア人や日本人によって建てられた、というねじれた状況が生みだされた。

 満洲における歴史的建造物は、都市の歴史を示す文化遺産であると同時に、過去の侵略の証しを残す負の遺産としても保存されているのだ。中国人が今もなおそれらの建物を利用するのは、都市の歴史が血塗られたものであることを忘れないためではないか。言い換えるならば、満洲の都市そのものを、ある種の罪証陳列館として見ることができるのではないか[★4]


 2つ目は、日本がつくりだした「満洲国」という傀儡国家の話だ。

 先ほど満洲の都市がつくりだされた経緯について述べたが、その話に戻る。満洲の都市は、極東に支配圏を広げようとしたロシアによって、軍事的理由から計画されたものだった。そのため、ロシアと日本は利害が対立し、1904年に日露戦争が勃発した。ご存じの通り、日本は多大な犠牲を払いながら、この戦争になんとか勝利し、ロシアからその権益を引き継いだ。

 このとき、大きな問題が発生した。それは、日本が権益を引き継ぐことしかできなかった点にある。

 日本は当時の政府歳入総額の5年分にもあたる約20億円という金額を借り入れ、約11万8千人[★5]の犠牲者を出して日露戦争に勝利したが、ロシアから賠償金を取ることはできなかった。得られたのは鉄道の権利と、満洲という荒野の一部だった。自分たちが犠牲にしたものに対して、あまりにも怪しげな戦果だ。当時の日本国民は怒り狂った。日比谷焼打事件をはじめ、各地で暴動が起こった。

 彼らが怒ったのは、日露戦争の多大な犠牲が「無意味だった」と言われたような気がしたからだ。その怒りを鎮めるためには、日露戦争の犠牲の意味を回復しなければならない。そのため、日本は日露戦争で唯一得ることのできた満洲に、資金も人材も投資していく。日露戦争で戦死していった「精霊」たちは決して無意味に死んでいったわけではない。なぜなら、彼らの犠牲のおかげで、これほど豊かで発展した満洲という土地を得ることができたのだから。そう説明するために、日本は開拓民を送り、荒野を切り開き、都市をつくった。それが「満洲国」だ。

 その観点から、「どうして日本は戦争をしたのか」を考えることができる。リットン調査団の報告書を経て、国際連盟は満洲国を国家として承認しないと決定した。当時の日本は、その決定に従うことができなかった。なぜなら、国際連盟の決定は、日露戦争の犠牲者の「意味」を回復するために、日本人たちが必死につくりあげた物語を否定するものだったからだ。こうして日本は国際連盟を脱退し、戦争への道へ進んでいく。象徴的なのは、国際連盟からの脱退を決めた松岡洋右の決定に、当時の日本の世論が拍手喝采を送ったことだ。日本人は、「世界の道」を捨てて、自分たちの物語を維持することを選んだのだった。

 先ほども述べたが、取材で見てまわった満洲時代の建造物は、素人の僕でもわかるくらい立派だった。優秀な建築家を送りこみ、当時の流行を取り入れながら、細部まで意匠が凝らされた美しい建造物を都市の中心にいくつも建てた。それはある意味では、日露戦争の「精霊」のためでもあった。そしてそれらの建物は、今もなお保存されており、皮肉なことに、かつての日本の侵略の歴史を証明し続けている。

歴史的な建造物にかならず掲示されているパネル。歴史的経緯や文化財としての位置づけが記されている
 


「満洲」には、かつての日本の夢や理想と、その夢や理想を実現するために犯した、いくつもの許されざる「悪」が同居している。改めて考えたいのは、小説家として「満洲」を描くときに、僕に何ができるか、ということだ。

「悪の愚かさについて」において、東さんは「悪を記憶する」ための「実証」、そして「意味の回復」という2つの段階について慎重に論じてから、「でもほんとうにそれでいいのだろうか?」という率直な戸惑いを明らかにしている。なぜなら、この2つの段階には、致命的な非対称性が存在するからだ。それは、「悪」が本来、「愚かさ」によって生みだされるという点に起因する。被害者は、「悪」の物語をつくりだす。「悪」の壮大な構想を、悪辣な陰謀を描く。そのため、被害者が加害者を告発する際に、「悪」が「愚か」であるという側面が消えてしまう。ほんとうは、加害者は「悪」の本来の「愚かさ」を記憶しなければならないのではないか。

 この非対称性を回避する可能性として、東さんは「団地」[★6]という概念を持ちだしている。そのスリリングで大胆な「第三段階」についてはここでは詳しく話さない。僕にとって重要なことは、東さんは加害を継承していくために何かが必要だと考えているということであり、僕も「地図と拳」を執筆する上で同じことを考えているということだ。

 では、加害を継承するという困難な目標を達成するために、小説家に何ができるだろうか。僕は、その難しさには2つの段階があると思っている。

 1つは、加害の物語の複雑さ、難解さだ。冒頭で少し触れたが、僕は「地図と拳」を執筆する前に、『ゲームの王国』というカンボジアを舞台にした小説を書いた。その取材をしていたとき、ひどく驚いたことがあった。プノンペンのカンボジア人学生に、ポル・ポト政権について質問したときのことだ。

 会話の中で、彼は「ポル・ポトは、実はベトナム人なんです」と言った。

 僕は「なぜそう思うのですか?」と聞いた。それに対して、彼は「カンボジア人があんなに悪いことをするはずがないからです」と答えた。

 僕は「そうですか」とうなずくことしかできなかった。彼が冗談を言っているようには感じられなかったからだ。

 取材を終えてから、彼がどうしてあのような発言をしたのか、僕なりに考えてみた。日本人である僕がカンボジアの小説を書く上で絶対に必要な過程だと思った。

 僕の考えはこうだ。カンボジア人は大量虐殺の被害者である。それと同時に、その加害者であるポル・ポトはカンボジア人で、ポル・ポト政権を生みだした主体もカンボジア人だ。善と悪を切りわけるやり方では、加害者としてのポル・ポト政権と、被害者としてのカンボジア人の物語をうまく結びつけることができない。被害者は加害者でもあり、加害者は被害者でもある。虐殺の時代を知らない若者が、その物語を素直に受け入れるのは難しいだろう。だからこそ、この不安定さを「ポル・ポトが外国人である」というすり替えによって解消したのだ。複雑な文脈のある虐殺が、「被害者としてのカンボジア人」と、「加害者としてのポル・ポト」というシンプルな対立軸に置き換わり、より理解しやすい物語へと変わる。
 わかりやすい物語になることで、ようやく彼は大量虐殺の事実を受け入れることができた。彼のような人間を前にして小説家にできることは、複雑な文脈を読者に理解してもらえる物語をつくることだけだ。不安定さそのものを表現すること。物語的なわかりやすさと事実を切りわけること。成功したかどうかはわからないが、僕は執筆中、つねにそんなことを考えていた。

 次の段階は、物語を継承することの難しさだ。僕たち日本人が「敗戦」を──つまり過去の侵略戦争を継承していく難しさは、たとえばカンボジア人がポル・ポト時代と向き合う難しさとは決定的に異なっている。侵略戦争には物語的な難しさはない。経緯はどうあれ、かつての日本は他国を侵略した加害者で、他国の人々の命や尊厳を奪った。その事実に異論を挟む余地も、理解が困難な箇所もない。

 だが、僕たちは明白に加害者であるゆえに、また戦争に敗北した立場であるゆえに、その加害を継承する必要がある。このとき、自分を加害者の主体の一部として、つまり「かつての日本」を「私」に置き替えようとすると、途端に困難になる。「私は他国を侵略した加害者で、他国の人々の命や尊厳を奪った」と言いきれる日本人が、どれだけ存在するだろうか。少なくとも僕は、簡単には言いきれない。

「悪」の物語が単純明快で、かつ「悪の愚かさ」が明らかであるがゆえに、僕たちはその「悪」を引き受けることができない。そこで、僕たちは二つの極端な行動に出てしまうことがある。加害者が他者であると考えて、他人事として「悪」を糾弾する。または、被害者の物語を受け入れず、加害者の責任を放棄する。

 日本の小説家にできることは1つしかない。被害者ではなく、加害者がつくりだす物語によって「悪」の意味を回復することだけだ。それがとても乱暴であることは自覚している。だがそれでも、自覚をしつつ、加害者の側から物語をつくるしかない。もちろんそれは、「悪」を美化することでも、肯定することでもない。

 東さんは「悪」の「愚かさ」を強調する。僕はそれに同意する。日本が戦争に至った経緯も、様々な「愚かさ」が積み重なった結果だ。しかしながら、というか、だからこそ、僕たちは「悪」を、他人事として笑い飛ばすことはできない。「悪」は玉座にあるものではない。戦争に至る「愚かさ」は、今もなお僕たちの心の中に存在しているのだ。

 僕は、自分が当時の日本にいたとして、戦争に加担していたかもしれないという可能性を受け入れるために、戦争の小説を書いている。戦争から2世代離れた僕が加害を継承するためには、まずその前提が必要だと思う。日露戦争で失われた命と、その戦果として得た満洲という荒野を描く。そこで日本人は都市を計画し、いくつもの建物を残した。日本人は満洲を諦めることができなかった。そのために、数々の愚行を犯した。それらを、自分のこととして描くしか、僕にできることはない。


 アメリカ人作家ジェフリー・ディーヴァーは『クリスマス・プレゼント』という短編集の「まえがき」でこう語っている。

 長編小説の執筆では、ぼくは厳格な作法を固守している。悪を善に見せかけたり(その逆も)、読者の目の前に災難の予感をぶらぶらさせてみたりするのは大好きだが、結末では、善は善に、悪は悪に戻り、程度の差こそあれかならず善が勝利する。作者は読者に責任を負っている。時間とお金と感情を長編小説に注ぎこんだあげく、苦く皮肉に満ちたエンディングにがっかりさせられるなどという経験は、ぼくの読者には絶対にさせたくない。[★7]


 僕はディーヴァーの考えが間違っているとは思わない。むしろ、読者の「読み」を限定してしまう考えを、力強く断言できることに羨望すら抱く。ディーヴァーは読者が作家に何を求めているのかをよく知っている。多くの読者は小説に対して、無垢な「善」が、ずる賢い「悪」に勝利するエンディングを求めている。だからこそ、加害の物語は「善」が「善」として、「悪」が「悪」として描かれるのだ。

 そう、僕たちにはディーヴァーがいる。そのおかげで、読者が自分の求める物語を読みたいときに、ディーヴァーを読むという選択肢が与えられている。僕はその選択を(今のところ)ディーヴァーに任せ、善が悪に、悪が善になったり、善のずる賢さや悪の無垢さを描いたりする小説を書きたいと思っている。時間とお金と感情を注ぎこんだあげく、苦く皮肉なエンディングに読者ががっかりするような物語も存在していいと思うし、そうすることでしか継承できないものが存在するのではないかと感じている。

撮影=小川哲

 


★1 この話から、「悪の愚かさについて」における、七三一部隊の施設と、その周囲に広がる郊外住宅街の対比を連想するかもしれない。それにつけ加えるならば、かつて満洲で、日本人たちが「大量死」の命令を下した同じ建物で、今もなお中国人たちによって「大量生」についての施策が決められているのだ。
★2 地図上でモスクワとウラジオストクを直線で結んだとき、途中で中国の東北部を横断する。19世紀末のロシアは極東への物資や兵力の輸送をより迅速に行うため、シベリア鉄道の満洲通過ルート敷設を狙っていた。それが東清鉄道だ。
★3 正確には、大連、旅順の租借権と、東清鉄道の一部である南満洲鉄道。
★4 そのような視点で建造物を見ると、中国の「実証」へのこだわりが目につく。東北部の都市の中心部にあるロシア人や日本人が建てた歴史的建造物には、ファサードに金属のプレートが貼りつけてある。そこには誰がいつ、どんな目的で、どんな建築技法を使って建てたのかが中国語と英語で併記されている。
★5 桑田悦、前原透共編著『日本の戦争──図解とデータ』、原書房、1982年、3頁。
★6 僕は大学生になって下宿を始めるまで、千葉県のある団地で生まれ育っており、この「団地」についての論考に色々と感じたことがあるのだが、それについてはいずれまたの機会に話したい。
★7 ジェフリー・ディーヴァー『クリスマス・プレゼント』、池田真紀子ほか訳、文春文庫、2005年、10頁。
 

『地図と拳』
小川哲著(発行:集英社)

小川哲

1986年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。2015年に第3回ハヤカワSFコンテスト〈大賞〉を『ユートロニカのこちら側』で受賞し、デビューを果たす。その後のおもな著作に、『ゲームの王国』(ハヤカワ文庫JA、第38回日本SF大賞、第31回山本周五郎賞受賞)、『嘘と正典』(ハヤカワ文庫JA)、『地図と拳』(集英社、第168回直木賞、第13回山田風太郎賞受賞)、『君のクイズ』(朝日新聞出版)など。
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