観光客の民主主義は可能か(抜粋)|宇野重規+東浩紀

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初出:2021年9月15日刊行『ゲンロン12』
 2023年5月25日(木)、ゲンロンカフェにてトークイベント「トクヴィルから問う民主主義とアメリカ」が開催されます。政治思想史研究者の宇野重規さん、朝日新聞記者の青山直篤さんに東浩紀を加えた3人が、19世紀フランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルの思想から、アメリカ社会と民主主義に迫る座談会です。
 また、本イベントに先立ち、宇野さんは上田洋子との対談イベント「保守とリベラルは本当に対立しないのか」にも登壇されています。アーカイブ動画はシラスで公開中ですので、ぜひご覧ください。
 宇野さんの連続登壇を記念して、『ゲンロン12』に掲載された、宇野さんと東の対談記事の一部を公開いたします。保守とリベラルの対立、東の『一般意志2.0』の議論から、民主主義について考えます。
 
宇野重規×青山直篤×東浩紀「トクヴィルから問う民主主義とアメリカ」(URL= https://genron-cafe.jp/event/20230525/
 
宇野重規×上田洋子「保守とリベラルは本当に対立しないのか──ウクライナ戦争を踏まえてあらためて問う」(URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20230426
東浩紀 今日は政治学者の宇野重規さんに来ていただきました。宇野さんといえば、昨年(2020年)秋の学術会議任命拒否問題で名前が挙がったこともあり★1、リベラルを代表するひとというイメージがあります。けれども最初の著書はトクヴィル論ですし、保守主義についての本も書かれている。8年前の『民主主義のつくり方』(2013年)では、プラグマティズムの重要性を説かれてもいました。今日はそんな宇野さんに、民主主義、保守主義、プラグマティズムの3つの軸でお話をうかがえればと思います。

宇野重規 ぼくからも話題にしたいことをさきに伝えておきます。まずは保守主義について。現在は保守の定義自体が変わり、よくわからない状況です。いま東さんは保守を話題にしたいと言ったけれど、どのような角度からこれを論じることができるか。

 また、東さんと民主主義論を交わすのであれば、やはりもういちど『一般意志2.0』(2011年)の話をしたい★2。そしてなにより『観光客の哲学』(2017年)と民主主義の関係についても議論したいと思います。これまで民主主義は、古代ギリシアにせよ近代の国民国家にせよ、事実上、土地に縛りつけられた固定的な構成員によるものとして考えられてきました。一方で東さんが提示した「観光客」という概念は、特定の土地とまったく関係がないわけでもなければ、かといってそこに完全にコミットしているわけでもない、ある意味で中途半端なポジションのひとの可能性を積極的に評価するものです。ぼくはその構想にとても共感していて、これからの民主主義の可能性を考えるときに大きなヒントになると思っています。いわば「観光客の民主主義」とはなんなのか、が今日のテーマになるでしょう。

東浩紀『一般意志2.0』(講談社文庫)
 

保守とリベラルは対立しない?


 ありがとうございます。ぼくが保守主義の話題を出したのは、保守の定義のあいまいさにもかかわらず、いま保守とリベラルの対立そのものはますます激しくなっているからです。

 宇野さんは『保守主義とは何か』(2016年)で、保守は親密で閉じたコミュニティを大切にするが、リベラルはそこから離れた普遍的な連帯を大切にする、そこがちがうと書かれています★3。これはシンプルな指摘ですが、本質をついていると思いました。冷戦構造が終わったあとも、保守とリベラルは対立を激化させている。その対立はイデオロギーや個々の政策ではうまく説明できない。むしろ、仲間からスタートするのか普遍からスタートするのか、近くから出発するのか遠くから出発するのかという「感性」の問題だと考えたほうがいい。

 じつはこの対談が掲載される『ゲンロン12』にはこの問題を主題にした論文を寄せていて、そこでは宇野さんの言葉も引用させていただいています。出発点は『観光客の哲学』の第二部でも話題にした「家族」です。家族の概念を再検討するため、カール・ポパーが『開かれた社会とその敵』(1945年)で行なった有名なプラトン批判を取り上げました。「開かれた社会」を主張するポパーは、プラトンの『国家』は「部族主義的」で「閉じている」と主張している。けれどもこれはパラドックスなんですね。プラトン自身は「家族を解体して、子どもも共有しろ」というきわめてラディカルな提案をしている。いわば家族否定論者です。でもポパーにはそれが部族的=家族的に見えている。部族否定論が部族的に見えているわけです。

 ここには深い問題が現れていると考えています。ポパーに限らず、いままでのリベラルの公共論は、「閉じられた家族」を仮想敵にして、それに対して「開かれた公共圏」を立てるという構図が基本でした。でも「部族的」とか「家族的」とか「閉じられた」といった言葉にどれだけ実質があるのか。ほんとうは閉じているか開いているかという対立は虚偽で、どこまでが私的でどこからが公的かなんて境界線は引けないのではないか。にもかかわらず、その境界がイデオロギー化するといまの保守とリベラルの対立になる、というのがぼくの考えなんです。

宇野 多くのひとは、抽象的な理念からこぼれ落ちる感情による結びつきや、それぞれの文化に固有な価値への忠誠や誠実さを大切にしています。それを拾うのはいわゆる保守なんですね。リベラルはむしろ普遍的な理念の共有を優先する。それはときとして「これは正しい理念なのだから、みな当然に賛成するはずだ」という、とても傲慢で閉じられた態度にもつながります。いわば「普遍主義的な部族主義」が生まれる。まさにパラドックスです。

 その点でポパーのプラトン批判には理解できるところがあります。プラトンの家族や私有財産の否定には、前提にエリート主義がある。家族においては、同じ家族のメンバーへの依怙贔屓が生まれたりしますから、大きな連帯を引き裂く危険性があります。それをなくすために統治エリートは子どもを全員で共有しようという発想になっている。それはほんとうの意味では家族性を解体するためのものではなく、むしろ統治エリートの結束を強めるための手段なんですね。さきほど指摘したリベラルのあり方と通じるところがある。

 最近SNSで起きているトラブルを見ると思うのですが、いまのリベラルは自分たちこそ開かれていると信じています。でも外から見るとあきらかに閉じている。それが彼らが力を失っている理由です。ぼくはそれを、だれかがだれかを「閉じている」と批判することはそもそも本質的に意味がないのだ、というかたちで普遍的な問題として捉えたい。ひとはみな、開放性と閉鎖性のスペクトラムのなかにいるだけで、閉じているといえばだれもが閉じている。
宇野 「家族」とともにもうひとつ脱構築すべき概念は「子ども」でしょう。子どもといっても、血縁のあるなしだけで決まるわけではない。保守の話につなげると、伝統的な保守は守るべき伝統が確固として存在することを前提としています。ところが現代では、守るべきものがひとによってちがう。守るべき共通の対象で結束するのではなく、それぞれのひとがそれぞれの対象について「これは大切だ」と感じる。そしてそれに共感するひとが継承する。そのような気持ちのつながりを尊重するような保守の可能性を追求すべきです。家族や保守のイメージを、ひととひとをつなぐ新しい可能性へ変えていかなければいけない。

 そのとおりです。そうなると保守とリベラルはもはや対立しない。ひとは生まれ落ちた瞬間に、父や母といった家族と関係を持ち、さまざまなひとたちと出会っていく。その人々は選ぶことができない。だれもがその事実から始めるしかないので、その点ではだれもが保守的ですが、他方、そこでの「開かれ」に注目すればリベラルだともいえる。いまはそういう新しいリベラルの組織論が必要だと思います。冷戦が終わり共産主義の有効性が失われたあとも、社会改革の理論はいろいろつくられている。けれども実践となると、結局は一人ひとりが頑張る、という組織論なき組織論しか出てきていない。ネグリ+ハートの「マルチチュード」論がそうだし、日本の若い世代であれば斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』(2020年)もそういう終わり方です。

宇野 ラディカルに見えて結局は個人のがんばりで終わる議論が多いということは、自戒を込めて認めます。「個」や「私」の存在を自明の前提にして、それが集まって公共圏を形成するという議論は、どうしてもベタになってしまう。そういった固定的な「個」のイメージこそ徹底的にぶち壊したほうがいい。そうやって「私」を開くことで、民主主義も開いていく。10年ほどまえに書いた『〈私〉時代のデモクラシー』(2010年)以来、自分自身の課題としてあります。

表象の政治と統治の政治


宇野 この流れで続けると、ぼくはそういう点で『一般意志2.0』をとてもおもしろく読んだんです。この本は前半と後半で議論が分かれているのですが、前半は、ルソーの一般意志はじつは数学的な存在で、ITの時代には客観的な「モノ」=データとして存在するのではないかという問題提起でした。これはまったく新しい読解で、大きな衝撃を受けました。まさに「私」や公共性を解体するアイデアだと思ったんです。ただ後半は、ニコニコ動画などの例は出てくるものの、基本的には熟議をアップデートしようという話で、むしろありそうな話だという印象もありました。

 厳しい指摘ですが、批判はおっしゃるとおりです。あれはぼく自身から見てもぶれています。前半を突き詰めると「ビッグデータにもとづいたアルゴリズム的統治がいい」という結論になってしまう。けれども書きながら「そんな危険なものを新しい民主主義のヴィジョンだと言ってしまってはダメなのではないか」という思いが強くなっていった。結果として「データベースと熟議の両方が必要だ」というあいまいな結論になっている。

 一般意志を可視化するだけではダメだ、という問題はいまも考え続けています。宇野さんは『民主主義とは何か』(2020年)で、ピエール・ロザンヴァロンの『良き統治』(2015年)を援用しつつ、執行権や行政が大切だという話をされています。ぼくも同じ意見です。民主主義について議論するためには、なにが人民の意志かだけを話していてもしかたがない。それがあきらかになったあとの統治の問題こそ考えなければならない。フーコーの言葉で言えば「統治性」です。そもそもルソーの『社会契約論』自体、一般意志の話をしているのは最初だけで、あとは立法者や政府形態の話をしています。つまり一般意志を背景にしてどうやって人民を統治するかという話が肝なのです。一般意志が情報技術で可視化されたからといって、それに機械的に従うだけでは統治はできない。
宇野 『社会契約論』の読み方については東さんとまったく同意です。『社会契約論』の第1篇と第2篇は、一般意志にもとづいて法律を作らなければならないというところで終わっている。ところが第3篇では政府形態の話をする。つまり人民主権と政府のあり方は別だというわけです。そこをちゃんと区別するところがルソーのおもしろいところですが、人民主権の話がとてもクリアなのに対し、政府の話になると急にグダグダになります。

 ぼくは『一般意志2.0』の二重性についても、むしろ一周していまや必然だった気がしています。昨年秋に出版した『民主主義とは何か』の主張のひとつは、古代の直接民主主義と近代の代議制民主主義はまったく別ものだということです。かたや『一般意志2.0』の前半は、「一般意志」をどうやって示すか、つまりどう表象するかという議論でした。これは代議制民主主義の現代的な読み替えと言えます。他方で、後半のニコニコ動画の話は直接民主主義の復権の議論としても読める。いまはみな、代議制民主主義で自分が代表されているとは思っていなくて、もうすこし直接的に自分が参加している手触りがほしい。前半と後半がそれぞれ代議制民主主義と直接民主主義の現代的な処方箋を示しているのだと考えれば、まさにいま必要とされている議論だったのかもしれません。

 ありがとうございます。実際は考えがぶれていただけなのですが……(笑)。

 いずれにせよ、表象の政治の話と統治の政治の話は異なる。その点では、いまリベラルは表象の政治についてばかり話していると言えませんか。「さまざまなマイノリティの苦しみや不満を表象しなければいけない」という課題を掲げていて、それは着々と実行されている。でもそれで問題が解決するかと言えば、けっしてそうは言えない。たとえばいくら女性の声が表象=代表され、みなが性差別を認識したとしても、それだけで現実が変わるわけではない。そのときに、表象の政治とは別の、統治技術についての議論が必要になる。

宇野 まったくそのとおりです。政治学はあまりに立法権の話ばかりしてきたわけで、そこに反省があります。国民の多様な利害を集約し、選挙を通じて代表し、議会で法律を作るところで話を終わらせてしまっていた。日本政治でいうと悩ましいのが1990年代の政治改革です★4。小選挙区比例代表並立制を導入し、政党交付金の制度を作り、選挙と政党のあり方を変えれば、おのずと立法府が変わり、政治の質もよくなるはずだという前提があった。けれどこの前提はあらためて問い直すべきです。結果的に、政治家が官僚を押さえつけて、言いなりにさせるのが政治主導だという話になってしまった。民主党政権はそれで破綻して、安倍政権や菅政権はその悪い部分を継承しているわけです。

 日本に限らず、近代政治思想は、「声」が「表象」され「現れる」ことにばかり関心を持っているという印象があります。未来から見たら、ちょっと変わった時代だったとなるのかもしれない。

宇野 民主主義の制度論は、そもそも不十分で歴史もすごく浅いんですね。ルソーは政府の話になるとグダグダになるし、アメリカのフェデラリストも精緻な制度論を展開しつつ、最後は公共の利益を知るエリート主義に走ってしまう。代議制については、1860年代にJ・S・ミルやウォルター・バジョットによって短期間に組み立てられた議論が、それ以降ほとんど更新されず通用している。議会と執行権の関係や政治家と官僚の関係についても、素朴な議論のまま放置されています。執行権を国民が直接チェックして、「良き統治」を保障するような仕組みを考える時期に来ていると思います。

国家は個人情報を集約すべきか


 具体的な例はありますか。

宇野 いまの台湾はひとつのモデルだと思います。「vTaiwan」というのですが、市民がふだん思っていることをSNS上に発信して、それに5000人ぐらいが「いいね」してくれたら立法課題になるというシステムがある★5。それ以外にも執行権に直接問題提起したり、その働きをチェックしたりする仕組みが模索されています。各政党に政策を出させて、選挙で競争させるというだけでなく、市民のあいだで問題を共有し、解決案を出しあっていく。こういうモデルを作ったほうが、実感として民主的になるのではないかと思います。

 台湾、韓国や中国などは、コロナ対策が比較的うまくいっている国です。でも同時に、政府が国民の個人情報をかなり詳細に把握している国でもある。最近知人の税理士に聞いて驚いたのですが、台湾では、レストランなど店舗のレジが国の税務データベースにつながっていて、レシートに確定申告に使える取引番号が印刷されることがあるようです。それだけ情報の集約があるからこそ、コロナ対策での補助金の給付もスムーズにできる。オードリー・タンのような情報政治のスターが現れるのも、そのような状況を背景にしていると思います。基本的に国民全員がIDを持っているのだから、ネットで意見を言うにしても、日本人が匿名で投稿するのとはわけがちがう。他方で日本には、国家による個人情報管理に対してまったくちがう国民感情がありますね。

宇野 おっしゃるとおりで、日本ではマイナンバーと医療情報の紐付けすら進まない。省庁や国-地方の壁を越えた個人情報の統合もできないままです。個人のプライヴァシーに配慮しつつその情報を有効に統合することは十分可能なのに、進まない。マスコミもどこか及び腰です。

 ぼくもかつては個人情報の統合に消極的でした。ただ今回のコロナ禍で、日本は国家規模の危機に対して弱く、対応も遅いということがはっきりしました。結果として政治不信も高まっている。政治への信頼を取り戻すためにも、今後は、少なくとも緊急時においてはあるていど個人情報を利用できる国家にならないといけないのではないかという考えに変わりました。宇野さんはいかがですか。

宇野 むずかしいですね。中国はそもそも行政機構の近代化が遅れていたのだと思います。国と省や自治区のあいだの連携はいまだに非効率的です。国と個人の中間にある行政組織を使って個人情報を集約しようとしても、できない状況にあった。しかし、だからこそITの力を借りて中間組織をすっ飛ばし、中央政府がダイレクトに個人情報を把握する改革が急速に進んでいる。

 日本はこれまで中間組織や地方組織がそこそこ効率的で、それを通して個人情報も集約できた。ところがいまはその効率性があだになっていて、国がなにかをやろうとしても県や市町村レベルで障害にぶつかってしまう。中間組織がバラバラなため、国の命令では動かないのです。ぼくのようなトクヴィル主義者は、これまで中間組織による分権化が国家権力を抑制するのだという面を強調してきた。でも今回はその悪い面が出ていますね。
 ぼくも中間組織が大切だという立場でした。でもこういう非効率が繰り返されれば、むしろ政治不信や専門家不信が高まって国が壊れていく。そちらのデメリットも大きい。

宇野 今後、国家が個人情報を集めることを認めなければいけないとして、問題はそのような国家をどのようにチェックするかという、いわばあらたな権力分立の仕組みですね。個人情報の集約を批判するだけではもうダメなので、透明性を確保して国家による個人情報収集を個人が検証できるようにするしかない。そのようにして国家と個人の情報把握の双方向性を保つ。

 これからは国家の拡張に反対を唱えるだけでなく、国家にあるていどの力を与えたうえで、市民がそれを抑制する新しい方法を考えなければいけないということですね。コロナ禍の教訓はそこにありますが、はたしてそういう改革ができるのか。

宇野 むずかしそうですね。日本で長い時間をかけてつくられた「個人情報を把握されたくない」という感性には動かしがたいものがありますから。

民主主義の「観客」


 表象の政治と統治の政治が区別されたところで、つぎに民主主義と自由主義の関係についてうかがいたいと思います。カール・シュミットは両者を峻別しました。そもそも民主主義は軍政や監視社会と親和性が高い。原理的に同一性を高めていく政治体制です。それが近代ではなぜか自由主義と結びつき、「自由民主主義」というかたちで個人の多様性の尊重と結びついた。それはそれでよかったと思いますが、今後も続くかどうかはわからない。民主主義の理念と自由主義の理念はこれからも幸せな結婚を続けるのか、それともふたたび分かれていくのか。どう思われますか。(『ゲンロン12』へ続く)

 


★1 日本学術会議が推薦した新会員候補105名のうち6名を、当時就任したばかりの菅義偉首相が任命しなかった問題。この6名に宇野も含まれていた。大学に所属する研究者を中心に、この決定は安倍政権下の政策に異を唱えた人物を排除するものであり、学問の自由への政治的介入だと批判の声が上がった。一方の菅はこの判断を「(日本学術会議の)総合的、俯瞰的な活動を確保する観点」(2020年10月5日、内閣記者会インタビュー)によるものだと説明した。
★2 2015年6月、ゲンロンカフェで宇野と東によるトークイベント「日本的リベラリズムの夢」が開催された。これは東の著書『一般意志2.0』の文庫版刊行(講談社文庫、2015年)に向けて開催されたもので、当日のようすが対談として同書の巻末に収録されている。ここでふたりは、「文学者」ルソーと「政治思想家」ルソーの対立を軸に、民主主義における超越性について議論している。
★3 宇野重規『保守主義とは何か──反フランス革命から現代日本まで』、中公新書、2016年、204頁。
★4 1988年に発覚したリクルート事件をきっかけに、政治制度改革の議論が起こった。自民党内に設置された政治改革委員会での検討をもとに海部俊樹政権で改革法案の原型が作られ、細川護熙政権下の1994年にいわゆる「政治改革四法案」が成立した。これにより①小選挙区比例代表並立制の導入②企業・団体からの政治資金寄付対象の制限③政治献金の代わりとなる政党交付金制度の導入が実現した。
★5 政策についてのパブリック・オピニオンを募り、合意形成を図るオンラインのプラットフォーム。市民が提出した政策アイディアが、①提案②意見の収集と整理③討論と起草④立法の四つのステージを経て実現されていく。この過程では Typeform 、slideshare、YouTube など、さまざまなツールが利用される。
 
正義は、開かれていることにではなく、つねに訂正可能なことのなかにある。

『ゲンロン12』
飯田泰之/石戸諭/イ・アレックス・テックァン/井上智洋/海猫沢めろん/宇野重規/大森望/小川さやか/鹿島茂/楠木建/桜井英治/鈴木忠志/高山羽根子/竹内万里子/辻田真佐憲/榛見あきる/ウティット・ヘーマムーン/ユク・ホ/松山洋平/山森みか/柳美里/東浩紀/上田洋子/福冨渉
東浩紀 編

¥2,860(税込)|A5判・並製|本体492頁|2021/9/17刊行

宇野重規

東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。主な著作に『政治哲学へ:現代フランスとの対話』(東京大学出版会)、『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社学術文庫)、『<私>時代のデモクラシー』(岩波新書)、『民主主義のつくり方』(筑摩選書)、『西洋政治思想史』(有斐閣)、『保守主義とは何か』(中公新書)、『民主主義とは何か』(講談社現代新書)、『日本の保守とリベラル』(中公選書)、『近代日本の「知」を考える。』(ミネルヴァ書房)などがある。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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