戦勝と記憶──アレクサンドラ・アルヒポワほか「祝祭になる戦争、戦争になる祝祭」解題|上田洋子

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初出:2022年10月31日刊行『ゲンロン13』
 ここに訳出された論考「祝祭になる戦争、戦争になる祝祭」は、アレクサンドラ・アルヒポワらモスクワ社会経済科学高等学院(Московская высшая школа социальных и экономических наук)所属(執筆時)の人類学者たちが共同で行ったロシアの戦勝記念日に関する調査に基づくものである。

 ロシアで「戦勝記念日 День Победы」といえば、1945年5月9日の独ソ戦勝利の日を指す。この日はロシアの重要な国家的祝日で、各国の元首が式典に招かれ、最新の戦車や兵器が誇示され、また一般市民がパレードに参加する。アルヒポワらの論考では、いまの愛国的なロシアを象徴するようなこの祝祭において、人々がどのように振る舞うのか、またこの祝祭が社会にどのような習慣や影響をもたらしているのか、詳細に論じられている。著者のうち、アルヒポワとアンナ・キルジュクにはほかにソ連時代の都市伝説を調査・分析した『ソ連の危険なもの Опасные советские вещи』(2020年)などの仕事がある。調査に当たっているのはソ連・ロシアの風俗を対象としている研究者たちである。

 なぜ独ソ戦の日なのだろうか。20世紀前半、ロシアそしてソ連は日露戦争、第一次世界大戦、革命後の内戦と干渉戦争、第二次世界大戦と、戦争に明け暮れた。なかでも、大きな犠牲を払って勝利した第二次世界大戦の独ソ戦(1941-45年)を、ロシアでは「大祖国戦争 Великая отечественная война」と呼ぶ。大祖国戦争では若者がソ連全土から召集され、あるいは志願して、戦地に赴いた。2015年のロシア国防省の発表によると、ソ連側では軍人1200万人、民間人を含めて2660万人が戦争で死亡している。1941年1月のソ連の人口が1億9870万人なので、じつにその1割以上が亡くなったことになる。
 大祖国戦争では、現在のウクライナ戦争でロシア軍から激しい攻撃を受けているハルキウを含め、ベラルーシのミンスク、ロシアのスターリングラード(現ヴォルゴグラード)など、ソ連西部の都市がいくつも戦場になった。41年9月から44年1月の約2年半、第2の都市レニングラード(現サンクトペテルブルク)はドイツ軍に包囲され、住民は食糧や燃料のないまま厳しい冬を3度も乗り越えた。街には死体が溢れ、人々は犬猫や人肉すら食べて命を繫いだと言われている。首都モスクワも攻撃にあった。キーウをはじめとするウクライナの多くの街は早々にドイツ軍に占領された。

 勝利のために多大な犠牲を払ったという事実は、現在のロシアが過去の戦争参加者を英雄視し、戦勝を躊躇なく祝うことに根拠を与えている。レニングラード包囲を耐え抜いた世代に対して、後世の人々は敬意を払わずにはいられない。ソ連が崩壊し、冷戦に敗れ、経済的にも破綻して傷ついたロシアは、2000年代になって国力を盛り返していく。同時に、自分たちはナチスドイツに勝利し、ヨーロッパをファシズムから救った国であるというメッセージを打ち出して、大国としてのアイデンティティの回復に努めた。戦勝記念日の祝祭は、その最もわかりやすい現れだと言えよう。

 



 戦勝記念日がこれだけ祝われるようになったのは、じつはソ連崩壊後のことだ。1948年から64年まで、5月9日は祝日ですらなかった。

 ブレジネフ政権下の65年になって、戦勝20周年がはじめて大々的に祝われた。赤の広場で軍事パレードが行われ、スターリングラードの戦いを記念するママーエフの丘の祖国の母像(67年完成)をはじめとして、各地で記念碑が建立された。この年を機に戦勝記念日は祝日となり、毎年、地方自治体レベルでパレードや献花が行われるようになる。赤の広場でのパレードが毎年恒例になるのは95年の戦勝50周年以降、パレードに戦車や武器、戦闘機が出動するのは2008年以降である。

 2012年、戦勝記念日の草の根愛国運動「不死の連隊」が始まった。シベリア、トムスクのTV-2のジャーナリスト、セルゲイ・ラペンコフ、イーゴリ・ドミトリエフ、セルゲイ・コロトフキンの3人が、地元の人々に対し、戦争で戦った祖父母の写真を掲げてパレードに参加することを呼びかけたのだ。当時、戦争を経験した世代が消えていくにつれて、戦勝記念日は下の世代が自分たちのために楽しむものへと変わってしまっていた。ラペンコフらはそれを当事者の手に戻そうと考えた。敬愛する祖父母が、肉体の死に加えて忘却という死にさらされるのを防ぎたいという思いで、この運動を「不死の連隊」と名づけたという。ラペンコフらの呼びかけに応じて6000人以上がパレードに参加した。

 不死の連隊のネットワークは広がって、翌13年にはウクライナなどロシア以外の旧ソ連諸国を含む120の都市でパレードが開催され、18万人が参加した。14年には不死の連隊は「歴史愛国運動」のNPOとして登記される。信仰や民族や政治信条にかかわらず、だれもが参加できる、「公共・非営利・非政治・非国営の市民主導の運動」であることを旨とした。だから資金サポートは基本的に受けず、企業や団体の協力があってもロゴなどは掲載しない。また、パレードで掲げる写真は抽象的な英雄ではなく、必ず大祖国戦争に参加した自分の親戚のものでなければならない。
 けれどもそのような性格は、戦勝70周年にあたる2015年に「不死の連隊モスクワ」という団体が登場することで大きく変質してしまう。それは、13年からモスクワで不死の連隊のコーディネートをしていた人物が、ラペンコフらと袂を分かって立ち上げたものだった。この動きには、プーチン大統領を支持する超党派組織の「全ロシア国民戦線」や、与党「統一ロシア」が関わっていたことが知られている。事実、この年からパレードにプーチン大統領自身が参加している。赤の広場を通るようになったのもこの年のことである。

 同年、彼らは団体名を「不死の連隊ロシア」と改名し、サイトを整えた。国防省や教育省、退役軍人同盟などがこの運動を支援している。

 いまは2つの団体が並存しているが、「不死の連隊ロシア」の方が目立つ。トムスクの運動は乗っ取られたと言ってよい。トムスクのサイトのURLは moypolk.ru 、「不死の連隊ロシア」は polkrf.ru である。

 こうして不死の連隊は草の根の愛国運動から政治プロパガンダになり、規模をさらに拡大する。19年には3700の街や村で、1000万人が参加。コロナ明けの22年は、モスクワだけで参加者が100万人を超えた。ウクライナ侵攻後はじめてのこの戦勝記念日は、国外からの来賓はほぼ参加せず、国内に向けて愛国心を煽るものとなった。なお、トムスクの不死の連隊の企画者たちがウクライナ侵攻に反対の声を上げていたことも記しておきたい。
 不死の連隊によって、戦勝記念日への参加者は圧倒的に増えたように思われる。筆者自身も、友人たちがSNSに軍服姿の祖父母の写真を投稿するのを目にするようになった。こうした投稿は、必ずしも愛国者に限られてはおらず、リベラルな友人にも見られた。身近な人々の戦争の記憶に敬意を払うことに対して、義務感を抱く人は少なくなかったのだろう。本論考に集められた市民の声と振る舞いは、ロシアにおける「愛国」の多様で複雑な背景を炙り出している。

 戦勝記念日は終戦を喜び、勝利を賛美する祝祭である。戦勝の賛美は戦争それ自体の美化と結びつく。いまの戦争と、ロシア国民の戦争への態度がその危険性を明らかにしている。
シリーズ史上もっともアクチュアルなラインナップ。2022年2月のウクライナ侵攻に応じて、「ポストソ連思想史関連年表2」を収録。

『ゲンロン13』
梶谷懐/山本龍彦/大山顕/鴻池朋子/柿沼陽平/星泉/辻田真佐憲/三浦瑠麗/乗松亨平/平松潤奈/松下隆志/アレクサンドラ・アルヒポワ/鴻野わか菜/本田晃子/やなぎみわ/菅浩江/イ・アレックス・テックァン/大脇幸志郎/溝井裕一/大森望/田場狩/河野咲子/山森みか/松山洋平/東浩紀/上田洋子/伊勢康平
東浩紀 編

¥3,080(税込)|A5|500頁|2022/10/31刊行

上田洋子

1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。著書に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』(調査・監修、ゲンロン)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社)、『歌舞伎と革命ロシア』(共編著、森話社)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010年)など。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。
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