尖端から末端をめぐって(11) 陶芸と現代美術 『窯業と芸術』を開催するに至るまで(抜粋)|梅津庸一

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初出:2023年3月15日刊行『ゲンロン14』
現在、梅津庸一さんの個展「プレス機の前で会いましょう 版画物語 作家と工人のランデヴー」(NADiff a/p/a/r/t)と、梅津さんが西船橋のギャラリー「Kanda & Oliveira」と企画した「マッドスプリング」が開催されています。会期は前者が6月11日まで、後者が6月10日までです。梅津さんは『ゲンロン14』の装画を担当されたほか、同号にエッセイ「陶芸と現代美術──『窯業と芸術』を開催するに至るまで」を寄稿し、現代美術への強い危機感を表明しつつ、陶芸という実践の可能性を論じています。今回は、この文章から梅津さんの陶芸活動にまつわる箇所を抜粋し、公開いたします。とりわけ「量産品と固有性」にかんする終盤の議論は、最近の梅津さんの版画制作とも深く関連するでしょう。ぜひ展示とあわせてご覧ください。(編集部)
 京都から草津、貴生川と乗り継ぎ、カーブが多く勾配が急な森の中を走る信楽高原鐵道の終着駅が信楽である。冒頭で述べたように、わたしは2021年の5月から拠点を信楽に移した。信楽は周囲をぐるっと山に囲まれた、秘境というにふさわしい山間の町である。霧や靄が発生しやすい気候と地理的条件がそろっているのか、朝方は周りの山々どころか、50メートル先の建物すらも水墨画のように霞んで見えることも珍しくない。まるで俗界から隔絶された桃源郷のようで、これまでわたしが住んできた土地とは全く違う雰囲気が漂っていた。少し離れた山の中に宗教法人神慈秀明会の「MIHO MUSEUM」があるのも頷ける。

 信楽は六古窯のひとつとは聞いていたが、想像を絶するほど「やきもの」「窯業」に特化した町だった。そこら中におびただしい数のたぬきの置物や火鉢、壺などが散らばっている。住宅の塀には、昔登り窯で使われていた「立匣鉢たちざや」と呼ばれる用具が再利用されている。国道沿いには大型の陶器販売店が数キロにわたって点在し、食器から傘立て、庭園用品(テーブルセット、照明具、燈籠)までが店内のみならず路面にまで溢れかえっている。また、「1300年の歴史が育んだ信楽焼」「人と土と炎の共演」などの壮大なキャッチコピーを前面に押し出した店舗も目立つ。それから陶芸体験教室、食事処、お土産コーナー、宿泊所などを兼ね備えた複合型の陶器販売店なども存在し、町自体がさながらセラミックのテーマパークのようだ。けれども、コロナ禍の影響と時代のニーズとのずれもあいまって、普段は観光客がほとんどおらず閑散としている。

 


信楽の風景
 駅から10分ほど山の方に歩いていくと「窯元散策路」にたどり着く。散策路では、マップの配布や看板の設置に加えて地面に目印のタイルを埋め込むなどして、観光客に町を能動的に探索するよう促している。とはいえ散策路は起伏が激しい。かつて使われた穴窯や登り窯は薪を燃料としており、斜面に築窯する必要があったからだ。現在は煙害問題や、灯油窯やガス窯、電気窯が普及したことにより、ほとんどの薪窯は町の中で使われなくなり取り壊されたが、いくつかはカフェに改装されたり、「近代化遺産」として保存されたりしている。約2キロにわたって立ち並んでいる製陶所のいくつかは、登り窯の跡地に建てられたものだ。

 散策路を出て国道沿いを少し行くと、「滋賀県立陶芸の森」がある。これは地域産業である製陶業の振興や新しい文化創造の場を目指して設立された公的機関である。陶芸の森には陶芸家のためのレジデンス施設も併設されており、奈良美智など国内外の作家たちは、ここに滞在して作品を作るのが通例となっている。わたしもこんな整った設備に囲まれて快適に作陶したいという思いがよぎったが、美術大学のように管理の行き届いた施設で滞在制作をするのは違うなと思いとどまった。それに美術界のあれこれにすっかり疲弊していたので、アパートでひっそり暮らしながら近くの共同の工房で作陶することにした。

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梅津庸一《花粉濾し器》、2021年
 わたしはいわゆる実用的な器は作らない。けれども彫刻を作っているわけでもない。《花粉濾し器》はわたしが信楽に来る前に一番はじめに作った作品で、わたしのキータームのひとつである「花粉」を主題にしたものである。制作手順としては、まず既成のフライパンに粘土を詰める。数時間経って少し固まったところでひっくり返し、中央に円柱を立て、乾き具合を見計らいながらちょっとずつ粘土を足していく。ある高さまできたら、両サイドに粘土で土手のような支えを作り、左右非対称のラケット状の楕円形にしていく。

 言葉で説明するのは困難だが、《花粉濾し器》はわたしの最初期の陶作品でありながら、プロの陶芸家から見てもかなり厄介な構造をしている。焼成中、窯は1200度を超える高温になり、その際熱によって粘土が硬めの水飴のような粘性を持つようになる。

《花粉濾し器》はフォルムが不安定過ぎるため、焼く時に支えがないと支柱が曲がって倒れてしまう。かと言って支えと釉薬が触れるとくっついてしまうので、工夫が必要だった。《花粉濾し器》においては、これまで絵画で扱ってきたモチーフやアイコンを使いたくなかったし、そもそも技術的にも使えなかった。だから絵のモチーフをたんに立体化するのではなく、新たな主題を見つける必要があった。大量生産されたフライパンを型として使ったのはそれゆえである。そうすることで、器を「準レディメイド」として取り入れられないかと考えたわけだ。しかもそれをまたひっくり返すことで、器としての機能をキャンセルしてもいる。その上にはじめて、たどたどしい手つきでオブジェを立てるのだ。また、2枚の楕円はメッシュ状になっており、フィルターを表している。


 


梅津庸一《ボトルメールシップ》、2021年(下は焼成前のもの)


梅津庸一《ボトルメールシップ》、2022年
《ボトルメールシップ》もまた《花粉濾し器》と似た構造を持つ作品である。土台の部分の型にはプラスティックのトレーを使っており、2本の支柱の上に瓶状のものが横たわる。これは実は本物のガラス瓶を粘土で包んだものだ。ちなみにわたしが飲んだお酒や栄養ドリンクの瓶が使われている。粘土は乾燥すると収縮するが中のガラス瓶はそのままなので、乾燥する過程で粘土が引っ張られ、ヒビが入っていく。ヒビが大きくなる前に、「どべ」と呼ばれる粘土を水で溶いてペースト状にしたものを使って修繕する。これを一週間ほど毎日繰り返すと、乾燥してもヒビが入らなくなる。その状態で焼成すると実は完全に直り切っていなかったヒビが大きな亀裂となり、中の溶けたガラスが外へ流れ出てくる。つまり釉薬はガラス質のコーティング材であるので、ガラス瓶も熱で溶かせば当然釉薬の代わりになる。《ボトルメールシップ》はそんな単純な発想から生まれた作品であり、粘土、釉薬、器、量産品、レディメイドの関係を図解している。しかしこの制作方法には、ガラスが作品の外にも流れ出てしまう危険性があるため、「道具土」と呼ばれるほとんど焼き締まらない粘土で囲いを作り、万が一ガラスが漏れても棚板や窯のレンガまでガラスが流れないように対策する必要がある。

 陶芸に触れるまで、わたしは釉薬とは絵の具のようなもので、色をつけるための装飾だと思っていた。だが釉薬には、陶器をガラスでコーティングして水分の吸収を抑え、汚れにくくするという大事な役割があった。食器の衛生面が飛躍的に向上したのは、釉薬や吸水しない磁器のおかげだったのである。そんな背景を知ってからは、信楽のスーパー「フレンドマート」に併設された100円ショップに並ぶなんの変哲もない磁器の茶碗を見ても、工場で作られる過程や人類の技術の発展などに思いを馳せるようになった。

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 かつて信楽は、火鉢やたぬきの置物、植木鉢などの大ヒット商品を次々に生み出し、作った分だけ売れるという時代を経験してきた。信楽に大規模な製陶所が乱立しているのはそのためだ。中にはトンネル窯と言われる、1年中ノンストップで焼成し続けるような窯を所有している製陶所もあった。信楽は味わい深い風合いの「信楽焼」を名産品としている。だがそれはほんの一部に過ぎず、実際は量産品をメインとする産業の町なのだ。

 信楽は日本開国後、近代国家としての基盤を確立する上でも欠かせなかった製陶業と窯業の本拠地だ。その流れを濃厚に受け継ぐ場所で作陶することで、あらためて作品を作ることの意味、また現代アートの産業的側面について考える機会が増えた。

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 ある日、神崎さん[編集部注:梅津氏が間借りして通う製陶所「丸倍製陶」のオーナー兼陶工]からたいへん興味深い話を聞いた。神崎さんは昔、父親や祖父からお前は「ひげさん」だけにはなるなよ、と言われてきたそうだ。「ひげさん」とは、ひげをたくわえた「作家先生」のことをやや皮肉交じりのニュアンスで捉えた呼称だ。ちなみに現代美術家の村上隆は、「ひげさん」のイメージをカリカチュア化して積極的にそれを纏おうとしている。この「ひげさん」という言葉の背景にあるものを自分なりに考察してみたい。

 日本の陶磁器産業は、明治時代に技術指導者として来日したゴットフリート・ワグネルにより近代化を果たした。近代洋画の父が黒田清輝ならば、近代窯業の父はワグネルと言える★1。しかし両者の役割は微妙に異なる。黒田は西洋画の描き方や美術の諸制度そのものを日本に紹介し移入することに貢献したが、ワグネルは職人が独占していた技や経験に裏打ちされた勘など、もともと日本にあった技術体系を数値や数式に置き換え、効率化させたのである。それによって品質が安定し、さらには機械工業化による生産量の拡大につながった。

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 1930年ごろからは、室内用小型日用品(ノベルティ製品)研究の一環として、彫刻の陶磁器工芸化が進められた。これは工業製品としての陶磁器に美術の要素を付与しようとした、興味深いプロジェクトと言えるだろう。信楽の窯業試験場へも河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチ、走泥社の八木一夫、熊倉順吉などが指導のため訪れている。量産品の商品的価値やデザイン性を向上させようという行政主導のキャンペーンは、大阪万博などで紹介され、信楽の大物製品の技術を広くアピールすることになり、都市空間にも陶による建材が採用されるようになっていった。

 だが、結果的に信楽には、民藝の精神や芸術性、欧米で流行した意匠など、後から入って来た価値観や概念があまり根付かなかったのである。先ほど述べた「ひげさん」という言葉には、「作家先生」が上から授けようとしてくる芸術性やデザイン性というものには屈しないぞという陶工の心意気が感じられる。それは今日、現代美術という主体が民間と交わる際にたびたび取りざたされる「現代美術側の搾取」や「非対称性」の問題とどこか通ずるものがある。美術側が勝手に上位の存在であると無意識的に自認していると仮定するならば、それは一体なにを根拠にしているのだろうか。

 思い返せば、わたし自身も美術館に行った時、常設展示室の工芸はあまり真剣に見てこなかった。明治期の官展や帝展の時代には、絵画彫刻が「純粋美術」もしくは「自由美術」と言われていたのに対し、実用性や有用性を持つ工芸は「応用美術」と呼ばれ、一段格下のものと見られてきた歴史がある。率直に言うと、絵画を主な表現媒体としてきたわたしの中にも、工芸を少し軽んじる意識があったように思う。

 けれどもここ信楽では、アーティスト側が依拠している美術史や文化資本、アートマーケットといったものなどの方こそ、窯業がこれまで培ってきた営みと比べたらただの趣味人の嗜みのようにしか映らない。その一方で、かつて実用性を排することで純度を担保してきた「純粋美術」は、今日では性質が変わり、お金儲けや政治運動のツールとして運用されることで実用性を帯びてきている。

 また、陶磁器の世界の中でも、無名の作者によるものは「下手物げてもの」、有名な作家によるものは「上手物じょうてもの」と呼ばれており、同じ陶器でも価値に雲泥の差がある。さらに信楽の職人の間で使われる「へちもん」という言葉がある。これは「風変わりなもの」という意味で、ひとつひとつの器には固有の土味や釉薬の表情があることを指す。規範からのちょっとした逸脱が好まれるのは器も美術も一緒である。

 近代化は製品の質を画一化させる。だがそれと同時に、陶器には完全には制御できない窯の火や手仕事が介入することで、個々に微妙な差異が生まれる。現代における絵画の場合は、その多くが製品として完成された画材を使い、作家の身体性や不完全さを固有性に置き換えている。また制度批判を主題にする作品においても、完遂できないことがあらかじめ運命づけられているにもかかわらず「挑戦してみせる」という人間味が、その行為を表現たらしめていると言えるだろう。ちなみに、さきほど言及したANOMALYは、「基準や規則からの逸脱」を意味する言葉でもある。どうやらギャラリーでさえも同じようなことを考えているようだ。つまり、一概に比べられないところもあるが、陶芸も美術も、工業化と近代化を経ても変わらない人の生体としての異質さ、規定できなさに賭けているのだ。いや、それは少し違うかもしれない。機械を介した工業的なものと人の手による誤差を含んだ味わいは必ずしも対立関係にあるわけではなく、またその線引きは難しい。だから時計が刻む時間も機械的で無粋とは言い切れないのかもしれない。それはやきものにおいてより顕著である。おそらくこの点は、製陶業が他分野の工業に比べると機械化のペースがだいぶ遅いこととも関係していそうだ。

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 こういったことをぐるぐると考えつつ、作陶に励む日々が続いた。[……]作陶の合間に信楽のあらゆる陶器販売店や施設や陶芸の材料メーカーを歩いてまわっている。「丸幸」をはじめとする大型の陶器販売店には、数万点に及ぶ量産の器が積み上がっている。その中に気になるコーヒーカップがあった。かつて信楽の主力商品であった火鉢に用いられた海鼠なまこ釉は、もともと中国の支那海鼠釉がベースと言われている。信楽で改良された海鼠釉は鮮やかな青になり、そして釉の流動によって現れる白濁した肌理の細かい斑文・流文が複雑な表情を生み出す。これは材料工学的な研究の末に生み出されたものだが、誤解を恐れずに言えば、絵画性や民藝のフレーバーを強く感じる釉である。

 そのコーヒーカップは、角が丸まった四角の形をしていたが、そこにやや緑色がかったグレーの釉が施されていた。表情が海鼠釉にそっくりだったが、見たことのない色だった。本当に美しいカップだと思った。量産品には製造元のラベルや刻印がないので、お店の人にどこから仕入れたのかを調べてもらうと、小西さんという方だとわかった。コーヒーカップを持ってすぐに小西さんの工房に向かった。小西さんは作業中だったが、なんとか会うことができた。「これは小西さんのですか?」と尋ねると「そうです。これは30年くらい前のやつだ。懐かしい」と喜んでくれた。

 またある日、違う陶器販売店で見つけた小皿が小西さんのものではないかと思い、ふたたび工房を訪ねて確認してもらったことがある。それもやはり小西さんのものだった。つまり、一見すると作家性がほとんどないように思える没個性的な量産品の「下手物」にも、明らかな固有性と芸術性が見いだせるのである。わたしの好みだからというわけではなく、ただ人知れず達成されたなんとも言えない成果物と対峙した感触があるのだった。それは外部から評価されることで付与されたものではないし、たんに「人の手の味わい」や「へちもん」に回収されるものでもなく、ましてや焼成による偶然性などによってのみ担保されているわけでもない。カップを構成する組成に折りたたまれた化学と文化の蓄積。それを引き出すのはもはや芸術家の特権ではない。

 かつて柳宗悦は、用と美が結びついて民藝になると説いた。すでに述べたように、それは工業化に抗うために作家の手作業や地域性に依拠しているとされる。だが、全国各地の民藝が持っていたローカルカラーもまた工業化される際に「民藝のフレーバー」として吸い上げられ、マイナーな化学理論として温存されることとなった。現代の陶工は、本来であればその土地に由来しない土と釉を結合させる。実は「本来」などというものはそもそも存在せず、固有性も地域性も常に暫定的なものでしかないのではないか。整理すると、量産品における「固有性と芸術性」を考えることは、「どこ」の「だれ」が「なに」をつくるかを問うことでもあるだろう。小西さんの作陶は、気が赴くままでもなく、芸術の世界へ向けた追求でもない。むしろ産業の営みの中で効率化されつつも「人の手の味わい」を受け手に喚起させるべく、材料工学的な知見と審美性の掛け合わせによって、固有の民藝風味の釉調を生み出しているのである。流行から取り残され、製造元すらもわからないまま1000円から2000円で陶器販売店に売られている小西さんのカップと出会い、自分自身の芸術観や人生観が大きく揺さぶられた。本質主義的な価値観でもなく、機械化され化学に規定された方法論を経てもなお滲み出てくる「人の手の味わい」でもないところ、言い換えれば量産品らしい画一性なのか熟練した手仕事による味わいなのか見分けがつかない状態に、わたしはどこにも帰属しない固有性や芸術性を見た。うまくまとめられないが、作陶にのめり込み、おびただしい数の陶器を見ていく過程で、わたしの中の固定観念が少しずつ溶解していった。(『ゲンロン14』へ続く)

図版提供=梅津庸一



 




★1 ちなみに工部美術学校で西洋画法を実用的な技術として伝えたのはフォンタネージである。
   
哲学は世界を変えることはできないが、ひとは救えるはずだ。

『ゲンロン14』
荒俣宏/梅津庸一/浦沢直樹/鹿島茂/小松理虔/櫻木みわ/櫻間瑞希/さやわか/田中功起/辻田真佐憲/豊田有/ユク・ホイ/松下隆志/松山洋平/山森みか/東浩紀/伊勢康平/上田洋子

¥2,420(税込)|A5|260頁|2023/3/28刊行

梅津庸一

1982年山形生まれ。美術家、パープルーム主宰。美術、絵画が生起する地点に関心を抱く。日本の近代洋画の黎明期の作品を自らに憑依させた自画像、自身のパフォーマンスを記録した映像作品、自宅で20歳前後の生徒5名と共に制作/共同生活を営む私塾「パープルーム予備校」の運営、「パープルームギャラリー」の運営、展覧会の企画、テキストの執筆など活動は多岐にわたる。主な展覧会に『梅津庸一個展 ポリネーター』(2021年、ワタリウム美術館)、『未遂の花粉』(2017年、愛知県美術館)。作品論集に『ラムからマトン』(アートダイバー)。作品集『梅津庸一作品集 ポリネーター』(美術出版社)今春刊行予定。
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