チェルノブイリ・ダークツーリズム体験記(前篇)|大内暢寛

初出:2014年5月3日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ #12』

 この文章は、2014年11月22日から28日に開催された「東浩紀監修チェルノブイリ原発見学と事故の記憶をたどる7日間」(JTBコーポレートセールス主催)における、立ち入り禁止区域(通称ゾーン)内での録音を元にした手記である。このツアーは『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β 4-1』(以下、チェルノブイリ本)の出版後、チェルノブイリの今を知る旅として、ゲンロン監修により開催されたものだ。私がこのツアーに参加したのは、チェルノブイリ本に登場する場所を実際に自分の目で見ることのできる機会を逃したくないと思ったからである。

 この原稿は、チェルノブイリ観光の様子を少しでも多くの人々に伝えたいという思いから執筆した。今後もこのツアーが続けて催行され、この原稿が皆さんのツアー参加への一助となれれば幸いである。

 ゾーン内には1泊2日の旅程で滞在した。ガイドはエブヘン・ゴンチャレンコ氏(40)。もともとゾーンとは関係のない仕事をしていたが、あるときゾーンを訪れ、そこが彼にとって非常に落ち着く場所だと気付き、以後ゾーンで働くようになったという。

【図1】ホットスポットを示すガイドのゴンチャレンコ氏 撮影:市場祟

ゾーンとは?サマショールとは?

 チェルノブイリ原発30km圏の入り口、ディチャトキ・チェックポイントからツアーは始まる。まずはガイドのゴンチャレンコ氏から、ゾーンについての説明があった。「ゾーンと呼ばれる区域の面積はおよそ2600?で、ルクセンブルクと同じくらい。放射能汚染の状況はゾーン一帯で均一ではない。ゾーンの入口からチェルノブイリ市までの距離はおよそ15km。バスの中の放射線量は0.1μシーベルトで、これは地球上のほとんどの地域における放射線量と同じ。車内の放射線量が高くなっていくのは、原発から10km圏に入り、窓の外にチェルノブイリ原発が見えるようになってからだ。(この2日間は雨だったため、原発の近くまで行かないと窓からは見えなかった)。ゾーンの南は最も汚染度が低い地域で、それは事故直後に吹いたふたつの風による。ひとつが北向きで、もうひとつが西向きだった。前者はベラルーシ、ロシアの一部を通り、最終的にスカンジナビアの国々に至った。後者はウクライナを通り西へ吹いていった。ゆえに、南側は一番放射能の影響を受ける量が少なかった。西側からゾーンに入った場合、原発から60-70kmのあたりから汚染地域が始まることになる。ゾーンから強制避難させられた人は約20万人で、最も多いのがプリピャチ市の約5万人。次がチェルノブイリ市の約14000人だ」。

 「サマショール」と呼ばれる自主帰還者の現状については、「強制避難先から最初に許可なく帰ってきた人々は全部で2000人程。政府は対策をとろうとしたが、次第に目を瞑るようになった。サマショールの現在の平均年齢は80~85歳くらいで、ウクライナ人としてはかなりの高齢になる。自然淘汰で人数は減っており、今は180人程度」とのことだった。

 バスはザリッシャ村跡へと向かっていた。ザリッシャ村はゾーン内でも大きい村の一つで、事故当時約3000人が住んでいたという。

ザリッシャ村にて~原発が命を吹き込んだが、結局命を奪った~

 バスを降り、歩いて村へ向かう。ゴンチャレンコ氏が村について語った。「村民は当初、原発事故の深刻さを理解しておらず、避難先からすぐに帰って来られると考えていた。そのため家の中のものなどはそのままにされていた。数ヶ月が経ち、人々に家財の持ち出しを許可する法令が出されて、帰還日が設定された。その際、生活用品などは持ち出されたが、家具などは放置された」。

 ツアー参加者が「建物の中に廃れた家具などがあるのか?」と尋ねると、ゴンチャレンコ氏は「住民たちが必要なものを持ち帰った後、兵士たちが家々を巡り、残された家具などを収容した。それらは今でもゾーンの中の機関やホテルで使われている」と答えた。人々のものは国のものとして扱われたのだ。

【図2】ザリッシャ村の打ち捨てられた家 撮影:編集部

 氏は続けて「この村にはとても大きな牧場があった。ここの土地は農作物を育てるにはあまり適さず、それがここに原発が誘致されたひとつの理由でもあった。チェルノブイリ原発は両義的な意味を持っている。この地域はウクライナの中ではかなり奥まった田舎だったため、人口密度も少なく、原発誘致以前はどんどん過疎が進んでいた。原発がやってきて新たに命を吹き込んだという面が、この土地にはあった。しかしその原発がこの土地の命を奪ってしまった」と、土地と原発の関係に触れた。これは、日本の福島と同じ構造であるといえる。

 ザリッシャ村からバスへと引き返す。ゴンチャレンコ氏は、福島第一原発の事故から5ヶ月が経った頃、2ヶ月ほど日本に滞在したという。「福島の状況を見てどのように思ったか」との質問に、ゴンチャレンコ氏は「チェルノブイリよりも状況はかなりいいのではと思った。ウクライナ人で自分のように福島に行った人には、同じ意見の人が多かった。チェルノブイリの場合は問題は何千年にも渡って残り続けるが、現在の福島の汚染状況は、50年程度の年月が経過すれば、特に除染作業をしなくても改善されるだろう」と述べた。一方で、「人間が被った被害の点では、チェルノブイリと全く同じ状況だと思う。人間の感情はどんな状況でも同じで、いつになったら帰れるのかといった心配は、事故の規模に関わらずなくならない」とも語った。この指摘は、日本がチェルノブイリから学べることのひとつであるだろう。

ニガヨモギの星公園と元リクヴィダートルの思い

 一行はチェルノブイリ市へと向かう。そこからチェルノブイリ市が始まるという標識の写真撮影を行った後、チェルノブイリ市の中央を走る道路を通って、チェルノブイリ事故25周年の際に建設された記念公園、ニガヨモギの星公園へと向かった。

 公園内には避難区域の自治体の標識が並んでいる小道がある。ゴンチャレンコ氏によると「避難が必要となった区域が97カ所。そのうち66カ所が補償の対象となった」という。町の数を聞いただけでも、チェルノブイリ原発事故の大きさが感じられる。標識は裏側から見ると自治体の名が斜線で消されているのだが、その理由は、「ロシアなどの道路では、ある町の領域を出たことを示すため、町名を斜線で消した標識が用いられる。それを真似て作っているから」だそうだ。

【図3】ニガヨモギの星公園内、避難区域の自治体標識が並ぶ小道 撮影:金子耕治

 ゴンチャレンコ氏に公園建設時の状況を伺った。「立入禁止区域内に公園が必要なのかという意見や、地元の人にとっては不要なものではないかという考え方もあった。また、最初の構想では、それぞれの村のエンブレムに関わるものを収集しようという案があった。しかし、すべての村にシンボルがあるわけではなかったため、寄せ集めになってしまった」。公園建設に対する反対理由については、「古い家を壊し、更地にして公園を造っているため、そこに自分の家があった人たちが、特にアレルギー反応を起こした」とのこと。公園内にヘラクレス像が置かれているのだが、それについては、「ザリッシャ村のシンボルとして昔からあった。事故後になぜかとてもポピュラーになり、その後は、まず原発作業員の街スラヴティチに移動され、スラヴティチからは、放射能の影響を見ながら実験的に牛を飼う牧場があったクパバートフという村へと渡った。そこにしばらく置かれ、最終的にここに持ってこられた」という。

 記念碑「福島への祈り」に到着。「Fukusima」になっているのはご愛嬌か。これに関して、私は「この公園の関係者や来る人たちからの反応」について質問をしたが、ゴンチャレンコ氏は、「福島の事故が起った時、皆、いったい何が起ったのか、そして人々が何を耐えることになるのかをすぐに理解した。そのため、あの記念碑がここに置かれた時に驚く人は誰もいなかった。それ以外にも、元リクヴィダートル(事故処理作業員)の中には、経験のある私たちが福島に助けにいかなければ、という意見がとても多かった」と答えた。彼らの心持ちに、非常にありがたい気持ちになり、うれしく思った。同じような事故を経験した仲間である、という意識が彼らの中にあったのだろう。

重機と事故処理作業と「屋根の上の猫」

 公園を出て重機の展示場へ向かう。パイプラインがむき出しのまま通っているが、それは「事故後にお湯や水を通し、セントラルヒーティングを敷く際、汚染された土を掘らずに地上からそれらを供給」するためだったという。

 重機の展示場に到着。ゴンチャレンコ氏によると「ここに置かれている重機は、事故処理作業に使われたもの。最も汚染度の少ないものを選び、それをさらに除染しているが、完全に除染することはできなかった」そうだ。確かに展示場には放射線を表す看板が立っていた。実際の作業では、放射線量があまりに高く機械は壊れてしまい、最終的には人力に頼るしか無かったという。なお、以前は軍関係の重機のみを集め、スタジアムに置いていたそうだ。この展示場を作り、事故処理作業に用いられたロボットを併せて展示するようになったという。

 ゴンチャレンコ氏は事故処理作業について語った。「3号機、そして原子炉に隣接する機械ホールの屋根の上で作業をした人々は、そこに積もった燃料や炉心の破片などを除去しなければいけなかった。約4000人のリクヴィダートルがそこを通った」。氏はこの状況を「通る」という表現で説明した。「それは人間のベルトコンベアのようだった。そこで作業をした人々は一瞬にして被爆量の上限を越えてしまう。最初に作業をした人々は滞在時間の上限が40秒だったが、最終的には2分まで伸ばされた」。

「この作業の前に、『屋根の上の猫』と呼ばれていた人たちが線量を量った。これほど高線量の場所ではどんな防護服も役に立たないと分かっていたため、彼らは可能な限り身軽な装備で、できるだけ急いで測定し、すぐに戻るということをやっていた。つまり、汚染源からの距離をいかに遠くするか、汚染度の高い場所での滞在時間をいかに短くするかが被曝を防ぐ一番の近道だと、彼らは知っていた」。「『屋根の上の猫』たちは、その日の仕事のベースとなる線量のデータを供給していたが、皆ボランティアだった。この役目は、選ばれた人々しか負うことができなかった。彼らの中で現在まで生きている人はとても少ない」。また、「彼らの中には回想録を書いている人もいる。一般の兵士として事故処理作業に参加したのではなく、専門家として参加した彼らはその時の状況がはっきり分かっているため、その情報は非常に面白い上に貴重である」という。

10km圏へ~一部のジャーナリストへ告ぐ~

 バスは原発10km圏への入り口、レリフの検問所に到着。ここを通過するには特別の許可証が必要だ。10km圏の汚染状況についてゴンチャレンコ氏が解説をした。「セシウム137とストロンチウム90は30km圏内にもあるが、10km圏内ではそれらの線量がずいぶん上がる。30km圏は何百年かの時間があれば自然除染でもきれいになる。10km圏は半減期が非常に長いプルトニウムなどのウラン系の放射性物質があり、その間に核種が変化していくため、完全に除染されることはない。比較的低線量の汚染物質に関して、150万?分はすでに封じ込めたが、1000万?分はこれからしなければならない」。

 人口1000人ほどだったというコパチ村を通過。家々はほとんどが壊されている。晴天であればこのあたりで新石棺が見えてくるそうだ。コパチ村幼稚園にて、ゴンチャレンコ氏が周辺の汚染状況について解説した。「アスファルトから土の上に移動すると、すぐにガンマ値が上がっていく。このあたりはすべて汚染されていたから、アスファルトで覆っていないところには汚染物質が残っている」。人体への影響については、「この辺の線量は、私たちは非常に短い間しかここにいないため、特に健康に影響があるということはない」とのこと。冷静な意見である。参加者もこの状況に憂慮している様子は見受けられなかった。

 ホットスポットがあった(私の測定で16.84)。日本滞在中にもホットスポットが発見されたことがあったという。ゴンチャレンコ氏はその時の対応に、「特に汚染された一カ所にジャーナリスト達を集めて、『ここは汚染度が高い』と見せているやり方は信じられない。その部分の土を掘って放射線ゴミとして除去するだけで問題は解決をするのに、それを問題として知らしめようとするのはちょっと悲しくなった」と、苦言を呈した。一部のジャーナリストたちには、耳の痛い言葉だろう。

【図4】煙突が1本なくなった原発4号機 撮影:金子耕治

 チェルノブイリ原発4号機を望む記念撮影スポットに到着。この日は、4号機の煙突の除去作業が行なわれており、クレーンに吊られている煙突の断片を見ることができた。ゴンチャレンコ氏は、「我々は本当に歴史的な日に4号機を見ている。あの煙突があるから『これはチェルノブイリ原発の4号機だ』ということが分かっていたのだが、今日、まさにその煙突を除去する作業が終わる」と述べた。シンボルとなっていた煙突をフルサイズの状態で見ることができず残念な気持ちもあったが、このような歴史的な瞬間に立ち会えたのは、いわば、とても光栄であった。私が「新石棺が新しいチェルノブイリの象徴になると思うか」と質問すると、ゴンチャレンコ氏は「たぶんそうだろう。すでに4号機には煙突がなくなっている。今後は4号機のブロックそのものがこのアーチによって覆われてしまう。代わりにこの石棺がシンボルの役割を果たすことになるのだろう」と答えた。新石棺がシンボルになったとき、再びチェルノブイリに訪れてみたい。

 ゴンチャレンコ氏によると、撮影スポットのガンマ線はコパチ村とは全く異なるという。それは、「この場所は事故後に全てが新しく作り替えられているから」である。「4号機に背を向け、自分の体で空気を遮断してみると、すぐに線量が低くなっていくのがわかる。つまり、放射線はすべて4号機から来ているということ。ここは4号機の壁から300mほどの距離だが、3~4μシーベルトぐらいのレベルになっている。塀のそばに近づくと10μシーベルトくらいに、石棺の壁のそばで数ミリシーベルトまで上がる」。ゴンチャレンコ氏によると、4号機内の線量は、「現在、さまざまな線量のところがあるが、一番高いところで大体毎時20シーベルト」であるという。それは「象の足」と呼ばれる、メルトダウンした燃料などのかたまりだそうだ。4号機の中で作業をする場合、今でも滞在時間を秒刻みで計測しているという。

「聖地巡礼」の地、プリピャチ市へ

 撮影スポットを後にして、バスは事故当時5万人が住んでいたプリピャチ市へと向かう。事故翌日の4月27日の朝、無線でプリピャチ市民に避難命令のアナウンスがなされ、同日16時には避難が完了した。「使われたバスは1100台だった。その時自分はキエフにいたが、その日の様子を覚えている。バスは一台もなく、公共交通機関で動いていたのは地下鉄と路面電車とトロリーバスのみだった」と、ゴンチャレンコ氏はその日の様子を自身の記憶とともに語ってくれた。

 バスはプリピャチ市に到着した。目抜き通りのレーニン通りを通り、中央広場に到着。その後市内を散策し、チェルノブイリ本にも登場する観覧車まで歩いて向かった。

【図5】プリピャチの観覧車 撮影:市場祟

 ゴンチャレンコ氏はプリピャチ市民が避難した日の話を続けた。「空にはヘリコプターが飛んでいて、キエフに軍用車がどんどんやってきて北の方に向かって行った。当時、自分は13歳の少年で、その光景にワクワクしてしまった」。「当初は情報が全くなかった。私たちが得た最初の情報は噂だった。公式な情報が出たのは4月29日で、それも新聞のすごく小さな記事だった。もっとも、世界で検知された放射性物質の核種から、何が起ったのかが明らかにされていった。原爆実験ではなく原発事故だ、そしてそれはソビエトの原発で起こったことであると。こうしたことが国外で報じられていくにつれて、ソビエト政府としても隠しておくことができなくなり、情報が出るようになった」。

 プリピャチは、事故後に吹いた北向きの風と西向きの風、ふたつの風の間に位置していた。事故当時の市内の放射線量は高かったものの、これらの風が直撃していたらもっと犠牲者が多かっただろうという。滞在時の放射線量は0.5~0.8μシーベルト。

「赤い森」

 プリピャチ観光を終え、バスはニガヨモギの星公園にある博物館へと向かう。途中、「赤い森」を通過した。事故直後に起こった突風を浴びて、数日の間に松が全て枯れてしまったという汚染度の高い場所である。通過時にはバスの中でも線量計の数値が上がっていった。枯れた松は全て切り倒し、新しい木を植えたというが、それでもやはり線量が高い。「赤い森」の木をホルマリン漬けにしたものが、ゾーンツアーの前日に訪れたキエフ市内のチェルノブイリ博物館にあったのを思い出す。我々の知っている生き生きとした松の木ではなく、何か不気味なもののように感じた。

 30km圏内の公園に戻るために、ふたたび10km圏のレリフの検問所を通る。ここでバスの線量と参加者の被爆量を計測。その後、事故前は「ウクライナ」という名の映画館だったというニガヨモギの星公園内の博物館を見学し、徒歩で宿舎へ移動した。

 

 1日目の旅程は以上である。

 この日は、チェルノブイリ原発事故の被災地と、記念公園であるニガヨモギの星公園を観光することができた。原発は、チェルノブイリの土地に命を吹き込んだが、結果的にその命を奪うことになったという話が強く記憶に残る。福島の仮設住宅を訪れた時にも同様の言葉を聞いた。この両義性をどう考えていくのかということは、原発を巡る言論において重要なことなのではないかと感じた。

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1989年宮城県生まれ。明治学院大学大学院在学中に、第一回チェルノブイリツアーに参加。東北大学大学院卒。英文学修士(英語学)、文学修士(哲学)。

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