チェルノブイリ・ダークツーリズム体験記 (後篇)|大内暢寛

初出:2014年5月15日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ #13』
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 チェルノブイリ立ち入り禁止区域(通称ゾーン)ツアー、1日目は、チェルノブイリ原発の事故の爪痕を巡る旅程だった。2日目はいよいよ原発構内へと入っていく。私自身は原発構内の線量の高さに対する恐怖心もあり、そこには一時的にしか滞在しないのだから大丈夫だと、精神を冷静に切り替えなければいけない場面もあった。

 午前中に自主帰還者サマショールの方の家を訪問。その後、前日に訪れていたプリピャチの街をバスでパノラマ観光し、いよいよ原発の見学へと向かった。

 ゾーン内2日目。

ゾーンの東部

 ゾーンの東部を通り、サマショールの方の住むパルィシフ村へ向かう。

 立入禁止区域庁専属ガイド、エヴヘン・ゴンチャレンコ氏の解説によると、「事故直後には皆が強制避難になったが、しばらくして放射線を測り直した結果、それほど汚染されていないと分かり、帰還を認める法令が出された。だがその後、それ以上の帰還は認めないという法律が出された。政府は村を集めて区に統合することで規制区を拡大した。その区の中に汚染地域のある村が入っているという理由で、区全体を強制退去とされたのだ。ゆえに、東部は2度の強制退去を経験している」という。東部がふたたび強制避難地区となった理由は、原発に近いため、そしてベラルーシと国境を接しているためである。

【図1】

サマショールとの対話

 サマショールのイワン・イワヌイチ氏(76)の家へ到着。この村では、強制退去後帰ってきたのは140家族程度だったという。彼は最初に許可が下りた際、すぐに帰還し、それからずっとこの村に住んでいる。戻ってきた理由を尋ねると、「余所にいた時は病気になってばかりいたが、家に帰って1週間ぐらい休んだら治った。そのままここにいると全然病気にならない。放射能がどうこうと言われても、ここにいる方が元気だ」とのこと。戻ってからはチェルノブイリで15年間働いたそうだ。

 イワヌイチ氏はツアー参加者が次々に浴びせる質問に、辛抱強く答えてくれた。

 福島の事故についてはテレビの報道で知ったという。福島の強制避難区域に住んでいた人々が土地から切り離されることについては、「心から同情する。世代を超えてひとつの土地に暮らしてきた人たちが、故郷から切り離されることがいかに辛いかよく知っている。人間の精神にとってこの上なく悪いことだし、そのせいで死んでしまう人も現れるのではないかと思った」と語った。また、「今、福島の人に一番伝えたいことは何か」との質問には、汚染物を立入禁止区域の外に持ち出さないようにという忠告と、「日本はウクライナより技術も進歩しているため、絶対に問題は解決すると思うので、耐えて頑張って欲しい」という励ましの言葉をくれた。「事故当時はソビエトで今はウクライナになったが、政府からの支援は十分か」と尋ねると、「政権が変わる前はすべてが無料だった。ソビエト時代は全般にわたって支援がなされていたが、ウクライナ政府になり一切支援がなくなった」と言う。ウクライナで現政権が彼らを支援していないのなら、支援することが望まれるし、福島でも、時間が経つに従って支援が無くなっていくようなことがあってはならない。

 事故に対しては、「その頃は電力会社ではなく、国が全部管理していた。国が『国は成長しなければいけない』と言い続けていたため、落ち着くべきところでストップせず、どんどんと発展の方へ向かいすぎてしまったのが問題だったと思う」とのこと。「生活の場そのものが観光地となっていることについてどう思うか」という質問には、「ここで人々が出会い、ここではこのような生活をしている人がいる、あちらでは別の生活をしている人がいると、互いに知り合う機会。観光客が来るのはいいことだと思っている」という。福島第一原発観光地化計画にも力添えとなる発言である。

 私はイワヌイチ氏に「サマショール」と呼ばれること、そして「サマショールであること」ついてどのように感じているか質問した。答えは、「どのように呼ばれても関係ない。サマショールでも何でも、自分は自分の土地に住み、自分が建てた家に住んでいるのだから、それが一番大切」であるという。「サマショール」は、あくまで外部の人間が呼ぶ呼び方であって、本人達には何ら関係のないということが分かった。福島出身の参加者に対しては、「心配しないで。若いから大丈夫、帰れるから。大丈夫だから、パニックしないで」と温かい言葉をかけてくれた。最後にニガヨモギの星公園には行かないのかと聞かれると、「もう見飽きたよ」と。一同が笑いに包まれた。

ウクライナのジレンマ

 プリピャチの標識前で写真撮影。その後、ゴンチャレンコ氏にチェルノブイリ原発事故に対する現在のウクライナ人の意識についての質問が投げかけられた。「チェルノブイリの問題には、ウクライナ人よりも外国人の方が関心がある。ウクライナ人にとってチェルノブイリは忘れ去られたテーマであり、事故当時の状態で記憶に残ってしまっている。チェルノブイリに対してはふたつの態度があり、『観光客がチェルノブイリに来ている』と言うと、『何で金を払ってわざわざ汚染されているところに来るのか』という人と、『チェルノブイリは今キエフなどよりも、汚染が全くないからきれい』という人がいる」と、ゴンチャレンコ氏は答えた。福島の事故から一定の時間が経過したら、日本でもこのような態度が出てくるのだろうか。我々は無関心が生むこうした態度を避ける術をチェルノブイリから学ぶ必要があるだろう。

 忘却の理由に関して、ゴンチャレンコ氏が述べた見解は、「事故処理作業には大体60万人が関わっていた。事故処理作業には全ソビエトから人が集まったとされているが、やはりウクライナ、ベラルーシの人が最も多い。ウクライナでは当時の辛い記憶を持っている人が近くにいるという場合がしばしばある。そのせいで「チェルノブイリは酷い」というイメージが固定観念になってしまい、今チェルノブイリがどうなっているか最早考えたくないというのが今の状態ではないかと思う」というものだった。ツアーを行う意義については、「情報を与える側の人間として、自分が果たす役割は重要だと思っている。何らかの意志や意図を持ってゾーンにやって来て、色々質問してくださる方々に話をするのは非常に幸せだと思っているし、ここが忘れられないために尽力したい」とのこと。語り部や伝承者は、必ずしも被災者でないといけないということはないと、氏の話から考えさせられた。

ソビエト連邦の理想の街だったプリピャチ市

【図2】時間の都合上、プリピャチ市は車内からの観光となった。

 ゴンチャレンコ氏によると、「街の建設は1970年に原発の建設と並行して開始された。ここはソビエトの中でも模範的な新しい街とされ、外国の代表団などにも見せていた。建物は全て新しく、住民の平均年齢は26、27歳。子どもも多かった。プリピャチ市は、ソ連の中でも首都のモスクワやキエフなどと同等の扱いを受けていた。ソビエト時代は給料は皆同じだったが、違いは何を買うことができるか、つまり、自分が行く店にどういう品物があるかということだった」とのこと。プリピャチは街としても優遇されていて、モスクワやキエフと同等のものを仕入れる権利があったということだろう。

チェルノブイリ原発構内へ

 原発作業員用食堂で昼食後、チェルノブイリ原発へ向かう。原発内のガイドを努めてくださったのは、チェルノブイリ原発外事課のイーゴリ・スタロヴォイト氏(42)である。原発の過去と現状について、スタロヴォイト氏は次のように語った。

「この地域に原発を建てることは、政府により60年代に決定された。建設が始まったのが1970年。1977年に1号機が稼働を始めた。事故当時は5号機と6号機の建設中で、70~80%まで建設が進んでいた。だが原発事故により、以降ウクライナ全土で原発の建設は全て停止する法令が出されたため、5、6号機は完成しなかった。もしも建設されていたならば、ここはヨーロッパ最大の原発となったはずだった。1986年4月26日の夜中、悲しい事故が起こり、それによってチェルノブイリ原発1号機~3号機が停止された。その後、それぞれ除染と再生作業がなされ、それらの原子炉は生まれ変わった。1986年末、1、2号機が再稼働し、翌年の末に3号機も最稼働した。なぜ最稼働が遅れたかというと、4号機と非常に近かったため、汚染や破壊度が1、2号機よりも大きかったためである」。

「1996年に1号機が停止。2000年に3号機が停止したが、これはウクライナとG7との約束によるものだった。1991年に機械ホールで火災が発生した。火災後の処理が終わったら最稼働をする予定だったが、結局最稼働はしなかった」。

「現在、チェルノブイリ原発には固形の核廃棄物と液体の核廃棄物の再処理場がある。また、第二の核廃棄物保管庫がこれから建設される予定。既にある核廃棄物保管庫は、まもなく満杯になろうとしている」。

「事故後に新たな原発衛星都市としてスラヴティチが作られたが、そこで社会保障をしていくため、原発ではスタッフの再教育を積極的に行い、廃止になった課のスタッフたちが新たな場所で働けるよう、再雇用の場所や部門をどんどん作っている」。

見学コースと注意事項について説明を聞いた後、防護服に着替え、構内の見学へ向かう。

【図3】70年代の未来的なデザインが今も残る金の廊下を通り、2号機ブロック制御室へ。
【図4】
【図5】見学後、3、4号機のブロックを通過し、急な階段を上って、ワレリー・ホデムチュクの墓へと向かう。線量もかなり上がっていく。
【図6】
【図7】

 ホデムチュクの墓の前で、彼が亡くなった状況について、スタロヴォイト氏が解説してくれた。「事故は4号機で実験が行われているときに起ったが、実験中に冷却水ポンプの状態をチェックしに行ったのがホデムチュクだった。彼がポンプ室にいるときに爆発が起こった。ポンプ室の中は爆発の衝撃でめちゃくちゃになり、彼の遺体はいまだ発見されておらず、ポンプ室のどこかにあるままだ。彼には妻と2人の子どもがいたが、家族は今も4月26日にお墓参りをし、当時の同僚達と会ったりしている。事故発生から8月末までの間に何人かが亡くなっているが、最初に亡くなったのがホデムチュクだった。翌朝、プリピャチの病院で1名が亡くなり、その後、29名がモスクワの病院で亡くなった。86年、87年に事故処理作業が行われ、その中で健康状態が悪化した人や、亡くなった人もいるが、ソビエトでは彼らに関するまとまったデータが存在せず、最終的に何人が事故によって亡くなったかははっきりしていない。この問題の解決は全く簡単でない」。

旧石棺と4号機の現在

 原発内見学後、新石棺展示棟へと向かった。展示室ではチェルノブイリ原発国際協力セクションのユリヤ氏が解説してくれた。ユリヤ氏によると「86年の事故処理作業に関わった人々は、非常に放射線量の高い最悪の環境で作業を行った。最初の数週間が一番多く被曝した。その時に原発で働いていた人々は、命のリスクを冒すかもしれないことを承知していたが、それでも事故処理作業に自ら関わっていった。作業には何十億ルーブルもかかっているが、最も大きな代償は人間だった」という。ここで、石棺の建設についての映像を見せていただいた。

 彼女は4号機の模型を用いて説明を続けた。「ここで見せているのは現在の4号機の中の状態。アクティブ・ゾーンと安全システムは完全に破壊されている。チェルノブイリ型の原子炉の屋根に当たる部分は2000トンもの重さがあるが、爆発の圧力で30メートルまで上がって4号機の屋根を壊し、元の高さに戻ったときには横向きから縦向きになってしまった。事故後27年が経っているが、存在しているリスクは半減期の長い核種や燃料の残り、核物質を含んだ水など全く減っていない」。

 新石棺と旧石棺の安定化作業については、「27年前のリスクと現在の違いは、そのリスクをコントロールできることにある。旧石棺はわずか6ヶ月で建てられ、その耐用年数は30年と見積もられていた。その分の機能はすでに担った。2008年に行われた安定化作業では、現在の石棺が崩れないようにすることが重要な課題だった」。

【図8】

 夕暮れが近づき、上田氏が話を切り上げようとしても、ユリヤ氏は新石棺の工法について話を続けた。最後は「ここには日本の旗があるが、これは日本も新石棺の建設に協力しているということを示している。みなさんも協力している一員だと考えてほしい」と結んだ。

「福島はチェルノブイリのようにはならないだろう」

 バスを止めていた4号機前の撮影スポットに出たときに、ツアー参加者はふたたびガイドのゴンチャレンコ氏を質問攻めにした。「チェルノブイリでは観光や見学のノウハウが積み上がっていると実感したが、福島ではまだまだ。事故を世界に広めることについてどう考えているか」という質問に、ゴンチャレンコ氏は「私は2ヶ月間福島に行って放射線を測った。その結果から、福島はチェルノブイリのようにはならないだろう、50年後くらいには人々が帰れるようになるだろうと考えている。そのため、日本では打ち捨てられた家々をわざわざ観光客に見せることは必要ないかもしれない。福島にいた時にテレビなどで情報をチェックしていたが、津波の話ばかりで、原発の処理についてはほとんど情報が出てなかったと感じ、不思議に思った。役所などでは食べ物の放射線量などがきちんと発表されているが、一般の人と話してみると、そういったことを一切知らなかったりする。その断絶が不思議だと思った」と答えた。福島はチェルノブイリのようにはならないという氏の指摘を踏まえた上で、我々は福島の観光地化を考えていくべきだと思う。

【図9】

シロタ氏とゴンチャレンコ氏からのメッセージ

 バスは原発を後にし、ついにゾーンから出た。ディチャトキの検問所に、チェルノブイリ本に登場する元プリピャチ住民、アレクサンドル・シロタ氏(36)が来てくれた。「皆さんは私の故郷であるプリピャチの街に、そして、チェルノブイリ事故の現場に来てくださった。元プリピャチ住民として、そして強制避難をせねばならなかった人間として、皆さんの今回の旅が、今後何かに結実することを願いたい。そして今回チェルノブイリを見て、事故が単なる悲惨なものではないこと、事故後の状況は何らかの方向に動いていることを分かっていただきたいと思う。今回の福島の事故を、皆さんは必ず克服できると思う。あなたたちには広島と長崎の経験がある。さらにチェルノブイリの事故の経験も是非利用してほしい。チェルノブイリの事故や事故処理の、良いところにも悪いところにも学んでほしいと思う。皆さんの後に廃墟を残すようなことだけはしないでほしい。最も重要なのは、起ったことを忘却の彼方に去らせないこと。つまり、人は必ず忘れるもので、忘れてしまったことは必ず繰り返してしまう。だから、何より大事なのは、自分たちが何をやってしまったのかを理解し、記憶を継承していくことだと思う。私たちもできる限り尽力したい。今回皆さんが来てくださったことも、記憶の継承に大きく繋がる一歩だと思う。ここまで来てくださったことを心からうれしいと思っている」、これがシロタ氏の私たちへのメッセージである。

 2日間ガイドをしていただいたゴンチャレンコ氏とはここでお別れとなる。最後の挨拶は次の通り。

「これまで長く働いてきたけれども、この2日間皆さんと一緒に過ごしたのはとても面白かった。皆さんの質問にできる限りは答えたつもりだが、それは自分にとって非常に大切だ。ゾーンでのガイドは仕事であるだけではなく、人生のかなり大きな部分を占めている。皆さんのようなグループと一緒に働けたのは本当にうれしく思う。これから帰って質問が出てきたり、まだ聞きたいということがあったりしたら、ぜひまたいらしてほしい。そして、また私に質問をしてくれるとうれしい。どうか気をつけて帰ってください。遠くからはるばる来ていただいて本当にありがとうございました」。

【図10】

「信じられる未来」

 私は、このチェルノブイリツアーを通して、ゴンチャレンコ氏の「福島はチェルノブイリのようにはならないだろう」という発言が一番印象に残った。福島第一原発に関しては、ネガティブな報道が連日繰り返されているため、その反動としてこうした発言に惹かれてしまったこともあるかもしれない。とはいえゴンチャレンコ氏は専門家であり、実際に福島で放射線の測定もしている。そのことを踏まえると、彼の発言は「信じられる未来」のように思える。その「信じられる未来」のために、シロタ氏が指摘したように我々は忘却に抗っていかねばならない。私はそれに抗う手段をチェルノブイリから学ぶ必要があると感じた。東浩紀氏の提唱する「福島第一原発観光地化計画」もその手段となるだろう。

 福島の問題、つまり風化に抗うことは、原発事故のあった福島だけでなく、地震と津波の被害にあった東北の被災地の課題にもなっている。例えば、宮城県が福島第一原発観光地化計画の第二のハブになることで、原発事故と地震、津波災害の両方を学べる観光スケジュールを組むこともできるだろう。福島だけでなく、東北全体、そして日本全体の課題である今回の原発事故が、忘却の彼方へさらされることなく「信じられる未来」へ進んで行くことを願って結びとする。

 2日間のゾーン内旅行記は以上である。一部録音漏れがあるものを元に、文体の変更や削除などを行い作成した。そのため、ゾーン内観光の様子を全て網羅できなかったが、最後まで読んでいただいた皆様に感謝したい。ウクライナに平和が戻りますように。そして、再び我々がウクライナへ訪れることのできる日がやってきますように。

 最後に、この旅行記は上田洋子氏の的確な通訳と執筆へのアドバイスがなければ完成しなかった。そのため、彼女に特別の謝意を送りたい。

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1989年宮城県生まれ。明治学院大学大学院在学中に、第一回チェルノブイリツアーに参加。東北大学大学院卒。英文学修士(英語学)、文学修士(哲学)。

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