福島第一原発観光地化計画の哲学(7) 3.11に花火大会を(前篇)|清水亮+東浩紀

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初出:2014年9月18日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ vol.21』
 2023年2月10日、ゲンロンカフェにて、清水亮×さやわか×東浩紀「生成系AIが変える世界──「作家」はどこにいくのか」が開催されます。本イベントの開催にあたり、2014年に『ゲンロン観光地化メルマガ』で配信された、清水亮さんと東浩紀の対談記事を公開いたします。東日本大震災発生当時、テキサスにいたという清水さん。氏は発災直後の混乱のさなかに帰国し、福島にも訪れています。本記事では、清水さんのプログラマーとしての復興とのかかわりをお聞きします。

テキサスの3.11



──ご足労いただきありがとうございます。本日は、株式会社ユビキタスエンターテインメント(UEI)の代表取締役社長であり、福島第一原発観光地化計画にも研究会委員としてご参加いただいた清水亮さんにお話をうかがいます。よろしくお願いします。

清水亮 よろしくお願いします。

 
 


──さっそくですが、清水さん個人は、今回の3.11をどのように経験されましたか。

清水 2011年3月11日、ぼくは「サウス・バイ・サウス・ウエスト」★1というイベントに参加するため、テキサス州のオースティンに滞在していました。これは音楽、映画、ITなど幅広い業界が集結する世界的な大イベントで、ここで foursquare や Twitter が注目を集めてブレイクしたことから、IT業界でも注目度が高い。日本からはぼくたちや頓智ドット、あとはカヤック、電通といった企業が参加していました。日本のサービスを向こうで知ってもらい、広めていこうという主旨ですね。

 震災が起きたのは、イベントが始まる前日でした。向こうは夕方から夜くらいの時間帯だったと記憶しています。わけもわからずテレビを見てみたら、まるで映画の1シーンのような映像が流れてきた。しかし画面には「LIVE」と表示されているし、どうもリアルタイムらしい。しかも明らかに日本で起きている。報道にを注視していると、親戚が住んでいたエリアが津波で押し流されていることもわかってきました。
──親戚の方は、どのあたりにお住まいだったのですか。

清水 相馬郡の新地町というところで、福島第一原発からは北に50kmくらいにあたります。これはたいへんなことになっている、とあわてて自宅に電話をかけましたが、つながりませんでした。日本では震災が発生した直後のことで、現地は24時頃でした★2

 両親にも家族にも連絡がつかず、では会社はどうなっているのだろうとネットで連絡を試みたところ、Skype や Google チャットでやりとりをすることができました。ビデオ会議をして、社員たちが近くの神田明神に避難していることを知りました。一緒に渡米していた社員にも電話をかけて、みんなとりあえず家族に連絡しなさいと指示しました。しかしその日のうちには、だれも家族の消息をつかめなかった。あとで確認したところ、携帯に送ったメールも届いていなかったらしい。当然、返事もきません。そういう状況だったので、ぼく自身は地震の怖さについて身をもって知っているわけではありません。逆に、状況がわからないことの怖さの方が大きかったですね。

──帰国されたのはいつごろですか。

清水 落ち着くまで、1週間は滞在していました。もともとその予定でしたし、いまどういう状態で、これからどんなが起こるかわからない以上、急いで帰国するのはリスクでしかない。正直に言うと、ぼくひとりであれば帰ったかもしれません。しかし、英語もあやふやな社員を置いて帰るわけにはいかないし、まだ余震も続いているところに帰って、地震や二次災害に巻き込まれないとも限らない。

 女性社員もいたので、彼女を放射能に汚染された東京に連れて行って、将来的に妊娠できない身体にさせてしまうかもしれない。そこまで考えると、とても安易に帰ろうとは言えなかった。とりあえず、落ちついてから考えようと。いま思うと極端な話ですが、その時点では本社をアメリカに移すことも視野に入れていました。

 原発についてはいろいろなデマが飛び交っていたので、ぼくは東京ではたいへんなパニックが起きていて、それこそ核の冬が来るのではないかというくらいに考えていたのですが、実際にはけっこうのん気な様子だったようですね。でも、そのくらい情報がなかったんです。ただ、原発がメルトダウンしたという情報は、アメリカのメディアではすぐに報道されていました。気づいていなかったのか意図的に隠されていたのかはわかりませんが、報道されていなかったのは日本だけではないかと思います。
──3月11日、12日の時点だと、東京では原発があまり話題になっていなかったと記憶しています。13日くらいから、急に話が出るようになっていった。

清水 ぼくが覚えているのは、現地で頓智ドットの井口(尊仁)★3さんが現地の日本人を集めて、おれたちでできることをやろうと言って募金活動を始めたことです。サウス・バイ・サウス・ウエストの委員会にかけあって、一番いい場所を使わせてもらった。来場者は全米から音楽と映画とコンピュータの祭典に来ているので、お金持ちが多い。井口さんはなぜか募金ブースに全然顔を出さなかったのだけれど(笑)、ぼくと電通の専務が2人で募金を受け付けていました。そのとき用意したポスターには、状況を説明するために、はっきり「Meltdown」と書いたことを記憶しています。会期中に日本円にして2000万円くらいを集め、赤十字に寄付しました。

 日本には震災後1週間くらいで帰ってきましたが、帰国の際も、原発からの距離を勘案して、関西国際空港への便を使いました。もともと一緒に渡米していたのが4人で、そのうち1人はアメリカ人だったのですが、彼は実家から絶対に日本の戻るなと言われ、オクラホマに帰ってしまった。だから帰国したのは3人です。また、大阪も本社の移転先候補のひとつだったので、1泊していろいろ見てまわったことも覚えています。

──大阪や京都のホテルは、かなり混み合っていた時期ですね。

清水 ふだん泊まるようなホテルはすべて埋まっていて、すごく安いところに泊まりました。一応リスクを分散しようということで、東京へ戻るときもそれぞれ別の電車を利用しましたね。

震災直後の福島へ



──東京に戻ってからはどうされたのですか。

清水 福島の親戚に連絡を取ってみると、親戚の家は完全に流されてしまっているとわかりました。すぐに現地を訪れ、あまりにもなにもなくなっていることに衝撃を受けました。震災前にも訪れたことはあったのですが、そのときは海に近いということも意識しないくらいだった。そこがすっかり、津波で押し流されてしまっている。

 現地の方に話を聞くと、このあたりでは有名なブランドもののかばんをつくっていたのだけれど、もう要らないと言われて仕事がなくなったとか、勤め先の工場が20km圏内にあって立ち入れなくなっただとか、なにもかもがずたぼろにされてしまっている。

 ぼくがそのときに思ったのは、これはたぶん福島だけの問題ではない、ということです。アメリカ人は「東京が死んだ」と思っていたし、事実そういうふうに報道されていた。だから、福島の風評を払拭できなければ、東京、ひいては日本全体のブランドが地に落ちてしまう。実際に、太平洋沿いの東日本は多くの場所が大打撃を受けているので、東京が無事だったのも奇跡のようなものです。

──福島を訪問されたのは3月ですか?

清水 震災から2週間だったと記憶しているので、おそらくそうですね。常磐道はもう封鎖されていたので、東北自動車道から車で行きました。瓦礫の山を目にすることになって、本当に悲しかったですね。辛い話もたくさん聞かされました。隣のひとが避難しなくても大丈夫だと言っていたら、逃げ遅れて亡くなってしまったとか。なにもかもが流されていました。

 これはあまりにも深刻な状況なので、なにかできることをしなければならない。そう思って、まずはネットで要らなくなったパソコンを集め、それを現地に届けるということを始めました。パソコンが無ければ仕事もできないですから。
──UEIの社員の方がやったのですか。

清水 いや、ぼくが行きました。社員を危険な目に遭わせられないので。

──会社ではなく、個人的にやっていたと。

清水 そうです。一応パソコンは会社宛てに送ってもらっていましたが、来たパソコンはすべて自分の車に載せて、ひとりで持っていきました。寄付もしましたが、何百万円か寄付したところで焼け石に水です。アメリカでは2000万円集め、自分の会社でも何百万も出し、ぼく個人も寄付したのですが、集まった義援金を被災者に分配しようとすると、ひとり30万円にしかならないと知って絶望しました。

 ぼくは会社の経営者で、カネを集めたり作ったりするのが仕事です。孫正義さんが500億円を寄付すると聞いたときには、孫さんは本当にすごいと思った。けれど、それもひとりあたりに均すと、微々たる額にしかならない。30年かけてローンを組んでつくった家がなくなったひとが、30万円もらったところでなにになるのか。そこではじめて、これはカネでは解決できない問題なのだということに気づかされた。カネではこの状況は救えない。それでまずできることとして、道具としてパソコンをあげた。次にどうするか。

 現地では農作物もかばんも売れなくなっているし、労働力も買ってくれない。縁談が進んでいた女の子が結婚を断られたという話も聞きました。ではぼくにできることで、カネ以外に福島や東北の復興に協力できることはなにかと考えて、じゃあゲームづくりを教えようと。地元の高専や専門学校とコンタクトを取りながら、無料のプログラミング学校をやろうというふうに動き出したところで、ちょうどIGDA(国際ゲーム開発者協会)日本支部代表(当時)の新清士★4さんが、福島でゲームジャム★5をやりたいという話を持ってきて、カネがないから出してほしいという。それならばカネもヒトも出そうということで、東京で公募したゲームクリエイターを40人くらい連れて行って、現地の学生や子どもたちと一緒にゲームをつくった。南相馬市議の但野(謙介)さん★6と知り合ったのもそのときです。

子どもたちにプログラミングを



──清水さんの復興支援は、パソコンを現地に送り届けることから始まり、次に、ハードを配るだけではなく、そこで新しい産業を興せるようなプログラミング塾へと進化した。それが福島ゲームジャムだというわけですね。

清水 そうです。またその過程で、いまの子どもたちは自分のパソコンを持っていないということに気づきました。ぼくたちが子どもの頃は、MSX★7のような、子どもが使うことが前提のパソコンが安価で買えました。それに、お父さんが買ってはみたものの使いこなせなかったパソコンが家に転がっていることもざらだった。そういうマシンで遊んでいるうちに、プログラミングに詳しくなる子どもがたくさんいたんです。ぼくもそのひとりで、6歳の頃からプログラミングをしていました。そもそも当時のパソコンはプログラミングにしか使えないので、自動的に鍛えられていく。同じような環境から出てきたのが、はてなの近藤(淳也)さん★8や mixi の笠原(健治)さん★9ですね。

 ところが、いまのパソコンはだれでも使えるようになった代わりに、家にパソコンが余っているようなことも少なくなり、あったとしてもいかがわしいサイトにアクセスできてしまうことが親もわかっているので、あまり子どもの自由にはさせてくれない。そのせいで、子どもがコンピュータを学ぶ機会はじつは少なくなっている。

 親の無理解とも言えますが、彼らの立場からすると気持ちはよくわかる。ならば、プログラミングに特化した端末を、格安で配ればいい。そのアイデアが行き着いたのが enchantMOON★10なんです。それ以前から、 enchant.js★11という子ども向けのプログラミング言語を開発するなど、教育には力を入れていました。しかし、そもそも子どもたちはキーボードが打てない。もちろん昔の子どもよりも上手に扱いますが、ふだん使わない記号の入力などでつまずきやすく、そこがハードルになってしまう。そこで、ビジュアル型のプログラミング言語を導入しました。

 しかしこれも、少し頭を使わないと使えない。よく観察してみると、子どもたちはマウスを使うのにも苦労していたりするんです。もっと直感的に、触るだけでつくれなければいけない。だからと言って、お仕着せの絵が表示されるだけでは納得しない。自分がつくった絵や自分で撮った写真が動かせるようになってはじめて、子どもたちは「これが自分のものになった」と思う。ということで、必然的にお絵かき機能やカメラ機能も盛り込むことになりました。

 そういう機能を考えていった結果、これを大量生産し安価で提供するには、何万台も売らなければならないし、元手も莫大にかかってくることがわかってきた。そこで逆算して、まずは大人に買わせて、飽きたら子どもが使うようなビジネスモデルを考えました。それが enchantMOON なんです。

ソフトウェアは汚染されない



──なるほど。ぼくは構想段階から enchantMOON について知っていましたが、背景にそういった意図が隠されているとはいまはじめて知りました。enchantMOON の構想の出発点には、「カネだけばらまいても仕方がない」という震災の経験があったのですね。

清水 ソフトウェアは汚染されないですから。たとえばチェルノブイリ原発で事故が発生してから、ソ連製のものを世界中が避けました。チェルノブイリはソ連のごく一部にすぎないけれど、みんなそれを意識せず、ソ連のものはすべて排除した。しかしその一方で、ソ連生まれのゲーム『テトリス』は、世界中で遊ばれていた。ソ連製だから遊ばないというひとはいなかったし、ゲーム内でロシア民謡が流れていても気にならない。

 これはたとえですが、たとえば福島に1万人の子どもがいたとして、彼らに1回ずつプログラミングを経験させれば、そのうちひとりかふたりでも、すごいやつが現れてくるかもしれない。その確率は、義援金の30万円から商売を起こして成功するひとが出てくるよりも、遥かに高いと思います。正直言って、カネが無くてもなんとか生きていくことはできる。でも教養がなかったら、そこから先に進むことはできない。ぼくはたいしたカネをあげることはできないので、教養や希望を与えてあげたいと思うんです。そしてそれができるのは、じつはゲームだけじゃないかと思っています。

 ぼくはもともと、仕事としてゲームづくりをしてきましたが、ゲームは人類の役に立つようなものではないと思っていました。むしろ、ひとの時間を浪費させる社会悪かもしれないと。しかし震災を経てはじめて、ゲームが持っている潜在的な可能性に気づきました。子どもたちを集めるときに、「ゲームをつくる」と言えばたくさんの子が集まってくれるけれど、「プログラムを教える」と言ってもだれも来ない。その差は巨大です。

──福島ゲームジャムについて、もう少し詳しく聞かせてください。

清水 メインの会場は福島です。そこに東京からの参加者と現地の参加者が集まり、チームを組む。半分くらいが東京からの参加者ですね。そして、30時間ほどの制限時間のなかでゲームをつくっていく。参加者には学生もいればプロもいて、そういうひとが混ざって、各チームごとにゲームをつくっていくことになります。

 プログラミングは、レクチャーでは身につきません。2日間みっちりと講義を受けたところで、だれもプログラミングができるようにはならない。ものづくりには、一緒につくるという経験を通してでしか伝わらないことがたくさんある。
──参加費は?

清水 無料です。

──全額ですか?

清水 そうです。そのためにUEIがお金を出したんです。バス代とか、食事代とか。ただし会場については、但野市議の協力によって無料で借りることができました。とはいえ、ひとつの企業が主催しているとほかの会社がスポンサードしにくいこともあり、第2回以降は協賛というかたちを取っています。(後編に続く)

2014年8月4日 東京 ゲンロンカフェ

 


★1 毎年3月前半にテキサス州オースティンで開催される巨大イベント。1987年に音楽フェスティバルとして始まり、のちに映画、インターネット(インタラクティブ)部門が加わった。現在は3ジャンルのフェスティバルが並行して行われており、1年の総来場者数は10万人を超える。URL=http://sxsw.com/
★2 日本とテキサス州の時差は15時間。東日本大震災が発生した14時46分、テキサスは23時46分だった。
★3 1963年生まれのIT起業家。2008年に頓智ドットを創業し、AR(拡張現実)アプリ「セカイカメラ」によって大きな話題を呼んだ。
★4 1970年生まれのゲームジャーナリスト。2002年のIGDA日本支部創設にあたって中心的な役割を果たし、現在は名誉理事を務める。著書に『『侍』はこうして作られた』(新紀元社)など。
★5 およそ30時間から48時間程度の決められた時間内で、多くの場合即席で組んだチームごとにゲームを1本完成させるイベント。2002年にカリフォルニア州オークランドで行われたものを起源とし、現在では60ヶ国以上に広がっている。
★6 1982年生まれの政治家。NHK室蘭放送局記者を務めたのち、PRコンサルタントを経て独立。2010年11月の南相馬市議会選挙でトップ当選を果たし、以後現職。
★7 1983年にマイクロソフトとアスキーが共同で提唱したパソコンの統一規格。当時パソコンは1台数十万円が当たり前だったが、安いものでは2万円以下という低価格で、小中学生を中心に広い支持を集めた。
★8 1975年生まれのIT起業家。2001年に「人力検索はてな」を開発、創業して以降、「はてなダイアリー」、「はてなブックマーク」などの独創的なサービスで注目を集めた。
★9 1975年生まれのIT起業家。2004年にSNS「mixi」の運営を開始し、現在は同社の会長を務める。
★10 UEIが2013年7月にリリースしたタブレット端末。「紙の再発明」をキーワードとし、手書きに特化したハードウェア、指示を直接書き込む「NO UI」設計、プログラミング開発環境「MOONBlock」などの特徴を持つ。URL= http://enchantmoon.com/ja/(現在はリンク切れ)
★11 2011年に公開された、HTML5とJavaScriptをベースとするゲームエンジン。Flashを必要としないこと、多くのウェブブラウザで動作することなどの利点がある。
 

清水亮

新潟県長岡市生まれ。6歳の頃からプログラミングを始め、21歳より米Microsoftで上級エンジニアとした活動後、1999年にドワンゴに参画。2003年に独立し株式会社UEIを設立。2005年に独立行政法人IPAより天才プログラマーとして認定される。以後、10社の設立にかかわる。近年は深層学習を活用した人工知能の開発を専門に行い、2022年よりパーソナルAIサービスMemeplexを開始。著書として『よくわかる人工知能』(KADOKAWA)、『教養としての生成AI』(幻冬舎新書)、『検索から生成へ』(エムディエヌコーポレーション)など。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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