海を渡る船(1) 記者が見た最後の集団引揚げ|撮影=中沢道明 編集・文=荒木佑介

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初出:2014年12月18日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ vol.27』
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興安丸、けさ出港 赤十字も緑にかえて
【舞鶴発】第十一次ソ連帰国船、興安丸はきょう十七日午前八時舞鶴を出港する。興安丸は今回から赤十字船から政府船となったため船腹の「赤十字」も「緑十字」にぬりかえたほか、今度はクリスマス当日舞鶴に〝お年玉帰国〟になるのではじめて船内慰問用として日赤は千四百本のブドウ酒、千二百袋入りのたばこ、キャラメル、雑誌、また舞鶴地方引揚援護局でも千四百人分の日用品を十六日それぞれ積込みを終り医師三名、看護婦十八名の船内救護班ほか厚生省、日赤の各代表もすでに乗船準備を終り出港を待っている。(読売新聞 昭和31年12月17日 7面)


興安丸、舞鶴を出港 帰港は一日繰上げか
【舞鶴発】日ソ復交に伴うソ連抑留戦犯など千余名を迎えに行く帰国船興安丸(七、〇七七トン、玉有勇船長)は十七日午前八時三十分無風、快晴の舞鶴港を出港した。同船はいったん門司に寄港のうえ一路ナホトカに向かうが、舞鶴地方引揚援護局では最初予定したように二十六日舞鶴に帰港すると三泊四日の帰国業務もあり、北海道方面の人はお正月に間に合わないかもしれないと心をくばり、できれば一日早め二十五日朝舞鶴に上陸できるよう準備を進めている。(読売新聞 昭和31年12月17日 夕刊 5面)
 

出航前の興安丸。
 

興安丸に乗船する人。
 
 ここで少し解説を挟みます。

 この写真は新聞記者だった母方の祖父、中沢道明が撮影したものです。祖父は7年前の2007年に他界しました。お葬式を終えた後日、母と共に遺品整理をしに行ったわけですが、その時に、祖父が取材で撮影したと思われるフィルムを見つけました。本数にして200本以上のフィルムが、密閉した缶の中に入れられていました。そのため保存状態は悪く、ほとんどのフィルムが劣化しており、50年以上前のものとなると、全体的に萎縮していました。その場で光にかざして内容を確認したところ、これらのフィルムがただの遺品ではないことを即座に悟りました。中でも、ソ連からの引揚げを撮影したものは素晴らしく、まるで一本の映画を見ているようでした。そこで、ロシア文学者の上田洋子さんにお見せしたところ、とても良い反応を頂き、このような形で掲載することになりました。

 今回、ご紹介するのはその「第11次ソ連引揚げ」の写真です。ここでは引揚げの歴史について詳細な分析をするのではなく、写真を中心に当時の状況をトラッキングしてみたいと思います。
 

門司からナホトカへと向かう。この島は何島なのか、分かる方がいたらご一報下さい。
 

船内で7並べをする看護婦たち。
 

こっちは麻雀。
 
 興安丸の名前の由来は、満州と内モンゴルの間に走る火山山脈、大興安嶺山脈からです。船は横から見ると山脈に見えるからでしょうか。船内ロビーには、満鉄から送られたその絵が飾られていたそうです。興安丸が建造されたのは1937年になります。
 

エンジンルーム。
 

興安丸は石炭焚き蒸気タービン推進動力。
 
興安丸ナホトカ着 初の日の丸ひるがえし
【興安丸・乗船記者団二十二日発】興安丸は季節風の吹きまくる日本海を横切って二十二日朝八時ナホトカ港外に着いた。風速十五メートル吹く風は身を切るようにつめたく海は白波を立てている。左手にはポボローヌイ岬が深いモヤの中に見え、遠くナホトカの町の背面にそびえるチョールヌイ山が白い雪をかぶっている。船内では十数年振りに帰る千数百名の同胞を迎える喜びにわきたっている。

玉有船長は「興安丸はこれで二十回目の引揚航海だがこんなに希望の持てる航海はない。船員もみんな張り切っている」と乗組員を指揮、すでに船内に万国旗の飾りつけを終え帰国者たちに故国の味覚を贈る食料の準備など全くとゝのった。また外務、厚生、日赤の代表たちは前夜から帰国受入れ準備に夜を徹して事務を進め、名古屋、大津、姫路各赤十字病院から特派された看護婦さんたちは白衣に着かえて帰国者を待ちかまえている。

興安丸は二十二日正午にはナホトカ港岸壁に横着けされるが、始めての政府船としてナホトカに着くので国交回復を象徴する大きな日の丸が掲げられ、ナホトカ港には初の日章旗がひるがえるわけである。帰国者たちの乗船は二十二日夕になると見られ、同夜は港内に停泊、帰国業務を進めて二十三日夕には出港、故国に向かう予定。(読売新聞 昭和31年12月22日 夕刊 5面)
 

氷に閉ざされたナホトカ港外。
 

ナホトカを臨む人たち。
 

ナホトカに上陸。待機所か。
 

雪しぶきの中の墓地
【興安丸・中沢記者】ナホトカの日本人墓地には日が暮れてから連れていってくれた。興安丸が着いた岸壁からバスで約六キロ、ひどい "田舎のバス" で、おまけに道に凍りついた雪が波を打っている。料金は取られなかったが、三十コペイカの距離だそうだ。墓地はナホトカ港を見下ろす丘の斜面にあって、深々と雪におおわれ、小さな墓標が三百以上も整然とならんでいた。名前はなくてすべて番号だった。どっと風が吹くと乾いた雪がしぶきのようにとび流れた。(読売新聞 昭和31年12月26日 夕刊 2面)
 
番号で書かれた墓標。
 

整然とならぶ小さな墓標。
 

パーティーも監視付き 日本人記者が始めて見るナホトカ
【興安丸・中沢記者】興安丸乗船記者団は国際法上はじめて "交戦国" ではなくなったソ連領土に上陸した。ナホトカからはじめて国際電報打電の許可をしてくれたし、こんな田舎町にしては精いっぱいの歓待もしてくれた。しかし国交回復を知っているのはお役人と学生くらいのもので、一般市民は何を聞いてもサッパリそんなことには興味がないらしかった。

ナホトカの町の雑貨店は食料品と安物の衣料を並べていた。店の中央の "表彰板" に店の女店員の写真が労働英雄として飾られているが、片言の英語ができるソ連人の客をやっと見つけて店員とインタビューを試みた。日ソ国交回復も日本人の集団帰国もハンガリア問題も何一つ知らないようだった。興安丸にもどってその話をしたら
「本当に知らないんですよ。新聞を読むことは政治に興味をもっていることとみられて危いんですよ。労働者は食物と酒をいかにたくさん手にいれるかだけ考えて立ちまわっているだけです。ソ連が禁酒令を出したら革命が起りますよ」と教えてくれた。

ナホトカの漁業会館はこんな田舎の町にしては立派なものだ。五百人入れる劇場と三百人おどれるホールからなっている。ちょうど土曜日の夜だったので満員だった。少女は赤いベンベルグのスカートをクルクル振回してワルツをおどり続けた。ひどく古典的なおどり方だったが、おどっている青年と少女たちの表情がまたひどく厳粛だった。招待された日赤の看護婦さんにちょいといたずらしたロシアの若い衆は、たちまち制服を着たオジサンにつかまって油をしぼられた。ソ連だけエチケットにはずれることをしていいわけはないから不思議はないが、記者たちとおどってくれたソ連の娘さんたちが同じ制服のオジサンに別室に連行されて何やらいわれていたのは監視付きのダンスパーティーという光景だった。厳粛な顔をしておどっているはずである。(読売新聞 昭和31年12月26日 夕刊 2面)
 
ナホトカの人たちと記者団。カラーで撮影したものもあった。
 

漁業会館ホールでのダンスパーティー。
 

 ここで、1956年当時の日本の状況を振り返ってみます。10月に日ソ共同宣言に署名、12月12日に発効、11年ぶりに日本とソ連の国交が回復します。また同日、日本の国連加盟が承認されます。

 引揚げは太平洋戦争が終わると同時に始まり、軍人、一般邦人合わせて、およそ660万人の日本人が引揚げ対象とされました。「人類が経験した最も広範な集団的人口移動」[★1]と言われ、彼らが在住していた地域は、環太平洋地域のほぼ全域に渡ります。

 ソ連と中国ではなかなか引揚げが進まず、1950年4月にはソ連から一方的な送還完了が通知され、同年6月には朝鮮戦争が始まり、ソ連中国共に引揚げは停止します。中国での引揚げが再開したのは1953年3月で、朝鮮戦争休戦はその4ヶ月後になります。同年12月にはソ連での引揚げが再開し、それを「再開第1次」と呼びます。今回見て頂いている「第11次」は、再開してからの数字です。そして、これをもって集団引揚げは終わり、個別引揚げへと移行します。

 それでは、引揚げ者が列車に乗ってナホトカに到着したところから再開します。
 
ナホトカに到着した人たち。軍人だけではなく一般邦人も乗っている。
 

歓迎を受ける引揚げ者たち。
 

興安丸へと向かう。
 
興安丸けさ出港 帰国者は千二十五名
【ナホトカにて興安丸乗船記者団二十三日発】ソ連からの第十一次帰国船興安丸は二十三日午後四時出港の予定が一日遅れ、二十四日午前十時ナホトカを出港、舞鶴には二十六日朝到着する。こんどの帰国者の数は千二十五名で、二十三日午後から乗船を開始した。出港が遅れたのは帰国者を乗せた列車が遅れたためである。(中略)

午後二時すぎ乗船開始、夕方までに乗船を完了した。ナホトカはこの日快晴、気温は零下十五度の寒さ。道も岸壁もカチカチに凍り興安丸のデッキは氷で真白。ナホトカ湾内もすっかり凍結し厚さ二十センチの氷に閉ざされている。(後略)(読売新聞 昭和31年12月24日 7面)
 

砕氷船に曳航されながら出港。
 

抑留中に亡くなった方々への黙祷。
 
 ここで、抑留者と共に過ごし、検疫のために連れて行けないとされたシベリア犬クマが、極寒の海に飛び込み、引揚げ船を追いかけてきます。追いかけてくる様子を抑留者が見つけ、船を止めろと叫びます。玉有船長の判断で船は止まり、クマを救出するために縄梯子が降ろされます。
 
救出されるクマ。
 

 クマは無事救出され、皆と共に日本へと向かいます。舞鶴到着後、検疫官が来るまで、クマはしばらく興安丸にて待機します。 

家族三千人出迎え 興安丸、けさ舞鶴帰港
【舞鶴発】最後の集団ソ連帰国者千二十五名を乗せた興安丸は順調に南下を続け、きょう二十六日午前八時舞鶴に入港する。同船はいったん大丹生沖合で停泊、全員検疫を受けたうえ十時半ごろ平桟橋沖へ回航、上陸開始は十一時ごろの予定。午後二時から東本願寺法主大谷光暢師が導師となって近衛文隆氏らソ連地区死亡者の慰霊祭が行われる。帰国者たちは三泊四日の後お正月に間に合うよう二十九日朝からそれぞれ特別列車で郷里に向かう。

興安丸入港前夜の援護寮は積雪の除去作業もすべて終了、帰国者が上陸する平桟橋に出迎え家族用のテントも張られ歓迎アーチが投光機にはえて受入れ準備はすべて整った。寮内はストーブで暖房しフクジュソウやハボタンの生花がお正月気分をただよわせていた。一方出迎え家族も全部来鶴を終り約三千名が森寮と援護局第五寮に分宿した。帰って来る父、兄、息子の名前を書いたノボリやナフタリン臭いオーバー、背広などを取出してラジオからもれるクリスマス音楽に耳を傾け寝つかれない様子だった。(読売新聞 昭和31年12月26日 7面)
 
舞鶴に到着。
 

出迎える記者たち。
 

雪……?
 

平桟橋を渡り、家族の元へと向かう。
 

「第11次ソ連引揚げ」の写真は259枚あることが分かりました。今も整理分類を続けているため、これから先、増えることもあるかもしれません。

 



 今回見て頂いた写真から、抑留者の凄絶なシベリア体験や、戦争の痕跡を見るのは少し難しいかもしれません。ただそれだけに、戦争の語り口はどういうものがあり得るのか。そんなことを考えるようになりました。

 私の専門は写真ですが、1人の人間が撮影した写真をこれほど長い期間見続けるのは初めての経験になります。しかもそれは、撮影者が取捨選択する以前のものです。祖父からすれば記事を書くための素材にすぎないのでしょうが、私はそこから話の紡ぎ出し方を見たような思いです。

 



 ベタ焼きというものがあります。フィルムを直接印画紙にのせて焼きつけるもので、撮影した全てのカットを確認するために作ります。私が始めの文章で、トラッキングという言葉を使った背景に、このベタ焼きの存在があります。

 ここでは編集したものをお見せしましたが、全ての写真が見られるようにアーカイブを作成しました。1次記録だからこそ見えてくるものが、そこにはあると思います。

※「第11次ソ連引揚げ」の写真が全て見られます。
https://drive.google.com/folderview?id=0Bx1EkivxtfTVNVRhT0RyZmZNMEk&usp=sharing

★1 若槻泰雄『戦後引揚の記録』、時事通信社。

中沢道明

なかざわ・みちあき/1922年東京生まれ。時事新報・社会部記者を経て読売新聞・社会部記者、同次長、編集局参与。常駐特派員として沖縄(二年間)南ベトナム(一年間)駐在、移動特派員としてアフリカ各国、西アジア各国、東南アジア各国、アメリカ合衆国で取材。慶応義塾大学法学部政治学科卒。2007年没。

荒木佑介

1979年リビア生まれ。アーティスト/サーベイヤー。東京工芸大学芸術学部写真学科卒。これまで参加したおもな展覧会に「瀬戸内国際芸術祭2019」(KOURYOUチームリサーチリーダー、2019年、女木島)、「削除された図式 / THE SIX MAGNETS」(2020年、ART TRACE GALLERY)など。また『ゲンロン観光通信』、『レビューとレポート』などに論考を寄稿している。
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