戻りて、ただちに杭を打て(抜粋)
昭和四六(一九七一)年、「大五反田」の周縁に位置する戸越銀座。
中原街道から小道を入ってじきのところに、そのねずみ色の町工場はあった。工場の入り口には「合資会社 星野製作所」という木製の看板がかかっている。業種はバルブコック製造業。バルブとはざっくりいえば「弁」のことで、この工場では液体や気体の量を調節するために開いたり閉じたりする接続部品を製造していた。扱う金属は砲金(青銅)と真鍮(黄銅)である。
創業者は、外房は御宿・岩和田の漁師の六男、星野量太郎(六八)。芝白金三光町で丁稚をして技術を学び、五反田の下大崎で独立した量太郎がここへ移ってきたのは、昭和十一(一九三六)年のこと。「お得意さんの多い五反田から近い」「大通りに近い」という条件を十二分に満たす土地だった。社長は二代目で、五反田生まれの長男、英男(三八)である。
量太郎の妻、きよ(六六)は、御宿の山側の出身で、英男の妻、
〔……〕
英男は忙しかった。工員は定時で勤務を終え、食事と風呂を済ませてアパートに帰れば自由の身になった。しかし社長はそうはいかない。食後に再び工場に行き、一人で十一時頃まで仕事をするのが常だった。
それはまさに町工場の悲哀だった。親工場と町工場は、ピラミッドのような構造をしている。親工場から下請けに部品が発注される。下請けは孫請けに、さらにその下へ……と発注を下ろしていく過程で、納期に少しずつロスが生じる。そしてヒエラルキーの末端に近い星野製作所に注文が到達した時点で、納期はいつでも、すぐそこに迫っている。
お得意さんから「特急で頼むよ」と言われたら、断ることは難しい。断れば、発注ラインから外され、その後の仕事も失うことになるからだ。かといって、納期に間に合わない、あるいは間に合わせようとして雑な仕事をすれば、やはり外される。不良品の発生個数が多くなれば、町工場にとって最も重要な信用を失うことになる。成績が悪ければ、いつでも切られるのである。
「無理を聞き、納期を守り、よい製品を作る」
それを可能にするためには、社長の長時間労働が必須だった。
妻の良子も忙しかった。工員、家族の食事と世話を一手に引き受け、その合間に工場の仕事も手伝わなければならない。文字通り、目の回る忙しさだ。
そのため、幼稚園から戻った孫の子守りはもっぱら、先代の量太郎ときよに任された。
〔……〕
昔話もよくした。たいていは他愛もない話だった。酒が入っていたのだろう。
「じいさんは漁師の六男だったから、『りょうろくろう』と名付けられるところだったんだ。それを役場のもんが反対して、『りょうたろう』になったって寸法よ」
「岩和田にいた頃な、墓を掘り返したら、死人の髪と爪がボウボウに伸びてたんだ。死んだと思って埋めたが、土の中でしばらく生きていたんだな。あれにはたまげたぞ」
「チョーヘイ検査の日、醬油を一升飲んで真っ青な顔で行ったら、見事に不合格よ」
「星薬(星薬科大学)の近くの柳の下で、女の幽霊を見たことあるぞ」
「メチルだけは飲んじゃいけねえ。あれは『目が散る』つうて、目がつぶれるからな」
疑うことを知らない博美は、すべてを真に受けた。「漁師の六男」という言葉が頭に刻印されたし、本当は多くの人が生きたまま地中に埋められているのではないか、と怖くなった。醬油をたくさん飲むと顔が青くなるのだ、と学んだ。柳の木には幽霊が多いから、気をつけよう。「メチル」がなんだかは知らないが、とにかく飲んじゃいけないのだ、と肝に銘じた。
時には少しまともな話もした。酒が抜けていたのだろう。
「ここが焼け野っ原になったらな、すぐに戻ってくるんだぞ。家族全員死んでりゃ仕方がねえが、一人でも生き残ったら、何が何でも帰ってくるんだ。わかったな」
博美にはさっぱり意味がわからなかった。
「そいでもって、すぐ敷地の周りに杭を打って、『ほしの』って書くんだ。いいな」
「うん、わかった」
「そうしねえと、どさくさにまぎれて、人さまの土地をぶんどる野郎がいるからな」
よく意味はわからないが、おじいちゃんがそう言うなら、そうしよう。
いつかここが焼け野原になったら、何が何でも戻ってきて、杭を打とう。
博美はその時初めて、ここがかつて焼け野原になったらしいということを、おぼろげながらに理解したのだった。
党生活者(1)(抜粋)
昭和初期の五反田、しかも五反田駅界隈を書き残してくれた、意外な文学者がいる。小林多喜二(一九〇三-三三年)だ。
〔……〕
と、またしたり顔で話を進めようとしているが、私がそれを知ったのはいまから十年ほど前、いまはもうない五反田のあゆみブックスで五反田関連書籍を探していた時だった。そこは、品川や五反田にまつわる書籍をよくとり揃えた、お気に入りの書店だった。地元史のコーナーをぶらぶらしていると、「五反田の藤倉ゴム工業は、小林多喜二の小説『党生活者』の舞台である」というオビ文が目に飛びこんできた。川上允著、「品川の記録」編集委員会監修の『品川の記録 戦前・戦中・戦後──語り継ぐもの』だった。
小林多喜二といえば、なんといっても『蟹工船』、そして小樽。当時は五反田のことをあまりよく知らなかったため、彼が五反田を小説の舞台に選んだ理由が理解できず、ただただ驚愕した。
いまならわかる。五反田に大工場があり、労働者が多数生息していたからだろう。この小説の主人公である「私」は小林自身の地下生活者としての体験に基づいて描かれている。
〔……〕
五反田要素だけでこの小説に反応した私だったが、さらに過剰反応する要素があった。
多喜二は一九〇三年生まれで、私の祖父、量太郎と同い年なのだ。そして彼が虐殺される二週間前に、父は五反田で生まれた。つまり多喜二がこの小説で描いた五反田の風景の中で、祖父は実際に生きていたことになる。
同い年の二人は、雑踏ですれ違いはしなかったか。駅前のビヤホールで席が隣になったかもしれない。同じしるこ屋に立ち寄ったかもしれない……。妄想はどんどん膨らんでいき、多喜二を必要以上に身近に感じてしまうのだった。
〔……〕
では、実際に『党生活者』を見てみよう。
これはノンフィクションではなく小説なので、「私」を多喜二そのものと見なすことはできないし、描かれた風景や事柄を事実と見なすこともできない。
テレビドラマや映画でよく使われる、その土地を象徴する印象的な風景を集め、物語に都合のいいように再構築するという手法がある。多喜二が五反田に来たら、この街のどんな風景に惹かれ、スケッチするだろう? 虚構であることを承知の上で、文中に五反田の気配を探してみたいのである。
文学作品のよき読者ではない上に五反田コンシャスである私は、共産主義的人間である「私」の内面にはあまり関心がなく、五反田と労働者の暮らしにしか反応しない。それでもよければ、党生活者ツアーを始めよう。
工場から電車路に出るところは、片方が省線の堤で他方が商店の屋並に狭められて、細い道だった。その二本目の電柱に、背広が立って、こっちを見ていた。見ているような見ていないようなイヤな見方だ。私は直ぐ後から来る五六人と肩をならべて話しながら、左の眼の隅に背広を置いて、油断をしなかった。背広はどっちかと云えば、毎日のおきまり仕事にうんざりして、どうでもいゝような物ぐさな態度だった。彼等はこの頃では毎日、工場の出と退けに張り込んでいた。(『蟹工船・党生活者』、一四三頁)
五反田駅近く、いまはワタナベボクシングジムがあるあたりか。この風景の中で、特高が電柱の陰に隠れて共産党員や反動分子の行動を監視していたとは、ワクワクしてはいけないのだが、興奮する。
一般にこの市は(他の市もそうかも知れないが)奇妙なことには、工場街と富豪の屋敷街がぴったりくっついて存在しているということである。今度のところも倉田工業のある同じ地区にも拘らず、ゴミ〳〵した通りから外ずれた深閑とした住宅地になっていた。それにいゝことには、しん閑とした長い一本道を行くと直ぐにぎやかな通りに続いていることで、用事を足して帰ってきても、つけられているか居ないかゞ分ったし、家を出てしまえば直ぐにぎやかな通りに紛れ込んでしまえるので、案外条件が良かった。(一七五頁)
工場街と富豪の屋敷街の共存。まさに五反田最大の特徴である。多喜二もやはり、その点に興味を覚えたらしい。
そしてその富豪の屋敷街こそ、藤倉の工場を真上から見下ろす池田山だ。四半世紀後に、そこから天皇家に嫁ぐ女性が出ることを、彼は知らない。
はじめ倉田工業と同じ地区にするのが良いか悪いかで随分迷った。同じ地区だと可なり危険性がある。然し他の地区ということになれば交通費の関係上困った。こんな場合は勿論他の地区のほうがよかったが、然し警察は案外私が他の地区に逃げこんだと思っているかも知れない。だから彼奴等の裏をかいて、同じ地区にいるのも悪くないと思った。(一七二頁)
多喜二は、五反田に住んだのか? 地下生活のリアルな描写を目指すなら、さほど長い時間ではないかもしれないが、住んでみたのではないだろうか。
彼なら、五反田のどこを選んだだろう?

登壇者の星野博美さんより
正直言って、意味不明である。客観的に、世界が五反田から始まっているわけはなく、すべての道が五反田に通じているわけでもない。
しかし、これらにおずおずと「私の」を加えると、文章は成立する。「私の」世界は、祖父・量太郎が1916年、五反田に上京した時から始まり、「私の」世界では、すべての道やすべての鉄道は五反田に通じていた。
1916年――。海の向こうでは第一次世界大戦が継続中で、ロシアではひたひたと革命の足音が近づいていた。少し前に革命を起こしたものの、国を掌握できずに失意の日々を送る孫文は、日本に亡命。そして五反田では、第一次世界大戦をきっかけに目黒川周辺に工場が林立し始めていた。海の向こうの戦争が、五反田を生んだといってもよい。
外房の漁師の息子だった量太郎は、そんな五反田の「誕生」を目の当たりにし、自らも製造業の道に入った。五反田にお得意さんが多かったため、離れた場所に住むわけにいかなかった。そして自国が仕掛けた戦争によって軍需工場の製造ラインに組みこまれ、商売は安定した。1945年5月、焼け野原になって、すべてを失うまで。
たかが五反田でも、確実に世界と連動し、大きな物語の一部分を構成していた。ちょうど、うちの町工場で作られる小さな螺子が、大工場に吸い寄せられ、戦闘機などの大きなものを構成したように。また工場労働者の多かった五反田は、革命を目指した人々が集まり、挫折した地でもあった。
わが家には、こんな家訓がある。
「ここが焼け野原になったら、ただちに戻り、杭を打て」
その真意は何なのか。そこからどんな風景が見えるのか。
五反田を舞台に、「戦争のある日常」を考えてみたい。
また今回は、ロシアに詳しい上田洋子さんの胸をお借りし、社会主義国家の話もする予定。
私は中国とソ連に惹かれながら、対極に位置する香港へ「転向」した過去がある。1970年代、日本のポップカルチャーにおけるソ連の存在感。人民服への憧れ。日本でも西洋でも、社会主義のイメージが流行った時代があった。思想より、かっこよさを求めた自分を題材に、いまでは地に堕ちた感のある社会主義イメージの変遷を追ってみたい。
五反田を起点に、世界や時間をあちこちへ飛ぶ。それを五反田のゲンロンカフェでできることは大きな喜びです。(星野博美)
¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行