第1章 大五反田──『世界は五反田から始まった』より|星野博美

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2022年7月20日刊行『世界は五反田から始まった』

はじめに


 私の出身地、そして現居住地は、東京都品川区の戸越銀座である。祖父の代から一九九七年まで、私の家族はここで町工場を営んでいた。 

 家は、五反田から東急池上線なら二駅、都営浅草線なら一駅、直線距離で約一・五キロのところにある。五反田にあるイベントスペース、ゲンロンカフェまでは、「ゲンロンの道」を通って約一・二キロ、徒歩十七分ほどだ。

 ちなみに「ゲンロンの道」とは、ゲンロンカフェと家との往復時にしか使わない、大人がすれ違えないくらい狭い路地を含んだ、最短距離の道のこと。そう呼ぶ人間は、私ただひとりであるが。

 


 これから私は延々と、五反田界隈の話をする。

 五反田については常々、何か書きたいと思っていたし、パラパラと散発的に書いたこともある。しかしこの街に対する私の異様な執着に理解を示してくれる編集者が既存の紙媒体にはおらず、これまでと同様、日記に書くしかないと諦めかけていた。

 そんなある時、ゲンロンの東浩紀さんと上田洋子さんから月刊電子誌『ゲンロンβ』連載の話を頂いた。しかも、「テーマは五反田で」という。

 東さんが創設し、上田さんが代表を務めるゲンロンは、カフェもオフィスも五反田にある。私は二〇一五年春頃から、関心あるテーマの際、ゲンロンカフェに討論を聞きに通ってきた。刺激的な討論を聞くことがもちろん目的だったが、それが五反田で行われていることが私には何よりも嬉しかった。

 五反田を思いきり書いてよいのか?

 この媒体でなら、私的な存在である五反田を普遍化できるかもしれない。そう思った瞬間、様々な時代の記憶が噴出して収拾がつかなくなり、いかに自分がこれまで、五反田に対する思いを封印してきたかを思い知らされたのだった。

 


 五反田とは、客観的にいってどんなところだろう。

 私は内部の人間なので客観的になりきれないところがあるが、できる限りニュートラルを心がけてこの街を見た場合、「山と谷で別世界が広がる、コストパフォーマンス(費用対効果)の高い街」が特色ではないかと思っている。コスパがよい、すなわち「価値ある割には安くてお得」ということだ。そのコスパのよさに惹かれ、最近ではIT企業やベンチャー系のオフィスが多く進出している。

 五反田は、東の銀座や新橋、西の渋谷や新宿へもアクセスがよく、最近では東海道新幹線が発着する品川にも近い。山の上は旧大名屋敷で、金持ちが住んでいる。交通至便な場所なのに、谷のほうは意外と家賃が安い。なぜか。五反田の対外的イメージが悪いからだ。

 一部の人にとっては五反田の評判を貶めているように見えるのが、五反田の風俗店の多さである。なぜか。ここに工場労働者が多く、一大歓楽街だったから。

 なぜ工場労働者が多かったのか。いまはかげかたちもないが、ここにかつては工場がひしめきあっていたから。

 つまり五反田の費用対効果の高さの根源にあるのが、かつてここに存在した工場労働者なのである。

 そしてそんな五反田に一九一六年、十三歳でやってきたのが、私の祖父、量太郎だった。

 五反田を五反田たらしめている特色を考えていくと、私の場合はどうしても祖父の存在に行き着いてしまうのだった。

 


「世界は五反田から始まった」

 このタイトルを目にした人の九割は、おそらく「くすっ」と笑うだろう。いくら五反田に拠点を置くゲンロンを版元にして書くからといって、世界が五反田から始まるわけがない、サービスしすぎではないのか、と。

 一般論ではない。

 これは私が所属する世界の話である。

 しかし一方では、こうも思っている。

 五反田から見える日本の姿がきっとあるはずだ。

 そう信じて、五反田を歩き始めようと思う。

第1章 大五反田



一 白金の清正公


 二〇一九年一月一日午前十一時。私は例年通り、両親とともに、白金高輪駅近くにある清正公せいしょうこう(正式名称は覚林寺)へ車で初詣に出かけた。

 戸越銀座のわが家の車庫から路地を抜けて中原街道に出、ゲンロンカフェのある五反田駅界隈を通り過ぎ、JR山手線の高架下をくぐり抜けると、道路の名称はいつの間にか桜田通りに変わっている。そのまま桜田通りを直進し、建築家ヴォーリズの建てた明治学院大学のチャペル(一九一六年竣工)を左手に見ながら走り続けると、じきに高級ホテルと高級マンションに囲まれた、そこだけ二世紀ほど時代がずれているような、すすで真っ黒に染まった古い寺が左手に出現する。それが清正公だ。うちの車庫からは右折二回で到達する。

 清正公は日蓮宗の寺院で、その通称名が示す通り、加藤清正が祀られている。元祖山手七福神の一つ、毘沙門天を祀る寺としても知られるため、正月は初詣客で賑わうが、なんといってもここの特色は、戦に滅法強いといわれた加藤清正にあやかる必勝祈願だ。この寺が提供するかちまもり頒布価格六〇〇円の「勝守」は、港区、品川区界隈では受験合格に効くことで知られ、受験生を連れた参拝客が多い。この日も本殿に上がる階段には、大人の革靴とパンプスに交じって小さなスニーカーが何足か並んでいた。

 私の人生は長くも短くもないが、記憶にある限り、そして正月期間に国外にいた場合を除いて、必ずここへ初詣に来ている。結婚してよそに住む姉までがいまだにわざわざここへ来るのだから、その呪縛は相当強固なものといえよう。

 わが家の檀那寺は、五反田界隈の桐ヶ谷火葬場近くにある曹洞宗の寺であり、日蓮宗とは何の関わりもない。しかもそれほど勝負にこだわる家とはとうてい思えない。だいたい、「呑気が一番」が家訓なのだから。なのになぜ、加藤清正を祀る寺にこだわるのか。不思議でならず、ある時、父に理由を尋ねた。

「俺がちっちゃい時から、じいさんに連れて来られたから」

という、あっさりした答えが返ってきた。その選択は、父ではなく祖父のものだったのだ。

 そう言われてみたら、いくつかの記憶がよみがえった。じじばばっ子だった私は、祖父母にいろんな寺社仏閣の縁日に連れて行かれたが、毎年五月四、五日に催される清正公大祭もその一つだった。じいちゃんが清正公好きだったのか......。争いを好まなかった祖父のイメージに、ますます合わない。目を白黒させる私に、父が続けて言った。

「じいさん、俺が生まれる前、あのあたりに住んでたからな」

祖父の上京


 それから私は、自分が生まれるはるか以前の家族の歴史に関心を抱くようになった。そして生前祖父が書き残した手記をもとに一族の足跡を訪ね、『コンニャク屋漂流記』という本を書いた。コンニャク屋とは、千葉は外房の御宿おんじゅく岩和田いわわだで鰯網の漁師をしていたわが家の屋号である。とりわけ海の荒い岩和田から戸越銀座へいたる道はなぜできたのか。岩和田の前にも道はあったのか。日本の近世における漁師の移動と一家族の歩んだ道のりが交錯した本なので、ぜひ読んでいただきたい。それはさておき、私が特に惹かれたのは、祖父と五反田の結びつきだった。

 祖父・星野量太郎は明治三六(一九〇三)年一月、稀に見る鰯の大漁の日、あぐり船(鰯網漁船のこと)の沖合殿おっけどん(漁労長)の六男として岩和田で生まれた。父親の勘助が、大漁にちなんで「漁六郎」と名付けようとしたところ、役場の人に「漁師の六男坊、そのままだっぺよ」と反対され、「あんでもかまわねえ」と思考停止して丸投げした結果、「量太郎」という名前で登記されたのである。

 その量太郎に転機が訪れたのは大正五(一九一六)年のこと。高等小学校での成績は悪くなかったが、二人の兄もあぐり船に乗っているように、このまま岩和田に残れば漁師の道しか残されていない。ちょうど祖父の母方の縁者である隣家の者が、東京の芝白金三光町で町工場を開いたばかりで、小僧を探していた。当時は見ず知らずの人を雇いたがらず、地縁か血縁で縛られた人を雇うのが常だった時代である。その双方の縁者である量太郎はもってこいの人材だった。学業に未練はあったものの、高等小学校の卒業を待たず、量太郎は上京することになった。十三歳の夏だった。

 つまり祖父は、一九一六年から清正公の近くで暮らし始めたのだった。

 祖父の手記に、清正公の話は一度も登場しない。盆暮れしか休みをもらえない大正初期の丁稚にとって、つかの間の休日に遊びに行けるところなど限られていただろう。近所の清正公で夜遅くまで開かれる縁日は、貴重な憩いのひと時だったのではないだろうか、と私は思いをめぐらせた。

 その愛着が高じ、五反田で所帯を持って長男(私の父)が生まれてからも、祖父は家族を連れて清正公へ通うようになった。そして父もまた、「小さい時からそうしている」という理由で、私たちを連れて行った。わが家は世代を超え、さしたる理由もなく、一世紀にわたって清正公に通い続けていることになる。祖父は昭和四九(一九七四)年、戸越銀座の自宅で七一年の生涯を閉じた。私がたったいま運転してきた、五反田を中間地点とする約三・三キロの道は、はからずも、祖父の東京生活の終点と起点を結ぶ数直線なのだった。祖父は何も意図していなかったに違いないが、私はこうして必ず、一年の初めに家族の歴史を思い出させられる。それも、悪くない。

地名ロンダリング


 さて、祖父が東京で最初に暮らした芝白金三光町というのは、現在の白金一帯を指した地名で、昭和四四(一九六九)年には名前が消滅した。かつては地下鉄がまったく通っておらず、非常に交通不便な場所として界隈では知られていた。

 白金といえば、日本庭園の美しい八芳園やシェラトン都ホテル、三島由紀夫の小説『宴のあと』の舞台となった高級料亭「般若苑はんにゃえん」(いまはもうない)などのように、江戸時代の武家屋敷が邸宅や高級料亭、ホテル、マンションに転じた物件が多い。「シロガネーゼ」という響きは滑稽だが、ここを高級住宅地と呼ぶのに誰も異論はなかろう。

 ところが、白金高輪駅から首都高速二号目黒線のほぼ真下を流れる古川方向へ向かうと景観は一変し、町工場や古い商店がひしめきあう街並みが広がっている。いまも父のお得意さんの工場がここに二軒ある。ちょうどその、高級住宅地と庶民の町の境界あたりに清正公は建っている。

 二〇〇〇年、この地域に営団南北線と都営三田線が開通し、白金台駅と白金高輪駅が誕生した時、なんともいえない違和感を抱いたことを覚えている。

「白金台」は、まだいい。しかし「白金高輪」は本来の高輪地域の末端に位置し、旧華族の屋敷が多かった高輪のイメージに寄生した、正直言って地名ロンダリングである。立地からしたら、「白金三光町」と名付けるのが筋ではないか。しかし白金に三光町を付けると、いきなり仕舞屋しもたやの香りが強くなることから、強硬に反対する住民が続出したのだろう、と容易に想像がついた。

 さらに私を苛立たせたのは、上記の地下鉄二本と乗り入れすることになった東急目蒲線(従来は目黒と蒲田を結んでいた)が、蒲田を切り捨てて武蔵小杉を選び、二線に分離して目黒線・多摩川線と名称変更したことだった。

 蒲田──。映画『シン・ゴジラ』で、ゴジラの第二形態、通称「蒲田くん」に這いつぶされてしまう蒲田は、これまた工場労働者が多く集った街である。五反田が、目黒川沿いに林立した親工場と下請け町工場の労働者を吸収する歓楽街として、大正時代から繁栄(と一応呼んでおこう)したのに対し、蒲田は多摩川沿いの大工場を背景に、主に関東大震災を契機として発展した、京浜工業地帯を象徴する街だ。祖父の工場で修業した甥は、戦後に蒲田で独立した。

 その東京城南の二大歓楽街を結ぶのが、ほかでもない、東急池上線である。町工場の娘である私は、だからこそ、池上線に強い愛着を抱いている。

 目黒線は、庶民の暮らしを思い起こさせる白金三光町を抹殺し、蒲田を切り捨て、多摩川向こうの武蔵小杉や日吉と手を組んだ。どうしても過去をクレンジングしたいらしい。『シン・ゴジラ』で、鎌倉沖から再上陸を果たした第四形態のゴジラは、武蔵小杉で自衛隊から集中攻撃を受けた。武蔵小杉の代名詞である二棟のタワーマンションをゴジラが倒すのではないかと、いまかいまかと待っていたが、倒さなかった。スクリーンに向かって、私はそっと舌打ちした。

二 逓信病院と池田山


 二〇一九年一月三〇日のこと。両親を車に乗せて五反田までひとっ走りした。目的地は東五反田五丁目にあるNTT東日本関東病院(以下、NTT病院と略す)。走る道路は、相変わらず中原街道と桜田通り。うちからは右折二回、左折一回で着く。

 両親はこの病院の常連で、特に父は、「姿が見えない時はNTT病院を疑え」というくらいの頻度で通う。私も、二年に一度の胃カメラはここで飲んでいる。

 ちょうど一年前、真冬の深夜に父が低体温症になって倒れた。その時も、首都高速と中原街道が交差するところに建つ消防署から救急車が出動して、あらゆる臓器のカルテが揃ったNTT病院に救急搬送してくれ、事なきを得た(三週間の入院は余儀なくされたものの)。中原街道と桜田通りは、うちの家族の生命道路でもある。

 それほど家族の生命を握るNTT病院であるが、実はさほど長い付き合いではない。「NTT」が冠に付くことから想像できるように、ここの前身は旧逓信系、つまり旧郵政省が職員と家族の診療のため、昭和二六(一九五一)年に開設した関東逓信病院だ。「近所にあるのに、庶民は診てもらえなかった」とは母の弁である。

 しかし、とはいいながら、何事にも諦めの悪いわが家族は、懇意にしていた郵便局勤務の知り合いに頼み、逓信病院時代にも診てもらっていたそうだ。原則はあるが、比較的ゆるい病院だったようである。

 それが電電公社の民営化、そしてNTTの再編成に伴い、平成十一年、NTT東日本関東病院として生まれ変わった。界隈の人々にとっては、「診てもらえなかった」敷居の高い病院が一般開放されたことになる。それまで旗の台にある昭和大学病院──祖母はそこの常連だった──へ行くことの多かった界隈住民は、NTTの、いわば改革開放政策に喜んだ。両親がこの病院へ行くたび、今日は待合室で誰と会った、誰を見かけた、誰がここに入院したらしい、と言うところを見ると、近所の人たちの相当数が五反田へ鞍替えしたようだ。

 この病院が客観的に優れているのか、そうでないのか、私にはよくわからない。少なくとも両親がこの病院を選ぶのは、そこそこ近く、そこそこよい総合病院という、実に「そこそこ」な理由による。別に社会にとっての重要人物でもあるまいし、高望みをして名医のいる有名病院へ行くつもりもない。車で送り迎えをする私にとっても、近いが一番である。

 界隈住民のNTT病院贔屓には、もう一つの理由がある、と私は見ている。

 美智子上皇后の存在感だ。

池田山にすまう


 美智子さんが輿入れするまで暮らした旧正田邸──家屋は取り壊され、現在は「ねむの木の庭」という公園となっている──は、NTT病院から坂を上ったエリアにある。正田美智子さんの輿入れが決まった頃、ほぼ同世代である父は、何度も家を見に行ったそうだ。

 旧正田邸やNTT病院のある東五反田五丁目は、かつて備前岡山藩主・池田家の屋敷があったところで、いまも池田山と呼ばれる、都区内有数の高級住宅地だ。碁盤の目のように道路が整備され、豪邸の前にはよく黒塗りのハイヤーが横づけされている。

 しかし「山」なので、当然ながら坂がきつく、五反田駅から行けば、ひたすら山登りをする感じになる。また地価が高いため、周囲にコンビニや商店の類いがほとんどない。ケアマネージャーとして長らくこの地域を担当した母の友人によれば、「使用人が買い物に行ってくれることが前提」「車がなければ生活できない」「足腰の弱った年寄りには地獄のような場所」だという。おおむね同意する。金持ちも辛いのだ。ここも世代交代で屋敷を手放す人が増え、高級マンションが増えた。

 そしてNTT病院は池田山から坂を下りきったところ、つまり谷底に位置している。病院のエントランスに面した道路の向こう、つまり谷側は東五反田四丁目で、小さな民家があちこちの方向を向きながらひしめきあっている。白金と同じく、ここも高台と谷では、まったく別の世界が広がっているのだ。

 



 余談だが三年前、かなり久しぶりの中学・高校の同窓会があり、怖いもの見たさで出席したことがある。友達だった記憶は一度もなく、どちらかといえば仮想敵に近い存在だった、東京西部出身の元優等生が近寄ってきて、私の家の「割と近く」に越したので、「いつか戸越銀座に行ってみたいの!」と言った。

「割と近く」という微妙な言い回しに、私は即座に反応した。これは、物理的には近いが精神的にはものすごい距離がある、という感情の、彼女らしい吐露ではないだろうか。「もしかして池田山?」と尋ねると、彼女が「すごい!なんでわかっちゃうかなあ」とケラケラ笑いながら言ったので、軽い殺意を覚えたものである。

 父の入院中、病院内のレストランでこんな光景を目にしたこともある。

 昼時。見た目のよい、裕福そうな若い女性たちがブランド物のベビーカーを押し、テラスの向こうから続々と集結してきてレストランに入り、盛大なランチ会を始めた。病院内のレストランの客層は、人間ドックの入院患者や見舞客、外来で診療に来た人たちがメインで、多かれ少なかれ、ハッピーではない事情でここに来ている。その中で彼女たちが放出し、誇示する多幸感のようなものは、場違いを通り越して異様ですらあった。

 彼女たちは、池田山に新しく建設されたマンションあたりに住み、しかし地価の高い山の上には飲食店がないため、この病院まで下りてきたのだろうか。それとも、山の住人ではないが「池田山に住む私」を演出するため、わざわざここへやって来たのか。どことなく後者のように見えたが、多幸感の誇示は、せめて山の上でやろうな。

なぜここが故郷なのか


 前置きが大変長くなったが、私がこの病院に執着する理由は、実はもう一つある。

 私が祖父の足跡を調べたいと思い始めたのは、二〇〇七年二月、十六年近くにわたる中央線沿線での暮らしを断念して戸越銀座に戻った頃のことだった。それまで離れたい一心だった故郷を客観視するようになり、やみくもに界隈を散歩しては、「なぜここが自分の故郷なのか」と考え始めていた。

 こういう時、歴史の生きた証人であるはずの父の記憶は、あまり頼りにならない。だいたい、自分が実は五反田生まれで、三歳で戸越銀座に引っ越したことを、私に指摘されるまで忘れていたくらいなのだから。しかものちに判明するのだが、三歳まで住んだ借家というのが、なんとゲンロンカフェのすぐ近くの目黒川沿いにあった。そんな忘れっぽさを軽く非難するたび、「おまえら育てるのに必死だったんだ!」と逆襲される。

 そういうことに、私はいちいち驚かない。必死に働いて生きてきた人というのは、過去をあまり覚えていないものだ。私がかつて暮らしたことのある香港の人たちがそうだった。自分や親がいつ川を泳いで広東省から香港に渡ってきたか、親の誕生日や没年、死因など、きれいさっぱり忘れている人の、なんと多かったことか。しまいには「過去を覚えているのは、暇人だけだ」と、逆にこちらが笑われ、「代わりに君が覚えておいてくれ」と丸投げされる始末。父の反応とまったく同じなのである。

 懸命に生きてきた人が過去を振り返り始めるのは、死が射程に入った時、と相場が決まっている。私の祖父が手記を書き残したのも、癌を患い、残された時間が少なくなったからだった。

 そんなわけで、手記をもとに、祖父の五反田界隈での足跡を調べ始めたのだった。

 大正五年、十三歳で上京し、芝白金三光町で丁稚を始めた祖父・量太郎は、三年ほどそこで働いたあと、粉塵舞い散る劣悪な環境で肺浸潤はいしんじゅんを患い、半年ほど千葉で入院生活を送った。

 肺浸潤から復活した十七歳の祖父は、再び五反田界隈に舞い戻る。


 私は大正九年頃、五反田に下宿して近くの工場へ通って居た。五反田駅近くに福崎さんといふ家があった。主人は千葉県勝浦の料理屋の息子でした。おかみさんは岩和田、入宿いれじゅくの岩瀬家の方で、御夫妻とも面倒見の良い世話ずきの方でした。下宿代月一八円、若い者十人位居て大変な賑わいでした。


 ここの店子の過半数が、岩和田出身者だった。祖父が最初に芝白金三光町で勤めた工場の主も同郷出身者だった。大正九年、つまり一九二〇年の時点ですでに、少なくない数の岩和田住民が白金、五反田界隈に集っていたことに、私は驚きを隠せなかった。いまでは想像もつかないが、約一〇〇年前、五反田にリトル岩和田があったのだ。
 その後は、古川にかかる天現寺橋近くの工場で働いてお金を貯め、いよいよ独立に向けて動き始めた。


 中々お金といふのはタマラないもので、四、五年働いて七百円ばかり貯金が出来たのです。昭和二年九月、いよいよ独立すべく準備を始めた。数年かぞえどし二十六才です。[……]
 以前五反田に永く居たので五反田方面を物色し、下大崎の二階家を借りることにした。上八畳一間、下八畳と三畳の家です。下を全部コワシて工場にした。


「五反田方面」なのに下大崎?大崎という印象に騙され、当初は大崎界隈ばかりを調べたのだが、どこにもそんな地名はなかった。下大崎は、すでに存在しない地名だった。

 いやいや、ちょっと待て……上大崎という地名なら現存する。目黒駅近くの庭園美術館、旧朝香宮邸のある一帯だ。この「上」と「下」には、なにやら階級社会の香りが漂っている。下大崎はきっと、上大崎からさほど遠くない場所にあるはずだ。そんな予感がして、図書館で昭和初期の五反田、目黒界隈の地図を調べてみた。

 あった……。上大崎の東、桜田通りの西に位置する細長いエリアが下大崎だった。おや、このあたりの地図にはなじみがある。下大崎は、NTT病院前に広がるゴチャゴチャした集落ではないか。

 父や私は、祖父が独立して初めて工場を構え、祖母との新婚生活を送った集落が目の前にあることも知らず、ずっとNTT病院に通っていたのである。

 そう知ってからというもの、私にはここが、祖父母に見守られた、大変縁起のよい病院に思え始めた。

 ここに来れば、きっとなんとかなる。

 そして、なんとかならない場合でも、もし自宅で死ぬことができないなら、この病院で死にたいとさえ思っているのだ。

三 大五反田主義



 世界の中心に、自分は割といない。

 最近、そのことに気がついた。

故郷のゆらぎ


 故郷と出身地の誤差は悩ましい問題である。個人的には、五反田・戸越銀座問題だ。

「故郷は?」と尋ねられたら、私は「五反田」と答えたくなる。祖父が独立して家庭を築いた、東京におけるファミリーの歴史の始まりが、東五反田の谷だからだ。しかし自分の出身地はあくまでも戸越銀座。この微妙な誤差に、ずっともやもやしたものを感じてきた。

 地方へ行き、東京出身だと言うと、次にはたいてい「東京のどこ?」と聞かれる。相手がどの程度東京の知識があるか判断がつきかねる時点で、あまり細かい地名を答えるのは、なんだか東京人の傲慢のように思え、できる限り大枠の地名で答えるように努めている。そんな時に使うのが「五反田」(最も近いJR駅)と「品川」(行政区分と車のナンバー)だ。五反田までの直線距離は約一・五キロで、しかも品川区民なのだから、さほど罪のない誤差だろう。山手線を時計に見立てて六時半のあたり、と言ったりもする。

 ちなみに、外国人から尋ねられた場合は、ほぼ「品川」と答える。羽田空港から行ける最も近いメジャー駅が品川であるからだ。しかしこれも、羽田空港が台湾以外の地域へ国際線を飛ばすようになり、京浜急行が羽田空港行き路線を敷設してから、つまり割と最近の話だ。成田空港中心史観の時代に、品川は候補に挙がらなかった。

 つまり私の出身地は、時代と、相手の持つ東京情報に照らし合わせて、微妙にゆらぎ続けてきたことになる。

 二〇一〇年、私は自動車教習のために長崎県の五島・福江島に一か月ほど滞在したのだが、その際に思わぬ事態が起きた。質問者(福江島民)が五反田と品川という地名にまったく無反応だったため、仕方なく戸越銀座の地名を出したところ、「それなら知ってる。テレビでよく出るところでしょ」と言われたのだ。

 五反田や品川より、戸越銀座の知名度が一部で高くなるとは、大袈裟でもなんでもなく、私の世界観の根幹を揺るがす事態だった。戸越銀座は、五反田という太陽にまとわりつく、一惑星に過ぎない。その立場を忘れたら、戸越銀座には無軌道になる運命が待ちかまえている。現に私は、いまの戸越銀座に対して大いなる不満を抱いているが、その話はまた追って書くだろう。

五反田から南進


 独立して新婚生活を始めた貸家兼工場が手狭になった祖父は、東五反田の谷(下大崎)を出て、桜田通りを南下した。そして父が誕生した昭和八(一九三三)年には、目黒川沿いの西五反田にいた。すでに触れた通り、ゲンロンカフェすぐ近くの川沿いである。谷からは脱出したものの、またもや低い土地だった。

 そこも手狭になり、祖父は「お得意さんの多い五反田に近」く、「大通りに近い」という条件で物件を探し、さらに南進した。当時は、出来上がった製品──主に真鍮製のネジ──を木箱に詰め、大八車に積んでお得意さんの工場まで運んだ。大量の金属を載せた大八車を運ぶという重労働を念頭に置けば、好こうが嫌おうが、五反田から遠く離れるという選択肢はありえなかったに違いない。

 そして探しあてたのが、中原街道に近い、現在私が暮らす戸越銀座の土地である。昭和十一年のことだった。あくまで、五反田ありきの戸越銀座だったのである。五反田駅からの距離、一・五キロは犠牲になったが、その代わり海抜は二〇メートル以上上昇した。ようやく祖父は、低地から脱出したのだった。

 ゲンロンカフェに電車や地下鉄、その他の交通機関で来る人は、五反田の低さをあまり意識していないかもしれない。しかし私の体にはそれが、一つの恐怖としてしみついている。

 小学生の時、春闘の時期になると東急池上線がよくストライキを起こした。「線路には絶対に入らないこと」と学校ではきつく言い渡されるのが常だったが、子どもにとって鉄道のストライキは、不可侵の領域に侵入できる、またとない冒険のチャンスである。私はクラスの男子二人とともに、五反田行きを決行したのだった。

 戸越銀座駅の地味なほうの踏切から出発した私たちは、土手に駆け上がって菜の花を摘んだり鼻歌を歌ったりして、まったく余裕しゃくしゃくだった。ところが百反通りを越えたあたりから、次第に口数が少なくなった。これまで左右に広がっていた土手が姿を消し、いつの間にか視線が周囲の住宅の二階の位置になっていたからだ。

 私たちの目的は水平方向の移動であって、高度の上昇ではなかった。しかし登っているつもりなどないのに、周囲の風景は勝手にどんどん下がっていく。軽いパニックに陥った。

 五反田の一つ手前の大崎広小路駅まであと少し、という陸橋のところで腰がすくみ、私は枕木の上にしゃがみこんだ。もしいま電車が運行を再開したら、どこにも逃げられず、列車に轢かれるか、路上に転落する。これか、大人たちが禁じた理由は。要は、死ぬってことだ。あれほど線路に入るなと言われた意味が、ようやくわかった。

「やめた」と言って四つん這いで後ずさりを始めると、「女は怖がりだな」と男子二人は毒づいて先へ進んだ。しかし、じきに戻ってきた。彼らも、恐怖で大崎広小路までたどり着けなかったのだ。ましてや、その先の五反田へは。

「五反田は、死ぬほど低い」

 そう体に刻みこまれた。私たちにとってそれは単なる比喩ではなく、実体験を伴った恐怖だった。

哀しい五反田ロンダリング


 さて、二〇一八年十月にゲンロンカフェに行った際(厳密にいえば登壇した時)、興味深い事象が発生した。

 その日の対談相手であるノンフィクション作家、広野真嗣さんと、登壇前に出身地の話になった。広野さんは東京の代々木上原出身だった。しかしおもしろいことに、彼もまた私と同じようなゆらぎを抱えているらしく、最初は「渋谷」という行政区分で答えた。「渋谷のどのへん?」と尋ね、ようやく代々木上原という地名が登場したのである。

 つまりこの時点で、相手が東京の地理に詳しいことは判明したわけで、おそらく次に出身地を尋ねられるであろう自分としては、細かい地名で答えても失礼には当たらない、という心の準備ができた。この場合、私が答えるべき地名は戸越銀座一択のはずだった。

 案の定、広野さんは私の出身地を尋ねた。なんと、とっさに「五反田」と答えてしまった。

 ゲンロンカフェに来る人は五反田に関心があるはずだ。だったら五反田出身と称し、マウントをとってしまおう、という、姑息な計算が働いたのである。

 無意識のうちに、五反田ロンダリングをしてしまった! これは衝撃だった。ふだん白金ロンダリングや池田山ロンダリングを嘲笑してやまない自分が、まさかの五反田ロンダリングとは……。恥ずかしさでいっぱいになり、突然しどろもどろになった。「厳密には一・五キロ先の戸越銀座出身」と懺悔をしたかと思えば、「いや、でも通った幼稚園は西五反田だったから、嘘とはいえない」と言い訳をしてみたり、まったく醜態をさらしたのだった。

 今後、人前でうろたえないためにも、五反田と戸越銀座のゆらぎ問題を解消したい、と強く思った。他人にとっては、どうでもいいことだろうが。

大五反田の誕生



 コンパスをぐるぐる回しながら、地図を眺めた。自分が属する世界の基準道路が桜田通り・中原街道であることははっきりしている。しかし中心点をどこに置くかで迷った。

 まずは戸越銀座の家を中心点に置いてコンパスを回した。即座に、強烈な違和感に見舞われた。

 私の世界はだいぶ五反田に引力を感じていて、五反田寄りの隣駅、大崎広小路にはシンパシーを感じるが、蒲田寄りの隣駅、荏原中延えばらなかのぶは「よその土地」という感覚があり、レーダーから外れてしまう。私の世界の南の限界線は、戸越銀座と荏原中延の世界を分ける道路、26号線なのだ。

 
 

 
 自分の世界の中心に、どうやら自分はいない。それどころか、自分は割と世界の端に住んでいるようだった。

 中心を先に決めようとするから迷うのだ、と考えなおし、次に外堀から攻めてみることにした。先に世界の終わりを設定して、そこから中心を算出しよう。南の限界線は、いうまでもなく26号線。北の限界地点は……覚林寺、通称清正公だ。北限と南限を決めたところで円を描いてみる。ちょうど五反田駅が中心あたりに収まった。

 ああ、これだ……自分の故郷域は。このレーダー範囲内だと「故郷」と感じ、距離が近くても域外だと「故郷」とは感じない。この円は、丁稚の頃に清正公で遊び、そして戸越銀座で死んだ、祖父の人生領域そのものだった。

 しかもおもしろいことに、祖父が火葬されて骨になった桐ヶ谷火葬場と、葬式を行ったお坊さんの所属する寺までこの円の中に入っていた。祖父は本当にこの領域内で生き、死んだのだという実感が、じわじわと湧いた。
この円を客観的に表現できる言葉はないだろうか。ふと、ロンドンが頭をよぎった。なぜ好きでもないロンドンなのか、意味はよくわからないが、とにかくロンドンだ。

 大正期から昭和初期にかけ、五反田界隈の工場地帯に集まった労働者の人生範囲を、イギリ
スの首都ロンドン全体を指す「大ロンドン」を真似してGreater Gotanda、訳して「大五反田」(通称GG)と勝手に命名することにした。誰も賛同してくれないかもしれないが。

 


 大五反田の中心を成す五反田駅界隈をどう呼ぼう?これもロンドンの金融の中心である「シティ」にあやかり、Gotanda City、中国語風に意訳して「五反田中心」(通称GC)と命名する。

 たとえばこんな具合に使う。

 ゲンロンカフェは、大五反田の、しかも五反田中心にある。

 正田美智子さんは、天皇家に輿入れするまで、大五反田の五反田中心(山)に住んでいた。

 私の父は、大五反田の五反田中心(低地)の出身である。

 私の故郷は大五反田であるが、出身は領域最南端の戸越銀座である。

 


 大五反田概念の出現で、私のゆらぎはついに解消した。

四 五反田の亡霊


 前節では、自分の故郷範囲を「大五反田」、ゲンロンカフェを含む五反田駅界隈を「五反田中心」と勝手に命名した。

 この半径約一・五キロの「大五反田円」を、私はレーダーの感知範囲、あるいは猫のテリトリーのように認識していて、ここに何かが入ってきたり事件が起きたりすると、その地点がピコピコ点滅し、自動的に関心を寄せる精神構造になっている。ゲンロンカフェとの出会いにしてもそうだ。ゲンロンカフェのほうが、私のシマに入ってきたのである!

海喜館


 二〇一八年十月、東京都内のある土地をめぐって、地面師(土地の所有者になりすまして売却を持ちかけ、多額の代金を騙しとる、不動産をめぐる詐欺を行う者)と呼ばれるグループが暗躍し、住宅メーカー大手の積水ハウスが五五億五〇〇〇万円もの現金を騙しとられた事件が報道されたのを覚えておいでだろうか。私がその大規模詐欺疑惑を知ったのは、犯行グループが逮捕される一年以上前、風呂につかりながら『週刊現代』を読んでいた時だった。その告発記事で舞台となった土地の場所を知り、驚きのあまり、雑誌をお湯の中に落としそうになった。

 五反田の、あそこではないか……。

「あそこ」とは、ゲンロンカフェの隣のファミリーマートから、目黒川沿いの道を川上、つまり目黒方向へ遡り、桜田通りを越えたところにひっそりと建っていた、古めかしい和式旅館「海喜館うみきかん」である。

 界隈では昔から有名な旅館だった。私は泊まったことはないが、桜の季節に門から入って石畳を歩き、建物の入り口まで入ったことは何度かある。大正ロマン風の旅館本体が朽ちかけているのに対し、植木はきちんと手が入れられているのがなんともアンバランスで、目黒川沿いの桜から落ちた花びらが庭に舞い、それは美しかった。記憶にある限り、二〇一〇年にあのあたりで花見をした際にはまだ営業していたが、ここ数年は営業しているのかいないのか、判別できなかった。

 場所柄からして、かつては芸者などを呼んで遊興にふける旅館だったのだろう。池上線の終電を逃して深夜にここの前を通ったりすると、亡霊たちの奏でる三味線の音が流れてきそうな気がしたものだ。

 五反田駅から徒歩数分という好立地に、再開発されずにぽっかりと残された約六〇〇坪という広さ。庶民にはまるで実感がないが、アジアの富裕層による投機目的の購入などもあり、二三区内の新築マンション価格は高騰し続けていた。この土地に高層マンションを建てれば、かなりの利益を上げられると、大手不動産業者や住宅メーカーには垂涎の土地に映っただろう。積水ハウスは、そこにつけこまれた。

 実行犯のグループが逮捕され、事件の概要は明らかになりつつある。逮捕直前にフィリピンへ高飛びした主犯格のカミンスカス操容疑者(当時五八)が話を持ちかけ、土地の所有権者の知らない間に本人確認用の印鑑登録証明証やパスポートなどを偽造して、羽毛田はけた正美容疑者(当時六三)が所有者になりすまし、手付金をまんまと騙しとった。

 そう聞くと巧妙な詐欺のように思えるが、実際はけっこうお粗末な点が多かったことに、驚いてしまう。『地面師』の著者、森功氏がウェブメディア『現代ビジネス』に二〇一八年十二月八日付で記した記事によれば、羽毛田容疑者が生年の干支を答えられなかったりしたなど、詐欺コンシャスな人間なら簡単に見破れるような致命的な失敗を、彼らはいくつか犯していた。実際、当初打診された複数の中小不動産会社や業者は偽造を見破り、詐欺には遭わずに済んだという。

 おかしな点はいくつもあったのに、後戻りできず、突き進んでしまった。利益や成績に目がくらんだ、大手企業のサラリーマンだからこそ騙された事件、といえるかもしれない。

 私は海喜館が大好きだった。ここが五反田に残されている。それだけで、激変を遂げる五反田は、かろうじて記憶喪失から逃れられていた。

 さらに、営業しているのかいないのかわからない状態は、所有権者のここに対する強い愛着を物語っているようだった。旅館として営業を続ける気力は残っていない。しかしつぶして売るには、思い出がありすぎる。本心をいえば、閉めたい。しかし廃業したことが誰の目にも明らかになってしまうと、不動産関係の胡散臭い人物たちが押し寄せそうで、たまらない。ならば、開いているのか閉まっているのかわからない、曖昧な状態にしてしまおう……。そんな葛藤を感じたのである。

 犯行グループ逮捕の一報を聞いた時に私は、狡猾な彼らよりも、騙された積水ハウスのほうに腹を立てた。五反田の貴重な記憶遺産をつぶして、高層マンションを建てようとしていたとは! そんな邪なことを考えるから、つけこまれるのだ。

 土地の所有権者は事件にまったく関わっていなかったため、建物はそのまま残された。いずれは壊され、五反田の記憶から消滅する運命なのかもしれないが、少なくともこの事件の発生により、廃墟旅館はしばらく延命した。

五反田の名画座


 五反田を訪れるたびに存在確認を行っていた海喜館だが、二〇二一年六月、とうとう取り壊され、更地になった。最終的には旭化成不動産が登記を取得し、マンションを建設することになった。

 さて、その海喜館とゲンロンカフェのちょうど中間あたりの目黒川沿いに、「TGI FRIDAYS」というアメリカンレストランがある。ここにはかつて、「五反田TOEIシネマ」という映画館があった。

 この映画館の前身は、大正時代に開業した「大崎館」だという。一九四五年五月二四日の大空襲(これについては、のちほどまた取り上げる)で全焼、戦後に再建、経営母体や名前が変わったりと紆余曲折を経て、一九七七年に洋画の名画座として開館した。

 ここは目黒川が氾濫すると一気に水が押し寄せる映画館として知られ、ロビーには土嚢が常備されていた。いまはだいぶ水質が改善されたものの、私が小さい頃の目黒川はそれはそれはひどいもので、橋の上から水面をのぞきこむと、水面に浮かんだ油が七色にぬらぬらと光っていた(この、油が織りなす七色の光が、実は嫌いではなかったのだが)。大昔、うちにはディズニーの『ふしぎの国のアリス』の紙芝居があり、私たち姉妹の大のお気に入りだった。小さくなってしまったアリスが小瓶の中に入り、自分の涙でできた海を漂う場面があるのだが、そのカーキと濃い灰色を混ぜたような海が、まさに目黒川の色だった。その後遺症で、目黒川を通りがかるたび、いまだに自動的にアリスを思い出すという、奇妙なことになっている。

 そして橋の上に立つと、ぷうんと漂ってきた、どぶのような匂い。当時から川沿いには桜並木があったが、どぶ臭さのせいで、ここへ花見に出かける人はあまり多くなかった。

 私は常々、ある人間の原風景を形成する要素を、基準鉄道や基準道路、基準河川、基準工場、基準海……と勝手に命名し、その人の人となりや世界観を理解する際の助けにしている。自分の基準鉄道は池上線で、基準河川は目黒川だもの、人生のスケールなど本当にたかが知れている。
 愚痴はさておき、そんな目黒川に面した五反田TOEIシネマに私が頻繁に通ったのは、高校中盤から大学初期、時代でいうと一九八二八五年頃のことだ。学校帰りに五反田で山手線を降りると、池上線には乗らずに地上に降り、五反田TOEIシネマに歩いていく。そして上映スケジュールが掲載されたチラシをもらい、気になる作品があれば土曜日に見に行った。当時は映画や小劇場、コンサートにライブハウスの情報を掲載した情報誌『ぴあ』や『シティロード』の全盛時代だったが、そんな情報誌を買うお金も節約したかったのだ。

 私はその数年前、中学生の時、荏原中延駅裏にあった「荏原オデヲン座」で、『スター・ウォーズ』と『キタキツネ物語』という、なんともシュールな組み合わせの二本立てを見ている。一九七〇八〇年代の日本には、有楽町や新宿、渋谷といった「盛り場」の大型映画館で封切りされてヒットした作品が、忘れた頃に町の小さな映画館で二本立てになるという、お財布に優しいシステムがあった。小学生までは親に連れられ、盛り場の映画館で封切作品を見たものだが、中学に上がれば映画は小遣いから捻出しなければならないため、最小限の金で最大限の効果を得たいというコストパフォーマンス意識が芽生える。交通費だって節約したいのだから、歩いていける映画館の存在は本当に重要だった。

 五反田TOEIシネマは、そういう「小さな町の二本立て映画館」の類いではなかった。ここがどんな映画館だったかは、私が見たものを挙げればおおかた想像がつくはずだ。

 ルキノ・ヴィスコンティ特集では、『熊座の淡き星影』と『夏の嵐』の二本立てを見た。ヴィスコンティ作品はほとんど見ているが、よりによって最も嫌いな二本を五反田で見たのは痛恨の極みだ。土曜日しか行けないから、選択肢がなかったのである。

 スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』をここで見ている最中に貧血を起こしたのは、いまとなってはよい思い出だ。あの映画に登場する暴力の量は、十代の自分のキャパシティを超えていた。ロビーでしばらく介抱してもらい、そのまま帰ったので、二本目が何の作品だったかは覚えていない。

『ロッキー・ホラー・ショー』を上映した回は、この映画館で初めて目の当たりにした、立ち見が出る盛況だった。何人かのグループで来た客が、場面に合わせて傘をさしたり歌ったりしていたのが、なんとも哀れに映った。そういうことは、盛り場でやらないとサマにならない。五反田でやっても、虚しいばかりであった。ものすごい期待をして見たが、ビジュアルだけで核心の感じられない、拍子抜けの作品だった。

 ほとんどの客は『ロッキー・ホラー〜』が目当てだったようで、映画が終わるや否や席を立ち、客席に人の姿はまばらになった。私も二本目にはまったく期待していなかったが、『ロッキー・ホラー〜』が不発だったし、なけなしの小遣いを費やした分、なんとか投資金額を取り戻したいという気持ちが強く、そのまま座り続けた。そして二本目が始まった。『ファントム・オブ・パラダイス』である。

 この映画には脳天をぶち割られた。いまでも自分の好きな映画ベストテンに入っている。この映画はブライアン・デ・パルマが一九七四年に監督した実験的な作品で、アメリカでは興行的に大失敗、ヒット・メーカーとして知られるデ・パルマの「稀有な駄作」のように評されることが多いが、この作品こそロック・オペラの最高峰だと私は思っている。五反田でこの映画に出会った。そのことが何より嬉しい。

 この映画館は一九九〇年に閉館した。私はその頃、阿佐ヶ谷の、日がまったく当たらない風呂なしアパートに住んでいて、閉館をしばらく知らなかった。

 客観的にはともかく、個人的には、天安門事件やベルリンの壁崩壊が起きた一九八九年から九〇年にかけて、日本の景気は最も良く、人々がなんだか狂っていた感触がある。五反田TOEIシネマは、まさにその渦中にひっそりと幕を閉じたのだった。

 あらためて計算してみたら、ここが五反田の地で名画座を営業したのは、たった十三年間だった。思春期にこの映画館と出会えた私は、幸運だったと思う。(第2章へつづく)

 
 

 
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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