現代日本の批評――基調報告のためのイントロダクション|大澤聡

初出:2015年6月12日刊行『ゲンロン観光通信 #1』

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 いま僕は、共同討議「現代日本の批評」のための基調報告を準備している最中です。この討議は『ゲンロン』新規創刊にあわせて発案されました。企画趣旨は総題から否応なく連想されてしまうはず。そう、蓮實重彦、三浦雅士、浅田彰、柄谷行人らが参画したあの共同討議「近代日本の批評」への後続世代によるオマージュの意図もそこには埋込まれています。そちらは平成期への突入直後、2年強にわたり連続的に実行されました。

 いわば、その私的な続編のごときプログラムとして僕たちの討議は構想されている――こういうと、二次創作(あるいは海賊版!)としての突発的なオモシロ企画と受け取られてしまうかもしれません。ですが、いやいや。この題目でやるからにはそんな生半可な代物で許されようはずもなく。日本の膨大な批評の蓄積と来歴とを真摯に受けとめ愚直なまでに正面から継承/突破していこうとする、ある種の態度表明として像を結ぶことになるでしょう。ぜひ期待していてください。

 2015年に入ってにわかに批評の「再起動」や「再生」が方々で謳われるようになりました。同時多発的に。1月早々に刊行された僕の『批評メディア論』(岩波書店)も帯や袖、フェアで執拗にこれらのフレーズを掲げています。再起動も再生も自身の履歴の仔細な再点検を経由してはじめて可能となる。少なくとも僕はそう考えています。企図されているのは、“「史」の延長と更新”にほかなりません。

 といっても、ツイッターのタイムラインに偶然流れ込んできたつぶやきを眺めていると、オリジナルの方をまったく知らない若い読者もいるようなので(なにせ四半世紀前の企画です)、前提知識をメモしておく必要がありそうです。

 こんなことはあまりに常識じゃないかと眉を顰める読者もたくさんいるでしょう。しかし、基礎的事項の復習を反復的に織り込みつつ前進せざるをえないのが現代の言論環境の実態なのです。そうした迂遠な作業を野暮だと徹底してバカにしてきた帰結がいまの批評界隈の惨状なのだと僕は考えています。とまれ、以下、年長世代の読者にはおよそ発見をともなわぬであろう平坦な叙述が続きます。適当にスキップしつつ読み進めてください。

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 さて、「近代日本の批評」。それは『季刊思潮』(思潮社)のプロジェクトとして始動しました。同誌は市川浩、柄谷行人、鈴木忠志――先日のゲンロンカフェのイベントも大盛況だったあの鈴木さんですね――の3名が「編集同人」に名を連ねるかたちで1988年6月に創刊。そこに第3号から浅田彰が加わる。「特集やあてがわれたものではなく、各人がそれぞれのモチーフで最高のものを書くような雑誌」(『批評空間』創刊号の柄谷行人「編集後記」)としていくつもの批評的成果を世に送り出します。単行本にまとまった仕事も少なくない。

 ところで。戦後、小林秀雄は戦前期の自身の執筆活動をこう回顧しています――「「文学界」が出る様になると、私は自分の一番好きな仕事は、専ら其処で書く様にした」。文芸復興のさなかの1933年10月に創刊された『文学界』はいまのそれとは異なり、当初は薄冊の同人雑誌でした(1936年7月に経営難のため文藝春秋社の傘下に入ることになります)。依頼原稿や文芸時評のたぐいはコンテンポラルな対象や主題に拘束される。そのため、自身の関心を十全に開陳することが難しい。『批評メディア論』の第5章でも論じたとおり、稿料が発生するからには「精神的自律」も欠損してしまう。

 小林にかぎりません。保田與重郎でも吉本隆明でもいい。歴代の主要な批評家たちはみなこうした理由から、自前のメディアを確保してきました。そのためであれば、批評とおよそ遠いと見做されがちな金勘定もいとわない。きっちりマネジメントしていく。雑誌運営じたいが批評行為だったのです。柄谷行人(といっていいでしょう)の雑誌創刊もこうした文脈で理解しておく必要がある。

 なかんずく、1970年代から80年代中盤にかけては伝説的な雑誌がぽこぽこと誕生していき、現在からは想像もつかない“哲学/批評バブル”の時代を演出していました。ちょうど現在発売中の『idea』370号が総特集「思想とデザイン」を組んでいるのですが、これをぱらぱら眺めてもらえば雰囲気の一端は掴めるはずです(ちなみに、ゲンロンの活動も大きく取りあげられています。たまたまですが、僕も「批評/メディア/マテリアル試論――193510」というビジュアル記事を寄稿しています)。バブルのごとき状況が少し落ち着くのが『季刊思潮』創刊当時。そのへんの批評を取巻くアーキテクチュラルな位相の変成も、僕が担当する以上は基調報告で触れたいと思っています。

 とにもかくにも、同誌は思想界におけるプレゼンスを一気に確立していくことになります。多ジャンルの批評のコンテクストがここに集結する。そのさい、正統性を担保する重要な役割を担った装置がくだんの共同討議でした。第5号(1989年7月)以降、毎号巻頭に掲げられます。基調報告や関連論文といっしょに。浅田彰はこう総括しています。「無編集の編集とでもいうべき方針」(特集主義ではなかったので)を貫徹しながらも、「昭和批評史の連続座談会が始まってからは、この雑誌の方向がかなりはっきりしてきた」、と(第8号の「編集後記」)。

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 第1回討議の劈頭、柄谷は次のとおり企画趣旨を開示しています。コロンビア大学出版会で近代日本の批評アンソロジー(全5巻)の刊行計画が数年前からある。編纂者は明治=野口武彦、大正=蓮實重彦、昭和戦前期=柄谷行人、昭和戦後期前半=三浦雅士、同後半=浅田彰。まずは昭和戦前期の巻を刊行する。翻訳者はポール・アンドラと酒井直樹。準備作業の一環としてこの機会に「総合的に近代日本の知性の歴史を検討」してみようというところから持ちあがったのがこの共同討議。

 この出版計画はけっきょく実現することなく、副産物だったはずの共同討議だけが――類例がないことも手伝って――時間性に耐え(?)残り続けることになります。そして、日本批評史の輸出構想はその後も“未完の夢”として間歇泉のごとく不定期的に湧きあがる――当時とまったく規模や衝撃は異ならざるをえませんが、いまなら実現可能な条件や技術が整っていると僕は思いますが、どうでしょう。

 一連の討議はアンソロジーの構成にあわせるように以下の順に進行します。①「昭和批評の諸問題1925‐1935 他者の出現としての「転向」と他者の消去としての「転向」」(第5号)、②「同1935‐1945 「文学主義」の支配=文芸復興期から「他者」としてのアジアへ」(第6号)、③「同1945-1965 「他者」体験としての戦争体験と「文学」の不可能性の露呈」(第7号)、④「同1965-1989 ディファレンスの消滅、野蛮な意志の不在」(第8号)。いずれも出席者は蓮實重彦、柄谷行人、三浦雅士、浅田彰の4人。前述の編纂分担に沿うかたちで基調報告の担当が割り振られる。

 ④は冒頭の浅田の発言によると、時期区分として「あまりにも近い過去であって歴史的に展望しにくい」うえに「かなり自己言及的にならざるをえない」ということで、「あとまわし」にしておき、当初の計画では「大正編」→「明治編」と遡行していくことになっていたという。けれども、『季刊思潮』が第8号(1990年4月)で休刊するにあたり、まとまりを付与すべく急遽企画されたとのこと――だから、初出時には基調報告のかわりに略年表だけが間に合せで掲載された。

 その1年後の1991年4月。浅田・柄谷を「編集委員」として後継誌『批評空間』(福武書店)が創刊します。この雑誌は説明の必要はないでしょう。計画は同誌上で継続されます。この回より野口武彦が討論者に加わる。⑤「明治批評の諸問題1968‐1910 国民国家の形成と「文学」という制度」(第1号)、⑥「大正批評の諸問題 1910‐1923 差異=他者の不在と「普遍的観念論」」(第2号)、⑦「「近代日本の批評」再考 第三項の崩壊と母系制への回帰」(第3号)。福武書店より単行本化。現在は、講談社文芸文庫に収録され読むことができます。

 今回の「現代日本の批評」は、彼らが当事者として「かなり自己言及的」になるほかなかった年代周辺を起点とし、まさに「歴史的に展望」してみようというわけです。近過去を歴史化する地点からしか再起動も更新もありえない。柄谷も共同討議のなかでこういっています。「二十年も経てば「歴史」だからね。二十年後に、われわれのこういう議論が読まれているか、つまり存在しているかどうかだってわからない(笑)。そのつもりでものを言えばいいのではないか」。ちなみに、この「(笑)」は単行本の段階で早々に削られることになります。

 この文章の冒頭、僕は戯言に「二次創作と取られるかも」と記しました。しかし、これはあながち冗談とばかりもいえません。じつのところ、共同討議「近代日本の批評」からして、出席各者がそれぞれに特定の、あるいは複数の、先行する批評家たちをリミックス的に代行する、『批評メディア論』のタームを用いれば「多重底」的な再演構造によって円環を結んでいました。いざ蓋を開けてみれば僕たちも自然とそのように立ち振舞うことになるのかもしれません。その二次性(二次の二次なので「N次」といってみてもよい)こそが「史」を生成させもする。

 ということで。僕たちの共同討議「現代日本の批評」は、「昭和後期編 1975-89」「平成前期編 1989-2001」「平成後期編 2001-2015」の全3回が予定されています。『ゲンロン』の1年のサイクルに相当します。どう展開していくのでしょうか。僕もいまから楽しみです。

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 で、やっと冒頭の話。その第1回「昭和後期編」のための基調報告を準備しているところです。ところが、どこか書きあぐねてしまう。そんなことははじめからわかりきったことじゃないかとお叱りを受けそうですが、ここでいうのは内容以前のもっと前提部分の話なのです。最後に、基調報告を書きあぐねているそのこと自体に関する所感を書き留めておこうと思います。

 ――とかいうと、楽屋落ちのような「書けないということを書く」といったいかにもポストモダン的な(もしくは、一回転して私批評的な)エッセイに堕してしまいそうです。が、この難航をめぐる自己言及こそが、“「批評」の衰弱”や“「史」の不在”の遠因を解明するヒントになりそうな予感がいまはなんとなくしているのです。どういうことでしょうか。

 同時代の批評家に関する分析を喜々として披露してみせたり、そうした固有名の布置をマップやチャートに変換してみせたり、といった仕事に、僕たちはときとして躊躇いを覚える。これは感覚的に了解してもらえるのではないかと思います。ミーハーだったり思想オタクだったりといったノリと誤解されないかという懸念が拭えないからでしょうか。それもあるでしょう。だけれど、それだけではない。

 需要がないわけでもありません。たとえば、2001年に刊行された永江朗『批評の事情』(原書房→ちくま文庫)、および、2007年の続編『新・批評の事情』(同)は批評界隈の人物批評として書かれながら、サブタイトルにあるようにそれがそのまま「論壇案内」としても一定の機能を果たしました。2009年の佐々木敦『ニッポンの思想』(講談社現代新書)も、80年代からゼロ年代にかけての批評シーンにひとつのパースペクティブを提供する試みとして読者に好意的に受け入れられました。『BRUTUS』や『STUDIO VOICE』、あるいは『PLANETS』といった雑誌では、ときとしてその手の状況論が図解されもしました。

 同時代的な交通整理はシーンを組替えたり理論をバージョンアップしたりするうえで不可避の仕事でしょう。なにより僕が延々時間を費やしてリサーチしてきた1930年代日本の批評の蓄積の数々がまさにその典型でした。論壇や文壇の人的な相関性を見取図や鳥瞰図に翻訳し続ける。そうした作業のおかげで、書き手や読者は常時、最新の地図を共有し「史」を強く意識することが可能になっていた。日本的な見立ての伝統や技術もそこに動員されます。1930年代にかぎらない。いつの時代もそうした整理作業が批評の一スタイルとして成立していました。

 ただし、そうした仕事がえてして、いわゆる「天然」な個性に由来するものであったこともたしかなのです。少しメタな視点から思想や文学の歴史を振りかえれば事例はいくらでも拾えるはず。平野謙や本多秋五ら『近代文学』グループの批評家たちはその典型でしょう。あるいは、『批評メディア論』で何度も引用した大宅壮一や杉山平助らもこの系譜に入れていいかもしれません。しかし、そうした天然こそが「史」を形成する。そして、事後的に踏襲される。

 書きあぐねているのはある種の「照れ」があるからなのでしょうか。そうかもしれません。照れるのは「あまりに近い過去」だからでしょう。この近さは心理的なそれです。とはいえ、照れてもいられない。そういう段階まで僕たちは来てしまっています。「近い過去」を粛々と歴史化しなければならない。それは後続者の責務です。そうしないことには、いつまでたっても、僕たちがあの磁場から解放されることはありません。このときに求められるのは、やはり天然と蛮勇なのでしょう。

 そんなことをつらつらと考えながら、いっこう進まぬ準備を、それでも少しずつ進めているところです。続きは本編の共同討議で。

こちらの記事で予告された「現代日本の批評」は、共同討議「昭和批評の諸問題 1975-1989」(『ゲンロン1』所収)、「平成批評の諸問題 1989-2001」(『ゲンロン2』所収)、「平成批評の諸問題 2001-2016」(『ゲンロン4』所収)として掲載されました。ぜひお読みください!(編集部)
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1978年生まれ。批評家、メディア史研究者。近畿大学文芸学部准教授。博士(学術)。著書に『批評メディア論』(岩波書店)、『教養主義のリハビリテーション』(筑摩選書)、『1990年代論』(編著、河出ブックス)など。講談社文芸文庫の『三木清教養論集』『三木清大学論集』『三木清文芸批評集』の編者。『群像』にて「国家と批評」を連載中。

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