革命・アート・カーニバル──ウクライナ・ユーロマイダン運動と芸術家のまなざし|アレクサンドル・ロイトブルト インタビュー 聞き手・翻訳=上田洋子

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初出:2015年06月12日刊行『ゲンロン観光通信#1』
 ウクライナ、オデッサの画家、アレクサンドル・ロイトブルト氏が8月8日に永眠されました。氏への哀悼の意を表し、本記事を2021年8月末まで無料公開いたします。インタビューは2014年のゲンロンH.I.S.チェルノブイリツアーの最終日、自由行動の際に行いました。このときお聞きしたお話のうち、ユーロマイダン革命に関係する部分を記事化しています。ロイトブルト氏はその後、2018年にオデッサ美術館の館長となり、コレクションのリサーチと修復を進めます。また、市民と美術を結ぶような現代的な企画をいくつも立ち上げて、美術館再興の立役者となりました。いつかオデッサを訪れて、現在のご活動についてお話を伺いたいと思っていたのですが、それが叶わず非常に残念です。本インタビューが、氏の活動とユーロマイダンについて多くの方に知ってもらう機会になれば幸いです。(2021年8月11日 上田洋子)

芸術といま


上田洋子 今日はお時間をいただきありがとうございます。

 ロシア人キュレーターのマラート・ゲリマン★1が、近未来のヨーロッパを描いたウラジーミル・ソローキンのディストピア小説『テルリヤ』★2をテーマに美術展を企画していましたよね。ロイトブルトさんが作品を作ることになっていたと思います。あの企画はどうなったのでしょう。

アレクサンドル・ロイトブルト たしかにそういう企画がありました。しかし、アクチュアリティを失ってしまいました。ゲリマンはロシアを離れ、モンテネグロに活動拠点を移しました。わたし自身、その後ゲリマンからモンテネグロにくるよう何度も招かれているのですがね。

上田 とはいえ、展覧会用に作品をいくつか準備されたのではないですか。ゲリマンのフェイスブックで拝見しました。

ロイトブルト ゲリマンからオファーがあったときに、過去の作品を送ってみたんです。『テルリヤ』に併せて制作したものではなかったのですが、小説の感覚とマッチしたようです。

上田 ネットにもろに表出してくるようなベタな欲望を持った人々が、それぞれの小さな国でまったくばらばらに生活しているありさまを数珠繋ぎ的に描いたソローキンの『テルリヤ』は、いまの世界の空気をとてもよく表しているように思われます。『テルリヤ』が出版されたのは2013年10月ですから、ウクライナの革命運動ユーロマイダン★3はその直後に始まったことになりますね。ロイトブルトさんの作品も、マイダンの状況を先取りしていたように見えます。
 

【図1】アレクサンドル・ロイトブルト「旗を掲げるひと」2014年 (c)Александр Ройтбурд
 

革命直後の大統領邸宅


上田 昨日、メジヒーリエのヤヌコーヴィチ元大統領の邸宅★4を見てきました。ロイトブルトさんは「メジヒーリエ法典」★5という展示をキュレーションされていますね。ヤヌコーヴィチ邸に残された美術品・調度品から構成した展示です。この展示に関しては、ネット上でかなり話題になっていました。また、ロイトブルトさんが共同キュレーターのアリサ・ローシキナ★6とロシアの演劇誌「テアトル」に寄稿された論考「マイダンとメジヒーリエ――二つのスペクタクルの社会」★7では、展示のコンセプトが述べられていますね。ロイトブルトさんの活動は、今回のウクライナ訪問でわたしたちがヤヌコーヴィチ邸を訪れる大きなきっかけとなりました。展示について少しお話をいただけますか。

ロイトブルト 「メジヒーリエ法典」展のことをお話しするのは簡単ではありません。わたしはヤヌコーヴィチ邸には一度行っただけで、二度と行きたいとは思いません。とにかくいやな場所でした。

 わたしがそこに行ったのは、ヤヌコーヴィチがウクライナから逃げた2月22日のことでした。この日、ヤヌコーヴィチ邸にトラックが何台も着けられているとの報道がありました。知り合いのジャーナリストから、いますぐ学芸員にきてほしいのだとの連絡を受け、キエフの美術館で働いているアリサ(ローシキナ)とメジヒーリエに行ったのです。この日は大量の車がヤヌコーヴィチ邸に向かったため、ものすごい渋滞でした。表の入り口から入ることはできず、裏の検問所からなかに入りました。ヤヌコーヴィチ邸をコントロールしている百人隊長を名乗るひとから何度も電話がありました。百人隊とは、マイダンの自警団です。だいたい100人ずつの小隊に分かれていたので、この名前がついた。ウクライナ・コサックの用語を踏襲しています。ヤヌコーヴィチ逃亡後、その邸を占拠したのはマイダンの過激派でした。
 彼らにはヤヌコーヴィチ邸を博物館にしたいという意図があり、調度品などが盗まれるのを恐れていました。だから美術館の学芸員を呼んだのです。わたしたちはやっとのことで門までたどり着きましたが、立ち入り禁止だと言われた。守衛に事情を説明して、関係者に連絡を取ってもらい、やっと入ることができた。門のところには送迎車がいて、入場許可の出たひとたちを集めて、それぞれ目的の建物まで送ってくれました。敷地内には建物がいくつもあるのです。

 わたしたちのほかに、犬の調教師やダイバーが呼ばれてきていました。ヤヌコーヴィチ邸を逃亡後に屋敷を占拠し、管理をはじめたのは田舎の素朴な若者たちでした。いま、なにが重要で、だれをなかに入れるかを彼らが決定しているわけですが、彼らにとってダイバーはどうやらもっとも重要らしい。敷地内の湖や川に隠したものがあるからだとのことでしたが、もう夜でしたから、なにも見えないはずでした。調教師は、犬好きのヤヌコーヴィチが飼っていた高級犬のために呼ばれた。結局、明日餌をやればいいだろうという話になっていました。

 わたしたちは、荷物を積んだトラックが停まっているガレージへと連れて行かれました。

ロイトブルト まずびっくりしたのはヤヌコーヴィチの車のコレクションです。このコレクションには、彼がかつて憧れた車がすべて入っていました。ソ連の自動車産業全体が、戦前の、ごく初期のものがいくつか、それに50年代・60年代のモデルがすべて揃っている。子どもの頃の夢でしょうね。70年代以降のものは高級な政府専用車のみで、一般向けの車はありません。それに、戦争映画で見たであろうドイツ車、それからアメリカのマフィアの車。これは映画『ゴッドファーザー』の影響でしょうね。つまり、このコレクションには、ソ連の子供時代、ドイツ映画、それに『ゴッドファーザー』の影響があからさまに反映されている(笑)。元大統領の心理分析にはおあつらえ向きです。
 おまけに、巨大で立派なガレージなのに、外装には安っぽい中国製のプラスチック板が使われている。高価な建物なのに、見た目はトイレのようです。

上田 ヤヌコーヴィチ邸はとても変ですよね。「趣味」といえるものがまったくない。

ロイトブルト 「かっこいいもの」に対する欲望の表象だと思います。ルーマニアにロマの男爵の邸宅があるのですが、それにそっくりだ。キンキラキンで、木彫が多用されている。そして、安物の模造品と本物、芸術と俗悪の境界がない。

 わたしたちが学芸員だと知ると、マイダンの活動家が絵を見せて、これはとても高いのではないかと尋ねます。アマチュアが描いた果物と野菜の静物画で、素朴な水差しなんかも添えてある。ここには価値のあるものなどいっさいないのではないかと思いはじめました。試しに箱をひとつ開けるよう頼んでみると、イコン(聖像画)が入っていました。最初に見た2つは、たいしたものではなかったのですが、つぎに出てきたのはあきらかに18世紀のものでした。このときはじめて、自分が呼ばれた意味を理解したのです。

 そこで、美術品保存管理の専門家を呼ぶべきだと助言しました。アリサは美術館の副館長ですが、文化史が専門で、保存管理者としてはプロではありません。キエフの美術館の館長たちに電話をかけ、プロの保存管理者に鑑定を依頼しました。

 古いイコンには木製のものも多く、保存のためには湿度・温度管理が不可欠です。だから、できるだけ早く場所を移さねばなりませんでした。その後、ロシアのプロパガンダがこれを略奪だと報道し、たいへんいやな思いをしました。

 
【図2】インタビューはゲンロンH.I.S.チェルノブイリツアーの最終日、自由行動の時間に行われた 撮影=編集部
 

略奪ではなく博物館を


上田 つまり、ヤヌコーヴィチの脱走直後に大統領邸を占拠したひとたちは、まず財産目録を作成しようとしたと。

ロイトブルト ヤヌコーヴィチの所持品には、実際に消えてしまったものもあります。たとえば時計ですね。ほかにもなくなったものがあるかもしれません。ヤヌコーヴィチ自身が持ち去ったものもあるでしょう。金(きん)なら持っていけますからね。

 もっとも、マイダン過激派のリーダーが管理を始めてからは、ものがなくなることはないようです。もちろんリスト化されていないものもあるかもしれませんけどね。最初はとにかくカオスでアナーキーな状態でしたから。いろんなひとがいて、だれもコントロールしていなかった。わたしたちが行ったときも、百人隊長を名乗るひとが鉄の棒を持って現れて、皆殺しにしてやると怒鳴り始めたりした。そのときヤヌコーヴィチ邸の管理をしていた別の百人隊長との間で口論になっていました。その後、われわれを邸内に通したひとは財産目録リストを持っているけれど、もうひとりは持っていないことが発覚し、鉄棒を持ったひとは逃げて行きました。見ている側としてはおかしかった。内戦についての映画を見ているかのようでした。

上田 ちょっと混乱してきたのですが、ヤヌコーヴィチ逃亡を受けて、ユーロマイダンの組織からひとが派遣されてきたということでよいでしょうか。

ロイトブルト この日やってきたのはマイダンの運動家だけではありません。ヤヌコーヴィチの暮らしぶりを一目見ようと、一般のキエフ市民も押し寄せました。けれども破壊はありませんでした。1917年のロシア革命のときは、皇帝の宮殿に押し寄せた人々は、高価な花瓶に排泄したり、ものを破壊したりしました。ユーロマイダンでは、大統領が残したものは民衆のものと認識され、燃やされも爆弾を落とされも割られもしなかった。

上田 失われたものはほとんどなかったと。

ロイトブルト そうです。盗まれているとしたら金製品ですね。

上田 金製品は簡単に売ることができますからね。

 ちなみに、わたしもヤヌコーヴィチ邸は博物館として保存すべきという考えに賛成です。

ロイトブルト わたしはどうするべきかわかりません。悪趣味を展示する博物館にするにしても、キエフから遠い。ひとはこないでしょう。かりに建物は悪趣味の典型として残すにしても、公園などはなにか工夫をして別の機能を持たせる必要がある。

上田 あそこまで人間の欲望がそのまま具現化されているのには驚愕します。しかも国庫の金を費やしているのですよね。
ロイトブルト 国を挙げての犯罪システムですよ。たとえばこのホテルを経営したいとします。オーナーは実際より少なめの税金を払い、経理の操作で浮かせた金の大部分を現金で管轄税務当局の役員に渡さなければならない。税務当局の長はその一部を自分のポケットに入れて、残りを自分の上司に渡す。この上司はさらに上の官僚に金を届け、最終的にはヤヌコーヴィチのもとに届けられる。こうしてヤヌコーヴィチのところに金が貯まっていくのです。ヤヌコーヴィチはこうやって巨万の富を得て、闇経済のピラミッドを作ったのです。

上田 しかし、それでは国庫に金が入りません。国の運営はどうやっていたのでしょうか。

ロイトブルト いや、これがヤヌコーヴィチの国家運営法だったのです。犯罪金庫式とでも言いましょうか。彼は資金の流れをすべてコントロールしていた。イリーガルな流通の大部分が彼のものだった。そしてほかにもさまざまな階層で似たようなことが起こっていました。ウクライナの経済はこうして成り立っていたのです。

 さらに、「監視員」という犯罪的な制度が復活することになりました。これはどこかの地方の泥棒の頭が、自分の手下たちをあちこちに派遣して監視をさせるというものです。それぞれの地方に、公式の知事以外に監視員がいました。当該地方の非公式な党の代表と呼ばれていたひとたちです。このひとが実権を握っていて、知事や市長よりも力があった。さらに、ヤヌコーヴィチの監視員が各省庁にいた。彼らが非公式にそれぞれの分野をコントロールしていたのです。ほとんどが犯罪歴のあるひとでした。

 こうしてウクライナはマフィア国家になっていきました。とはいえ、イタリアにしても日本の場合でも、マフィアには何世紀もの伝統があるでしょう。代々続いている家系で、ある意味貴族だとも言える。こそ泥や路傍喧嘩からその世界に入ったようなひとはいないはずです。マフィアは教養があるのです。ヤヌコーヴィチの場合、いわばマフィア第一世代のようなものです。成熟した資本主義とは異なる、第一段階の野蛮な資本主義だったのです。ですからヤヌコーヴィチ政権下のウクライナは、野蛮なマフィアの国家だったと言えます。

 
【図3】ユーロマイダンに参加するロイトブルト 初期の運動は祝祭性が強かった
 

マイダンと祝祭


上田 ロイトブルトさんご自身はマイダンに参加されたのでしょうか。

ロイトブルト わたしは初日にマイダンに行きました。2013年11月21日のことです。ムスタファ・ナイエムというジャーナリストの議員がいます。アフガニスタン出身のウクライナ人です。彼はフェイスブックに「マイダンに出よう、ぼくはもうきている。魔法瓶に暖かいお茶やコーヒーを入れて、おなかの足しにビスケットを持ってくるといいよ」と投稿したのです★8。わたしはこの投稿の40分後にはマイダンにきていました。彼がフェイスブックに投稿したちょうどそのとき、わたしはキエフで友人たちとお茶を飲んでいました。呼びかけをみて、すぐマイダンに行きました。機が熟していたのでしょう。ヤヌコーヴィチがEUとの連合協定の調印を拒否したのはウクライナ人にとって大きな衝撃でした。

 国民のだれもが、これをポストソ連の空間におけるウクライナの保守化だと判断した。そもそもEU加盟のためのアジテーションを行ったのは政府で、国民はむしろヨーロッパを恐れていたんです。ヤヌコーヴィチのアジテーションのおかげで、この頃には国民はヨーロッパの一員になりたいと思うようになっていた。それが、「やっぱりやめた」と言われると、いわば虚脱状態に陥るわけです。

 マイダンの初日は、フェイスブック・パーティみたいなものでした。わたしにはフェイスブックの友達が5000人くらいいて、購読者は17000人なのですが、この日はマイダンでフェイスブック友達にたくさん遭遇した。フェイスブックの呼びかけに応じて人々が集まってきたので、マイダン初日はブロガーやネット上のオピニオンリーダーが多かったのです。学生がマイダンにやってきたのは翌日でした。

 3日目にはマイダンの仮設舞台で演説をしました。そのときはまだ、死者が多数出るというような過酷な事態が起こるとは、思いもしなかった。今度のマイダンは最初のマイダン、つまりオレンジ革命★9と同じものではあり得ないと予告されていたにもかかわらず、悲劇については想像していなかったのです。ひとつ目のマイダンは、ミハイル・バフチンの言葉を借りると、カーニバル文化、つまり、祝祭でした。今回も、だれもが前回同様に祝祭が愚かな政権に勝利するだろうと考えていて、まさか銃撃戦になるなどとは思ってもみなかった。オレンジ革命のとき、当時のクチマ大統領は国民には手を出しませんでした。

 なのでわたしは壇上に上がったとき、「ヤヌコーヴィチの話ではなく、愛の話がしたい」と語ったんですよ。「政治家ではなく、詩人と哲学者がここにいてほしい」と。そして、キーツの頌歌を朗読しました。ナイーブですよね。そしてその数日後、暴力が始まりました。マイダンは祝祭ではなくなったのです。


2014年11月18日 ウクライナ、キエフ、アルファヴィートホテルにて
構成=編集部
 
インタビュー後、アルファヴィートホテル前にて 撮影=編集部
 

★1 1960年生まれのロシアの画商、社会評論家、アートマネージャー。ソ連崩壊後、ロシア初の画商として、ロシア現代美術を世界の市場に流通させた。宗教のテーマを扱った「ICONS」、アルテ・ポーヴェラをロシアの文脈で再解釈する「ロシアの貧しいもの」など、数々の大規模な展覧会を開催。また、地方都市での現代美術館を中心とする文化都市計画推進、インターネットでロシア芸術家名鑑を作成するなど、国内での現代美術の隆盛に大きく貢献している。近年は保守化するロシアで、活動の場所を失い、現在はモンテネグロのブドヴァでロシア芸術センターを創設。ロシア現代美術の生き残りに力を尽くしている。『ゲンロン通信』#14に東浩紀によるインタビューが掲載されている。
★2 2013年にロシアで刊行された長編小説。『早稲田文学』7号に松下隆志氏による抄訳と解説が掲載されている。
★3 2013年11月にはじまったウクライナの革命運動。「ユーロ」はヨーロッパのこと、「マイダン майдан」はウクライナ語で広場を意味する。ウクライナは1991年の独立以来、ロシアとEU、どちらと近い関係を取るのか揺れつつも、EU加盟を目指していたが、2013年11月21日、親露派の大統領ヤヌコーヴィチが、ロシアの圧力下でEUとの連合協定の署名手続を凍結。怒ったキエフ市民が市中心部の独立広場に出て抗議集会を行ったのがユーロマイダン運動の始まりである。政府側と反体制勢力の武力衝突をきっかけに運動は激化していく。2014年1月16日には、集会や言論、情報収集などの自由を制限する一連の法律が国会で可決され、マイダン側はこれを「独裁者の法律」と呼んで強く非難。1月22日のグルシェフスキー通りでの武力衝突では、マイダン側に犠牲者が出た。2月18日の大規模デモから、政府の武力行使にも容赦がなくなり、死者が二桁に。2月20日には独立広場横のインスティテュトスカ通りで、通りと広場に面したホテル「ウクライナ」の上層階からスナイパーが一般市民を銃撃し、多くの死者が出た。結局、2月22日に政府が反体制派の要求を呑むかたちで合意に達したが、その後、極右の右派セクターがヤヌコーヴィチ大統領辞任を要求し、再び混乱が始まる。結局、ヤヌコーヴィチ大統領は同2月22日にキエフを脱出。2月27日にはウクライナ暫定政権が樹立した。
★4 ヤヌコーヴィチ前大統領の邸宅はキエフ郊外のドニプロ河畔の保養地メジヒーリエにある。広大な土地には、数多くのシャンデリアや高級家具はもちろん、専用マッサージルームやほぼ未使用のスポーツジムなど、無意味なまでに贅を尽くした屋敷、高級自動車のコレクション、露天風呂を模したガラス張りの野外風呂など、とにかく金をかけた施設が並ぶ。2014年2月にヤヌコーヴィチが逃亡してからは、ユーロマイダンの過激派が占拠し、勝手に管理して博物館として公開している。
★5 2014年4月から7月にキエフ国立美術館で開催された展覧会。ヤヌコーヴィチ邸の調度品を絵画から日用品まで、「時の書」「水の書」「光の書」など、テーマごとに分けて展示した。たとえばつぎのサイトでは展覧会の写真が複数公開されている。http://culture.lb.ua/news/2014/04/26/264507_natsionalno_muzee_otkrilas.html
★6 ジャーナリスト、文化学者、キュレーター。ウクライナの美術雑誌「Art Ukrine」の編集長で、ムィステツキー・アーセナル美術館副館長。
★7 「テアトル」のサイトで展示作品の画像とともに全文が公開されている。http://oteatre.info/majdan-i-mezhigore/#more-11520
★8 ユーロマイダンはジャーナリストのムスタファ・ナイエムのフェイスブック投稿からはじまった。連合協定署名手続の凍結に怒ったナイエムは、「今日、真夜中までにマイダン(独立広場)に出る準備があるやつはいるか? 「行く」というコメントが1000件を越えたら、みんなでマイダンに出ようじゃないか」と投稿した。この投稿は削除されているが、たとえば下記のサイトにはスクリーンショットが上がっている http://ru.globalvoicesonline.org/2014/05/22/29154/ 。また、マイダンに出ることが決まった後の「22:30に独立の記念碑のそばで会おう」という投稿はこちらのツイートで確認できる https://twitter.com/mefimus/status/414452331225563137
★9 2004年のウクライナ大統領選後に起こった革命運動。親ロシア派のヤヌコーヴィチが当選したことに対して、破れたユーシチェンコ大統領の支持者が選挙に不正があったと主張。キエフの独立広場を中心に大規模な政治集会やストライキが行われ、結局再投票となった。結果としてユーシチェンコ大統領が勝利をおさめた。ユーシチェンコ陣営のシンボルカラーにちなんで「オレンジ革命」と呼ばれている。

アレクサンドル・ロイトブルト

1961年オデッサ生まれのウクライナの画家。ウクライナ独立後の1993年、仲間とともにオデッサの現代美術協会「新しい芸術」を創設。1991年から2001年までは同協会代表。また、2002年から2004年までキエフに存在したマラート・ゲリマン・ギャラリーの支部でも代表を務めた。作品はウクライナ・ロシアの代表的な美術館やニューヨークのMOMAなど、国内外の美術館に所蔵されている。社会評論家としても活動をしており、フェイスブック(https://www.facebook.com/aleksandr.roytburd)を中心に活動し、多くの購読者を持つ。また「ウクラインスカ・プラヴダ」紙にブログ(http://blogs.pravda.com.ua/authors/roytburd/)を持っている。

上田洋子

1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。著書に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』(調査・監修、ゲンロン)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社)、『歌舞伎と革命ロシア』(共編著、森話社)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010年)など。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。
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