観(光)客公共論(2)|東浩紀

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初出:2015年7月10日刊行『ゲンロン観光通信 #2』
 このところ「慰霊」という言葉について考えている。去る6月23日は沖縄県が定める慰霊の日だった。8月6日になれば広島では慰霊式が執り行われる。日本にはあちこちに慰霊碑が建ち、あちこちで慰霊祭が開催されている。慰霊という言葉は、ぼくたちの日常にすっかり溶け込んでいる。

 けれども、この言葉の歴史は意外と浅い。一説によれば、それは戦後、「招魂」や「顕彰」のような軍国主義と国家神道の匂いのする言葉を避けるため、広く普及したものらしい。実際、意味が広い「慰霊」はともかく、「慰霊碑」や「慰霊祭」といった熟語での用法はあまり歴史を遡ることができないようだ。小学館の『日本国語大辞典』は、「慰霊祭」の初出として1933年の尾崎士郎の小説を、「慰霊碑」の初出にいたってはなんと1976年の曾野綾子の小説を挙げている。

 なぜ「慰霊」が気にかかり始めたのか。それは、この言葉が、ぼくたちの国がいま陥っている、このどうしようもない停滞感と不能感を象徴するもののように思われたからである。

 慰霊は霊を慰めると書く。しかし、霊とはなんだろうか。慰めるとはなんだろうか。本来はこのような言葉には、なんらかの宗教的世界観が結びついているはずである。けれども、日本では慰霊は特定の宗教と結びついていない。政教分離が原則の日本では、公的機関は、特定の宗教の祭祀に関わることができないからだ。結果として、慰霊の行為はじつにぼんやりしている。事実「慰霊碑」で画像検索をかけると、神道とも仏教とも切り離された、つまりいかなる歴史とも切り離された、勝手気ままなデザインの構築物が大量に引っかかる。この国では、みな、そんななんの根拠もない抽象的な物体をまえにして、神に祈るでもなく、仏典を読み上げるでもなく、ただ沈黙し頭を下げることで、死者を追悼した「気分」になっている。

 けれども、それは「気分」であるだけで、本当の意味での追悼になっていないのだ。だからこそ、敗戦から70年を経たいまも、この国では毎年のように戦死者の追悼が政治的課題になり続けている。
 
 慰霊という言葉にはひとつ顕著な特徴がある。それは天災にも戦争にも同じように使うことができる。

 その多義性を体現しているのが、東京都墨田区の横網町公園にある「東京都慰霊堂」である。この霊堂は伊東忠太の設計で有名で、1930年に建てられた。もともとは関東大震災の犠牲者の遺骨を納めるために構想されたもので、名称も「震災記念堂」といった。それが戦後、東京大空襲による犠牲者の遺骨もあわせ収められ、「東京都慰霊堂」と名前を変える。つまり、戦前には慰霊堂とは呼ばれていなかった。

 日本人は、しばしば戦争を天災のように捉える。たとえば戦争の被害を「戦災」と呼んだりする。実際、東京都慰霊堂のすぐ近くにある江戸東京博物館では、まさに関東大震災と東京大空襲が、都民を苦しめたふたつの「災害」として同じように展示されている。その文脈で考えれば、関東大震災と東京大空襲という、まったく性質の異なる事件の犠牲者が同じ場所で同じように追悼されるのも、いかにも日本人的だということで理解できないわけではない。

 しかし、問題は、その「日本人らしさ」がどこから来たかである。この点について東京都慰霊堂の場合の経緯を調べると、なかなか興味深いことがわかってくる。

 現在、東京都慰霊堂を管理し、毎年2回(震災の日と空襲の日)の慰霊祭を主催しているのは、財団法人東京都慰霊協会という組織である。公園と建物は都の所有物だが、慰霊祭などはこの慰霊協会が主催している。この組織は、歴史を辿ると、戦前に国家主導で設置された「東京市忠魂塔建設事業会」を前身としている。同会は「殉国軍人」の追悼を目的とし、忠魂塔の建設予定地も確保していたが、敗戦により解散となった。しかし他方で、当時の東京では、軍人だけではなく、空襲によって膨大な数の民間人の死者が発生しており、その埋葬は社会的課題となっていた。そこで、上記の建設事業会の資産を継承しつつ、政教分離という新たな原則に配慮し、民間有志が結成した任意団体という抜け道を使って再結成したのが、この慰霊協会なのだ。慰霊協会は当初、空襲の犠牲者を、忠魂塔予定地に新たに埋葬することを予定していた。けれどもそれは、なぜかGHQの許可が出ず不可能になる。かわりにGHQから示唆されたのが、震災記念堂への共同納骨だったということらしい★1

 この経緯は、慰霊という言葉に与えられた政治性、というより「脱政治性」を端的に示している。東京都民は別に、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を、同じ場所で、同じようなものとしてあいまいに処理したかったわけではない。実際、当時の人々からすれば、人知の及ばぬ大地の振動と、人間の乗った敵機が落とす焼夷弾はとても同じ「災害」とは感じられなかったのではないかと思う。共同納骨は本当は、占領下で政治的な軋轢を避けるために編み出された方便にすぎない。

 けれども、いまのぼくたちは、そのような歴史をすっかり忘れて、震災も空襲も同じように扱うのが「日本人的」だと思い込んでいるわけだ。
 さらにもうひとつ論点を付け加えておこう。慰霊について調べ始めたところで、「怨親平等」という言葉に出会った。読んで字のごとく、「怨」も「親」も、つまり敵も味方も平等に供養するという意味の仏教用語である。

 日本はじつは怨親平等の国である。前掲の『日本国語大辞典』は、この語の初出を平安時代まで遡っている。山田雄司の『怨霊とは何か』によれば、その思想は鎌倉時代に元寇をきっかけに定着し、禅宗とともに広がったものらしい★2。観光地として有名な北鎌倉の円覚寺は、元と高麗の連合軍と日本、双方の犠牲者をともに追悼するために建立された寺院だ。

 怨親平等の思想は、戦争に彩られる近代に入ってますます力をもつことになった。日本にはなぜか、自分たちが侵略した、その当の相手の国の軍人を弔う記念碑や観音像が存在している(興亜観音)。その思想は戦後も生き続けている。たとえば、沖縄の平和祈念公園にある刻銘版(平和の礎)には、米軍も日本軍も、敵味方関係なく犠牲者の名が刻まれている。また、広島の平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑には、「過ちは繰り返しません」「安らかに眠ってください」といった言葉が刻まれ、原爆投下の責任を問う言葉は慎重に避けられている。戦争でひとが死ぬのは、だれかが正しくだれかが悪いからなのではない、戦争そのものが悪なのであり、そこでは加害者もなく被害者もなくみな苦しんだのだと、戦後の日本人はなんとなく考えている。しかしそれは、怨親平等思想のない国には理解しがたい歴史観である。普通の発想では、戦争には加害者がいて被害者がいる。善があり悪がある。

 そして、この「思想」にもやはり歴史がある。前掲の山田の著者は、それは戦国時代以後、日本文化の基層にあった「怨霊」の思想が弱まるなか、かわりに広がったものなのだと指摘している。つまりは、怨親平等思想もまた、日本人の生来のものというわけではないのである。日本人はむしろ(梅原猛らが強調するように)、もともとは荒れ狂う怨霊を怖れる文化をもっていた。にもかかわらず、霊たちはあるときから、生者の世界を脅かすのをやめてしまったのだ。

 興味深いことに、山田は別の著書で、この変化が、「怨霊」から「幽霊」への語彙の変化に象徴されると記している。「幽霊」もまた、それほど歴史を遡れる言葉ではない。それは室町時代に世阿弥によって能に導入された、すなわち美学的な言葉で、そこから大衆に普及した。山田はつぎのように記している。「『怨霊』という語があまり用いられなくなり、かわりに『幽霊』が用いられるようになると、巷間では以前とかわらずに恐れられたものの、政治的には意味を持たなくなっていった。すなわち、国家によって「怨霊」への対処は行われていたのに対し、「幽霊」が国家によってとりあげられて鎮魂されることはなかった」★3。敵も味方もない、みなが苦しんだので安らかに眠ってほしいという怨親平等思想が普及する背景には、このような、怨霊の美学化=脱政治化の動きがあったのである。

 この指摘は、前述した慰霊堂設立の経緯と重ねて考えると、じつに示唆に富むもののように思われる。むろん、ここで話題になっている変化と、さきほどまで話題にしてきた慰霊の歴史では、時期がまったく異なっている。

 けれども、いまこの国で追悼一般がかくも脱政治化し、脱宗教化し、脱歴史化し、つまりは形骸化しているのは、はるかむかし、室町期から戦国期にかけていちど怨霊なるものが美学化し脱政治化されてしまっていたからなのだと、そのようなゆるやかな連続性を想定することはできるだろう。
 
 このように考えを進めてきて、ぼくは、いまこの国の抱える最大の問題のひとつは、さまざまな歴史的経緯や文化的制約のために、霊について、あるいは死者について、政治的に語ることがたいへん苦手になってしまっていることにあるのではないか、という仮説に辿り着いた。

 慰霊というあいまいな言葉は、まさにその語りの不能性を象徴している。死者を追悼するとは、その死からあらゆる政治的な意味を剥ぎ取ることだと、いまの日本人はそのように思い込んでいるふしがある。そもそも政治とは、カール・シュミットの有名な定義によれば、まさに「怨」と「親」を、つまり敵と味方を分割することだったのだから、怨親平等の思想とは脱政治の思想にほかならないのだ。その全面化は、社会にどこかひずみをもたらしてしまう。

 といったところで、今回は規定の文字数を大幅に超えてしまったようだ。次回は、以上のような考察のうえで、いまゲンロンで進めている(進むといいと思っている)あるプロジェクトを紹介したい。
★1 加藤雍太郎・中島宏・木暮亘男『横網町公園』、東京都公園協会、2009年。
★2 山田雄司『怨霊とは何か』、中央公論社(中公新書)、2014年。
★3 山田雄司『跋扈する怨霊』、吉川弘文館、2007年。172-173ページ。
ぼくたちは、人間であり続けるために、等価交換の外部をいつも必要としている

ゲンロン叢書|003
『テーマパーク化する地球』
東浩紀 著

¥2,530(税込)|四六判・並製|本体408頁|2019/6/11刊行

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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