60年代初頭の沖縄の記録(前篇) 慰霊塔をめぐる話|撮影=中沢道明 文・構成=荒木佑介

初出:2015年11月13日刊行『ゲンロン観光通信 #6』
後篇はこちら

 

 私の手元には60年前の沖縄を撮影した写真と映像がある。写真はモノクロを中心に2300カット以上、映像はカラーで37分という長さになる。これらは新聞記者だった祖父、中沢道明の遺品から見つかったものだ。祖父は戦後すぐの1946年から、おもに社会部の遊軍記者として活動していた。その本分は記事を書くことだが、遊軍であったため撮影も同時に行っている。遺品として出てきた写真は古いものだと70年近く前の引揚げの様子を記録したものもあり、私はそれを以前『ゲンロン観光地化メルマガ』で紹介した★1

 

【写真1】60年代初頭の沖縄を記録した写真と映像
 

 沖縄には1961年から1963年までの2年間、常駐特派員として勤務しており、写真と映像はその時に撮影されたものである。2年間の取材で撮影したものは多岐に渡り、沖縄本島、離島をくまなく回っている。貴重な記録であることは間違いなく、那覇市歴史博物館の学芸員に見せたところ、60年代初頭の沖縄の写真がまとまって見つかることは珍しいらしい★2

 祖父が遺した記録は日本の戦後史そのもので、私はタイムカプセルを手にしたような気持ちでいる。それと同時に、ただの遺品ではないという思いから、整理と保存を続け紹介もすることにしている。

 ここからは60年前のダークツーリズムを覗いてみよう。当時の沖縄は慰霊塔が乱立した時期でもあるので、写真とともにいくつかの慰霊塔をめぐってみたい。

 その前に60年代前半の沖縄の様子に少し触れておこう。当時は米軍の施政権下にあり、1961年から1963年は、翁長元沖縄県知事の発言でも知られるキャラウェイが高等弁務官だった。キャラウェイは「沖縄の自治は神話にすぎない」と言い、沖縄の日本復帰を望んだケネディ大統領とは対立した人物だ。前年の1960年にベトナム戦争が始まり、祖父が特派員として着任した1961年5月は沖縄が後方基地として動き始めた頃でもある。

 

【写真2】那覇市内を流れるガーブ川を視察しに来たキャラウェイ高等弁務官(中央寄り軍服の人物)。那覇市平和通り(1961年)
 

 今でこそ沖縄はリゾート地という顔を持つが、戦後の沖縄観光は慰霊とともに始まっている。きっかけは朝鮮戦争で基地を強化するために本土から多くの企業が入ってきたことによる。基地産業に従事する技術者たちが南部戦跡を慰霊訪問したことから、戦後の沖縄観光は始まった。南部戦跡の中でも有名なひめゆりの塔の様子が当時どのようなものだったか、まずは見てみよう。

 

【写真3】ひめゆりの塔を観光しに来た人たち(1962年)

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なかざわ・みちあき/1922年東京生まれ。時事新報・社会部記者を経て読売新聞・社会部記者、同次長、編集局参与。常駐特派員として沖縄(二年間)南ベトナム(一年間)駐在、移動特派員としてアフリカ各国、西アジア各国、東南アジア各国、アメリカ合衆国で取材。慶応義塾大学法学部政治学科卒。2007年没。

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1979年リビア生まれ。アーティスト/サーベイヤー。東京工芸大学芸術学部写真学科卒。これまで参加したおもな展覧会に「瀬戸内国際芸術祭2019」(KOURYOUチームリサーチリーダー、2019年、女木島)、「削除された図式 / THE SIX MAGNETS」(2020年、ART TRACE GALLERY)など。また『ゲンロン観光通信』、『レビューとレポート』などに論考を寄稿している。

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