ポスト・シネマ・クリティーク(1)「ミゼラブル」たちの時間──濱口竜介監督『ハッピーアワー』|渡邉大輔

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初出:2016年1月15日刊行『ゲンロン観光通信 #8』
 今号から新連載「ポスト・シネマ・クリティーク」を開始する。

 タイトルには、「ポスト・シネマ」の批評(critic)と、「映画批評」の以後(post)、というふたつの意味をこめた。前者の「ポスト・シネマ」とは最近、よく耳にする言葉だが、ここであえて厳密な定義をするつもりはない。メディア環境、社会的制度、ひとびとのリアリティ……、昨今、さまざまな側面の変化で、「映画が映画であること」の輪郭が、かつてとはどこか異なったものになりつつある。そんな、筆者が数年来感じ続けている映画や映像に対する漠然とした感触をおおづかみに名指す言葉として、ここでは用いたい。

 そんな「ポスト・シネマ」を感じ、考えさせるような作品(ハリウッド大作からドキュメンタリー、アニメまで)をこれから毎月、一本選び、レビューしていこうと思う。そしてその結果として、従来型の映画批評を超えた、新たな映画・映像の現在を掬いとる言葉にもたどり着きたいという、ほのかな期待もこめられている。

 ぜひ、いっぷう変わった「映画の旅」におつきあいいただきたい。



ワークショップの椅子


 縦長のガラス窓のはるか向こうに海面が白くきらめく神戸港を臨む、薄暗い部屋の一室で、複数の若い男女が集まった小さなワークショップが開かれている。

「重心に聞く」と銘打たれた件のワークショップの講師役は、鵜飼(柴田修兵)という、いかにも怪しげな現代アーティストふうの男である。数年前の東北の震災の後、南三陸の沿岸部に転がっていた瓦礫の岩石を一個一個浜辺にバランスよく立てていくという意味もないパフォーマンスをしていたところ、ひょんなきっかけでここに呼ばれたのだと、もっともらしく参加者に説明するその男は、その経緯を実演するかのように、不意にかれらの眼の前で、椅子の片足の角を地面にバランスよく立てて、そのままぴたりと斜めに静止させてみせる。自らの重心を見いだした椅子は、そのとき、一瞬だけ、いっさいの重力を消失したかのように、亡霊のようにスクリーンに浮かびあがり、つぎの瞬間、鵜飼の手の動きと同時に、音を立てて倒れる。

 あたかもその音を合図として次第にワークショップに引きこまれてゆく参加者たちは、「正中線を探る」という男の指示のもと、自他の身体の中心点を、距離を推し測って探りながら、輪を描いてゆっくりと回りはじめる。たがいに不可視の均衡を保つように、じりじり、じりじりと、数人の参加者が入れ替わり、立ち替わり、その輪の連なりのなかに入っては、また抜けてゆく。男の手が鳴り、参加者はつぎの指示に移ってゆく。

 濱口竜介の『ハッピーアワー』(2015年)の前半部分(第一部)に登場するこの奇妙なワークショップのシークエンスは、本作を観た観客のだれしもがそう確信するとおり、この後、およそ4時間近くにわたって続くこの途方もなく巨大な映画の奔流が一挙に決壊するティッピング・ポイントであるとともに、今日の日本の映画的風土が想像しうる限りのもっとも苛烈な実験精神によって激しく胸を撃つ。

濱口的モティーフ


『ハッピーアワー』は、濱口竜介の9作目の長編映画であり、震災後の東北を取材した酒井耕との長編ドキュメンタリー連作「東北記録映画三部作」(11~13年)の発表後、神戸に活動の拠点を移し、半年近くにおよぶ市民参加のワークショップ・プログラムの成果として手掛けられた5時間17分にわたる大作である(劇場では三部構成として上映)。

 神戸に暮らす30代後半の4人の女性たちの交流と孤独をフィクションとドキュメンタリーが交錯する独特の演出で描き、昨年の第68回ロカルノ国際映画祭では主演の4人の女性が演技未経験者ながら日本人初の最優秀女優賞を受賞し、大きな話題となった。冒頭に掲げたのは、ヒロインのひとりである芙美(三原麻衣子)に誘われて、友人のあかり(田中幸恵)、桜子(菊池葉月)、純(川村りら)が、芙美の主宰するアートセンターのワークショップに参加するシークエンスである。その場面の直後、ワークショップの打ち上げの席上で、純は突然、自身の浮気が原因で夫と離婚係争中であることを告白し、それを転機として、彼女たちの関係とそれぞれの生活には不穏な変化が訪れることになるのだ。

 このワークショップのシークエンスの演出は、さしあたりこれまでの濱口のフィルモグラフィに反復されるいくつもの特徴がこめられた印象的な場面になっているといえる。
 たとえば、演劇のエチュードのように作中の俳優/登場人物たちが身体を駆使するある一連の行為や動作の形成プロセス(広義のエクササイズ)をドキュメンタリーのようにとらえていくという、作家の敬愛するジョン・カサヴェテスに連なる手法は、まさに演劇を題材にした4時間超の大作『親密さ』(12年)や、ドキュメンタリー『うたうひと』(13年)、そして中編『不気味なものの肌に触れる』(13年)などの諸作でも幾度も登場する。また複数の登場人物たちが身体を向けあって対面する配置や構図も、本作ではほかに有馬温泉の旅館でヒロインたちがマージャンに興ずる場面などに見られるが、これもまた長編デビュー作『何食わぬ顔』(03年)以来のいかにも「濱口的」なモティーフだ。

 さらに、この場面では、フィクション映画のなかの一場面にもかかわらず、俳優たちの身振りや、それらをとらえるキャメラワークがあたかもドキュメンタリー映像のような異様な臨場感を醸しだしている。この独特の演出は作家自身のインタビューでの発言によれば、当初、俳優たちを集めた通常のワークショップの記録として撮影されたフッテージに、後日、その映像をもとにフィクションとして再構成して撮影した同じシチュエーションの映像をミックスして編集することで成立している。

 よく知られるように──また、わたし自身もすでに別稿で短く論じたことだが★1、こうした映画におけるフィクションとドキュメンタリー、すなわち、今日の映像の表象や観客の受容体験における現実性/虚構性のあわいを攪乱し、多層化していくような表現も、近年の濱口作品において顕著に見られる傾向である(その象徴が、「東北記録映画三部作」などで実践された小津ふうの正面からの切り返しショットである)。

 いずれにせよ、以上のような構成要素に満ちた『ハッピーアワー』のこのシークエンスが、しばしば「ポスト・メディウム的状況」などとも呼ばれる今日の映画や映像をめぐる環境の内実と、深いところで響きあっていることは明らかだろう。

「無重力」の椅子と「ポスト・シネマ的状況」


 たとえば、いわゆる「ディジタル化」と「ネットワーク化」という標語に要約できよう現代のメディア環境では、わたしたちの日常生活の内部にあらゆる映像(「映画的なもの」の種子?)が分子状に遍在し、しかもそれゆえに──監視キャメラ映像からフェイク・ドキュメンタリーまで──この眼前の現実がつねに/すでに、あらゆる法則性を欠いたまま別様の「映像」へと生成変化しうるという文化的感性が自明化しているといえる。そこでは、もはや現実と虚構、撮影者(主体)と被写体(客体)の安定的なディコトミーは底が抜け、人間やモノはその区分を曖昧にしつつも、それぞれが単独の個体として、よるべなき「イメージの例外状態」の暗闇のなかを手探りでさまよい続けなければならなくなった。

 映画の後半、ワークショップの場面と同様の演出を伴った新人女性作家の新作朗読会のシークエンスで、急きょ、トークの聞き手を務めることになった純の夫である生命物理学者・日野(謝花喜天)が、小説の感想について「この朗読の空間を通じて、こずえさんとやよいさんと、聞いている僕らが混じり合う」ようだったと語るのも、そうした認識とたしかに接近している。そして何よりも、さきに示した鵜飼の立てた椅子の「無重力化」したイメージは、そうした「ポスト・メディウム的状況」の内実を端的に寓意しているだろう。たとえば、本作の隣にアルフォンソ・キュアロンの『ゼロ・グラビティ』(13年)を並べてみるまでもなく、その椅子の重みをなくした宙吊りぶりは、まさにフィルムという物質的支持体(重力)をなくしたディジタル映像の運命そのものを鮮明にかたどっているからだ。

 したがって、それをここで「ポスト・シネマ的状況」ともいいかえることができるかもしれない。

「ミゼラブル」たちの時間


 結論からいえば、本作のこのワークショップのシークエンスがきわめて即物的なシチュエーションとして、わたしたちにはっきりと提示しているのは、こうした今日の「ポスト・シネマ的状況」のありようそのものだといえる。

 震災後の瓦礫に見立てられた椅子の重力をほんのつかの間だけ失わせ、また、即物的な身体によるコミュニケーションの往還をかいして、自分と他者とのありうべき不可視の均衡状態を、息詰まるような精妙さで測りあう人物たちの風景は、まさにいまこの瞬間にもこの世界に身の置き所なく生まれ落ちている無数の「映画」の片鱗たちのそれに薄い皮膜のように重なってゆくだろう。

 思えば、固い友情で結ばれていた4人の女性たちが次第にばらばらにほどけあい、それぞれが鈍い宙吊りの時間を生きることになる本作の物語は、その冒頭からいっさいの安定や自明性やパースペクティヴを欠いた「盲目性」の符牒に彩られていた。ヒロインたちを乗せたケーブルカーが暗いトンネルを抜け、緑の木々の合間から遠く神戸の街並みが見渡せる山頂に達したところから幕を開ける本作の奇跡的なまでのショットの連なりは、すぐさま唐突な濃霧の風景におおわれる。「何も見えへんやん」「何やうちらの未来みたいやな」と口にしながら弁当をつつくヒロインたちの姿は、その後の、ヒロインの夫たちの見せる数多の不甲斐なさや、熟達した看護師には似合わぬあかりの予期せぬ見落とし(ミス)などの数々の場面と相俟って、自他や虚実の感触を喪失したまま世界を孤独に漂う現代映画そのものの「盲目性」を暗示している。

 あらゆる足場を見失ったまま、キャメラの前にその孤独な貌を曝す本作の女優たちは、その意味で、──あのワークショップの椅子と同様──哲学者ミシェル・セールのいう「ミゼラブル」(『アトラス』)──それ自体が分子的で特異な個物としてスクリーンに存在しているといえる。

 セールは、こうしたミゼラブルたちが織りなす相互干渉のネットワークの様態を、「可塑性 (plasticité)」と呼んだ[★2。複数の個体が粘性をそなえた煉瓦のように、たがいに力をおよぼしあいながら動的に変形してゆくさまを指す、これら可塑的な性質が、ディジタル以降のコンテンツの本質的様態ときわめて近しい関係にあることは知られている。そして、『ハッピーアワー』のワークショップのシークエンスで示される、登場人物たちの相互的で繊細な身振りで演じられているコミュニケーションのプロセスもまた、こうした「可塑的な時間性」だとみなせるだろう。

 この可塑的な時間性とはいいかえれば、リニアな時間軸を絶えず複数に分岐させてゆく冗長で潜在的な時間性である。コミュニケーションのプロセスによって動的に変形を被り続ける可塑的固体には、つねにその内部に、ほかのかたちでもありえた複数のかたちの可能性(リズム)が宿るからだ。長い──だが、驚くほどあっという間な物語が終盤に差しかかるころ、夫に「離婚しよう」と告げる芙美が、その直前、夫と会う前までかれの会話の応えの「パターン」を無数に思いめぐらしていたと話し、「ありとあらゆる。これはその1つ」と冷たくいい放つ姿は、『ハッピーアワー』の女性たちが徹頭徹尾、この可塑的な時間性を孤独に生きていた個体だったのだと、遅まきに観客に気づかせることになるだろう。そして、この可塑的な時間性こそが、おそらくは「ポスト・シネマ的」な時間性(ハッピーアワー?)なのだ。

「ポスト/シネマ」の「重心」


 ……とはいえ、最後に短くつけ加えておけば、わたしのこうした読みに対して、濱口は少なくとも半分は同意しないだろう。

 というのも、現実がいまここで生々しく生起する、その魂を自動的に記録してしまうのが映画=キャメラの力なのだという、ある種のバザン主義的な信念を、かつてわたしとの対話のなかでも強く表明していた濱口は、ディジタル時代にもなお、映画がかつてあった映画であり続けていることのさまざまな慣習に依拠しているようにも思えるからだ。

 もちろん、その信念は実際に正当であり、本稿を書くわたしはそうした作家の姿勢を全面的に肯定する。

 とはいえ、少なくともわたしにとっての、この現代日本においてもっとも先鋭的な映画作家への尽きぬ関心の一因は、かれの作る作品がひとまず作家のそうした企図とは別にはらんでいる、習慣として堆積した「シネマ」の位相と、その習慣を創造的に切断する今日的な「ポスト・シネマ」の位相とのはざまで絶えず「変調」し続ける、狂暴で繊細な「翻案=適応」の身振りにこそある★3。その事実を説明するために、本来ならば、ここからわたしは本作の「5時間17分」という長尺のもつ意味についてようやく語りはじめねばならないのだが、残念ながらもはやその余裕はない。だが、一点だけ指摘しておこう。

 全編にわたって4人の女性たちの「現実」の表情に限界まで肉迫したこのみごとな映画において、ワークショップのシークエンスの斜めに立つ「無重力」の椅子のイメージは、(おそらくそれのみ)ディジタル映像で作られているのだ。『ハッピーアワー』におけるこのディジタル映像の椅子が象徴しているのは、そうした濱口竜介の、おそらくはスラッシュで記されるべき、「ポスト/シネマ」的な「重心」のありかなのである。

 



※劇中の台詞にかんしては、濱口竜介・野原位・高橋知由『カメラの前で演じること──映画「ハッピーアワー」テキスト集成』(左右社、2015年)所収のシナリオを適宜参照した。

 


★1 拙稿「現代映画と『モノ=イメージとの同盟』──濱口竜介小論」、『IMAGE LIBRARY NEWS』第33号、武蔵野美術大学美術館・図書館、2015年、2-4頁。
★2 今日の映像文化における「可塑性」概念とのかかわりについては、ここ数年のわたしの主要な問題意識のひとつである。たとえば以下のテクストでも論じた。拙稿「ディジタル映像と『モノ』のうごめき――現代ハリウッド映画から見るイメージの変質」、『文學界』2015年11月号、文藝春秋、2015年、73-88頁。
★3 この論点は、以下のテクストに大きな示唆を受けた。この点については、本連載のなかで幾度か立ちかえることになるだろう。三浦哲哉「二つのリアリズムと三つの自動性──新しいシネフィリーのために」、『現代思想』2016年1月号、青土社、2015年、206-218頁。

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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