国民クイズ2.0(前篇)|徳久倫康

初出:2012年7月8日刊行『日本2.0 思想地図β Vol.3』
 ここに再録するのは、2012年刊行の『日本2.0 思想地図β Vol.3』に掲載された「国民クイズ2.0」の全文である(掲載にあたり図版の引用箇所を外したため、一部の表現をあらためている)。
 発表から8年、世はクイズブームを迎えている。当時はこんなに流行ってなかった。今月(2020年6月)には、『ユリイカ』で「クイズの世界」なる特集が組まれた。ぼくも「競技クイズとはなにか?」という論考を寄稿し、田村正資さん司会のもと、伊沢拓司さんとの対談に参加している。テレビのクイズ番組だけでなく、競技クイズの世界にも注目が集まっているようだ。
 対談の「クイズ王とは何者なのか?」では、以前ぼくが書いた「国民クイズ2.0」を何度か参照した。ほかのいくつかの論考でも参照いただいているようだ。しかし掲載誌の『日本2.0』はほぼ品切れ状態で、いまのところ再版の見込みもない。
 このまま死蔵というのももったいないので、編集長の許可を得て、ここに当時のテキストを再録することにした。
 当時24歳のぼくは、クイズ文化の盛衰を通して、戦後日本史の再解釈を試みている。最終的に導かれる「クイズ=国民投票」の提案は、いま読み返すと「クイズの政治利用」そのもので、現役のプレイヤーである自分にはかなり抵抗がある(執筆時点では、ぼくはまだ「競技クイズ」をはじめていなかった)。しかし大づかみなクイズの通史としては、いまでも十分通用するパースペクティブを提供できているはずだ。
 戦後日本にとってクイズとはなにか。どのような起源を持ち、いかにしていまの姿に至ったのか。一見ありふれており、当たり前のようでもあるこの営みについて、踏み込んで考えるヒントになればうれしい。(徳久倫康)

日本国憲法

第12章   国民クイズ(国民クイズの地位)
第104条 国民クイズは国権の最高機関であり、その決定は国権の最高意思、最高法規として、行政、立法、司法、その他あらゆるものに絶対、無制限に優先する。本憲法もその例外ではない。
――杉元伶一原作・加藤伸吉画『国民クイズ』より★1

0 人工知能とクイズ王

 2011年2月16日、アメリカのクイズ番組『ジェパディ!』(Jeopardy!)で、IBMが作成したコンピュータシステム「ワトソン」(Watson)が、伝説的なチャンピオンであるケン・ジェニングスとブラッド・ラターに勝利した。『ジェパディ!』は1964年以降長きにわたって人気を博し続けている番組であり、コンピュータと人間の頂上決戦は放送前から全米の注目を集めた。ワトソンはIBMという企業にとって――かつて、未来を象徴する最先端のIT企業の代表であったにもかかわらず、いまやグーグルやフェイスブックにそのイメージを奪われて久しい――社の威信を賭けた一大プロジェクトであった。開発チームは繰り返し過去のチャンピオン相手の模擬戦を試行し、ワトソンは67パーセントの勝率を示していた。負けは許されないが、勝利が保証されていたわけではなかった。

 果たして、ワトソンは並み居るチャンピオンたちを圧倒した。コンピュータ相手に大差をつけられながらも果敢な戦いを続けていたジェニングスは、最終問題の小説『ドラキュラ』の作者を尋ねる問題に対し、正しい回答である「ブラム・ストーカー」(Bram Stoker)の名前の下に、かっこつきでこう記した。「私は新しいコンピュータ君主を歓迎します」(I for one welcome our new computer overlords)。スタジオに拍手が巻き起こった。人工知能がクイズ王を打ち破ったのだ。

 しかし、日本でこの出来事は、それほど大きく報道されなかった。これは1997年、同じくIBMが開発したチェスコンピュータ「ディープ・ブルー」(Deep Blue)が世界チャンピオンのガルリ・カスパロフを打ち破った際、コンピュータの知性が人間を上回ったとして広く話題を呼んだことと好対照をなしている。ディープ・ブルーが歴史的勝利を飾ったのは、ちょうどITバブルのさなかであった。コンピュータは無限の可能性とともにイメージされており、人間を上回るのも時間の問題だと思われていた。それに比べ2011年には、すでにくだんのバブルは弾けて久しく、また人々がITに抱くイメージは、中央集権的な巨大マザーコンピュータから、分散処理型のクラウド・コンピューティングに移り変わってもいた。ワトソンはいささか時代遅れに映った、といっていいだろう。

 しかしワトソンには、チェスには不要な自然言語処理や情報検索など、ディープ・ブルーよりもはるかに高度な技術が投入されていた。データベースの管理システムからはみ出た莫大な情報群、いわゆる「非構造化データ」のなかから、たんなる事実を問う設問だけでなく、言葉遊びのような問題に対しても回答を出すために、開発チームは6年の歳月を費やした。その甲斐あって、『ジェパディ!』に挑むころには、ワトソンの判断は格段に高速化し、まだまだミスは多いとはいえ、十分に精緻化していた。勝利は決して、偶然の産物ではなかった。

 その性能にもかかわらず、ワトソンの活躍が国境を超えて伝わりにくいのは、クイズというジャンルが抱える本質的な特徴のためだといえる。クイズは形式としてはグローバルに親しまれている遊びだが、設問、つまり内容のレベルでは、言語や文化によって強い制約を受けている。そのためいかに高度な争いがなされようと、共同体の外部にはそのレベルが伝わりにくい。クイズは、「参加者が知っていると期待される知識」が想定できない環境では成立しないのだ。一例を挙げれば、日本人にとって、江戸幕府の初代将軍は小学生でもわかる常識だが、ひとたび海を越えれば、世界史上の瑣末な事項となる。逆もまたしかりである。

 だとすれば日本人がワトソンのすごさを体感するには、「日本版ワトソン」が必要だろう。しかしそのようなシステムが完成することは、おそらく永久にない。なぜか。

 もちろん、日本語が他の国際語に比べ話者数が少なく、またその機械的な分析も英語ほどには発達していないという、いわば経済的な原因も挙げられる。しかし、より重要なことは別にある。ワトソンが日本のクイズ王たちを圧倒することはあまりにも難しい。それは、日本とアメリカではクイズのルールが違うこと、そしてコンピュータシステムが立ち向かうには、日本のクイズプレイヤーたちがあまりに強すぎることに由来する。とくに日本では、「早押し」と呼ばれるクイズ形式が特異な発達を遂げている。のちに詳しく見ることになるが、この、日本特有の早押しクイズは、いまやひとつの競技として確立しているのだ。

 たとえば、「競技クイズ」をテーマとするマンガ『ナナマル サンバツ』を見てみよう。この作品は、もともと競技クイズについてはまったくの素人だった主人公が、高校入学とともに偶然のなりゆきでクイズ研究会に入り、たちまち競技クイズにのめりこんでいく様子を描いている。

 はじめて他校と争う新人戦に、印象的なカットがある。のちに主人公のライバルとなる少年が、「なぜ」のわずか三音で「マロリー」という回答を導くのだ★2。これはマンガの一シーンだが、現実でも十分に起こりうる。いったいなぜこんなことが可能なのか。じつは回答者の少年は、対抗戦の性質、出題されるであろうクイズの難易度、そしてこれが一ラウンドの一問目であることなど、問題文以外のメタ情報を読み取ることで、回答を導いている。むしろ競技クイズにおいては、このようなメタ情報の読み取りなくして回答権を得ることは難しい。だとすれば、ワトソンの苦戦は必至である。

 とはいえ、このようなクイズの競技化については、両義的な評価を下さざるをえない。ワトソンの開発チームは、『ジェパディ!』の攻略に心血を注ぐ一方で、「過剰適応」の罠に陥ることを恐れていた。特定のクイズ番組の傾向と対策に最適化されたばかりに、一歩スタジオの外に出すととたんに機能しないシステムになってしまうのではないか、と。日本の競技クイズはまさしく、この陥穽にはまりこんでいる。

 これは、クイズに限ったことではない。グローバルな浸透力を持つ文化を輸入したのち、国内向けに最適化し、洗練させ、徹底的に高度化する――その結果、もはや外国どころか国内でも、ごく狭いコミュニティの外とは共有できないほどに先鋭化されてしまう。こういった現象は、現代日本のいたるところに見てとれる。筆者はそれを、日本人特有の民族的な性質ではなく、日本が置かれている条件が招く、一種必然的な事態として捉えるべきだと考える。そしてその事態について分析するには、クイズはうってつけの題材と言える。

 すでに忘却されて久しい事実だが、日本のクイズ番組は戦後占領期にアメリカから輸入された。それがいまのような過剰適応、近年よく使われる言葉でいえば「ガラパゴス化」に陥った裏には、日本の地政学的な条件に加え、占領期にもたらされた検閲システムに端を発する、「閉ざされた言語空間」★3の影響が大きい。文化史的な文脈におけるガラパゴス化とはつまり、閉ざされた言語空間が生み出した「閉ざされた円環」★4において、アメリカに起源を持つ大衆文化が換骨奪胎され、奇妙な成熟を遂げた現象にほかならない。

 さらに論を進めれば、いま私たちが直面している機能不全は、1990年代以降、「アメリカ」が日本人にとっての憧憬の対象でなくなったにもかかわらず、文化的な内実とそれを支える構造が、ともにアメリカを起源とするがゆえに起きている現象にほかならない。だとすればその構造を可視化し、起源を問い直す作業が要請されているはずだ。その作業を通して、私たちは地理的にも文化的にも脱出困難な閉域のなかで、さらに内部で細かく分裂した状況を明らかにする。

 そしてできることならば、そのガラパゴスの資源を維持したままに、国家としての機能不全を解消する方法を探り出す。

 それこそが、この短いテキストの目的である。

1 「国民クイズ」とはなにか

 では、それは具体的にどのような方法なのか。筆者の最終的な主張は以下の通りだ。

 日本は一刻も早く、憲法改正の是非について、クイズ形式の国民投票を行うべきである。あるいは、原発の存続についての国民投票でも構わない。いずれにせよ、なんらかの重要な案件について国民投票を行うべきであり、もっとも望ましいのは、日本国憲法の改正の是非を問うそれである。

 ここで提案する新しい国民投票を、仮に「国民クイズ2.0」と名づけよう。国民クイズはもともと、1993年から1995年にかけて、講談社の『モーニング』誌上で連載されたマンガのタイトルである。この作品は近未来の日本を舞台とするディストピアもので、作中の日本では、民主主義の理念が完全に放棄されている。代わりに国権の最高機関に位置するのは、テレビ番組『国民クイズ』である。国民はこの番組で勝ち抜くことによって、ありとあらゆる願いを叶えることができる。

 作中の日本は経済大国として君臨しており、アメリカやフランスなどの先進国を含む諸外国に対して、横暴の限りを尽くしている。原作者の杉元伶一によれば、原案は連載開始の数年前、バブル絶頂期に構想されていたという。作品全体がSF的な設定に覆われているとはいえ、いささか時代を感じさせる描写も多い。

 作品が描かれてから相応の年月が経過し、いまや日本の国際的な地位も随分と変化している。だとすれば、私たちはこれから訪れる未来のために、新たな「国民クイズ」を思い描いてもよいのではないだろうか。

 マンガ『国民クイズ』では、国民クイズは全体主義を実現するための装置として機能している。だが後述するように、クイズにはそもそも、全体主義ではなく、民主主義をこそ支援する機能が、本来的に備わっている。まずはその起源に立ち戻りたい。

『国民クイズ』が構想された当時、日本はバブル景気のまっただなかであった。そして作中の近未来は、バブルが突き進んだ果ての、全体主義のディストピアと設定された。それに対していま、まさに当時から見て近未来を生きている私たちはどうだろう。国民の人口は減少に転じ、失われた20年を経て、さらに歴史的な大震災の惨禍が重なった。経済は停滞を続け、政治の機能不全は常態化している。危機に立たされていることは自明である。

 だとすれば、1990年代に『国民クイズ』が、希望に浮かれる社会で絶望の物語を描いたように、2010年代に私たちは、絶望に沈む社会で希望の物語を描くべきではないのか。

 そのプロジェクト名こそが、「国民クイズ2.0」である。

 ではなぜ、国民投票が必要なのだろうか。あらかじめ断っておけば、筆者の専門は政治学でも憲法学でもない。しかし筆者は文化史的に見て、クイズ形式の国民投票こそが、日本の再起にあたって、もっとも有効な手段だという確信にいたっている。

 それを実証すべく、私たちはこれから、この国におけるクイズの歴史を参照する。日本では、憲法からごく庶民的な大衆文化にいたるまで、じつに多くのものがアメリカ産の材料で構成されている。クイズの歴史には、この構造がきれいに折り畳まれている。

 日本におけるクイズの歴史は、ラジオ・テレビといったマスメディアとともに展開される。とくに、テレビとクイズは親和性が高い。メディア学者の丹羽美之は「テレビの歴史とは、その草創期から現在まで一貫してクイズ番組の歴史であったといっても、それほど的外れではないだろう」★5と記しているほどだ。しかし、テレビの歴史がクイズ番組の歴史だとしても、テレビにおけるクイズ番組はクイズの歴史にとって一部でしかない。もともと日本では、クイズとテレビ番組は不可分であった。だが1990年代中盤以降、この関係性が崩れてしまう。クイズ文化がマスメディアから切り離され、さらに細かく分裂するという現象が起こったのだ。その分裂はいまにいたるまで続いている。この変化は急速かつ大規模なものであった。なにしろ、地上波テレビで数千万人の視聴者に親しまれていたはずの文化が、数千人のごく小さなコミュニティでのみ親しまれるゲームになってしまったのだ。しかし繰り返すが、それはクイズに限った現象ではない。

 私たちはクイズの戦後史を振り返ることで、この国が袋小路に陥った理由を知ることになるだろう。その行程を遡ることで、脱出のためのヒントが見つかるはずだ。

2 クイズ番組の起源

 前章で触れたように、日本におけるクイズ番組の起源は、アメリカを中心とする連合国の占領政策と深く関係している。日本初のクイズ番組『話の泉』は、1946年12月に、NHKラジオ第一放送で放送を開始した。その裏には、占領下において日本の文化政策を監督した民間情報教育局(CIE)のラジオ課が、NHKに対して与えた「助言」がある。『話の泉』はCIEの意向を受け、アメリカのラジオ番組『インフォメーション・プリーズ』(Information Please)を模倣して制作された。当時、「クイズ番組」という呼び名はなく、『話の泉』に代表される黎明期の番組は「当てもの」と総称されていた。

 CIEが日本にクイズ番組を導入したのは、クイズ番組が持つ特性に着目したからだ。クイズ番組には、戦前の家庭を支配していた家父長制の原理を弱め、民主主義の作法を人々に浸透させるはたらきが期待されていた。というのも、クイズにはその性質上、ともに番組を楽しんでいる家族や友人とのあいだでコミュニケーションを促進する性質があるからだ。

 戦前の日本家庭が家長を中心とするタテ型の構造を有していたとすれば、クイズによって知識を競う「お茶の間」の一家団欒のすがたは、まさしくヨコ型の構造といえる。クイズ番組では、夫よりも妻、父よりも娘、兄よりも妹こそ回答できる問題が数多く出題される。そのとき、家父長的な権力関係はいったんキャンセルされ、家族の成員には、同じゲームの参加者として、平等な権利が与えられる。戦前の硬直化した家庭環境に比べれば、クイズ番組がもたらすのは、より柔軟で、可変的な関係性だと言えるだろう。

 しばしば指摘されるように、終戦後の日本では、アメリカの新聞コミック★6やホームドラマがさかんに受容され、アメリカの家族像や消費文化に対する憧れが育まれていった。だがそれと同時に、いっけん純日本産のようにも見え、実際に日本人しか出演していない「当てもの」番組こそがじつは、各家庭にアメリカ流の民主主義の精神を浸透させる役割を果たしていたのだ。

 クイズに限らず、聴取者参加型の番組がこぞって制作されたのも民主化政策の一環である。再び丹羽の考察を引けば、「CIEは、放送は国民のものであるという考え方を前提に、それまでの上意下達型の番組内容をあらため、できるだけ一般大衆にマイクを解放するようNHKを指導した」★7のだ。

 しかし、大戦前後の日本人は、こういった急速な「アメリカ化」を、どう受け入れたのだろうか。彼らの精神性について、社会学者の大澤真幸はこのように説明している。

混乱が生じなかったのは、共同体の「現在」に意味を与える、超越的な他者(第三者の審級)の、速やかな、ほとんど間髪を入れない交替があったからである。[……]どのような交替があったのか?

「天皇によって義認された死者」が占拠していた座に、速やかに、「アメリカ」が就いたのである。日本人の精神を支える、形式的構造は、敗戦によって、壊れることがなかった。「内容」は変化したが、「形式」は保持されたのである。★8

 つまり、戦中には敵であったはずのアメリカが、敗戦と同時に、それまで天皇と戦死者が占めていた価値決定権(大澤の用語では「第三者の審級」)を奪い取ったのだ。それを証明するかのように、戦後日本はアメリカのポップカルチャーに席巻されるとともに、国産の文化運動もまた、その強い影響のもとに育まれていくことになる。もっともわかりやすいのはマンガやアニメだ。両者をたぐいまれな馬力で牽引した「神様」こと手塚治虫は、少年期からディズニー作品に傾倒し、自他ともに認めるディズニーファンであった。彼の習作や初期作品には、ミッキーマウスがそこかしこに登場する。

 近年の研究では、かつて手塚が生み出したとされていたさまざまな技法が、戦前の日本マンガから継承したものであったことが明らかにされている★9。しかしそれは、手塚および戦後マンガの作風にディズニーが影を落としていることと、いささかも矛盾しない。日米関係と、マンガやアニメといったオタク文化の関係性について、東浩紀は次のように述べている。

オタク系文化についての検討は、この国では決して単なるサブカルチャーの記述には止まらない。そこにはじつは、日本の戦後処理の、アメリカからの文化的侵略の、近代化とポストモダン化が与えた歪みの問題がすべて入っている。★10

 これとまったく同じことが、クイズについても指摘できる。戦後アメリカによって導入されたものを、日本人が発展的に継承する。独自色を強めるにしたがってその起源は忘却され、むしろ純国産の文化であるかのような見かたが広まっていく。戦後日本においてさまざまな分野で同時展開されたこうした現象が、オタク文化やクイズの歴史には、くっきりと刻み込まれているのだ。

 しかしなぜいま、あえてオタク文化ではなく、クイズについて考える必要があるのだろうか。それは冒頭で指摘したように、クイズが構造的にグローバル化できないものだからだ。日本のアニメやマンガは、その実態に賛否あるとはいえ、たしかに国際的な競争力を有している。けれども、クイズはそうではないし、それは今後も変わらないだろう。そしてそもそも、戦後日本が生み出してきた文化のうち、海外に輸出できるようなものはむしろ少数だったのではないか。だとすれば、ガラパゴス化した日本文化のうち、ごく一部がたまたま、輸出に適していたと言うほうが適当だろう。それを踏まえれば、いまここで私たちが考えるべきなのは、国際的な競争力を持ちうる文化ではなく、大多数の「出口のない」文化についてではないのだろうか。

 私たちが日々接しているのは、海外向けに最適化された「クールジャパン」などではない、もっとローカルな文化のはずなのだから★11

3 アメリカ横断ウルトラクイズ

 議論を戻そう。アメリカによる「第三者の審級」の代行をわかりやすく象徴しているのは、いまも人気のリゾート地として名高いハワイ諸島である。日本におけるハワイ人気のきっかけとなったのは、岡晴夫による1948年のヒット曲「憧れのハワイ航路」とされる。この当時まだ、一般人は海外旅行を許可されていなかった。事実、作詞家の石本美由起は当該航路の乗船経験がなく、別府航路と伊豆七島航路をイメージして作詞したという。日本航空がハワイ就航を許可されたのは1954年、一般人の海外渡航が許可されたのはさらに10年後の1964年である。戦後20年近くにわたって、ハワイは憧れでありながら、大衆にとっては決して手の届かない場所でもあった。

 もちろん解禁後も、海外がそう身近になったわけではない。旅費はいまと比べずっと高額であり、一般庶民の手が届くようなものでは決してなかった。クイズ番組は、そこに目をつけた。

『アップダウンクイズ』は、翌年4月に一般海外渡航解禁を控えた1963年10月に放送を開始した。キャッチフレーズは「10問正解すれば〈夢のハワイ〉へ」。正解と不正解に対応してゴンドラが上下するというシンプルなシステムに加え、独特のスピード感ある進行もあいまって人気を博し、その後22年間続く長寿番組となる。

 ここで確認しておくべきなのは、『アップダウンクイズ』の参加者が一般公募によって選ばれているという点である。社会学者の石田佐恵子はこの番組の特徴を、ゴンドラを利用した「成功者は上昇し失敗者は落後するという、あまりにも直截的で視覚的な競争のイメージ」が、「「成功報酬」として〈夢のハワイ旅行〉を獲得する、という図式」とあいまって、「1960年代に人々が思い描いていた「競争」「成功」「報酬」のイメージ」と結びついたことにある、と分析している★12。この構図をさらに推し進めたのが、1977年に放送を開始した『アメリカ横断ウルトラクイズ』(以下『ウルトラクイズ』)であった。

『ウルトラクイズ』がいまなおテレビ史に残る名作として言及されるのは、その並外れたスケールの大きさによるところが大きい。従来のクイズ番組において、海外旅行は優勝者だけに与えられる特権的な賞品だったのに対し、『ウルトラクイズ』では数十名の予選通過者全員に、収録を兼ねる海外旅行の権利が与えられた。そしてニューヨークを最終目的地とし、文字通りアメリカ本土を西から東へ大陸を横断する壮大な旅程そのものが、クイズ番組の一部として組み込まれたのだ。その進行は、おおむね以下のようなものである。

 まず、参加希望者を1ヶ所に集め、大規模な予選が開かれる。その会場は第11回までが後楽園球場で、12回以降は東京ドームに変更された。数万人に及ぶ予選参加者から、約100名の本戦参加者を選別するために用いられたのは、二者択一の○×クイズだった。参加者たちははじめ、スタジアムの観客席でクイズに挑む。1問でも間違えると失格となり、残り人数があるていどまで絞り込まれると、観客席からグラウンドへ降り立つことを許される。グラウンドには大きく、「○」と「×」が書き込まれており、参加者は問題ごとに、自分が正解だと思う側のエリアへ移動して意思表示する。以下◯×クイズが繰り返され、アメリカ横断旅行に出発する、100名の本戦参加者が選ばれる。

 後楽園球場、ないし東京ドームを脱出した参加者たちは、旅先の各都市(「チェックポイント」と呼ばれる)ごとに、さまざまなルールのクイズで競い、各ポイントごとに数名の失格者が決められる。彼らは趣向を凝らした罰ゲームを受けたのち、日本へ強制帰国させられる。決戦の地であるニューヨークまで辿りつけるのはわずか2名。自由の女神に見守られて、1対1の最終決戦を行う。

 全行程はおおよそ4回に分割され、日本テレビの『木曜スペシャル』枠で放送された。製作費は莫大で、ギネスブックにも「世界で最も制作費のかかったクイズ番組」と記載されるほどだった。元日本テレビアナウンサーの小倉淳は、「5週間の放送分1本を制作するのに、約1億円」がかかり、「視聴率で最低17パーセント」を達成しないと採算が取れなかったと述懐している★13。しかしそれは、『ウルトラクイズ』が、まさしく国民的な人気番組であったことを示してもいる。

 では、その人気はどのような仕組みに支えられていたのかを検討してみよう。じつは『ウルトラクイズ』の主眼はクイズそのものよりも、立ち寄った土地の風土や名物を紹介することと、参加者たちが背負うそれぞれの物語を映し出すことに置かれていた。収録は1ヶ月近くに及ぶため、勝ち進んだ参加者たちは次第に、仲間としての連帯意識を抱き始める。寝食をともにした友人たちとの対決を強いられる過酷な環境は、人間ドラマを描くうえで格好の題材であった。近年アメリカを中心に、「リアリティ番組」と呼ばれる、素人出演者同士の人間関係を映し出すことに主眼を置いた番組形態が人気だが、『ウルトラクイズ』はその先駆的なスタイルと言ってもよいだろう。

 また、司会者・福留功男は参加者たちに巧みにニックネームをつけ、出演者たちのキャラクター性を強化することに長けていた。つまり『ウルトラクイズ』の魅力は、雄大なアメリカの風土と、常軌を逸した予算と手間のかかったクイズ、そして出場者たちが繰り広げる人間ドラマによって支えられていたのだ。

4 クイズ研究会の誕生

『ウルトラクイズ』の隆盛は、ある副産物を生み出した。この番組を契機として、全国各地の大学で、クイズ研究会が設立されたのである。これはおもに、『ウルトラクイズ』などのクイズ番組で活躍することを目的としたサークルであり、彼らはその目論見通り、各番組で存在感を発揮するようになっていく。それまでも「クイズ番組荒らし」と呼ばれるクイズ通の素人はいたが、多数の若者が日常的にクイズに親しみ、覇を競うような環境が生まれたのは、この時期以降のことである。

 じつは、『ウルトラクイズ』の放送が始まった1970年代後半には、クイズ番組で出題される問題群はかなり固定化しつつあった。それはクイズ番組の問題が、過去の番組を参照して作成されるようになったことに起因している。そのため、クイズ番組の問題は対策可能で、かつ研究によって攻略可能なものになっていたのだ★14。名門クイズ研究会では、主要クイズ番組で出題された問題が記録、共有されていたという★15。それによって彼らは、一般の視聴者よりもずっと有利な立場に立つことができるようになったのだ。

 とはいえ、『ウルトラクイズ』では最初期から、多くの「クイズ番組荒らし」が活躍していた。しかし、クイズ番組荒らしと、大学クイズ研究会の会員では、視聴者に与える印象がずいぶんと異なる。前者が性別・職業・年齢ともに多様なのに対し、後者は男性が大半で、当然ながら年齢もほぼ一定である。『ウルトラクイズ』の制作者たちはその存在をあまり快く思っていなかったようで、放送末期には、予選でクイズ研究会の所属者が間違えやすいような問題を意図的に織り交ぜていたという証言すらある★16

 そもそも、『ウルトラクイズ』は競争の形式としてはクイズを採用していたが、番組としての魅力は先述の通り、参加者同士の人間ドラマによってこそ支えられていた。「知力、体力、時の運」という番組の合言葉もまた、その意図を明確に打ち出していた。

 しかし、制作サイドの思惑に反し、会員たちが活躍する様子が放送されたことによって、クイズ研究会やその所属者は増加の一途を辿ることになる。クイズ研究会の面々が勝ち進んでいけたのは、実力もさることながら、彼らが共同戦線を張っていたためでもある。優勝者の手記によれば★17、一次予選では、各大学の有力なクイズプレイヤー同士が情報交換しあっていたという。参加者同士で回答を相談しあうことが厳格に禁止されていたわけではなく、明らかな違反行為というわけではないが、それぞれ予選突破に向けて研究を重ねた有力者たちが協力し合えば、通過率が格段に高まることは想像に難くない。

 クイズ研究会の動向は注目を集めており、有力者の回答を模倣する参加者もいた。しかしそれを逆手にとった戦略も採られ、重要な局面になると、あらかじめ決められていたおとり役が、あえて誤答の選択肢を選ぶこともあったという。彼らは運の要素の強い一次予選と成田空港の関門(基本的には1対1のじゃんけん)さえ突破すれば、一般参加者よりもはるかに安定した力を誇っていたため、チェックポイントで脱落することは少なかった。回によっては、上位進出者がみなクイズ研究会の所属者、出身者ばかりという事態も起こった。たとえば第13回(1989年)の準決勝では、有力プレイヤ14名が揃い踏みし、いまなお名勝負として語り継がれる激戦が展開された。司会の福留も「13年のウルトラの歴史で最高の戦い」と賞賛したほどの、レベルの高い争いだった。しかし皮肉にも、このころ、すでに『ウルトラクイズ』の視聴率は低下しつつあった。

『ウルトラクイズ』の視聴率は第7回(1983年)に34.5パーセントを頂点とし、第11回(1987年)には20.4パーセント、第14回(1990年)には15.0パーセントにまで低下する★18。言うまでもなく、視聴率は複合的な要因によって規定される指標であり、クイズ研究会だけにその原因を求めることはできない。

 たとえばこの時期、すでにアメリカ旅行というコンセプト自体が、当初ほどの魅力を失いつつあった。1985年にはプラザ合意が成立し、急速な円高が進行する。海外旅行者は急速に増え、1985年から1990年にかけて倍増した。渡航先も多様化しており、すでにアメリカの特権性は弱まりつつあった。1980年代前半の経済停滞を抜け出し、バブル期を迎えた日本人にとって、少なくとも象徴的な意味でのアメリカは、かつての魅力をとどめていなかった。

 それに追い打ちをかけるように、1990年末からバブル経済の崩壊が始まり、日本経済は急速に悪化する。番組のコンセプトが時代の変化にさらされるとともに、経済的な支柱であったスポンサー企業もまた、かつてのように潤沢な予算を投入することは難しくなっていった。こうした要因が重なり、『ウルトラクイズ』の定期放送は、第16回(1992年)をもって終了することになる。

★1 杉元伶一原作・加藤伸吉画『国民クイズ』上巻、太田出版、2001年、5頁。
★2 「マロリー」とは、「なぜ山に登るのか」と問われ、「そこに山があるからだ」と答えたことで知られるイギリスの登山家、ジョージ・マロリーのこと。後述するように、競技クイズでは頻出の設問となっている。
★3 江藤淳『閉された言語空間』、文春文庫、1994年。なお本文中では、「閉ざされた言語空間」と表記した。
★4 椹木野衣『日本・現代・美術』、新潮社、1998年。
★5 丹羽美之「クイズ番組の誕生」、石田佐恵子ほか編『クイズ文化の社会学』、世界思想社、2003年、75頁。
★6 なかでも重要なのは、1949年から『朝日新聞』朝刊に連載されたチック・ヤングの『ブロンディ』である。詳細は『憧れのブロンディ』(新曜社、2007年)などに収められた岩本茂樹の研究に詳しい。
★7 「クイズ番組の誕生」、81頁。
★8 大澤真幸『不可能性の時代』、岩波新書、2008年、26頁。
★9 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』、NTT出版、2005年。
★10 東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001年、37-38頁。
★11 以下はいささか本筋と離れるが、この論考自体の性質について触れておきたい。筆者の文体や分析手法は、おもに2000年代中盤以降の日本でさかんに書かれた、「ゼロ年代の批評」と総称される一群のテキストの強い影響下にある。これらもクイズ同様、基本的には「出口」を持たないジャンルといえる。いくつかの例外はあるが、多くはその問題意識自体が共有されづらいもので、海外どころか国内でも、世代や文化圏を超えることは難しい。とはいえ、筆者はそれを批判しようというのではない。むしろその可能性を拡張し、涵養された手法や理論を生かす手法を模索したい。この論考自体がその実践として機能しているかについては、読者に判断を委ねたい。
★12 石田佐恵子「いつかハワイにたどり着くまで」、『クイズ文化の社会学』、210頁。
★13 小倉淳『やっぱり滝川クリステルは斜め45度がいいのだ!』、講談社、2008年、134頁。
★14 クイズ王ブームの牽引者のひとりである能勢一幸は、中高生のころからクイズの勉強法はほぼ「クイズ本を覚えること」と「クイズ番組の問題をノートに書く」ことだけだったと記している(『能勢一幸のクイズ全書Ⅰ』、情報センター出版局、1993年、14頁)。
★15 のち多くの「クイズ王」を輩出することになる立命館大学のクイズ研究会では、設立当初から「当時の主要クイズ番組であった『アップダウンクイズ』、『アタック25』、『世界一周スゴロクゲーム』、『三枝の国盗りゲーム』の計四番組の出題ストック」が主要な活動のひとつであったという(立命館大学クイズソサエティー『RUQSのクイズ全書』、情報センター出版局、1993年、15頁)。
★16 TBSラジオ『こちら山中デスクです』2007年8月20日放送回の小倉淳アナウンサーの証言による。
★17 以下の記述は第13回の優勝者・長戸勇人の著書『クイズは創造力〈理論篇〉』(情報センター出版局、1990年)による。
★18 本稿の視聴率についての記述は、いずれもビデオリサーチ社の調査(関東)に基づく。
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1988年生まれ。株式会社ゲンロン取締役。早稲田大学文化構想学部に在学中、東浩紀の講義を受けた縁で、のちゲンロンに入社。社内ではいまや東に次ぐ古株になってしまった。たまにカフェで聞き手を務めたり、友の会総会でクイズ大会を企画したりしている。ゲンロンの刊行物のほか、『QUIZ JAPAN』(セブンデイズウォー)などに寄稿。2020年に始まった「日経 1問グランプリ」で審査員を務める。

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