死なない身体の殺しかた|徳久倫康

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初出:2011年05月30日刊行『しそちず! #5』
 会報リニューアルの目玉は新人論文の掲載。その第1弾として徳久倫康氏の桜庭一樹論をお届けする。じつは本論文は、早稲田大学文化構想学部でのぼくの授業での発表から発展したもの。『砂糖菓子』を自然主義的リアリズム(純文学)とまんが・アニメ的リアリズム(ライトノベル)の相克の場として捉えるというアイデアには、一聴して膝を打った。掲載版では問題意識がさらに包括的になっている。徳久氏はまだ23歳。今後の活躍が楽しみだ。なお、氏は別名でクイズマジックアカデミーのカリスマプレイヤーとしても知られているとのこと。(東浩紀)

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 桜庭一樹の最新作『ばらばら死体の夜』(集英社、2011年5月。以下、かっこ内のデータは初版時のもの)は失敗作である。構造的に破綻しており、推理小説の用語でいい換えれば「アンフェア」である。どういうことか。




 作品は「Prologue」「Epilogue」と6つの章で構成されており、パートごとに別の登場人物の主観を通して物語が進行する。なかでも重要な登場人物は、冒頭から登場するひと組の男女、吉野さとると白井沙漠である。「Prologue」はさらにふたつに分かれており、「I 二〇〇九年一〇月」では沙漠(「わたし」)の一人称で、「男」の退廃的なセックスの様子が描かれる。

 続く「II 二〇〇九年一二月」では場面が転換する。この節は「人差し指を切り落としたとき――。」という一文ではじまり、古びた小屋のなかで、「はだかの死体」をまさかりで切断する様子が、殺人者の目線で描写される。殺人者はこう回想する。「ふいに、二月ほど前の夕刻の、あの会話を思いだした。あのあと、この人に会ったのは三回だけだ。お互いに、相手のことが、そんなには重要じゃなかったはずだ。なのにまさか、ほんとうに殺してしまうとは」。そしてこう続ける。

いったいどうしてこんなめんどうくさいことになったんだろう……。
こんな重たいものは運べまい。
そうだ、もっとばらばらにしないと隠せない。
人を殺したことが世の中にばれてしまう。
――沙漠っ、と呼ぶ声が、よみがえる。
こわくってたまらない。
鉞を握って、星空に向かって誰かの力で引っぱられたように、思いっきり、また振りあげた。

もっとばらばらにしなくちゃ!★1


 作品を牽引するのは、なぜふたりがこのような悲劇的な結末を迎えるのか、という謎だ。ここに桜庭は、ひとつの仕掛けを用意している。ふたつのプロローグは一読すると、「最終的に沙漠が解をばらばら死体に切り刻むことになる」という予告のように見て取れる。しかし殺人のシーンを注意深く読むと、一人称代名詞はほぼ伏せられており、殺人者が沙漠なのか解なのか特定できないように描かれていることがわかる。ミステリの読者ならばこの時点で、作者の目論見に気づくかもしれない。つまり、文体上の変化を最小限に留めることで、べつの語り手によって語られているプロローグ「I」と「II」を、あたかもひとりの人物の語りであるかのように錯覚させようとしているのだ★2

 もちろん、作者が語りの順序や描写の密度を調整して読者をミスリードすることは、少なくとも現代のミステリにおいては常識的な技法の範疇であり、それ自体はとりたてて問題視するようなことではない。

 しかし、その描写が不整合を起こしているとすれば、少なくともミステリとしては、「アンフェア」のそしりを免れないだろう。問題なのは、プロローグでの殺人の描写と、第六章で描かれるその続きを描いたシーンの文体を比較すると、両者があまりに異なり、同じ語り手がひとつの出来事を描写したものとは思えないことにある★3。作者自身がこの点にどれほど自覚的なのかはわからないが、それにしても桜庭はなぜ、このような破綻を呼び込むことになったのだろうか。

 じつは桜庭がばらばら殺人というモチーフを扱うのは、これが最初ではない。桜庭の出世作『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollipop or A Bullet』(富士見書房、2004年11月、以下『砂糖菓子』)は、14歳の少女がバラバラ死体に解体される物語だった。『ばらばら死体の夜』と『砂糖菓子』は、発表媒体や登場人物の年齢設定、想定される読者層などがずいぶんと異なっており、表面的には大きくかけ離れた作品に見える。しかし桜庭のキャリアを丹念に追うと、『ばらばら死体の夜』は『砂糖菓子』を、技法の面でも、主題の面でも反復していることがわかるはずだ。

 ここで注意しておきたいのは、『ばらばら死体の夜』の原型である『砂糖菓子』においては、物語の構成は破綻していないことだ。のちに確認するように、ばらばら殺人という殺害法も物語上の必然性を伴っており、じつに有効に機能している。だとすればなぜ、桜庭はわざわざ同じ主題を語りなおし、そしてなぜ、それは失敗に終わったのか。

 この問いは、桜庭というひとりの作家を超え、ゼロ年代から現在にかけてのキャラクター的想像力の広がりや、リアリズムの変容といった現象と、密接に結びついている。次章で見るように、桜庭一樹はゼロ年代以降の文学シーンを象徴する作家である。ライトノベルから出発した作家としては、もっとも成功した作家のひとりといえるだろう。

 結論をあらかじめ述べておこう。桜庭がばらばら殺人という題材を以て取り組んでいるのは、記号の組み合わせである「キャラクター」という「死なない身体」をいかに「殺す」かという問題である。桜庭はときにそれに成功し、ときに失敗した。そしてその試みの裏側には、私たちの物語環境におけるリアリズムの変化と、それを規定する条件が隠されているのだ。

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 まずは桜庭のキャリアについて、簡単にまとめておこう。

 彼女はもともと別名義でフリーライターとして活動しており、ゲームのシナリオも手がけていた。桜庭一樹名義でライトノベルの新人賞を受賞してデビューしたのは1999年のこと。その後いくつかのレーベルにまたがって作品を発表し、富士見ミステリー文庫の「GOSICK」シリーズなどで多数の読者を獲得。次第に活躍の場を広げ、『少女には向かない職業』(東京創元社、2009年5月)以降は「ライトノベル」のレーベルの外、いい換えれば「一般小説」★4の世界に活動の中心を移し、2008年には『私の男』(文藝春秋、2007年10月)で第138回直木賞を受賞した。娯楽小説の作家として広く認知され、新作が出版されるたびに注目を集める人気作家となっている。

 こうまとめると、桜庭は作家として理想的なキャリアを築いてきたように見える。少なくともプロフィール上は、彼女のキャリアは順調である。しかし先ほど述べた観点からすると、そこにはある断絶が隠されている。ライトノベルから一般小説へ移行することは、それほど簡単で単純なことではない。桜庭は一般小説の書き手となるのに際して、ある「決断」を迫られた。それがもっともクリアにあらわれている作品こそが『砂糖菓子』なのだ。






『砂糖菓子』は2011年現在までに3度、形を変えて出版されている。

 この作品は当初、2004年11月にライトノベル専門のレーベル(富士見ミステリー文庫)から発表された。作品に寄せられた好意的な評価と桜庭自身の人気の高まりを受け、2007年3月には同じ富士見書房からハードカバーの単行本として再刊され、2009年には角川文庫から改めて、新装版が出版された。

 ここで注目すべきは、本文にはほとんど手が加えられていないにもかかわらず、2007年のハードカバー版と2009年の角川文庫版では初出時のイラストが削除されている点である。装丁も様変わりしており、富士見ミステリー文庫版では少女ふたりが身体を密着させているイラストが中心に配されているのに対し、ハードカバー版と角川文庫版は抽象的なイラストや写真が主体になっている。

 この変化は装丁上のささいな変更に見えるかも知れない。しかしこの一見ささいな違いのなかには、ライトノベルと一般小説のあいだに横たわる重大な差異が隠されている。

 そもそもライトノベルとはなにかを、ここで確認しておこう。批評家の東浩紀は、ライトノベルの「もっとも一般的な定義」を、「まんがあるいはアニメ的なイラストが添付された、中高生を主要読者とするエンターテインメント小説」★5としている。ライトノベルの定義については諸説あるが、東が注記しているとおり、一般的な定義としてはこれで十分だろう。

 この定義に則るのであれば、富士見ミステリー文庫版はライトノベルといえるが、それ以降のバージョンはもはやライトノベルではない。繰り返し確認しているように、桜庭は徐々にライトノベルから離れ、一般小説の側に活動の主軸を移していった。それに伴い、過去のライトノベル作品は一般小説として新たな読者層に向けてパッケージングしなおされた。これは抽象的な変化ではなく、「書店のどの棚に置かれるか」という、きわめて具体的な変化を意味する。

 他にもファミ通文庫から刊行された『赤×ピンク』(エンターブレイン、2003年2月)や『推定少女』(エンターブレイン、2004年9月)といった作品が、『砂糖菓子』同様にイラストを排除した体裁で、角川文庫から再刊されている。

 これらの動きは、たんに出版社のマーケティング戦略にすぎないのかもしれない。しかし桜庭のキャリアにおける本作の位置づけを考えると、この「一般小説」としての再刊は、きわめて象徴的な意味を帯びてくる。




『砂糖菓子』は13歳の女子中学生・山田なぎさと、転校生の少女・海野藻屑(うみのもくず)のふたりを主人公とする、文庫版で200ページほどの短い作品である。舞台は鳥取県の境港市。この海沿いの田舎町は、のちの『赤朽葉家の伝説』(東京創元社、2006年12月)でも舞台となる桜庭自身の出身地であり、『砂糖菓子』が彼女自身の体験を反映して描かれていることを予想させる。

 物語は、なぎさの一人称で語られる。なぎさは自分の町をこう表現する。「田舎に作った方がいいと都会の人が考えるすべてのものがこの町にある。原発。刑務所。少年院。精神病院。それから自衛隊の駐屯地」★6。ここはなぎさにとって、決して魅力的な町ではない。こういった舞台設定は、桜庭のこの時期の作品に共通している。

『砂糖菓子』の直前に発表された『推定少女』の舞台は「関東地方の隅っこにかろうじて引っかかっているような場所」であり、『砂糖菓子』の次に発表された『少女には向かない職業』では山口県下関市の沖合に位置する人口2万人の島が舞台となっている。この3作品はいずれも、都会から隔離された空虚な場所における、大人=社会からの抑圧に曝された10代前半の少女(ときに少年)たちの葛藤が主題となっている。

 このような筋立ては、2004年から2005年にかけての時代感覚を鋭く反映している。
 批評家・宇野常寛の言葉を借りれば、ゼロ年代は「サヴァイヴ系」の作品が流行した「決断主義」の時代であった。「決断主義」は、1990年代後半に流行した「引きこもり/心理主義」に代わるムーブメントである。宇野は「決断主義」や「サヴァイヴ系」の理念を象徴する言葉として、2002年放映の特撮番組『仮面ライダー龍騎』の「戦わなければ生き残れない」というキャッチフレーズを挙げている。このコピーには、間違っていたとしても何かを選び取り、誰かを傷つけたとしても戦って生き残っていかなければならない、という決断主義の立場が見事に凝縮されている。

 宇野は『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008年7月)でゼロ年代中盤に立て続けに発表された桜庭の作品群に触れ、これらもまた、まさしく「サヴァイヴ系」と呼ぶに相応しい構造を備えていることを指摘している★7。宇野のいうとおり、『砂糖菓子』の主人公・なぎさはまさに、「戦わなければ生き残れない」状況に置かれた少女である。




 なぎさは徹底的に現実志向の少女として描かれる。彼女の家は母子家庭で、母親のパート収入と生活保護で生計を立てている。なぎさには「夢みたいな容姿」の美しい兄・友彦がいるが、友彦はひきこもりで一切部屋の外に出ない。兄は逼迫した経済状況を無視するかのように、ネット通販でさまざまな書物や玩具を購入し、それと戯れて暮らしている。彼は「戦わなければ生き残れない」現実とは関わろうとしない。宇野の図式を借りればいかにも90年代的な、文字通りのひきこもりである。

 それに対しなぎさは常に生きるための「実弾」を求めている。なぎさは自分の将来について考えぬいたのち、兄に「おにいちゃんのことは、あたしが一生、面倒見るから」と告げ、中学卒業後に自衛隊へ入隊することを決心する。自衛隊は中卒の少女にとって、数少ない就職先のひとつである。「お金ももらえるし、生活費がかからないし、学歴が低くても雇ってくれるし、他の仕事とちがって一人前の扱いだから、はやく大人になれる。それが実弾だ。生活に打ち込む、本物の力」★8

 それに対し転校生の藻屑は、その明らかに虚構的フィクショナルな名前が示すように、なぎさと対立する非現実志向の少女である。クラスでの自己紹介の時点から、自分は人魚だと名乗り、だから生殖器はないのだといいだす。彼女は「どんなに人間が愚かか、生きる価値がないか、みんな死んじゃえばいいか」を知るためにやってきたのだという。藻屑の自己紹介は現実からまったく乖離しており、まるで童話の設定のようだ。

 生きるため、大人になるために「実弾」を求めるなぎさにとって、藻屑は受け入れがたい存在である。なぎさは藻屑に対するいらだちを隠さず、ふたりは対立することになる。なぎさから藻屑についての愚痴を聞かされた兄は、こう返答する。「その子は砂糖菓子を撃ちまくっているね。体内で溶けて消えてしまう、なぎさから見たらじつにつまらない弾丸だ」★9

 しかし物語が進むにつれ、当初は謎めいていた(あるいは単純に頭がおかしいと思われた)藻屑が、実際にはどんな状況に置かれているかが明らかにされていく。藻屑はたったひとりの家族である実の父親に虐待されており、スカートの下には無数の殴打の痕跡が隠されていたのだ。なぎさと藻屑は反目し合いながらも、互いに惹かれあい、奇妙な友情を育んでいくことになる。それはふたりがお互いに、自分たちの選択とは関係なしに、「戦わなければ生き残れない」状況に置かれていることに気づいたからにほかならない。




 ところで作中では言及されないが、「海野藻屑」という名前は、新井素子の小説『いつか猫になる日まで』(集英社、1980年7月)の主人公・海野桃子からの引用である。桃子は「もくず」というあだ名で呼ばれる、夢見がちな少女だ。

 新井素子という作家は、キャラクター小説★10の歴史を考える上で、決定的に重要な人物である。評論家・大塚英志によると、キャラクター小説の特性は、私たちが生きるこの現実とは異なる、いい換えれば「まんがやアニメのような」世界を舞台とし、登場人物をアニメキャラのように記号的な存在として描くことにある。大塚はその起源を、高校時代の新井素子がインタビューで述べた「ルパンみたいな小説を書きたかった」という発言に求めている。「まんがの神様」こと手塚治虫は自らの作品をパターンの組み合わせであると規定したが、まんがやアニメをその起源に持つライトノベルもまた、その記号的な表現様式を受け継いでいる。それを大塚は明治以降の日本の近代文学を支える「自然主義的リアリズム」と対置させ、「まんが・アニメ的リアリズム」と名づけた★11
 記号の組み合わせであるキャラクターにとっては、その死もまたひとつの記号にすぎない。それゆえその記号を取り除くこと、つまり生き返ることもまた、容易である。これはべつに抽象的な議論ではない。たとえばけがをしたキャラクターが(そのけがは絆創膏や包帯といったアイテムによって表現されることも多い)、つぎのコマやシーンにおいては傷ひとつない身体に戻る、といった演出は、まんがやアニメの基本的な文法のひとつとして定着している。

 大塚の歴史認識によれば、少年時代の手塚治虫が戦争まんがにおいて記号的な表現で死を描こうとしたとき、まんがは大きな矛盾に曝されはじめた。なぜなら登場人物が傷ついたとしても、読者はそれを約束事としてしか認識しないからだ。そこでいかに死あるいは成長といった生身の身体における問題を取り扱うか。いい換えれば、「死なない身体」を用いてどのようにして死を描写するか。それこそが手塚の課題であり、それが逆説的に、戦後まんがの魅力を支えてきた。




 桜庭一樹はこの問題系を引き継いだ作家といってもよいだろう。2003年の『赤×ピンク』、2004年の『推定少女』に『砂糖菓子』、2005年の『少女には向かない職業』といった一連の作品群はいずれも、キャラクター小説の技法を用いながら、傷つきやすい少女がいかに成熟してゆくか、あるいはそれに失敗するか、というモチーフに取り組んでいる。これは手塚治虫以降のまんがが、その記号的表現の制約のなかで、矛盾に直面しながら描き出そうとしてきたテーマと共通している。桜庭は戦後まんがの取り組みを、忠実に反復してきた作家であるともいえる。彼女が自分を人魚だといい張る「砂糖菓子」に「海野藻屑」という名前を与えたことは、はたして偶然なのだろうか。

 先に確認したように、『砂糖菓子』は、「戦わなければ生き残れない」状況における、「実弾」と「砂糖菓子」の対立をテーマにしている。なぎさと藻屑は作中の描写においても、まったく違った造形がなされる。なぎさは、「中肉中背」で、「とくに特徴を上げるのがむずかしい」と描写されているのに対し、藻屑は「ぼく」という一人称で話し「人魚」だと名乗ることからも明らかなように、きわめて記号的な存在として描かれている。

 また、なぎさの兄・友彦も、「夢みたいな容姿」である上に、「一週間に一回しか入浴しないけど、ぜんぜんくさくない」と描写されており、生身の肉体を感じさせない記号的な造形がなされている。

 大塚の議論を踏まえれば、なぎさはまさに「自然主義的リアリズム」に基づく「死にゆく身体」を抱えている。他方、藻屑と友彦は「まんが・アニメ的リアリズム」に基づく「死なない身体」を生きている。そう考えると、藻屑の名が新井素子からの引用であることの意味は、おのずと明らかになってくるはずだ。




 ここまでの議論をまとめておこう。本作では、なぎさが「決断主義」的な「サヴァイヴ系」の主人公で自然主義的な一般小説のリアリズムに基づいて描写されているのに対し、藻屑と友彦は「引きこもり/心理主義」的なキャラクターであり、まんが・アニメ的リアリズムに基づくキャラクター小説の意匠によって造形されている。

 念のため書き添えておけば、桜庭がこのような構図を意識していたかどうかはうかがい知れない。あとがきの「この本は『GOSICK』三巻を書いた後にとつぜん書きたくなり、わりと一瞬で書き上げてしまった」★12という記述から考えると、桜庭自身にはここまでで検討してきたような批評的な意図はなかったと考えるのが自然だろう。

 しかし、そのことは取り立てて問題ではない。宇野が指摘したとおり、桜庭が高度に時代状況に敏感な作家であることは間違いない。そして桜庭は同時に、手塚以降の戦後まんがを、無意識のうちに反復してきた作家でもある。その桜庭が自らのキャリアの結節点においてこのような明確な対立を描いたこと、あるいは描かざるを得なかったことにこそ、私たちは注目すべきなのだ。

 この作品の副題を思い出してほしい。

 “A Lollipop or A Bullet"。

 砂糖菓子か実弾か、そのどちらかを選ばねばならない。桜庭はタイトルの時点ですでに、それを明示していたのだ。




 では、桜庭はこの二項対立に対し、どのような回答を提出しているのだろうか。

 その回答は物語の冒頭にはっきりと示されている。

新聞記事より抜粋
十月四日早朝、鳥取県境港さかいみなと市、蜷山になやま中腹ちゅうふくで少女のバラバラ遺体いたいが発見された。身元は市内に住む中学二年生、海野藻屑うみのもくずさん(一三)と判明はんめいした。藻屑さんは前日の朝から行方ゆくえがわからなくなっていた。発見したのは同じ中学に通う友人、A子さん(一三)で、警察けいさつでは犯人はんにん、犯行動機を調べるとともに、A子さんが遺体発見現場げんばである蜷山に行った理由についてもくわしく聞いている……。★13


 この記事は作中の時系列を無視して冒頭に掲載されており、実際に藻屑の死が描かれるのは作品の結末付近である。詳しくはのちほど検討するが、言うまでもなくここでは『ばらばら死体の夜』と同様の技法が用いられている。『砂糖菓子』には冒頭の新聞記事をはじめ、藻屑の飼い犬や学校の飼育室の兎が殺されるシーンなどが織り込まれており、日常に死の影が少しずつ侵入してゆく様子が描かれている。また、藻屑が父の虐待に曝されていることも明らかにされ、伏線はそれぞれが絡み合い、悲劇の予感は次第に高まっていく。それらはもはや伏線という水準を超え、結末を明示しているといってもいい。ではなぜ、そのような描写が必要だったのだろうか。
 先ほど見てきたように、藻屑は徹底して「まんが・アニメ的」に、記号的に描写されている。それゆえただ「藻屑が死んだ」と書いても、読者はその死もまた、記号的な死、すなわち約束事としての死であると受け取る可能性が高い。

 実際に作中、藻屑はあくまで、人魚としての物語を生きようとしている。藻屑は、体中に広がった痣を「人魚の皮膚病」であると説明し、自分はいつか「深い海の底」に帰るのだ、と語る。

 物語の中盤には、藻屑が自分は人魚だから泡になって消えることができるのだといいだし、実際に密室から忽然と姿を消してみせる、というエピソードも用意されている。こういった非現実的な、いい換えれば「まんが的」なエピソードは、「まんが・アニメ的リアリズム」による表現に慣れ親しんだ読者に対し、「藻屑はほんとうに人魚の子で、だから殺されずに済むだろう」という予断を与えかねない。

 物語上、この消失劇は心理的な盲点をついたトリックであると一応の説明が与えられてはいるが、読者はこの作品が「まんが・アニメ的リアリズム」の水準で描かれた物語なのか、それとも「自然主義的リアリズム」の水準で描かれた物語なのか判断できず、どちらにも解釈できてしまう。

 だから桜庭はこのような予断を排し、藻屑の死を記号的でない不可逆な死として描くためにこそ、過剰ともいえる予告を差し挟んだのである。藻屑の父は実の娘をなたによってバラバラ死体に解体するが、この殺害方法もまた、藻屑の死を不可逆なものにするために選択された手段といえる。




 そうまでして、桜庭が藻屑を殺した理由はなにか。その答えは、この作品の最後の一節・・・・・、「砂糖でできた弾丸ロリポップでは子供は世界と戦えない。/あたしのたましいは、それを知っている」★14という文章に集約されている。

「戦わなければ生き残れない」ことに繰り返し直面させられたふたりは、大人たちから逃れるために、家出の約束を結ぶ。目的地は明らかにされない。それでもただ、生き残るためにふたりは町を去る決意を固め、荷造りをはじめる。しかしその逃避行は、決行寸前で、藻屑の父という「大人」の「鉈」(=実弾)によって失敗に終わる。一度は藻屑に惹かれたなぎさはしかしここで否応なく、「砂糖菓子」の弱さに直面させられる。

 藻屑の死体は、なぎさと友彦によって発見される。藻屑同様の「砂糖菓子」であったはずの友彦は、この事件後すぐに頭を丸め、自衛隊に入隊することになる。生き残った「砂糖菓子」は、「実弾」になることを主体的に選択する。

 ここでは、死と成熟が同時に主題化されている。自らの身体が実は「死なない身体」ではないことに直面させられた兄は、それを受け入れ、「死にゆく身体」を生きる決意を固める。「雲の上で優雅にステップするような、兄に降臨していたあの美貌の神は跡形もなく消え」、「肌も少し日に焼け」「肩幅とかも広く」なり、「知らない普通の男の人みたい」★15に変貌する。この描写からも、友彦の身体が記号から生身の身体へ、「死なない身体」から「死にゆく身体」へ変化したことは明らかである。

 これまでの議論に沿っていい換えれば、ここには、記号的な身体が成熟するためには、一度その身体を放棄し、自然主義的な身体を選びなおすほかないという隠れたメッセージが読み取れる。と同時に、「引きこもり/心理主義」から「決断主義」への否応ない変化もまた、ここには刻み込まれている。

 キャラクター小説と一般小説では、それぞれ違った種類のリアリティと強度が要求される。

 桜庭はキャラクター小説のすぐれた書き手であった。だからこそ、キャラクター小説の力学、すなわち「まんが・アニメ的リアリズム」で描けるものと描けないものの差異を、彼女はほとんど技術的な制約として体感していたのではないだろうか。桜庭が『砂糖菓子』を「とつぜん書きたくなり、わりと一瞬で書き上げ」た背景には、後述する「GOSICK」シリーズからの反動があったように思われる。『少女には向かない職業』以降、一般小説の書き手としての桜庭は、それまでは前景化していなかった「性」や「老い」といった主題に取り組むことになる。これらがライトノベルの方法論ではきわめて扱いづらい題材であることはいうまでもない。

 なかでも「性」や「老い」にもっとも極端に特化した作品は『私の男』である。前述のとおり桜庭はこの作品で直木賞を受賞し、名実ともに現代を代表する女流作家のひとりとなった。

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 しかしふたつのリアリズムは、そう簡単に分離しうるものなのか。

 桜庭は「砂糖菓子」以降、「GOSICK」シリーズ以外のライトノベルについては新作を発表していないし、その「GOSICK」シリーズにしても、『砂糖菓子』同様に角川文庫から挿絵の排除された(ライトノベルの一般的な定義においてイラストが不可欠なものであったことを思い出そう)新版が刊行されるなど、ライトノベルの世界からかなり明確に距離を取っている★16

 だからといって桜庭はキャラクター的な想像力を捨てたわけではない。それどころか、『青年のための読書クラブ』(新潮社、2007年6月)などきわめてライトノベル色の濃い作品を刊行してもいる。むしろこれらの作品は「砂糖菓子」以降、キャラクター小説としての色彩をより強めていった。たとえば「GOSICK」シリーズでは、3巻を境にヒロイン・ヴィクトリカの造形がどんどんわかりやすい、「ツンデレ」属性の萌えキャラに変化していく様子が見て取れる。また、「青年のための読書クラブ」は一般小説として発表されているが、むしろライトノベル時代の作品よりもずっと明確に「キャラクター小説」として構築されている★17)。これらを『私の男』など、同時期の作品と比較すると、桜庭が自然主義的なリアリズムとまんが・アニメ的なリアリズムを分離させて作品を設計していることが、くっきりと浮かび上がってくる★18




 しかしこの「リアリズムの分離」という観点からすると、『推定少女』の文庫化に際して加えられた変更は、いささか奇妙な印象を与える。『推定少女』は『砂糖菓子』初刊の3ヶ月前、2004年9月にファミ通文庫より刊行された作品で、2008年には角川文庫から一般小説の体裁で再刊された。

『推定少女』の内容を要約することは難しい。基本的な構造は『砂糖菓子』とかなりの部分で共通しているが、この作品を決定的に特徴づけているのは、作品を支えるリアリズムの水準が終盤に至るまで明らかにされない点にある。ゆえに読者は、ひとつひとつの描写が果たして事実なのかを判断できないままに読み進めていくことを強要される。どういうことか。

 主人公は15歳、中学3年生の少女・巣籠すごもりカナ。カナは義父に性的な暴力を加えられそうになり、身を守るためにとっさに義父を弓矢で射抜き、家を飛び出した(と、カナ自身は思っている)。カナはその道中、不思議な少女と出会う。ダストシュートに眠っていたその少女は記憶を喪っているらしく、自分の名前もわからないという。

『推定少女』は、このふたりの逃避行の物語である。ストーリーを牽引するのは、謎の少女「白雪」にまつわる謎である。白雪とはそもそも何者なのか。いったいなぜ、誰から逃げているのか。カナと読者の前には、3つの可能性(宇宙人・誘拐された資産家の令嬢・精神病院からの脱走患者)が提示される。

 これらの可能性は、作中でそれぞれが伏線として仄めかされ、いずれもそれなりの説得性を持っている。白雪はときに「宇宙人じゃありません。これは記憶喪失です」という一方で、しばらく経つと「なに言ってんの? 巣籠カナ。わたしは宇宙人だってば」とも主張する。これは白雪が宇宙人だということを示す伏線とも取れるし、むしろ精神病者であるという伏線と理解することもできる。

 宇宙人なのだとすれば、『推定少女』は現実とは乖離したSF作品ということになる。他方、誘拐された令嬢や精神病者なのだとすれば、現実に基づく自然主義的な小説ということになる。このリアリズムの宙吊りは、『砂糖菓子』とも通底するところだ。

 真相は、物語が終盤にさしかかったあたりで明かされる。白雪は「ケンタウロス第七星系第一惑星タウーの永久犯罪人」で本当の名前は「δδδξθλ」であり、「収監星ウプシロンから、自由を求めてこの星系まで逃げてきた」のだ。「δδδξθλ」は誘拐犯によって刺殺された少女の死体を偶然発見し、それに擬態して地球人を装い、逃走を続けたのだという。最終的に白雪は追手により捕らえられ、強制的に帰還させられることになる。

 しかしここから先、初出のファミ通文庫版では後日談が描かれるだけなのに対し、角川文庫版ではファミ通文庫版の結末は「Ending II 戦場」と題されており、それとはべつに「Ending I 放浪」と「Ending III 安全装置」が併録されている★19

 カバー裏には「幻の未公開エンディング2本を同時収録」と記されており、一見するとこれはありふれた読者サービスのようでもある。しかし事態はそう単純ではない。先ほども述べたとおり、『推定少女』の特徴は、作品全体がどのようなリアリズムで成立しているかが隠されている点にある。ゆえにエンディングが変われば同時に、物語全体の意味付けもまた、変更を迫られる。




 それぞれのエンディングについて簡単に見てみよう。
 まず初出時のエンディング(角川文庫版の「Ending II 戦場」)では、強制送還された白雪はもう一度、「半分透けている幽霊みたい」になってカナの前に現れる。白雪は、カナとの思い出を回想しながら、こう語りかける。

《巣籠カナ、わたしと一緒に遠くへ行く?》
《だけど、巣籠カナ……向こうも、戦争》
《ケンタウロス第七星系と第五星系の最終戦争。きっとみんな死んじゃう。そういう戦争だから、逃げたの》★20


 そういい残し、白雪はふたたび姿を消す。カナは白雪の消えていった星空を見上げ、こう独白する。「だけどもはやぼくには帰る場所は一つしかなかった。戦場へ。ぼくたちはやはり、戦場へ」。カナの生きる社会も、白雪が帰っていった世界も、どちらも「戦わなければ生き残れない」世界なのだ。「戦場」という章題は、そのことを端的に言い表している。

 だからカナも白雪も「戦わなければ生き残れない」世界を、それぞれに戦い抜くしかない。この結末は、『砂糖菓子』とも密接にリンクしている。その意味するところは繰り返し確認してきたとおりであり、これは2004年に書かれた「サヴァイヴ系」の作品として、きわめてまっとうな決着といえるだろう。

 では、新たに付け加えられたふたつのエンディングはどのようなものなのだろうか。




 まず、30ページが費やされた「Ending III 安全装置」。

 このエンディングのポイントは、一度はSFとして決定づけられたはずの作中のリアリズムが、もう一度揺るがされることにある。強制送還されたはずの白雪がもう一度カナの前に現れるところまでは他の結末と同じだが、ここで白雪は、カナを家まで送っていく、といいだす。

 ふたりは帰り道で精神病院の前を通りがかる。そこで白雪は、「白衣を羽織った大人の人」に、「なにか聞いたことのない名前」で呼ばれ、突然追いかけられる。一緒になって逃げながら、カナは戸惑う。「なんだかわからない。ぼくはまたAAクラスの狂人のことを思い出した。よくわからなくなった」。

 読者もカナと同様の困惑を抱かされる。先ほど提示された結論は偽りのものだったのだろうか。作品のリアリズムは差し戻され、再度宙吊りに曝される。




 ふたりはカナの家に辿りつく。「もう帰りな」と諭す白雪に対し、カナは「大人になんかなりたくない」と叫ぶ。カナは自分の言葉を「子供の言葉」と理解しているが、それでも大人になりたくないのだ、と繰り返し訴える。

 と、そこで関の戸が開く。カナの声を聞きつけて、義父が姿を現し、衝撃的な言葉を口にする。

「カナ……誰もいないぞ。そこ……誰も………」★21


――白雪なんて、初めからいなかった」。これがこのエンディングにおける結論である。

 その後カナは高校受験を経て進学し、義父ともゆるやかに和解を迎える。「十七歳くらいまでは、部活の帰りとか朝練に行く途中、ときどき白雪の幻とすれちが」うが、「少しずつ頻度が減」っていく。そして18歳で短大に進学し町を離れたところで、物語は閉じられる。つまりここでは、白雪は思春期の少女が大人になる過程で出会った、ひとつの幻として処理される。

 これまでの議論に即してまとめれば、「Ending III」は「サヴァイヴ系/決断主義」の世界観を前提としつつ、最終的にはカナの成長を描く教養小説としての側面が強調されている。また、このエンディングから作品世界全体を振り返れば、冒険譚はカナが見た白昼夢のようなものであり、作品全体は自然主義的なリアリズムに基づいて構成されていたということになるはずだ。




 では、「Ending I 放浪」はどうか。

 白雪はふたたび脱獄し、カナのもとに帰ってくる。そして、「約束したのに。一緒に逃げようって」と呼びかける。

 カナも、「あの町にはもう帰りたくない。逃げて、消えてしまいたいんだ」と考え、白雪の逃避行を続けることに決める。このエンディングは、「ああ、これは子供の言葉だから、いくらでもうなずいていいんだ、と思った」という独白を最後にして、かなり唐突に閉じられる。「Ending I」は他のエンディングと較べても極端に短く、わずか4ページしかない。その後のふたりについては、なんのヒントも与えられない。

 これは当然といえば当然である。「砂糖菓子」がこの社会で生きること、それを描くことの困難は、桜庭にとって何度も反復されてきた。この先のふたりの逃避行を書き進めることはきわめて難しい。「子供の言葉」は「砂糖菓子の弾丸」と同義語である。

 おそらく彼女たちが迎えるのはバッドエンドをおいて他にない。藻屑の死がすでに、それを証明している。




 この分岐を、私たちはどのように解釈すべきなのだろうか。

 そもそも小説とは単線的な物語を語る形式であったはずだ。そこではひとつの結末への収束が、無意識のうちに前提とされている。結末が分岐する作品を小説と呼んでよいのか、疑問に思う向きもあるだろう。

「あとがき」によれば、追加されたふたつのエンディングはかつてボツになったもので、「ゲームのマルチ・エンディングのようにしてはどうかと考え」て収録されたものだという★22。桜庭は併録の意図を「三つのエンディングが自分の中で混在し始めていて、いまでは三つあって初めてこの物語の幕が無事に下りるような気がしています」と述べている。すなわち、読者は「三つのエンディング」のどれかを選ぶことを要求されているわけではない。エンディングが併存しているという状況そのものが、『推定少女』の真の結末なのだ。

 ここで東浩紀の「ゲーム的リアリズム」という概念を引いてきてもいいだろう。東は大塚の「まんが・アニメ的リアリズム」という概念を批判的に継承し、そもそも「キャラクター」は単一の物語の枠内に留まるものではなく、複数の物語を呼び寄せるのだと考えた★23。そのような複数性を帯びるメタ物語を支えるリアリズムを、東は「ゲーム的リアリズム」と名づけた★24

 東の理論を援用すれば、キャラクター小説である『推定少女』は本来的に、ゲーム的リアリズムに基づくマルチ・エンディングを呼びこみやすい条件を備えているのだといえよう。しかしそれにしても、「Ending I 放浪」は『砂糖菓子』の段階で既に乗り越えられたはずの展開である。それでも、桜庭は「三つのエンディング」を併存させなければならなかった。この意味はことのほか大きい。

 白雪が宇宙人にせよ誘拐された令嬢にせよそのどれでもなく幻であるにせよ、私たちは「決断」し、「戦場」を生き抜くしかない。だからこそ2004年の桜庭は周到な手続きを以て藻屑を殺し、カナと白雪を離別させた。しかし2008年の桜は、『推定少女』の結末を分岐させてしまった。そしてそのどれをも選ばなかった。桜庭は『砂糖菓子』において藻屑を殺すことで、作品をキャラクター小説から一般小説へ移行させると同時に、死なない身体を死にゆく身体に書き換えることに成功したはずだった。にもかかわらず、藻屑はそれでも死ななかったのだ。

4


 気づいてみれば、私たちは藻屑の亡霊に囲まれている。キャラクター的な想像力は社会に浸透し、人びとの思考様式を規定している。ゼロ年代においては、その想像力が一般小説のなかにまで浸透してきた。だから桜庭=私たちは、どうやっても藻屑たちと決別することができない。それは桜庭の意図を超えた、不可避の条件である。リアリズムは分離できない。

 冒頭で指摘した『ばらばら死体の夜』が欠陥を抱えたのは、この条件が見過ごされたからにほかならない。作品に即して確認してみよう。

 前章までの整理に従えば、『ばらばら死体の夜』は明らかに、「自然主義的リアリズム」の「一般小説」として書かれている。ジャンルとしてはミステリ、もっといえば社会派サスペンスに分類されるだろう。

 舞台は「2009年の神保町」と明確に設定され、実在の店や風景が作中に織り込まれている。また主題となるのは、現代日本のリアルな社会問題(貸金業法及び出資法の改正、いわゆる「グレーゾーン金利」の廃止)である。こういった道具立ては、リアリティを醸成するためのギミックとして機能している。

 はじめに述べたとおり作中で描かれるのは、ヒロイン・白井沙漠の悲劇である。ある日、翻訳家・吉野解が学生時代に下宿していた部屋を訪れると、そこには謎めいた美女=沙漠がいた。解は欲望の赴くまま、強引に沙漠に迫る。沙漠ははじめこそ嫌悪感を抱くが、金の匂いを嗅ぎつけて、解を受け入れることに決める。

 その後ふたりは何度か逢瀬を重ねるが、沙漠はその様子を密かに、ビデオに記録していた。既婚者であり社会的地位もある解に金の無心をするためだ(確認しておくが、多くの読者はこの時点で、「沙漠が解を殺害する」ことを念頭に読み進めている)。

 沙漠の正体は作品の中盤以降で明かされる。「白井沙漠」は友人から借りた偽名で本名は「安田美奈代」であることや、彼女が自らのつまらない生活は平凡な容姿が原因であると考えて整形を繰り返したものの、その結果として借金を重ね、いまは金融業者から身を隠して暮らしていることなどが語られていく。

 そして最終的には(読者の想定に反して)解が沙漠を殺し、ばらばら死体に解体する。

 しかしあらかじめ指摘したとおり、冒頭の殺人描写と終盤のそれは、とても同一人物の主観によるものとは思えない。なかでも冒頭の「もっとばらばらにしなくちゃ!」という言葉づかいは、第六章での「俺」という一人称で描写される解の内面と、あまりにも隔絶している。

『砂糖菓子』における「新聞記事」が藻屑という「死なない身体」を殺すための予告として機能していたのに較べ、「Prologue」はむしろ物語の読解を妨げている。終盤における解による殺人の描写を読み進めると、「Prologue」との不一致が気にかかる。『砂糖菓子』では直接描写されていないばらばら殺人の様子がここでは刻明に描写されているにもかかわらず、読者はそこで扱われている殺人が、取り返しのつかない一回性の出来事だと信じることができない。

 桜庭は沙漠を殺し損ねている

 私たちは、『砂糖菓子』や『推定少女』の読解を通して、桜庭がライトノベルと一般小説を切り分けようとしたこと、そしてそれに一度は成功したように見えながら、いつの間にかキャラクター小説の想像力が不可避な仕方で回帰してしまったことを確認してきた。

 沙漠は、整形や偽名を通して、キャラクター的な身体を獲得しようと試みた。しかし、キャラクターになろうとすればするほど、その生身の身体の限界は、逆説的に露わになってゆく。この悲喜劇こそが『ばらばら死体の夜』のテーマのひとつであり、その問題意識は『砂糖菓子』から一貫している。

 桜庭はここで、一般小説の方法論で『砂糖菓子』を語りなおそうとしている。この作品が徹頭徹尾リアリティを追求しているのはそのためである。そしてほとんどの部分では、その試みは成功している。しかし、もっとも重要な殺人の描写において、リアリズムの分離は破綻し、作品世界の整合性は喪われてしまった。

 当然ながら、筆者は桜庭の作家としての資質について判しようなどというつもりはない。むしろ、桜庭はリアリズムの使い分けに成功し、ライトノベルの書き手としても一般小説の書き手としても、大きな成功を収めた作家である。その桜庭ですらこのような破綻に曝されたことにこそ、私たちは注目すべきではないか。

 まんが・アニメ的リアリズムやゲーム的リアリズムは、私たちが自然主義の枠組みで物語を設計しようとしてもその中に、ほとんど不可避に入り込んでくる。私たちはこの複雑なリアリズムのなかで物語を設計し、消費するほかない。それはもはや、所与の条件なのである。
 2004年の『砂糖菓子』、2008年の角川文庫版『推定少女』、2011年の『ばらばら死体の夜』。私たちは桜庭の作品を通して、ゼロ年代以降の物語環境の条件について思考してきた。しかし、このような批評的な取り組みじたい、すでに古いパラダイムに基づくものなのではないか。そう疑問に思われる向きもあるだろう。

 本稿で参照した先行研究は、いずれもゼロ年代に書かれている。もちろん暦の上でのゼロ年代はとうに終わった。しかし時代感覚としては、10年代に入ってもなお、ゼロ年代は続いていたように思う。だからこそ筆者は大塚、東、宇野といった論者の理論を参照し、まさしくゼロ年代的な作家である桜庭の作品を読み解くことに注力してきた。だが、その連続性も今となっては途切れている。3.11は日本のポップカルチャーの歴史にも、大きな転換点として刻み込まれるに違いない。震災以降、津波があらゆるものを押し流すさまは繰り返し報道され、犠牲者・行方不明者の数はあっというまに5桁を超えた。復興どころか、被災地では衣食住ともに不十分な暮らしが今なお続いている。余震は本震後数十日をすぎても継続し、緊急地震速報が鳴るたびに、身のすくむ思いがする。福島原発事故は最悪の「レベル7」に認定され、放射能汚染の恐怖はいつ止むとも知れない。

 そんな中で「キャラクター」や「死なない身体」といった概念について考えることに、公共的な意味はあるのだろうか。これらの概念は豊かな日常が保証された環境でのみ有効なものだったのではないか。こういった疑問は、むしろこれまでこの手の言説を創り、支え、押し広げていった層から提起されている。

 いうまでもなく、震災は私たちの文化に大きな影響をおよぼすだろう。もちろん、「萌え」や「日常」といった従来からの主題は、変わらず受け継がれてゆくに違いない。その一方でよりリアルな、現実志向の物語が要請されることもまた、疑うべくもない。

 だが、思い出してほしい。ここまで確認してきたのは、今やライトノベルなどとはかけ離れたリアルな物語を設計しようとしても、そこには不可避にキャラクター的な想像力やまんが・アニメ的リアリズムが舞い戻ってくるということだった。それは、物語の作者だけが抱える問題ではない。むしろキャラクターたちが回帰するのは、私たち読者が作品に触れる、その瞬間である。私たちは写実的リアルな作品世界のなかから、意図せざるうちに記号の組み合わせを見つけ出し、そこに死なない身体キャラクターを読み込んでしまう。

 私たちにはもう、死なない身体キャラクターとかかわりなしに物語を書くことも、読むこともできない。だから、死なない身体と死にゆく身体の問題系は、そのすがたかたちを変えたとしても、何度でも繰り返し呼び出されることになるだろう。たとえ震災がコンテンツを変えても、その条件は変わらない。むしろ現実を志向しようとすればするほど、作品を支えるリアリズムは逆説的に複雑化し、今まで以上に奇妙な変化を遂げるかもしれない。私たちがはぐくんできたのは、そういう奇妙なリテラシーなのだ。それこそがいま私たちが直面している、真に現実的リアルな条件である。

 だから藻屑は何度でもよみがえる。

 死なない身体の殺しかたを、私たちはまだ知らない。

★1 桜庭一樹『ばらばら死体の夜』、18ページ。
★2 このトリックについては、桜庭自身がインタビューで言及している。「サスペンスの手法の一つとして、時間の組み替えをやってみたかったし、誰が殺されたのか考えながら読んでもらうことで、人間ドラマの側面が強調されると思いました」(「集英社『ばらばら死体の夜』桜庭一樹」インタビュー第4回、http://www.shueisha.co.jp/sakuraba/interview4.html)。
★3 たとえばこの矛盾を、解の人格がそれこそ名前どおり「解離」している症状の表れとして解釈することは可能かもしれない。作中では何度も、解が母親に対して強いコンプレックスを抱いていることが強調されており、彼がまともな精神状態ではなかったことは間違いない(ばらばら殺人の犯人が「まとも」ではないのは当たり前ではあるが)。しかしこの解釈を採用したとしても、作品全体のちぐはぐな印象をぬぐい去ることはできない。
★4 日本で生産・消費される小説作品のうち、ライトノベル以外のもの。本稿では標準的な「純文学」「一般文芸」といった用語は避けた。というのも、「純文学」は今や小説市場におけるサブジャンルのひとつにすぎないし、「文芸」という表現は小説よりも広い文字表現一般を想起させるからだ。ライトノベルはミステリやファンタジーなど多様なサブジャンルを内包するメタジャンルであり、それに対する適切な対立概念は今のところ見当たらない。
★5 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社、2007年3月)、27ページ。
★6 桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』、19ページ。
★7 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』、21ページ。また桜庭自身、『仮面ライダー龍騎』の次作『仮面ライダー555』のノベライズを手がけている。
★8 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』、25ページ。
★9 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』、38ページ。
★10 「キャラクター小説」は大塚独特のニュアンスを帯びた用語であるが、ここでは一般的なライトノベルのことを指していると考えてさしつかえない。
★11 大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社、2003年2月)、24ページなど。ただし大塚自身は「アニメ・まんが的リアリズム」や「まんが的非リアリズム」といったさまざまな表現を用いており、この概念については大塚の著書よりも『ゲーム的リアリズムの誕生』56-59ページの記述がもっともよくまとまっている。
★12 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』、205ページ。
★13 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない、5ページ。
★14 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』、204ページ。
★15 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』、205ページ。
★16 なお、2010年からのアニメ化に伴い、現在は「角川ビーンズ文庫」レーベルより、かつてのイラストが収録されたライトノベル版の「GOSICK」シリーズが再刊されている。
★17 ただしこれらの「キャラクター小説」はいずれも、現代社会を舞台に設定していないことに注意が必要だ。桜庭の描く現代社会において「砂糖菓子」は死すべき定めに置かれている。ゆえに、「GOSICK」シリーズでは戦間期のヨーロッパが、『青年のための読書クラブ』では世間から隔絶されたお嬢様学校が舞台となっているのである。
★18 また、両者の差異は、文体の水準でも確認できる。特にもともとライトノベルとして発表されていた『荒野の恋』(エンターブレイン、第一部は2005年6月、第二部は2006年2月)と、それを一般小説(それも直木賞第一作!)として加筆して刊行された『荒野』(文藝春秋、2008年5月)を比較すると、 もともとライトノベルとして発表された文章が、一般小説に転化する様子が明確かつ具体的に見て取れる。ここで詳しく例示することはしないが、もっともわかりやすい点を挙げておけば、初出時に多用されていた感嘆符や疑問符が大幅に削除されている。また、従来の桜庭であれば漢字で表記した言葉について、ひらがなでのいい換えが目立つ。
★19 ローマ数字は単純に掲載されているページの順に割り振られており、執筆された順番とも、発表された順番とも異なっている。
★20 桜庭一樹『推定少女』(角川書店、2008年10月)、264ページ。
★21 『推定少女』、289ページ。
★22 『推定少女』、308-309ページ,
★23 この発想は、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』(NTT出版、2005年9月)に依拠している。伊藤は「作品世界のなかでのエピソードや時間軸に支えられることを、必ずしも必要としない」存在を「キャラ」と呼び、物語に埋め込まれた登場人物としての「キャラクター」と区別した。「キャラ」は「キャラクター」を支える基盤だが、「キャラ」としての強度と「キャラクター」としての強度は別の位相に属し、それぞれ独立している。
★24 詳しくは『ゲーム的リアリズムの誕生』を参照のこと。東が「ゲーム的リアリズム」という概念を提出した真のねらいは物語における「ループ」を評価することにあるが、この概念は『推定少女』のようなマルチ・エンディングを考える上でも当然、有効である。

徳久倫康

1988年生まれ。早稲田大学文化構想学部卒。2021年度まで株式会社ゲンロンに在籍。『日本2.0 思想地図βvol.3』で、戦後日本の歴史をクイズ文化の変化から考察する論考「国民クイズ2.0」を発表し、反響を呼んだ。2018年、第3回『KnockOut ~競技クイズ日本一決定戦~』で優勝。
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