【 #ゲンロン友の声】東さんの死(後)生観についての質問

 福島第一観光地化計画からのファンでして東浩紀フリークとしては日の浅い者です。ゲンロン0「観光客の哲学」やその関連の講義を聞いて東さんの死生観にとても興味を持ったので質問させていただきます。
 ハイデカーの哲学はキリスト教の相似形で「死(生の内には絶対に現れない最後の審判)に耐えうるような生き方をせよ」というような考え方で、「死後」は聖書の中に神の国の記述がないように問題としていないと思います(実証不可能な形而上学なので)。
 対して東さんはよく「理性的には死んだら無に決まっていると思っているけど、感覚的に輪廻転生を信じている」と公言してらっしゃいます。
 ゲンロン0の家族の哲学や不能の父、東さんが重要視するデリダの散種は、生命は当然のこととして、草木のような無機物や国土のような概念にまで仏性を認め、輪廻が可能な主体と認める草木国土悉有仏性という、ある意味滅茶苦茶な思想を産んだ日本仏教にとても近い考え方だと思いました。
(滅茶苦茶だというのは四法印の第一は一切皆苦で草木や国土は苦しんでいるのかという意味でもあります)
ただし、東さんの場合は輪廻の主体はエクリチュールのように思えます。
「エクリチュールを散種せよ、誤配を生み出し、偶然性で他者の運命を変え、べき乗分布と正規分布の自然の法則に支配された世界を、ダイナミックな逆転に満ち溢れた面白い世界に変えるのだ。世界の親になるとはそういうことだ。死後、お前はいない。でも、お前のいないエクサイティングな世界の親のひとりとして、お前は生き続けるのだ」
 東さんはそのように力説しているのだと私は思いました。
 これはクリプキの固有名-確定記述論ともとても深くつながっているようにも思います(東さんも講義で指摘されておりました)。確定記述の束は固有名に還元できないけれども、主体の死により固有名を離れた確定記述は世界の側に散種され(エクリチュールのパロール殺し)、他者の種となる。そうして、不能の父は世界の親となり、世界は不能の父の家族となる。
 ちなみに私は仏教徒です。個人的に仏典を読み、涅槃を希い、信じているものです(ヴィトゲンシュタインが確実性の問題で言った意味で)。
 アーガマ(初期仏典)に涅槃の記述はほとんどありません。唯一「生存の息が吹き消えること」とだけあります。輪廻は無機の教説が有名ですが、もっと強烈で端的なのに「目の前からいなくなってしまった者(死者)をはかる測りなどない」という一説があります。おそらく、釈迦は輪廻を実証不可能な形而上学だと捉えていたのだと思います。
一切皆苦で「生存の息が吹き消えること」を良しとした釈迦は、一方で世界の存在をとても喜んでいました。ダンマパがそうです。ゲンロン0で忘れていたその存在を思い出しました。忘れていたというのは「自然素晴らしい! サイコー!」が繰り返されており、あまりにも馬鹿馬鹿しいので、途中で投げ出してしまったのですが、釈迦はそういう感性の持ち主でもありました。そして、これは東浩紀の世界と死と死後に対する態度ととても良く似ていると思いました。
 私は仏教を絶対精神なき弁証法だと捉えています。生に終着点はない、審判もない。生はただ途切れる。でも、良い意思を持ち、問いと答えを繰り返していけば、こんな苦しい世界でも執着なく離れることができる。そんな思想だと思っていました。
 でも、ゲンロン0を読んで大きく変わりました。生きることは苦しい、でも、肯定されなければならない。できれば、楽しいものに変えなければならない。釈迦は一切皆苦でも自然の存在を喜んび楽しんだように。
 スッタニパータでは仏とは行為であると定義されます。ならば、仏とは仏陀の実存、仏陀が生きた軌跡そのものです。仏陀が世界を喜んだならば、私も喜ばなければならない、少なくとも喜べるように変わる努力をしなければならない。
 そんな風に私の信仰はゲンロン0、および東さんの講義で変わりました。
 もしかすると涅槃寂静と草木国土悉皆成仏の一致も可能かもと考え直し始めています。
 質問なのだか、感想文だか訳が分からなくなってしまいましたが、東さんの死生観、死後についての考え方、そしてできれば、仏教に対しての現在のお考えなどをお教えいただければ幸いです。(東京都/30代男性/友の会会員)

 質問、ありがとうございます。たいへん重い質問であり、ここで簡単に答えられるようなものではなさそうですが、なんとかがんばります。
 まず第一に仏教についての考えですが、ぼく自身最近、自分のなかに流れる「東洋的なもの」あるいは「日本的なもの」を自覚することが多いのは事実です。そして、そこに仏教の伝統が(とりわけ浄土真宗が——ちなみにぼくの生家は浄土真宗ということになっています)入り込んでいるのもまた事実でしょう。考えてみれば、そもそもぼくの「動物」という概念への偏愛そのものが、おっしゃるとおり仏教的自然観からやってきているのかもしれません。しかしそれを言葉にする準備はできていません。東洋哲学というのは、西洋哲学をやった人間からすると、あまりに直観的に理解可能で、そして人生哲学に直結しているように見えるので、かえって語りにくいのです。いつか言語化できたらと思います。
 つぎに死生観、死後についての考え方ということですが、「死」をどう捉えるかというのは、それこそ20世紀の西洋哲学の中心も中心であり、以前から考えてきました。そしてそのことに関して言えば、ぼくは、死の唯一性を絶対視し、そこからの逆算として生の意味づけを考えるハイデガーの哲学に、むかしより違和を感じてきました。だからこそデリダにも惹かれたわけですが、ぼくがこの数年考え続けていることを端的に言えば、ぼくは、実存は、いまぼくたちが生きている「この現実」の「リアルな人生」よりもそもそも大きいのではないかと思うのです。人間はひとつの人生しか生きることができない。しかし実際には無限の人生を生き「えた」し、また日々そのような別の人生の可能性を夢想する。その想像力は人間の本質そのものであり、したがって実存は「この唯一の生」よりも大きいのではないか。『ゲンロン0』ではこの問いは後景に退いていますが、『ゲーム的リアリズムの誕生』と『クォンタム・ファミリーズ』で幻視していたのは、そのような生死観であり人生観です。いつかこのような「反実仮想を含みこんだ実存」の問題を、政治哲学と結びつけることができたらと思います。反実仮想(並行世界)の概念を入れると、再配分の問題もとらえかたが変わってくると思うのです。
 そして最後に以上の2点をまとめれば、ぼくのなかに入りこんでいる仏教的なもの、あるいは東洋的なものの影響と、このような反実仮想=並行世界への強い傾きがつながっているのかつながっていないのか、それはぼくにもまだよくわかっていません。つながっているような気もするのですが。(東浩紀)
+ その他の記事

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。

コメント欄に表示する名前を入力してください。
コメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください

ゲンロンに寄せられた質問に東浩紀とスタッフがお答えしています。
ご質問は専用フォームよりお寄せください。お待ちしております!

注目記事

ゲンロン友の声・アーカイブ

ピックアップ

NEWS

関連記事