【 #ゲンロン友の声】痛みの実態(手触り)を言葉で伝えることはできますか?

 先日の批評再生塾の放送で塾生の方が佐々木敦さんと会話の中で、某人気女性アイドルについて「彼女の親御さんには悪いけど、彼女は今自殺すれば伝説になれると思うんですよね」といった内容の発言をされていました。そして、その発言に対しての反応は誰からもありませんでした。発言自体は他人の痛みに対する鈍感さからくる問題あるものだと思います。ただ今回はこの方を責めるといった意図はありません。私自身多くの失言をしてきましたし、これからもするだろうと思います。塾生の方も批評再生塾のような良いコミュニティの中にいることを考えれば気づきの機会はこの先何度もあるだろうと思います。そこで質問です。人は痛みを知ることによって、憐れむという感情を持つことができるのではないかと思います。痛みは自身の実際の経験や、他人や場所の記憶を介しての感染、または芸術や書物で知ることができるように思います。では、そういった痛みの実態(手触り)が目の前にない場合に、その場でそれを言葉で伝えることはできるのでしょうか?自身の記憶を振り返ると、経験や実感があって、言葉を思い返す順序だったように思います。(大阪府, 20代男性, 友の会会員)

 そんな発言があったとは……。詳しい事情を知りませんが、不用意な発言だと思います。「自殺」はそう軽々しく使ってよい言葉ではありません。塾生に代わりお詫びします。
 
 で、そのうえで質問へのお答えですが、凡庸な答えになりますが、痛みは言葉で伝わることもあるし、伝わらないこともあるとしか言いようがないのではないかと思います。というか、正確に言えば、言葉がなくて痛みが伝わるときもあれば、言葉がないと痛みが伝わらないときもあると言うべきでしょうか。痛みにもたくさんの種類があります。痛みの存在が自明ですぐに共有できるものもあれば、目の前でひとが痛みを感じていても、言葉の補助がなければそれが痛みだと気づかないこともある。心の痛みはたいていそういうものです。自分自身の痛みならばさすがに自明だろうと思うかもしれませんが、それだってあやしい。当時は痛みだと思っていなかったけれど、あとで振り返ってみればじつは痛みだったということは往々にしてある。ハラスメントはたいていそういうものです。しかし同時にそのような事後的な気づきの可能性は、本当は痛みがなかったのに、あとで振り返って痛みだと思いこんでしまうというまちがい(歴史の修正)の可能性でもあるわけで、ここにはたいへん厄介な問題が潜んでいる……。
 
 いずれにせよ、痛みを知らないと他人の痛みに敏感になれないというのはまったくそのとおりなのですが、痛みを知るとはどういうことかというと、これがじつにむずかしい。そこらへんに人間のコミュニケーションのむずかしさがあるように思います。(東浩紀)
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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。

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