「モノに魂は宿るか ──実在論の最前線」をニコニコ動画で視聴しました。東氏の「宇宙の起源や死や魂について考えたりするのはエラーである」という発言が非常にショックでした。専門に勉強しているわけではないですが、哲学というのは、そんなに唯物論的で世俗的なものなのでしょうか。まるで「言語的に規定できないものは存在しない」と言っているようで、それは通常の人間的な感覚からもズレているように感じました。「科学的に証明されてないものは存在しない」とか「目に見えないものは存在しない」といった、非常に凝り固まった考え方のように感じました。「普通の人の感覚を理解することができないガチガチの学者」「自分が知らない事はすべて愚かな大衆の迷信と決めつける学者」といったイメージに見えました。東氏にとって、哲学というのは、そういうものなのでしょか。カントが言ったら、それが正しい、ということなのでしょか。まるで言葉の檻の中に閉じ込められているように感じました。本来、「魂とは」という命題だけで何時間でも語ることができるものだと私は思うのですが・・・。非常に残念に思いました。(静岡県, 30代男性)
まずは、質問者の方に失望を与えてしまったようで、ぼくの力不足をお詫びします。
そのうえで、質問――というか、ご質問は質問というよりも失望の表明でしたので、その失望を少しでも和らげるべく補足説明を記しますと、まずぼくは、魂は物理的には存在しないと考えています。つまり、何センチで何グラムといったかたちで物理的に計量できるものとしては、魂は存在しないと考えています。おそらくこの点については質問者の方も同意されるのではないかと思います(もし同意されないのだとしたら、残念ながらぼくとは物理的世界についての認識が異なるので、これ以上は対話はむずかしいかもしれません)。にもかかわらず、ぼくたちの多くは魂は「存在」すると感じる。だとするとつぎに問題になるのは、魂がもし「存在」するのだとしたら、それはどのような位相においてかということです。西洋の哲学は伝統的に、その位相を、「人間ではなく神だけがアクセスできる領域」だとか「いま存在するものだけでなく可能性まで含めた領域」だとか「経験できないのだけどその経験を支える条件の領域」だとかいった回答を与えてきました。この最後の回答がご指摘のカントのものなのですが、いずれにせよ、そういった回答もすべて、ではその領域が物理的に存在するのとは異なったしかたで「存在」するとはどういうことかといった肝心の質問にはたいして答えを与えていません(ちなみに、ご視聴いただいた番組で話題になったドイツの若い哲学者、マルクス・ガブリエルの主張は、要はそういうこと全部考えずに全部同じように存在でいいんじゃね?というもので、ラジカルといえばラジカルですが、思考停止といえば思考停止だというのがぼくの考えです)。
そこでぼくは、そのような「物理的存在ならぬ存在」はすべてぼくたちが物理的な世界を認識するときに起こるエラーとして捉えるべきだ、しかしそのエラーは不可避なので必ず「存在」するし、そのかぎりで魂は存在するとも言える、そのように主張しているのです。魂がエラーだというのは、魂が存在しないということではありません。それはエラーという審級で不可避的に存在するのです。この回答が、質問者の方の失望を少しでも和らげることができたとしたら、幸せに思います。(東浩紀)
そのうえで、質問――というか、ご質問は質問というよりも失望の表明でしたので、その失望を少しでも和らげるべく補足説明を記しますと、まずぼくは、魂は物理的には存在しないと考えています。つまり、何センチで何グラムといったかたちで物理的に計量できるものとしては、魂は存在しないと考えています。おそらくこの点については質問者の方も同意されるのではないかと思います(もし同意されないのだとしたら、残念ながらぼくとは物理的世界についての認識が異なるので、これ以上は対話はむずかしいかもしれません)。にもかかわらず、ぼくたちの多くは魂は「存在」すると感じる。だとするとつぎに問題になるのは、魂がもし「存在」するのだとしたら、それはどのような位相においてかということです。西洋の哲学は伝統的に、その位相を、「人間ではなく神だけがアクセスできる領域」だとか「いま存在するものだけでなく可能性まで含めた領域」だとか「経験できないのだけどその経験を支える条件の領域」だとかいった回答を与えてきました。この最後の回答がご指摘のカントのものなのですが、いずれにせよ、そういった回答もすべて、ではその領域が物理的に存在するのとは異なったしかたで「存在」するとはどういうことかといった肝心の質問にはたいして答えを与えていません(ちなみに、ご視聴いただいた番組で話題になったドイツの若い哲学者、マルクス・ガブリエルの主張は、要はそういうこと全部考えずに全部同じように存在でいいんじゃね?というもので、ラジカルといえばラジカルですが、思考停止といえば思考停止だというのがぼくの考えです)。
そこでぼくは、そのような「物理的存在ならぬ存在」はすべてぼくたちが物理的な世界を認識するときに起こるエラーとして捉えるべきだ、しかしそのエラーは不可避なので必ず「存在」するし、そのかぎりで魂は存在するとも言える、そのように主張しているのです。魂がエラーだというのは、魂が存在しないということではありません。それはエラーという審級で不可避的に存在するのです。この回答が、質問者の方の失望を少しでも和らげることができたとしたら、幸せに思います。(東浩紀)
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)、『忘却にあらがう』(朝日新聞出版)ほか多数。