【 #ゲンロン友の声】月へ行くことで芸術の可能性が生まれるでしょうか?

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 ZOZOTOWNの前澤社長が民間人初の月旅行に芸術家を同行させるという話が出ていましたが、現地でのパフォーマンスを除いて月に行ったことでしか為しえない芸術というものはあるのでしょうか。また、月に限らずあらゆる画像や動画が手に入る現代で現地に行くことと芸術の間にはどんな可能性が残されているのでしょうか。
 芸術はすべてが複製可能ではありません。たとえば参加型アートなどと言われるものがありますが、これはそもそも参加しないと成立しない芸術作品なので、その定義上記録画像や動画を見たからといって作品を鑑賞したことにはなりません。つまりは、複製技術が全面化した時代においては、むしろ複製不可能な体験にこそアートの活路はあると考えることができて、実際に現代美術のひとつの流れはそちらに向かっています(それがいいかどうかはともかく)。というわけで、ZOZO前澤氏が月に連れて行くという「アーティスト」たちも、きっとそのような「なにか」を見せてくれるはずだと期待することはできます。しかし、おそらくぼくの推測するに、質問者のかたの本当の意図は、そんな一般論ではなく、そもそもZOZO前澤氏の申し出を受けてほいほい月に行くという「アーティスト」たちにそんな新しい芸術の可能性を見せることが可能なのか、そもそもそんな人々であれば月に行くことなく作品を生み出すことができるのではないか、それこそが想像力なのではないか、という疑問なのだと思います。その疑問に対しては、ええ、ぼくもそう思います。なるほど、月に行かないと生み出せない芸術はたしかにあるにちがいない。けれども(いっけん逆説的に響くと思いますが)、そんな芸術を生み出すことができるひとは、きっと月にわざわざ行かなくても、地球上でも、それぞれの場所でそれぞれに固有な「そこでしか生み出せないもの」を芸術に変えることができる人々であり、むしろ逆に月になんて行かなくていいのかもしれない。むろん、彼らが月に行ったら行ったでなにかおもしろいものが生み出されるかもしれないけど、芸術の本当の価値はそこにはない。以上をむずかしくいえば、芸術というのは、そもそも単独性を普遍性に一気に繋げるもので、だからこそ尊いのに、「芸術家が月に行ったらすばらしい芸術が生まれる」という発想は、単独性と普遍性のあいだに特殊性(月に行く)を媒介として挟み込もうとしている態度で、それってそもそも芸術の機能について誤解しているように見える、ということになります。以上が答えになりますが、とはいえ、そのうえで、ZOZO前澤氏の行動については、まあそれはそれでいかにも現代的という感じがするし、なるほど金持ちの芸術理解っていつの時代もこういうものだよねと、距離をもってアウトプットを楽しみにすればいいのではないでしょうか。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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