【 #ゲンロン友の声|004 】主体的であることは、じつは閉じられることなのです。

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 ご著書等いつも楽しく拝見しております。東さんの日常に関する素朴な疑問をお送りします、お時間あるときにご回答いただければとても嬉しいです。 東さんは、ご著書のなかで「動物」「観光客」といった、一見すると受動的な存在が、実は(様々な意味での)ゲームに影響を与えているのだ、という主張を様々な比喩で説明されていると理解しています。一方で、こうした主張を行う東さんご自身や、政治的なトピックに言及する東さんの様子は、受動的でなく主体的に振る舞っているように思います。 東さんが純粋に「動物」「観光客」として振る舞った/楽しんだご経験を教えてください。動物や観光客ならではの気楽な感想も教えていただければ幸いです。これからも応援しています。(東京都・30代・男性・友の会会員)
 ぼくが「動物」「観光客」として振る舞った経験を教えろといわれれば、ぼくの答えは、ぼくはつねに動物であり観光客だったというものになると思います。ぼくはつねに受動的で状況依存的な人間でした。ゲンロンを創業したのも成り行きだし、チェルノブイリを取材したのも成り行きだし、いまシラス(新しい映像プラットフォーム)をつくっているのも成り行きです。そもそも東大にいったのも批評家になったのも成り行きでした。人生のさまざまな節目においてぼくはつねに現実感がなく、リスクとベネフィットを勘案した「主体」として決断を下したことなど、いちどだってできたためしがないように思います。そのふわふわした感覚こそがぼくがむかし書いた小説『クォンタム・ファミリーズ』の主題ですが、ただ、他方でなにか「これまずいな」という感覚はあって、ぼくはその否定の感覚のほうにもつねに忠実に従ってきた。いわゆるソクラテスのデーモンというやつですが、そのせいで大学をやめたり文芸誌を離れたりツイッターをやめたりしているので、それが人々には強い主体性(能動性)があるように見えるのかもしれません。いずれにせよ、本当のところはぼくにはいつも主体性が欠けている。決断が欠けている。というわけで、動物や観光客ならではの感想を教えてくれという質問への答えは、じつはぼくの人生全部がそうなんだというものになりますが、それだとあまりにあれな答えなのでいちおう例をあげると、たとえば、チェルノブイリに行ったら観光地化していたとか、ハルビンの731部隊記念博物館(侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館)に行ったら団地が建っていたとか、そういう観察こそが「動物や観光客ならではの気楽な感想」ということになるでしょう。あのような観察は、それこそ「動物」で「観光客」でないと出てこない。「主体的」なジャーナリストは、主体的であるがゆえに、原発事故跡地を観光客が見にくることだとか、虐殺跡地が団地になっていることといった事実を、自分の取材目的(主体性)に適さない無意味な細部として削除してしまうからです。主体的であることは、じつは閉じられることなのです。動物的であり、観光客的であるとは、無意味な細部、すなわち「ふつうにパッとみたときの第一印象」に忠実であり、開かれているということでもあります。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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