【 #ゲンロン友の声|009 】大切なものを子供に伝えようとするのは傲慢でしょうか

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webゲンロン 2020年8月14日配信
 先日の、2020年前半めった斬り!時事放談にて、質問に答えてい頂いた介護士です。全体と個別の命法を切り離し、個別で判断していくタフさを持てるように積み重ねていきたいと思います。ありがとうございました。 
 東さんのご意見を頂きたく投稿します。 
 私は、「悪の愚かさが伝わる」ことと「生き延びる=死んでも受け継がれていく」ことは、とても近い部分があるのではないかと思っていて、一方ではそのためには私の仕事のような関係性の人間(介護の仕事に限らず)が役に立っているのではないかと考えています。しかし他方で、それは傲慢な考えではないのか、と疑問もあります。 
 老人ホームには様々な方がいますが、特に、ろくでもない親である高齢者とそのご家族との関わりを持つ中で、そのように感じることがあります。 
 15年ほどの私の経験の中でも少ない例ではありますが、「加害者の親と被害者の子供」に見えていた関係が、許す許されるではなくて、「私が親の立場でも同じようにしたかもしれない」「子供からしたら酷い親だったろう」と考えるに至る関係に変化するケースがあるからです。 
 少しばかり、私のような人間が間にいたことで役に立てたのかなとも思います。しかしそれよりも、そんな場面に立ち会えたことに、グッときます。とても尊い場面に立ち会えて、大切なものを受け継がせてもらったように感じます。 
 しかし、このことが介護の仕事の醍醐味だとは、何だか気持ち悪い感じがして言えません。もともと、褒められる仕事ではないとどこがで思ってしまっているのかもしれません。 
 しかし、自分の子供にはいつか伝わってほしいと思います。 
 しかしかつての自分がそうであったように、子供に伝えたいものは伝わらず、むしろ意図しないものが伝わってしまうのだと思います。 
 私が最初に述べた考えで言うと、私ではなく、第3の関係性の誰かが関わることで伝わりやすくなるのだと思いますが、それでも私は、できれば直接伝えたいと思ってしまいます。 
 子供の立場で考えれば、ウザいと思われると考えますが、きっと折に触れて伝えようとしてしまい、上手くいかないのが想像できます。 
 それでもお聞きしたいです。私がグッときたことを子供に伝えようとするのは、やはり傲慢でしょうか? 
 以上、よろしくお願いします。(長崎県・40代・男性・会員)

 重要な質問をありがとうございます。「悪の愚かさ」はぼく独特の言葉ですが(次号『ゲンロン11』では哲学的な定義もしていますが)、それを伝えるとは、要は「ぼくたちはだれでも加害者になってしまうかもしれないという可能性を伝える」ことです。他方でなにか事故や事件の記憶が「生き延びる」、つまり個人の死のあとも残るということも、そのような可能性への恐れを伝えることと不可分だと思います。だからご指摘のとおり両者は深くつながっている。そして第一の質問は、そのつながりにおいて「加害者でも被害者でもない第三者」が大きな役割を果たすのではないかというものですが、はい、それもそのとおりで、大きな役割を果たすものだと思います。さて、そのうえで第二の質問は、そんな第三者を抜きにして、その感覚を直接に親から子へ、いってみれば加害者から被害者へと伝えることができるかというものでした。ぼくの考えでは、それはおそらくはとてもむずかしい。加害者(親)が被害者(子)に直接「おまえも加害者になるかもしれない」という命題を伝えることは、それが真実かどうかと関係なく、原理的に不可能な気がします。その逆のコミュニケーション、被害者(子)が加害者(親)に「おまえも被害者になっていたかもしれない」という命題を伝えることすら、じつは世の中ではあまりうまくいっていません。だからネットではハラスメントについてつねに係争が起きている。真実はまっすぐに表現すれば伝わるというものではありません。真実の伝達には媒介が必要とされます。そこには「事実」「エビデンス」の伝達とはまったく異なるメカニズムがある。その厄介なメカニズムこそが、かつて哲学や精神分析が主題としてきたことであり、またぼくが最近「観光客」という言葉で考えようとしたものでもあります。そして、ぼくの直感では、おそらくは——そのうちもっと厳密に考えますが——ここにこそ、ぼくたちがある種の嘘や虚構を必要とする理由がある。広くいえば「文学」を必要とする理由がある。ぼくたちは、嘘をつくことでしか、いいかえれば現実を虚構にすることでしか、ある種の真実を語ることができない。SNSとコロナ禍のいま、当事者からオンラインの情報発信があればもはや記者も取材も要らないのではないかという素朴な報道観が支配的になりつつありますが、それが幼稚な夢想にすぎないと断言できるのは、真実そのものにそのような入り組んだ構造があるからです。というわけで第三の最後の質問、「私がグッときたことを子供に伝えようとするのは、やはり傲慢でしょうか」という質問へのお答えですが、それはけっして傲慢ではありません。けれども、きっとそれは直接の言葉では伝わらない。手紙でもいいし日記でもいいし小説でもいいしあるいは第三者による伝言でもいいけれど、なにかの媒介がないと伝わらない。親と子は向かい合って腹を割ったらうまくいくというものではない。夫婦も恋人も同じです。それは能力不足によるものではない。そもそも人間のコミュニケーションとはそのようなものなのではないかと、ぼくは思うのです。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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