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【 #ゲンロン友の声|014 】作品と作者の関係をどのように捉えればいいでしょうか?

 こんにちは、いつもゲンロンのコンテンツを楽しませてもらっております。質問なのですが、「作品と作者の関係をどのように捉えればいいでしょうか?」映画や書籍でも作品は優れているけれど、作者や監督あるいは演者に人間的あるいは世間体的な問題があるといったことがよく存在する気がします。個人的にはできるだけ切り離すべきと頭では考えているんですが、作者の情報を目にしてしまい色々考えてしまいます。また、評論をする場合などは作者の背景も踏まえて論ずることも多いと思いますが、切り離すべきという自分の捉え方とは矛盾しているように感じています。
 多くの作者と対談し、自身も作者でありアンチも抱えている東さんの考えをお聞きしたいです。(福島県・20代・男性・会員)

 質問ありがとう。結論からいえば、ぼくはそれは「ジャンルによって関係が異なる」と考えています。一方には「作品の価値と作者の言動は関係がないし、切り離すべき」表現ジャンルがある。おもにエンタメがこっちです。とくに非言語系のエンタメがこっちです。ミュージシャンはダメ人間だけど音楽はいい、アーティストはパワハラ野郎だけど絵画はすばらしい、といった例はよく聞きます。耳の快楽、目の快楽は道徳や政治ではひっくりかえらない。それは自然科学の真理に似ている。けれども他方で、「作品の価値と作者の言動は切り離せず、関係せざるをえない」表現ジャンルがある。非エンタメ、とくに言語系の非エンタメはこちらになります。具体的には、純文学、評論、ジャーナリズムなどですね。文章はすばらしかった、でも作者が犯罪者だとわかったいまもう昔のようには読めない、ということがこちらでは起こる。言語の魅力は道徳や政治と切り離せないからです。学問の分類であれば人文科学がこちらになります。実際にはこの両極のあいだにさまざまな中間形態があり、また時代の変化によって基準も変わるのですが、大雑把にいえばこの二極がある。さて、そのうえでどう対応するかですが、ひとことでいえば、それぞれの表現の形態に応じて、どこまで作者すなわち「作品外」の情報、とりわけ政治的で道徳的な追加情報を作品評価に取り入れるのか、その匙加減を調整するほかないと思います。つまり場合場合で判断しろということです。で、そのうえでいえば、ぼくは最近の世の中は、いささか「言語側」に、つまり「作品の価値と作者の言動は切り離せない」側に偏りすぎているのではないかと思います。世界にはさまざまな表現があります。すべての表現の制作者に対して、一律に同じ判断基準を適用するのは乱暴だし非現実的です。純文学の作家に求めるべきことと、ポップミュージシャンに求めるべきことは違っていいし、それはべつにジャンル差別でもなんでもありません。むしろそれこそが文化の多様性の源泉なのです。(東浩紀)
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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)、『忘却にあらがう』(朝日新聞出版)ほか多数。

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