質問をいただいてから3ヶ月ほどが経過してしまいました。そのあいだに世界の情勢はまた大きく動きました。コロナ禍に続いてこんどは戦争です。ヨーロッパにいるお姉さまとの距離は、さらに開いているかもしれません。
ぼくには外国に住む家族はいません。親戚にも学者や芸術家はいません。それゆえ同じ状況に陥ったことはないのですが、ぼくは大学院ではフランス思想を研究し、知人には海外在住者もいるのでお悩みの事態を想像することはできます。ぼくも、ヨーロッパやアメリカを知的な背景にしているひととはあまり話が合いません。最近はそうでもなくなりましたが(たぶん彼らがぼくの存在を忘れてしまったためです)、むかしはよく批判もされました。それを悲しくも感じています。
ただ、それはしかたのないことだと思います。思想や価値観は環境の産物です。日本にいれば日本風に考えるし、ヨーロッパにいればヨーロッパ風に考える。住んでいなくても、日本のものばかり見ていれば日本風に考えるし、ヨーロッパのものばかり見ていればヨーロッパ風に考えることになる。それぞれの環境で「わたしは多数派とは違う、自分ひとりで考えている」と自負していたとしても、結局は個性の表現そのものに風土的な特徴が出ます。日本のアートはヨーロッパのアートとは違うし、日本の左翼もヨーロッパの左翼と違う。その違いは否定して解消されるものではないし、時間が経てば経つほど大きくなります。おそらく質問者の方が悲しく感じているのと同じように、お姉さまも悲しく感じているのではないでしょうか。
繰り返しますが、ぼくはそれはしかたのないことだと思います。そこでできるのは、せいぜいが悲しみを共有するぐらいのことでしかない。おたがい変わってしまった、でもしかたないねと。
逆にそこで一方だけが「正しさ」を主張し、他方の生き方を批判するようになってしまうと、関係は壊れてしまいます。ご質問を読むかぎり、お悩みの中心はまさにお姉さまがそのような「正しさ」の行動をとっていることにあるようです。けれど、そこで論争に巻き込まれてはいけません。むしろ、お姉さまのそのような態度を、彼女なりの悲しみの表現と受け止めてみてはいかがでしょう。質問者の方が「フワッとした回答」を返しているのと同じように、お姉さまはお姉さまなりに、むしろたがいの距離を縮めようとしているからこそ、質問者の方を批判する言い方をしているのだと。そして、むしろそれこそが、同じ問題に対する、日本風の対応とヨーロッパ風の対応の違いなのだと。
コロナ禍に戦争と、この数年で世界の情勢は様変わりし、かつてのように国境を超えて多くのひとが自由に行き来し、話をするのはむずかしい状況になってしまいました。コロナ対策にしても戦争への態度にしても、国家間だけではなく、それぞれの国内ですら大きな立場の差異があり、それに巻き込まれ家族内の人間関係もおかしくなっているひとは少なくないと思います。
けれども、そんなことで家族の仲が悪くなるのはバカげたことです。家族とはそもそも思想や価値観の一致を前提につくられた集団ではありません。それは偶然によってつくられたものです。だからこそ尊い。思想の不一致など関係なく、お姉さまとの偶然の関係を大切にしていただければと思います。(東浩紀)
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)、『忘却にあらがう』(朝日新聞出版)ほか多数。
哲学は必要ない。哲学から離れたいと思いつつも、また戻ってきてしまう理由がここにあります。哲学的な着想なしでは、人の意識を変えることはできないと、思うからです。