【 #ゲンロン友の声|025 】揺るぎない正義を信じることに違和感や後ろめたさをもってしまいます

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webゲンロン 2022年9月28日配信
東さん、上田さん、ゲンロンのみなさま、いつも活動を応援・支援させて頂いております。皆様の信念を持った活動にいつも勇気づけられております。これからも影ながら応援していきたい思っております。 

さてお目汚しですが、ご質問というか最近抱えている悩みについて少し聞いて頂きたいです。私は何か一つの社会的・批評的立場に対して信念を持つことができません。例えば、社会的に言えば、ロシア側につくのかとか、ウクライナ側に着くのかとか、安倍政権批判の立場に立つとか擁護の立場に立つ…とか、批評的だと、フェミニズムの立場を徹底して女性の承認を最優先させるとか、マルクス主義の立場を徹底して富の再配分を社会に対して訴えかけていくとか…。これらそれぞれの正義の主張はそれぞれに正しいと心底思いますし、部分的に賛同することはあるですが、どこかしらの地点で、でもその一つの思想に賭けきれないような、何か距離のようなものを感じてしまう厄介な性格です(今風に言えば、ポモ的な冷笑系?)。一言で言うと、何か自分の中での揺るぎない「正義」を信じることに、そしてその視点で持って社会や文化や政治を切り取ることに、すごく違和感や後ろめたさを感じる性格です。 

とはいえ、自分の中で何か感想やら意見やら所感やらを持つことはあるのですが、と同時に、それに対する異なる立場からの反論みたいなのがもう1人の自分からすぐに出てしまって、一つの意見を盲目的に信じることがすごく難しいみたいな感じです。…言ってしまえば、軸のない人間です。 

勿論、それはそれでもしかしたら良いのかもしれないのですが、一方で、そんな自分は何かを本当に信じることができないでいる薄っぺらい人間なんだろうな…とも思っております。そう言うどっちつかずの相対主義的な立場を徹底し、そのことに覚悟と責任をもって生きることが自分の道なのかな…とも思うのですが、しかしそれは、何かを信じられない自分への安易な自己肯定のようにも一方で感じます。一言で言うと、真の意味で、信念を持つとは一体どう言うことなのか、分からないでいます。自分には本当に何かを信じる上で必要な何かしらの人生経験をしてこなかったのかもしれない…と至らなさも感じます。こういう自分の問題を他人に委ねてしまうこと自体がダメなんだとも思うのですが、何かこらから生きていく上でのヒントなどを頂けると嬉しいです。力不足により、質問が抽象的かつ長文になってしまって本当に申し訳ございません。お手数ですが、何卒よろしくお願い致します。(和歌山県・20代・男性・会員)

 ご質問、ありがとうございます。まるで自分が書いた質問のようだと思いました。お気持ち、よくわかります。 

 ぼくもまさに「何か一つの社会的・批評的立場に対して信念を持つことができ」ない人間です。そしてそれを批判され続けています。自民党を応援する気はないけど反アベデモにはいかない、感染対策はするけどマスク警察はアホらしいと思う、戦争はいやだけどロシア叩きには与しないし、放射性ゴミは大問題だけど原発が必要悪だという意見もわかる……なんてことを呟き続けていたら、いつのまにか周囲は敵だらけになってしまいました。世間は「信念をもつひと」が大好きです。まあ、格好いいですしね。 

 けれどもぼくは、やたらと信念を表明するひとはむしろ警戒しています。理由はふたつあります。ひとつは「ほんとにちゃんと考えてる?」と思うからです。 

 自民党が好きとか共産党が好きとかいった政治的な信念の吐露はまだ理解できます。趣味みたいなもんだと思えばよい。けれども、感染症や戦争やエネルギーといった問題はそれぞれ複雑な利害や具体的な生活が絡む問題であり、イデオロギーで簡単に白黒つけられるものではありません。にもかかわらず、SNSなどではじつに多くの人々が結論が自明であるかのごとく意見を表明する。それはぼくには、複雑なイシューを政治的な友敵対立のコマにしているだけのように見えて、とても共鳴できません。 

 そしてもうひとつの理由は、こちらが質問者さんが記したことに近い感覚ですが、「ほんとにそれ信じてる?」と思うからです。 

 人間には相対化の能力があります。どんなひとでも自己ツッコミはする。自分が正しいと確信していても、同時に「いやいや、むこうにも事情があるんじゃね?」という声が聞こえる、それが人間というものであり、法にしても倫理にしてもその能力なしには成立しえません。信念を叫ぶひとにもその声は聞こえているはずです。にもかかわらず、彼らはそれが聞こえないふりをする。政治的な友敵対立を自己ツッコミの声に優先させる。ぼくはそれを不審に思います。 

 このようにいうと反論がくるかもしれません。おまえは、世の中は複雑で善悪つけられない、悪いやつにも事情があるという。しかし、では目の前で家族を殺されても同じことがいえるのか、そのときも相対主義でいられるのかと。この反論への答えは簡単です。そんなのいえないに決まっている。相手は絶対悪だ、厳罰にしろと訴え出すに決まっています。そしてそれでいいのです。 

 なぜか。そのときはぼくは「当事者」だからです。当事者には事態を単純化し、自己ツッコミを抑える権利がある。相対化の声を無視する権利がある。否、それは義務かもしれない。世間にはさまざまな問題があります。それぞれに当事者がいてなにかを訴えています。おそらくは彼らもひそかに逡巡を抱えているでしょう。自分だけが正義ではないと思うこともあるでしょう。でもそんな疑いは抑えて、正義を信じているフリをしなければならない。なぜならばそうでないと問題が繰り返されるからです。次の世代、次の被害者が困るからです。当事者であるとは、自分の現在の経験を訴えるだけではなく、そのような未来への責任を背負い込むことでもあり、だからこそ苦しいのだとぼくは思います。 

 裏返せば、そんな権利あるいは義務は当事者にしか許されない。世の中の問題のほとんどはおそろしく複雑です。調べれば調べるほど身動きが取れなくなる。そのような無知と自分の無力を自覚しながら生きる、それこそが法と倫理の基礎にあるべき感性であり、「答えは自明、おれが絶対に正しい、文句あるやつは論破するよ」とばかりにあらゆる問題に首を突っ込むのは正義の対極にある態度です。当事者性は自己ツッコミに優先させてよい。でも友敵対立のゲームは優先させるべきではない。 

 というわけで、こちらの答えもずいぶんと長くなってしまいましたが、ぼくとしては結局のところ、質問者の方はいまのままでいるしかないし、またそれでよいのだと思います。質問のなかに、「自分には本当に何かを信じる上で必要な何かしらの人生経験をしてこなかったのかもしれない」という文章がありました。もしご自身でそう思うのであれば、その感覚に忠実であるべきです。どうせいつかはだれにでも「何かしらの人生経験」がくる。相対化の声を無視して、当事者としての責任を取らなければならない局面に遭遇する時がくる。それを待てばよい。そのとき自ずから信念は明らかになる。信念とはそういうものだと思います。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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