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【 #ゲンロン友の声|027 】子供が生まれてから本を読む気になれません

こんにちは。いつも楽しく拝聴させていただいています。

私は子どもが産まれてから本を読めなくなってしまったことに悩んでいます。

毎日仕事と育児で余裕がないせいでしょうか、仮に1人の時間があったとしても、ぼーっと過ごしてしまい、本を読めません。昔はもっと簡単に本の世界に入っていけたのに、今は文字を頭に入れることを自分の脳が拒否しているような感覚です。

今の慌ただしい暮らしの中では、通勤中や料理中、寝る前にシラスを聞くのが自分の一番の息抜きであり刺激です。シラスを聞いていることで、母ではない自分を大切にできているように思います。

学生時代は本が好きで、浅く広くいろんなものを読んでいました。

今は本を買ってみたものの、部屋に置いてあるだけでページをめくる気になれない本が何冊かあり、そのことに罪悪感を持ってしまいます。

シラスを耳で聞くだけではなく、シラスやゲンロンで紹介される本ももっと気負いなく楽しく読めるようになりたいです。皆さんは暮らしの中でどうやって読書の時間や空間、自分の気持ちを確保されているのでしょうか。

相談なのか、愚痴なのか分からない、とりとめのない文章になってしまいすみません。

シラスやゲンロンの活動に本当に感謝しています(コロナ禍の孤独な育児中、本当に救われました)。これからも応援しています。(広島県・30代・女性・非会員)

 質問、ありがとうございます。ぼくにも娘がいます。だから子育ての経験があります。

 といっても娘はもう大きく、昔の記憶はいろいろ修正されていて、またぼくは男親で妻よりも負担が小さかったので(と記すとジェンダー的差別への居直りだと批判する方々もいると思いますが、ここで言いたいのは、とりあえずはうちの場合は2人の親がいたものの、片方は生物学的に子供を産んではおらず、他方は子供を産んでいるので身体的負担の差異は厳然として存在し、それは長い子育て全体の負担にも反映していたはずだと考えているという話です)、質問者さんとは状況が異なり、あまり役に立つお答えはできないかもしれません。それでも、大切な質問なのでお答えしてみます。

 それで、以上の留保のうえでざっくりと答えますと、お書きになっている悩みについてはあるていどわかるつもりです。ぼくも似た経験をしたからです。

 ぼくの娘は2005年に生まれました。ぼくが34歳のときです。ぼくの仕事をよく観察するとわかるのですが、それからしばらくのあいだ、ぼくの読書量はがくんと落ちています。人文系の難しい新刊は読めなくなり、最先端の研究には追いつけなくなりました。本だけでなく、全体的に文化的な関心が落ちました。アニメを見たりゲームをしたりはできなくなりましたし、映画にも行けなくなりました。展覧会も行けなくなりました。細かくは言いませんが、この時期の文章を振り返ると、当時時間がなかったことが自分でよくわかります。状況が好転してくるのは、ようやく2010年代も半ばになってのことです。ぼくが最近「悪の愚かさについて」とか「訂正可能性の哲学」とか長い文章を書けるようになっているのは、要は子育てがあるていど終わり、昔のように時間が取れるようになってきたからです。

 つまりは、ぼくの仕事は、客観的に見て、子どもが生まれたために一定期間休止状態に入っている。ちょうどその時期にテレビや新聞の露出が増え、ゲンロンも創業したので一般にはそう見えていないと思いますが、自分ではそう強く感じていました。そして悩んでもいました。焦りを周囲にぶつけ、迷惑をかけたこともあったと思います。

 けれども、いまは別の見かたもしています。ぼくはさきほど、最先端の研究に追いつけなくなった、ゲームもできなくなったし、映画や展覧会も行けなくなった、それが悩みだったと書きました。当時の感覚としてはそうだったのですが、いま振り返ると、本当のところは、追いつけなくなったのではなく追いつ「か」なくなった、できなくなったのではなく「やらなく」なったのだし、行けなくなったのではなく行「か」なくなった──つまりは、そもそも子どもが生まれたことにより関心や興味が変わり、子どもが生まれるまえに大切だと思っていた多くのものが「どうでもいいもの」になってしまった、それこそが悩みの原因だったのではないかと思うわけです。子育ての面倒と疲労、それと表裏一体になった幸福感、そして子育てから見えてくるさまざまな制度的な矛盾とそれへの現実的対策などに忙殺されるなかで、いま思想の最先端がどこにあるのかとか、いま流行のシーンがなんなのかとかいった話が、すべてどうでもよくなってしまった。本を読んでも映画を見ても展覧会に行っても、心が動かなくなってしまった。

 そして、ぼくはいまはそれを喪失の時間だったと思いません。むしろ大事な変化の時間、というか気づきの時間だったと捉えています。なんといっても、新しい人間が無から生まれたのです。そりゃ多くのことがどうでもよくなるだろうし、人間ってそういうもんだよなと。逆に思想や文化の価値は、その前提のうえでこそ考えられるべきでしょう。

 えらく長くなってしまいました。というわけで、「子どもが産まれてから本を読めなくなってしまったことに悩んでいます」という質問へのぼくの回答は、きわめてシンプルに、まったく悩む必要はない、それは質問者さんの人生が進み、変化したことを意味するのであって、むしろ前向きに捉えるべきだというものになります。かつて好きだった本が、いまは好きになれない。かつて大事だった習慣がいまは大事ではなくなってしまった。それが悲しいという気持ちはわかります。かつて好きだったひとを、好きになれないのが悲しいのと同じです。でも人間は変わっていくものなので、しかたない。いまはシラスを聞いて楽しんでくれているとのことなので、それで満足してよいのだと思います(ありがとうございます)。

 それになにより、いくら変わったとはいえ、同じ人間、やはり本当に大事なものは戻ってくるものです。ぼくの場合であれば、さきほども記したとおり、2010年代も半ばになるといろいろな習慣が戻ってきました。本も読めるし、映画も見れるようになりました。とはいえ、それはけっして過去と同じではありません。かつては関心を惹いたジャンルの多くが、子育て期のフィルタリングに耐えられず、消えていきました。ゼロ年代に熱心に話題にしていた多くの事象に、ぼくはもうほとんど関心がありません。繰り返しますが、これは過去の仕事を否定するということではありません。人間とは「そういうもの」だということです。変化を否定することには、それこそ意味がない。

 けれども、そのなかでも変わらないものもある。ぼくであれば、最近になってあらためて、ああ、やっぱりぼくは哲学や文学が好きなのだなと心の深いところで確認する経験が多くあり、だからこそ上記のように長い文章をふたたび書き始めています。そしてきっと、このような深さの感覚は、いちどあの「喪失の時間」──ここではお話していませんが、それはむろん出産や育児だけで得られるものでもありません──を通らないと得られなかったのだろうとも思っています。

 途中いろいろあっても、結局のところいまでもぼくは本を読んでいます。質問者さんも、また本を読むときがくるし、その時期を楽にして自然に待てばよいと思いますよ!(東浩紀)

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)、『忘却にあらがう』(朝日新聞出版)ほか多数。

1コメント

  1. 質問者の方のお話、まるで自分のことを代弁してくれているような感じがしました。質問ありがとうございます。
    そして東さんの回答…ありがとうございます。思わず、涙が流れてきました。

    2021年に子どもが生まれ、明らかに本を読む量とか、その他外出や旅行もかなり減ってしまいました。

    そんななか、仕事と育児以外の時間で、シラスを視聴して知的興奮を楽しめる自分がまだいること(変わらないところがあるなあと気づける時間があること)に喜びを感じています。

    東さんの回答で、変わることへの肯定的なまなざし、最後にまた核となるものに戻れるよという希望を聞いて、明日からまた元気にやっていけそうです。ありがとうございました。(東京都・30代・男性・会員)

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