酒──技術としての酩酊と「道徳的アルコール中毒」 料理と宇宙技芸(7)|伊勢康平

シェア
webゲンロン 2023年8月22日 配信
天と地も酒を愛するのだ
酒を愛したとて、天に恥じることはない
──李白「月下独酌四首 其二」

1 AIと李白


 昨今なにかと「生成AI」が話題である。周知のとおり、その引き金のひとつは ChatGPT の登場だ。単純な条件を設定するだけで即座にテクストを生成するこのアプリケーションは波紋を呼び、創作においても人間に取って代わる可能性が取りざたされた。

 いっぽう中国の詩歌、つまり漢詩についていえば、2016年にはすでによく似た騒ぎが起きていたように思う。同年3月、清華大学が開発した漢詩創作AI「薇薇ウェイウェイ」が中国の現役詩人たちと詩作対決を行ない、漢詩AIではじめてチューリングテストに合格したのである。専門家による審査の結果、「薇薇」は詩人に敗北したものの、生成された詩のじつに31%が人間の作品だと判断されたらしい。これにより、「薇薇」による詩の生成はプロの詩人におおむね匹敵すると結論づけられたのだ★1。このニュースは、漢詩を好み、自分でも書くという(一部の奇特な)人々に大きな衝撃を与えた。

 近年では急速に向上する詩作のクオリティにも注目が集まっているが、機械生成の特徴はやはりその速さにある。じっさい、おなじく清華大学が開発し、現在ネット上で公開されている詩作システムの「九歌」を使ってみると、あらゆる風格や形式の詩がものの数秒で出来上がってしまう★2。かつて漢詩を少々作り、「平仄ひょうそく」や「押韻」といった規則のために何時間も悩んだ経験をもつ私にとっては、この速さもまたおどろくべきものだった。
 たしかに、数秒に一篇という速さは完全に人間業を超えている。しかし、人間の側にもなかなかとんでもないひとがいたらしい。たとえば盛唐の杜甫が書いた有名な句に「李白一斗詩百篇」というものがある(「飲中八仙歌」)。これはかれと同時代の李白を評したもので、その破天荒な酒量と才能を端的に表現した名句だ。ちなみに「一斗」の具体的な量には諸説あるが、ここでは約6リットル弱という見方にしたがっておこう★3。とすると、現代の一升瓶でざっと3、4本程度になる。これをひとり飲み干しながら百篇もの詩を一気に作りだすというのだから、並大抵の芸当ではない。

 しかも李白は、AIとちがって一篇一篇がみな名作ときている。それらをじっさいに見てゆくと、やはり酒が少なからずかれの想像力を支えていたことがよくわかる。その一例が「月下独酌」だ。これは、月と私と私の影の「三人」で酒を飲むという秀逸な設定で知られる連作で、そこにはつぎのように書かれている。

已聞清比聖  かつて清酒を聖人になぞらえたと聞いた
復道濁如賢  また、濁酒を賢人にたとえたともいう
聖賢既已飲  聖人も賢人もあわせ飲む以上
何必求神仙  わざわざ神仙を求める必要はない
三盃通大道  三杯飲めば大いなる道に通じ
一斗合自然  一斗飲めば自然とひとつになるのだ★4


「聖人」や「賢人」とは、魏の曹操が禁酒令を出したときに用いられた隠語である。李白はそれを巧みに利用して、酒の効能を説いたわけだ。前回私たちは、料理人の庖丁ほうていが、十数年にわたって牛の解体技術を磨いたすえに自然の境地へ達したという故事を見た。けれども李白からすれば、ただ一斗の酒さえあれば十分であって、長年の修練などナンセンスなのかもしれない。

 もちろん、酒によってインスピレーションを得たり、なにか特別な状態になったりするという発想は中国にかぎったものではない★5。ただ話を中国に限定すれば、この手の考えにはじつは思想的な原型がある。今回はそれをたどることから始めて、中国的な酔いの哲学を探究してみよう。

 ところで、私はいま酒を飲みながらこの文章を書いている。だから読者のみなさんには、ぜひ一杯の酒とともに本稿を読み進めていただきたい。では、本題に入ることにしよう。乾杯!

2 酔っていればひとは死なない


 一斗の酒で自然とひとつになれると歌い上げたとき、李白の念頭にあったのはもちろん道家思想だろう。じっさい『荘子』達生篇には、酒と自然をめぐる大胆な議論が記されている。

酒に酔ったものが車から落ちると、傷つくことはあっても死ぬことはない。骨や関節はふつうのひとと同じなのに被害の程度が軽くて済むのは、その心が完全な自然の状態にあるからだ。車に乗るときも無意識で、車から落ちるときも無意識である。生死の驚きやおそれも、その胸中に入ることはできない。だからこそ、酒に酔ったものは事故にあってもおそれないのだ。
このように、酒の力で自然の心をまっとうしえたものでさえ、危害を避けることができる。とするならば、天道の自然に従って完全な心の状態を守るものは、なおさらのことであろう。★6


 もちろん当時といまでは車の速度も路面の硬さもまったくちがっていたわけだが、それを加味してもさすがに無理があるように思える。けれども、まずは話をきちんと追ってみよう。

 ここで言われているのは、おそらくつぎのようなことだ。たとえば事故のような危険な目にあったとき、ふつうのひとはとっさに身構えて、身体のあちこちを強張らせるだろう。それはおどろきや恐怖のあらわれだが、道家的には無駄な力が入った不自然な状態といえる。そのため衝撃を受け流すことができず、大きなダメージを受けてしまう。とすれば、酔っぱらってわけもわからぬ状態になり、とっさに身構えるような意識すら生じないようになれば、このようなダメージをうまく回避できるはずだ。

 この話を真に受けるかどうかは読者にまかせるとしよう。ここで重要なのはむしろ別の点である。それは、酒の力を借りることと天の道にしたがうことが、自然になるための異なる方法として区別されていることだ。これはつまり、(たとえば修行などをつうじて)特別な能力や天の秘法を獲得しなくても、酒という人工の液体によって至高の境地に到達できることを意味している。たしかに、酒の力を借りたひと「でさえ」という言い回しからは、酒は手段として最良のものではないという意図もうかがえる。だが別の見方をすれば、たとえ手段の優劣はあっても、結果に優劣がないことは保証されているともいえる。技術としての酩酊によって、ひとは自然になれるのだ。
 技術や人工物をつうじて自然になるという発想は、前回あつかった「庖丁解牛」の故事につうじるものがある(どちらも『荘子』に書かれたものなので当然ではある)。ここでは、前回触れなかった論点をひとつ導入しておこう。それは、『荘子』では技術と自然が忘却を介してつながるというものだ。この関係は、「外物篇」のなかで比喩的に語られている。「うえは魚を捕えるための道具で、魚を捕らえてしまえば筌のことは忘れる。わなはウサギを捕えるための道具で、ウサギを捕らえてしまえば蹄のことは忘れる」★7

 目的を達成したのち、その手段は忘却される。要するに技術をつうじて自然に到達したら、その技術は忘却されてしまうということだ。もし忘却されずに保持されつづけたなら、手段としての技術に依存する心──荘子的にいえば「機心」──が生じ、自然から遠ざかってしまうだろう。

 であれば、自分はもはや牛をいてはいないと語った庖丁は、自然への到達という目的を果たしたのち、牛を割くという技術自体を忘却したのかもしれない。あるいはこれは、酒に酔って自然になったあと、ひとは飲んだ酒を忘れてしまうということでもある。だから「いま何杯目だっけ?」と思いはじめたとき、あなたはすでに自然の境地に一歩足を踏み入れているといえる。

 こんにちでも酒の力を借りてなされることはいろいろあるが、無為自然の境地に達するというのは、なかなか粋で結構なものである。とはいえ、酒によって獲得した力には大きな欠点がある。それは酔いが醒めたら失われることだ。つまり車から落ちたら死んでしまうただのひとに戻る。これは至極当然のことだが、実践としての飲酒がもつ端的な限界を示している点では重要な問題だ。

 これへの対処法としては、おおよそふたつの道が考えられる。ひとつは、酒をつうじて得た自然の感覚を、酔いが醒めたあとに思いだすことだ。うまくいけば、素面のあいだにも少しずつ自然に近づいてゆけるかもしれない。これはいわば、技術としての酩酊の再利用である。ただこの方法には、よりうまく思いだすためにさらに飲酒するという悪循環を引き起こす(つまり「機心」ならぬ「酒心」が生じる)危険性がある。

 それと同時に、あるいはそれ以前に、そもそも私たちは「酒の力」の及ぶ範囲をもっと広く解釈できるだろう。たとえば二日酔いがそうだ。一般的に酒の力を肯定的に語るとき、酔いが深まってゆくプロセスばかりが重視され、翌朝の二日酔いは視野の外に置かれがちである。けれども、二日酔いもまた一種の「酔い」である以上、素面では到達しづらい何らかの境地に私たちを導いてくれると考えられないだろうか? これがふたつめの道である。

3 二日酔いの倫理学


 二日酔いの苦しみは目覚めとともに始まる。意識がはっきりするとともに、頭痛や吐き気、倦怠感が押し寄せる。のどはひどく渇き、もはや一片の高揚感もない。しかも朝日はやけにまぶしい。まさに絶望と不快の起床だ。

 二日酔いの症状は、体質や前日の飲酒量によってさまざまだが、総じてたいへんつらいものである。その原因が前日の過度な飲酒であるのは言うまでもないが、じつは細かいメカニズムはまだ十分に解明されていない。専門家のあいだでは、体内に残留するアセトアルデヒド(アルコールを分解する際に生じ、酔いの原因ともされる物質)の影響や、アルコールの利尿作用やホルモン異常による脱水症状、さらには軽度の禁断症状などさまざまな可能性が検討されており、それらが複合的な要因になっていると考えられているようだ★8

 二日酔いは過酷である。だがそれは、必ずしも身体的な苦痛ばかりではない。そこには精神的なつらさ、つまり強烈な後悔や反省の念がともなうはずだ──なぜあのとき飲むのをやめなかったのか? なぜもう一軒行ってしまったのか? 昨日下手なことを言わなかっただろうか? 周りのひとに迷惑をかけた気がするが、果たして大丈夫なのか? あんな飲み方はもう二度とするまい……。

 こうしたつらさは、私自身が幾度も味わってきたものではあるが、多くのひとが抱える経験でもあるだろう。じっさい、カナダのジャーナリストであるショーネシー・ビショップ゠ストールは、『二日酔い──その正体を探し求めて』という画期的な本のなかで、二日酔い(hangover)を人類共通の症状とみなしつつ、その避けがたい精神的なつらさを語っている。

もはや二日酔いは、ただ苦痛をもたらすだけのものではなくなるだろう。それは後悔や良心の呵責、そして永遠なる断罪へのおそれによって燃えあがる。二日酔いの苦しみは、いわば手っ取り早い懺悔であり、天罰の例証なのだ──そしてより深遠な意味では、あの世であなたを待ち受けている地獄の一端にほかならない。★9


 ビショップ゠ストールは軽妙な文体の持ち主であり、この(いささか冗談じみた)宗教的色彩も割り引いて考える必要がある。だとしても、二日酔いがつよい後悔や反省の念をうながすというのは、やはり多くのひとが同意する点ではないかと思う。そこで私たちは、あえてかれのノリに応じつつ、こう言い添えてみよう──「だが危機のあるところ、救いとなるものもまた育つ」と。
 順を追って説明しよう。そもそも反省とは、人間が誠実であるためのもっとも重要な条件である。つまり、自分の言動を省みることによってのみ、ひとは未来に誠実でいられる(必ずしもそれで十分というわけではないが)。これは私の直観だが、よくよく考えれば儒家の教義につうじるところもある。たとえば、『論語』学而篇にはつぎのように書かれている。

曾子そうしが言った。「わたしは、毎日三度はわが身について反省します。ひとのことを考えるとき、ほんとうにまごころを込めていただろうか。友人と交流しているときに誠実だっただろうか。そして、よくおさらいもしなかったことを受け売りでひとに教えたのではないかと」。★10


 曾子は、孔子の弟子で『孝経』の著者とされるほか、のちに「四聖」のひとりとして孟子や顔回★11に並ぶ聖賢とみなされた重要人物だ。その曾子が一日に三度は反省するという。その習慣は、かれの高い道徳性や儒家としての能力をあらわしている。

 と同時に、この発言は二日酔いの秘めたる可能性をも示している。というのも二日酔いになったら、日に三度はおろか、ざっと半日は反省ずくめだからだ。症状によっては、一日横になって反省するひともいるかもしれない。これは完全に曾子の習慣を超えている★12

 つまり二日酔いとは、一時的に反省の力が大幅に強化された状態である。そして反省は道徳的にきわめて重要だ。そうであるならば、私はこれを前夜の酔いが醒めたあとに発揮されるもうひとつの酒の力とみなし、道徳的アルコール中毒と呼びたいと思う★13

 私たちは、酩酊がもたらす恍惚のさなかに「自然」という境地へ足を踏み入れる。しかし朝になって正気に戻ると、そのような境地はもうどこにもないことに気づく。そして二日酔いの苦痛のなかで深くおのれを反省し、多少の誠実さを得る(あるいは前夜に失った人間性を回復する)。いわば一時的に「君子」に近づくのだ。

 だがこれも万能ではない。さきほど自然にかんして述べたとおり、酒によって得た力はアルコールの分解とともに消えてなくなるからだ。そのため、たいていのひとは二日酔いの回復とともに反省をやめてしまい、また徳の低い存在に戻ってしまう。だからこそあやまちは繰り返されるのだろう。かく言う私もそのひとりである。

 けれども、酒の力で得た誠実さの手がかりを離さないでいることで、私たちは素面のあいだにも少しずつ徳を高めてゆけるだろう。つまり技術としての酩酊とおなじように、道徳的アルコール中毒としての二日酔いもまた再利用できる。そのためにも、やはり迎え酒だけは慎まなければならない。なぜならそれは、酒が与えてくれた道徳的な状態を一気に手放す悪手なのだから。

 



 私は人工知能と漢詩の話からこの原稿を始めた。日進月歩の漢詩AIは、おどろくべき早さで「詩人」としての腕を上げ、飲酒のよろこびを巧みに表現できるようになりつつある。たしかに、人間が取って代わられるという危機感にも一理はある。私自身、人工知能一般の問題を過小評価するつもりはまったくない。だがそれでも、飲酒の体験とそれがもたらす想像力の問いに話を限定するなら、私たちはかなり楽観的な態度で人工知能と向き合うことができるだろう。そもそも人工知能には飲酒など不可能だからだ。

 これはつまり、少なくとも現状では、酩酊をつうじた自然への到達も二日酔いのなかで徳が高まる瞬間も、人工知能にとっては考えることすらできない謎でありつづけるということだ。あるいはひょっとすると、将来的に「酔い」が機械的に実装される可能性もある。それはたとえば、計測されたアルコールの摂取量に応じて出力にノイズを加えたり、出力系自体を切り替えたりするような機能の開発によって実現するかもしれない。なかなか面白い話ではあるが、やはりそれは私たちの酔いとは根本的に異なるものになるだろう。

 けれども、いやだからこそ、これからも楽観的であり続けるために、私たちは飲酒のおもむきを存分に味わい、(ときに徳を高めながら)その想像力をどこまでも拡張してゆかなければならない。まさに李白が語るように、

但得酒中趣  酒中のおもむきを得ることだけが大切である
勿為醒者傳  飲まずに醒めている者にそれを言って聞かさぬことだ★14

4 中国酒を愉しむ


 ふだんならここから料理のレシピに移るわけだが、今回は本文で何の料理にも触れなかったので、少し趣向を変えてみよう(次回からはいつもどおり料理のレシピ紹介に戻る)。具体的には、おすすめの中国酒3選と、中国酒を使ったオリジナルカクテルのレシピ3つを紹介する。ぜひ李白にしたがって「酒中のおもむき」を愉しんでいただきたい。

◯中国酒3選

1 五糧液

 


 四川省で生産されている高級な白酒バイジゥで、有名なので知っているひともいるだろう。ここ数年ほど歌舞伎町の都道302号線(靖国通り)沿いに大きな看板が設置されていたので、名前を知らなくとも見たことのあるひとはいるはずだ★15

 そもそも白酒とは、トウモロコシや高粱コーリャンなどの穀物を主な原料に使う無色透明の蒸留酒で、かなりクセのつよい香りをもつ。これは銘柄によってさまざまで、ペンキのような異臭がするものから、未知なる果実のような──これまで嗅いだこともないのだが、なぜか果実的としかいえない──豊かな香りを誇るものまで千差万別(というよりピンキリ)である。

 五糧液は「貴州茅台酒」と並ぶ高級酒だが、茅台酒が国賓をもてなすのに使用され、値段も年々釣り上がっているのに対し、まだ比較的庶民的で入手もしやすい。そして私自身は味も五糧液のほうがよいと思う。マスカットと熟れたイチジクのような芳香をもち、揮発したアルコールが鼻から抜けたあとにかすかな苦味が生じる。蒸留酒のよさ、とくに白酒のよさがぐっと凝縮された銘柄だ。
2 孔府家酒

 


 五糧液と比べるとこちらはかなり安く、池袋や新大久保などにある中国系の物産店に行けば簡単に購入できる。しかも値段のわりに風味がよい。ストレートで飲むとパイナップルキャンディーのような甘みがあり、加水で白桃のようなニュアンスも出る。白酒にはアルコール度数が50%を超えるものがざらにあるが、孔府家酒は38%とやや低いのも特徴的だ。そのまま飲んでもよいし、カクテルのベースとしても優れている。トワイスアップにすれば日本酒とおなじくらいの飲みやすさになる。はじめて白酒を飲むひとはもちろん、白酒に苦手意識があるひとにもぜひ試してほしい。

3 客家純宮

 


 黄酒ないし紹興酒と呼ばれる醸造酒の一種である。黒蜜のような甘味と濃厚さがあるがしつこくはなく、渋さやえぐみもない。そして燗でも非常によい。私は基本的に紹興酒とは料理に使うものだと考えているが、この酒のおいしさにはかなりおどろいた。日本で一般に流通している紹興酒とはまったく別物といえる。

 ただし、これは広東省の山奥にある家族経営の醸造所でごく小規模に生産されている非常にマイナーな銘柄であり、日本の店や通販で買うことはきわめて困難だ。銀座にある中華料理店「黒猫夜」で提供されており、これが私の知る数少ない入手方法のひとつである。
○中国酒カクテル3品

1 杏露白酒

 


 


・白酒 30ml
・杏露酒 30ml
・ドライベルモット 10ml
・レモンの皮 少量 

1)ピーラーでレモンの皮を数センチほど剥いておく
2)すべての飲料をステアし、グラスに注ぐ
3)レモンの皮を軽く絞って香りづけをする

杏露酒しんるちゅう」という杏のリキュールを用いたシンプルなショートカクテル。果実的な風味のつよい「孔府家酒」と組み合わせつつ、少量のドライベルモットをくわえてすっきりした飲み心地に仕上げた。かなり飲みやすいので、白酒が苦手なひとにもおすすめだ。ちなみに杏露酒は、キリングループの「永昌源」という会社が1969年に独自開発した「日本のオリジナル中国酒」だという★16
2 海南島

 


 


・ココナッツジュース 60ml
・白酒 30ml
・ホワイトラム 30ml
・リンゴジュース 30ml
・ディサローノ ヴェルヴェット 15ml
・ブルーキュラソー 5-10ml
・ドラゴンフルーツ ひと切れ

1)ブルーキュラソー以外の飲料を氷の入ったシェイカーに注ぐ
2)10秒あまりシェイクしてグラスに注ぐ
3)ブルーキュラソーを注ぎ、彩りをくわえる
4)ドラゴンフルーツの端を薄く輪切りにし、グラスを飾る

 


 個人的な印象だが、中国を代表する飲みものにこの怪しげなココナッツジュースがある。これは中国の海南島で製造されているもので、隅々まで悪趣味なこのパッケージは、おどろくことに中身の安全性や品質の高さをつよく訴えている(数年前までは白い服を着た謎の女性が大きく掲載されており、ますます怪しいものだった)。じっさいジュース自体はたしかにおいしいので、これを使ったカクテルを考えてみよう。

 ココナッツを使った夏らしいカクテルといえば、まず「スイミングプール」が思い浮かぶ。これはドイツの偉大なバーテンダーである「チャールズ・シューマン」ことカール・ゲオルグ・シューマンが創作したものだ★17。そこで、海南島をイメージしつつ「スイミングプール」をアレンジしたのが上記のカクテルである。

「ディサローノ ヴェルヴェット」は、「ゴッドファーザー」というカクテルにも使用されるアマレットリキュール「ディサローノ」から派生したクリーム系のリキュール。本家のスイミングプールでは生クリームが使われるのだが、より複雑な味わいを求めてこのリキュールに変えてみた。なので、代わりに生クリームを使っても構わない。また、ドラゴンフルーツには中身の白いものと赤いものがある。白いほうが装飾には使いやすいが、味わいがかなり淡白なので、余りはサラダにでもするのがおすすめだ。
3 鏡裏の香

 


 


・スコッチウイスキー 30ml
・紹興酒 15ml
・ドランブイ 15ml
・ジャスミンティー 15ml
・花の香りのビターズ 5滴ほど
・ブルーベリーのシロップ漬け

1)ジャスミンティーを淹れ、冷ましておく
2)オールドファッションドグラスに氷を入れ、すべての飲料を注ぐ
3)グラス内で軽くステアする
4)ビターズを垂らし、ブルーベリーで飾る

 今回のレシピ作りのためにいろいろと試行錯誤した結果、紹興酒はスイートベルモットの代わりになるのではないかという感触を得た。もちろん完全な互換性はないが、全体の甘さを抑えつつ、なかなか面白い味わいになる場合がある(そもそもカクテルは甘いものが多すぎる)。そこで、スコッチウイスキーとスイートベルモットで作る「ロブ・ロイ」をベースに開発したのがこのカクテルだ。また、紹興酒はハーブ系のリキュールと相性がよいというのも、今回の重要な発見だった。

 香りづけに使用するビターズにとくに指定はないので、好きなものを選んでよい。私が使ったのは、ドイツのアヴァディス蒸留所で生産されているワインローズとラベンダーのビターズだが、桜やゆずといったジャパニーズ・ビターズを使うのも面白いだろう。

 ちなみにカクテルの名前は、李白の詩「儲邕ちょように別れて剡中せんちゅうく」の「竹色渓下緑、荷花鏡裏香」という句から取っている。これは、渓流のふもとには竹が豊かな緑をたたえ、鏡のような水面の裏では荷の花がかんばしいといった意味で、紹興の地の東を流れる名水・剡渓せんけいの美しさを歌ったものだ。李白の表現とは少し意味が変わるが、鏡のようなグラスのなかの芳香を愉しんでいただきたい。


撮影=編集部
撮影場所=Cafe & Gallery Roomer(客家純宮を除く)

 


★1 “清华大学实验室作诗机器人“薇薇”通过图灵测试”,《观察者》2016年3月21日。URL= https://www.guancha.cn/TMT/2016_03_21_354505_1.shtml
★2 清华大学自然语言处理与社会人文计算实验室,“九歌──人工智能诗歌写作系统”,URL= http://jiuge.thunlp.org/jueju.html 中国で漢詩創作のAI開発が大きな成果を挙げている背景には、もちろん技術力の向上もあるだろうが、同時に漢詩という文学ジャンル自体との親和性もあると考えられる。というのも、漢詩を作るにあたっては、まず既存の作品をなるべく多く記憶し、そして各主題と表現の慣習的なつながりを踏まえながら、トライアンドエラーをつうじて適切に(あるいはパズル的に)語句を配置することが求められるからだ。歴史的な名作を書くためには、ときにそうした慣習の厚みから抜けだす必要もあるが、基本的には、きちんと慣習に則りパターン化された表現を繰り返すことによって、それなりによい詩を作れるようになる。また、厳格な音声の規則も、可能な表現の選択肢を絞るはたらきをもつだろう(古詩のような例外もあるが)。もっとも、この点は今回の主題ではないので、これ以上の深入りはやめておこう。
★3 松浦友久編『校注 唐詩解釈辞典』、大修館書店、1987年、279頁。
★4 李白「月下独酌 其二」、青木正児『李白』〈漢詩大系 第8巻〉、集英社、1965年、83頁。
★5 たとえばバーナビー・コンラッド3世『アブサンの文化史』(浜本隆三訳、白水社、2016年)には、19世紀のパリで社会現象になった蒸留酒「アブサン」によって、ある種の超越的な感覚を携えながら恍惚と破滅の深淵に身を沈めていった詩人や芸術家の数々が描かれている。
★6 『荘子 外篇』、福永光司、興膳宏訳、ちくま学芸文庫、2013年、393頁。訳は変更している。なお、この箇所は関尹子かんいんしの発言として書かれている。伝説によれば、関尹子は西方へ旅立つ老子に『道徳経』の執筆を勧めたとされる。
★7 『荘子 雑篇』、福永光司、興膳宏訳、ちくま学芸文庫、2013年、228頁。引用した箇所はさらに「言葉は意味を理解するための手段で、意味が分かってしまえば言葉は忘れる」とつづいている。この文は、3世紀に中国で起きた言語思想上の大きな論争である「言意之辯」につながるのだが、そこを掘り下げるのは本稿の目的ではないのであえて省略しておく。
★8 樋口進「二日酔いのメカニズム」、「eヘルスネット」、URL= https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/alcohol/a-03-005.html ちなみに、アルコールの利尿作用にかんする先駆的な研究に森鷗外のものがある。鷗外は、ドイツ留学時代の1887年に "Ueber die diuretische Wirkung des Biers"(ビールの利尿作用について)という論文を発表している。それによると、ビールを飲むとトイレが近くなる原因として、当時は単なる水分量の増加や、炭酸ないしアルコールの作用などが提唱されており、統一見解がなかったという。これを受けて鷗外は、水や(炭酸の抜けた)ビール、ワインなどを比較しながら、アルコールこそが要因だと突き止めたのである。かれの「独逸日記」によると、この論文を発表した鷗外は学会で拍手喝采を浴びたらしい。森林太郎『鷗外全集 第二十八巻』、岩波書店、1974年、505−553頁。また「独逸日記」の該当箇所は『鷗外全集 第三十五巻』、1975年、154頁を参照。
★9 Shaughnessy Bishop-Stall, Hungover: The Morning After and One Man's Quest for the Cure (New York: Penguin Books, 2018), p. 128. (ショーネシー・ビショップ・ストール『二日酔い──その正体を探し求めて』、下隆全訳、国書刊行会、2021年、178頁。訳は英文より。)
★10 『論語』、金谷治訳注、岩波文庫、1999年改訳版、22頁。訳は一部変更している。
★11 顔回は孔子の一番弟子で、「一を聞いて十を知る」と評された人物。学識にも道徳にも非常に優れたとされるが、わずか32歳でこの世を去った。
★12 なお「三」を「たびたび」と解釈して、曾子は何度も反省していると言うこともできる。この場合、完全に超えているとは断言できないが、少なくとも同等の反省力は発揮しているといえる。
★13 じつを言うと、「道徳的アルコール中毒」という言葉自体は私の創作ではない。これはフランスの哲学者ミシェル・オンフレの著作 Le ventre des philosophes (『哲学者のおなか』、未邦訳)の第四章「カント、あるいは道徳的アルコール中毒」に由来する。この章では主にカントの人間学や社交論があつかわれているが、本文中には「道徳的アルコール中毒」という語が一切登場せず、それゆえ用語として定義されていない。そのため私は、かれの素敵な命名のセンスに敬意を表しつつ、この言葉に私自身の思想を込めることにした。なお私が参照したのは、以下の中国語訳である。米歇尔・翁弗雷著,林泉喜译,《哲学家的肚子》(上海:华东师范大学出版社,2017年),第55-73页。
★14 李白「月下独酌 其二」、青木正児『李白』、83頁。
★15 五糧液の輸入販売を行なっている「日和商事」によると、歌舞伎町の看板は2018年8月から2023年2月まで掲示されたそうだ。URL= https://www.nichi-wa.co.jp/%E8%A4%87%E8%A3%BD-%E3%83%93%E3%83%AB%E7%9C%8B%E6%9D%BF-1
★16 以下を参照。URL= https://museum.kirinholdings.com/brand/05.html
★17 シューマン氏はゲンロンカフェに登壇したことがある。以下を参照。菅原敏×速水健朗、特別ゲスト=チャールズ・シューマン「バーカルチャーから語る都市と文学」URL= https://genron-cafe.jp/event/20180307/ ちなみに、私はこの日スタッフとして現場におり、シューマン氏のたたずまいを目撃している。

伊勢康平

1995年生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専門は中国近現代の思想など。著作に「ユク・ホイと地域性の問題——ホー・ツーニェンの『虎』から考える」(『ゲンロン13』)ほか、翻訳にユク・ホイ『中国における技術への問い』(ゲンロン)、王暁明「ふたつの『改革』とその文化的含意」(『現代中国』2019年号所収)ほか。

1 コメント

  • nanka4go2023/08/23 05:57

    道徳的アルコール中毒!酷い二日酔いになると、もう金輪際お酒は飲まないと誓ったものですが、その時の私は道徳的で君子に近づいていたということなんですね(笑)

コメントを残すにはログインしてください。