ポスト・シネマ・クリティーク(9) 亡命作家が描きだす「犬のまなざし」──イエジー・スコリモフスキ監督『イレブン・ミニッツ』|渡邉大輔

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初出:2016年9月9日刊行『ゲンロンβ6』

モザイク状の映像/エピソード



 黒い画面にオープニングロールが現れる映画の冒頭から、トッ、トッ、と、時計の秒針と思しき小さな機械音が間歇的に鳴っている。──

 そして、物語がはじまるのだが、そこから5分ほど、映画はまるでその後の展開を象徴的に暗示するかのように、現代のさまざまな映像端末のキャメラアイを模した画面をモザイク状に構成して見せる。まず最初は、女性の瞳がクロースアップで映しだされ、彼女(パウリナ・ハプコ)がもつスマートフォンのムービー画面が、左目の周りを赤く腫らした彼女の恋人か夫と思われる男(ヴォイチェフ・メツファルドフスキ)との浮気がらみの口論を映す。続いて、デスクトップパソコンのスカイプ画面。スクリーン右下のワイプ画面に映る弁護士に向かって指輪を示しながらわめき立てる男の姿。そしてつぎに、モノクロで肌理が粗く、倍速で流される2面の監視キャメラ映像。もう学校には近づかないようにと警官にいわれながら供述書にサインをする中年男(アンジェイ・ヒラ)。今度は手ブレのディジタルキャメラ映像。廃屋のなかで事情聴取を受けるパンクヘアの若い女性(イフィ・ウデ)。そして最後に、アパートの一室でウェブカムに母親へのメッセージを記録する少年(ウカシュ・シコラ)……。

 画角も画質も異なる複数のファウンドフッテージふうの映像が重ねられたのち、この映画──イエジー・スコリモフスキが5年ぶりに脚本・監督・製作を手掛けた新作『イレブン・ミニッツ 11 Minutes』(2015年)は、ようやくタイトルを示して幕を開ける。

『イレブン・ミニッツ』は、ワルシャワのグジボフスキ広場周辺の市街地を舞台に、冒頭に登場した人物たちを含む、いずれもいわくありげな11人(と1匹)の老若男女たちが織りなす、いかにもこの映画作家らしいシニカルな群像劇である。

 最初のスマホ映像に登場した映画女優アニャと彼女の浮気を非難する夫。何らかの問題を起こして保護観察つきで釈放されたのち、街頭でホットドッグ販売を営む中年男。かれの息子で、バイク便をしながら得意先の人妻と情事にふけるジャンキー(ダヴィド・オグロドニク)。出演を乞うアニャを自室に迎えてセクハラまがいの会話を交わす色男の映画監督(リチャード・ドーマー)。質屋強盗を企む少年。そして、巨大な鉄橋が架かる河畔で水彩の風景画を描いている老画家(ヤン・ノヴィツキ)……などなど。それぞれたがいに他人同士、街のあちこちで別々の人生を生きるかれらは、作中では経歴や背景説明はおろか、ついに本名すら明かされない者も多く混じっている。

 そんなあたかもマネキンのような簡素さで造型された匿名的なひとびとが、時間を追うごとに偶然の連続であれよあれよと、ゆるやかかつ不条理に結びついてゆく様子を、映画はきわめて断片的で抽象的なカッティングによって観客に見せてゆく。さらに本作の物語はその題名にもあるとおり、午後5時00分から午後5時11分までの、わずか11分間に起こった複数の出来事を描いている。その11分のあいだにバラバラの場所で起こったドラマが最後に、ある「破滅的なカタストロフ」に向かう過程を、エピソードを断片化し、巻き戻しながらモザイク状に構成したリアルタイム・サスペンスなのだ。

ディジタル環境と「パズル映画的」な構造



 ともあれ、以上のような『イレブン・ミニッツ』の世界観が、この連載で主題としてきた「ポストシネマ的」な状況とさしあたりマッチすることはいうまでもないだろう。

 モバイルな映像端末と動画サイトの普及により、現代映画でも「映像の社会的氾濫」の諸相を映像演出やコンセプトに巧みに組みこむ作品はもはや珍しくなくなった。鈴木卓爾の『ジョギング渡り鳥』(2015年)★1、真利子哲也の『ディストラクション・ベイビーズ』(2016年)★2、そして前回の庵野秀明『シン・ゴジラ』(2016年)★3と、ここまでの連載でも、スマホ動画、GoPro映像、監視キャメラなど、「ポストシネマ的」な映像を物語にちりばめた現代作品をたびたび取りあげたり、言及したりしてきた。冒頭の一連の映像をはじめ、その後の作中や、何より最後の場面で監視キャメラ映像を繰りかえし登場させる『イレブン・ミニッツ』を構成するイメージもまた、これらの作品群と似たようなコンセプトやリアリティを共有していることはまぎれもない。

 なるほど、かつての古典的映画のように1本の中心的なドラマがはっきりとした起承転結をもって綴られるのではなく、むしろ複数のエピソードが全編にわたって極端に断片化/分散化して配置され、それらの映像の部分的な細部同士が「横」に関連づけられてゆく『イレブン・ミニッツ』の物語構造は、いわばきわめて構造主義的であり、また「ゲーム的」ともいえる。

 たとえば本作に、近年、北米の現代映画研究の分野で使われつつある「パズル映画 Puzzle Films」という名称を当てはめてみることも可能だろう★4

 パズル映画とは、2000年代以降、おもにハリウッドを中心に台頭してきたある傾向の作品を指す言葉である。たとえばそれらはおおむね時空間表象の過度の断片化、それらセグメントのループ化、複数の「並行世界」の曖昧な共存/交錯、あるいは登場キャラクターたちのアイデンティティの分裂……などを共通の特徴としているという。したがって、そこで描かれる物語は必然的に断片的・可逆的・循環的になり、まさに「パズル」の絵解きのようにパラディグマティックな鑑賞体験や批評的読解を求められることになるわけだ★5。こうしたパズル映画の代表的な事例としては、古くは90年代のクエンティン・タランティーノあたりにはじまり、ごく最近ではやはりクリストファー・ノーランやJ・J・エイブラムスらの諸作品がわかりやすい。

 何にせよ、こうした映画が台頭してきた背景には、やはり映画製作・受容の両面におけるディジタル技術の普及が重要な一因としてあるだろう。制作側でのノンリニア映像編集の一般化は、物語作りにおいて画面やショット連鎖の隅々にいたる過剰に計算し尽くされた「伏線」の挿入や入れ替えを可能にし、リニアな時間経過のプロセスを容易にシャッフルできるようになった。また、受容側のDVDやネット配信での映像視聴の一般化は、これもいうまでもなくそうやって作られたパズル的な物語を、自宅や端末上で何度も細かく再見することを可能にした。ノーランやエイブラムスのようなパズル映画の台頭は、まさに作り手側も受け手側も、幾度も、あるいは細かく操作しながら視聴してはじめて全体の意図や構造が明らかになるような、「非線形的」な物語性が自明の条件になったディジタル環境を前提にしているのだ。
 そして、やはりディジタルで撮られ、スマホ動画や監視キャメラ映像が作中に氾濫する『イレブン・ミニッツ』もまた、そうしたパズル映画の特徴を共有していることは不自然ではない。ほかにもたとえば本作では、女優のアニャと、ホテルの一室に恋人といる女性(アガタ・ブゼク)が、異なる場面でともに男に映像を見せたり、逆子で出産間近の女性が腹を押さえてうめく姿が映されたすぐつぎのショットでは、ホテルのベランダで具合が悪そうに、やはり腹部に手を当ててうずくまるアニャの姿が示されたり、何よりも映画の最初と最後が、いずれもアニャの瞳のクロースアップのショットであることなど、画面のいたるところにパラディグマティックで循環的な構造が巧妙に配されている。監督自身がそのシンメトリーを物語構造に活かしたという、タイトルにある「11」という数字のような、こうした阿部和重ばりの厳格かつ奔放な形式主義が、まず『イレブン・ミニッツ』の「ポストシネマ性」を充分に裏打ちしているといえるだろう。

越境と流浪の系譜



 さて、以上のようにまとめてみた『イレブン・ミニッツ』の構造がそれ自体それなりに興味深いものであるのはもちろんだが、さらにこれがディジタル世代の若手監督の作品ではなく、すでに半世紀以上のキャリアをもつ、今年78歳を迎えた老巨匠の新作だと知れば、またわたしたちの驚きの質も変わってくるはずだ。

 あらためて簡単に紹介すれば、監督のスコリモフスキは、1960年代初頭にデビューして以来、これまでにヴェネチア、カンヌ、ベルリンの三大映画祭すべてでその監督作が受賞を果たしてきた戦後ポーランド映画を代表する巨匠である。ちょうど今年のヴェネチア国際映画祭でも生涯の功労を称える生涯功労金獅子賞に輝いたばかりだ。作品はミニシアターで単館公開される「アート系映画」に近いが、他方で、ティム・バートンの『マーズ・アタック! Mars Attacks!』(1996年)の科学者(ツィーグラー教授)役や、マーベル映画『アベンジャーズ Marvel's The Avengers』(2012年)でナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)を尋問するロシア人スパイ役の役者といえば、ハリウッド映画好きにも親しみが湧くだろう。

 ところで、ここまでに述べてきた『イレブン・ミニッツ』の先端的なメディア表象をめぐる解釈は、スコリモフスキのこれまでの半生や仕事の内容と併せて考えると、またあらためて考えさせられるものがある。それというのも、他方で、この作家の創作活動と作品世界がまた、「東側作家」に典型的なように、つねにさまざまな「越境と流浪」の宿命とともにあったからだ。

 ポーランドで生まれたスコリモフスキは当初、アンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキーの作品の脚本家として頭角を現したのち、『身分証明書 Rysopis』(1964年)で本格的に監督デビュー。同作にはじまる、自作自演によるいわゆる「アンジェイ三部作」で、「ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグ世代」の旗手として若くして脚光を浴びた。ところが、三部作の最後を飾る『手を挙げろ! Ręce Do Góry』(1967年)のなかでスターリンの肖像画を風刺的に扱った描写がポーランド当局に睨まれ、上映禁止処分に。さらに、スコリモフスキ自身もそのまま祖国からの亡命を余儀なくされてしまう。
 その後も精力的に映画製作を続け、作品は著名な国際映画祭での受賞を順調に重ねていくものの、スコリモフスキはロンドンに暮らしながら、ベルギー(『出発 Le Départ』、1967年)、イギリス(『ジェラールの冒険 The Adventures of Gerard』『早春 Deep End』、ともに1970年など)、そして北米(『ライトシップ The Lightship』、1985年)と、長らく欧米各国を文字どおり転々とし続ける。ハリウッドでの俳優生活と監督業の長いブランクを経て、ひさびさの監督復帰作『アンナと過ごした4日間 Cztery noce z Anną』(2008年)を約40年ぶりに祖国で撮影するまで、こうしてかれはキャリアのほとんどを異国の地で過ごしてきた。

 またひるがえって、そんなかれが手掛けてきた作品群もまた、すでに北小路隆志も指摘しているように★6、陰に陽に自らの境遇を反映させたと思えるものが少なくない。『手を挙げろ!』の上映禁止処分が解除された翌年、祖国では戒厳令が敷かれたさなかに発表され、ポーランド人不法労働者の異国での秘密の労働を描いた『ムーンライティング Moonlighting』(1982年)はもっとも直接的な主題を扱った一作だ。また、復帰作となった『アンナと過ごした4日間』で中年男の常軌を逸したストーカー的な愛を描いたのも、個人のごく私的な情欲すら無情に抑圧してきた冷戦時代の祖国の体制に対する、かれなりの半世紀越しの応答のように見えなくもない。あるいは監督デビュー作『身分証明書』に顕著なように、そもそも亡命以前のスコリモフスキの作家的志向からしても──そこには、レジスタンス活動に関与していた父親をナチスの強制収容所で失ったという過去も関係しているのかもしれないが──、身分不確かな人物たちのあてどない彷徨というモティーフがすでに表れていたともいえる。そして、そうした数々の主題の集大成といえるのが、いうまでもなく米軍の拘束から抜けだして荒涼とした大自然のなかをえんえん逃亡するアラブ系テロリスト(ヴィンセント・ギャロ)の姿をいっさいの台詞を排して描いた前作『エッセンシャル・キリング Essential Killing』(2010年)だった。

 ともかく、冷戦時代から「ポスト9・11」にいたるグローバリズムが浸透した現在まで、スコリモフスキはノマド的な自身の半生を模した「越境」や「流浪」の映画を連綿と作ってきた作家であった。その事実を踏まえたとき、今回の新作で執拗かつ過激に反復される「間メディウム的」なモティーフや映像表現の数々が、そうしたかれの政治的な「越境」とほとんどそのまま隠喩的に重なっているようにも見える。生活空間に遍在し、流動するミニマムなスマホ動画やスカイプ画面の映像は、移民や海外資本と日常的に隣りあう、よるべない現代人や監督自身の似姿でもあるだろう。

犬=オブジェクトのまなざし



 さて、ここでふたたび『イレブン・ミニッツ』に話を戻そう。たとえば、スコリモフスキ自身は、ここで述べてきた映画冒頭の奇抜な映像演出について、以下のように解説している。


この映画のプロローグを、登場人物たちにとってのサイバー墓地みたいなものにしようと思いついた。オープニング・シークエンスを、カメラ付き携帯電話、Webカメラ、監視カメラといったありふれた道具を使って撮ったのだ。そうしたカメラで撮った素材に備わる、親密で直接的な感覚や真実味を伝えたかったのである。われわれより長生きするシンプルで無害なモノの数々──飛行機の墜落事故で持ち主が死んでしまっても生き残っている財布のような──が、そもそもの構想に含まれていた。ソーシャルメディアが大流行している現代においては、われわれの"死後の生"はサイバースペース、あるいは(逆説的なことに)"クラウド"に独立して存在する写真やヴィデオ素材のかたちで実現されている。★7


 ここで簡潔に示されている監督の洞察は、この連載でも描きだしてきた、「ポストシネマ的」なもろもろのメディア文化状況を見渡したときに、図らずもその本質をいくつも共有するものだといってよい。とりわけ目を引くのは、スコリモフスキが「カメラ付き携帯電話、Webカメラ、監視カメラ」などのディジタルデバイスを用いて構成したオープニング・シークエンスに、「登場人物たちにとってのサイバー墓地みたいなもの」になるような、「われわれより長生きするシンプルで無害なモノ」の手触りを表現したかったのだ、と述べている点だろう。

 まず、明らかなようにこの発言は、第一に、かつて『10 クローバーフィールド・レーン 10 Cloverfield Lane』(2016年)を取りあげたさいに検討したような★8現代映画における「絶滅」の主題系につうじていることがわかる。また第二に、これは「映像の存在論的転回」とも密接にかかわりながら近年急速に活況を呈している「新しい唯物論 New Materialism」(NM)や「オブジェクト指向の存在論 Object-Oriented Ontology」(OOO)という一群の哲学的言説とも踵を接しているだろう。いまやこれらの言説では、人間以外の多種多様なモノたちの個体性・自律性・能動性や、それらモノたちとヒトとの複雑微妙な相互干渉の局面に寛容に光を当てようと試みている。このような「人間と同様にプラスチックや砂丘も論じようとしている存在論」(グレアム・ハーマン)は、他方で、Siriやbotといった「ポストヒューマン的」な──「飛行機の墜落事故で持ち主が死んでしまっても生き残っている財布のような」(!)──AI技術の台頭、そしてドローンやGoProでの撮影など、主体から乖離した無数の客体=オブジェクトたちの能動化・自律化という今日の映像文化の進展ともまるごとリンクしているというわけだ。

 さて、以上の文脈も踏まえたとき、『イレブン・ミニッツ』の具体的な細部でとりわけ注目に値するのが、おそらくだれもに深い印象を与えるだろう、本作における「犬の目線(POV)ショット」の挿入である。作中、芝生が生い茂る広い公園を若い男性が歩いてゆく。キャメラはそのかれの膝下あたりの超ローアングルから空を見あげるような仰角のアングルで横に寄り添って動いている。観客は男性が手にもつリード、そしてフレーム外から絶えず聞こえる早い呼吸音からなんとなく気づきはじめているが、その後、男性が向かう先のベンチに座るパンクヘアの女性の側から切りかえされたところで、あらためてそのキャメラアイ(POVショット)の主がかれらに「ブフォン」と呼ばれるシェパードだったことを確認する。その後、元彼と思しい男性から犬を受け取った女性は、そのまま犬を連れてワルシャワ市街を散歩するが、『イレブン・ミニッツ』ではこのブフォンから見たPOVショットが、都合3回、登場するのだ。

 ちなみに、このブフォンというシェパードはスコリモフスキの実際の愛犬らしい。その点でやはり比較したくなるのが、かれの8歳年長であり、『出発』含めかれがその作品からの絶大な影響を覗かせている、ジャン=リュック・ゴダールの近作『さらば、愛の言葉よ Adieu au Langage 3D』(2014年)だろう。周知のように、このゴダール初の3D映画でも、ゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィルの愛犬、ウェルシュ・シープドッグの「ロクシー・ミエヴィル」が映画全編をつうじて非常に重要な役回りで登場している。
 さらにそれだけでなく、ゴダールもまたこの作品で、スコリモフスキ同様、3D撮影からiPhone画面の挿入まで、ここ数年の作品でディジタルメディアへの強い参照を打ちだしている点も共通する。加えて興味深いのは、『さらば、愛の言葉よ』もまた、語りや人物の会話などをかいして、ほかならぬ「動物(犬)からのまなざし」が濃密に示唆される作品だったことだろう★9。たとえば、劇中で人妻のイヴィッチ(ゾエ・ブリュノー)はまさに(子どもではなくて)犬を身ごもりたいと不意に語り、別の場面では「動物の目を通して見る」というリルケの言葉が挿入される。あまつさえ映画の終盤には「これは犬が語るお話」というエクスキューズが語りによってつけられもする。そして、『ゴダール・ソシアリスム Film socialisme』(2010年)に登場する、よく知られた2匹の猫のYouTube動画に象徴的に示されているように、このヌーヴェル・ヴァーグの老巨匠の一連の近作においてもまた、こうした動物のイメージはつねにもろもろのディジタルメディア=モノと類比的に関連づけられているのだ。

 いずれにせよ、この「動物のまなざし」という論点は、かつてこの連載の『牡蠣工場』(2015年)の回★10でも、すでに「猫のまなざし」の問題として書いていたが、『イレブン・ミニッツ』ではそれがよりベタなイメージとして現れるのである。結論からいえば、このブフォンのPOVショット映像は、まさに人間以外の、そして人間よりも長生きする「シンプルで無害なモノ」の自律的・能動的なまなざしの表象だと理解することができるだろう。もちろん、常識的に細かく見れば、犬はたんなるモノ(無機物)とは異なる動物(生物)であり、デカルトの「動物機械論」の時代ならいざ知らず、今日において両者をまったく同一視することは難しいだろう(そもそも犬は同じ生物である人間よりも短命である)。とはいえ、わたしの見立てでは、さきの『さらば、愛の言葉よ』をはじめ、コリン・トレボロウ監督の『ジュラシック・ワールド Jurassic World』(2015年)など、近年の映画では、いずれも人間以外の存在である動物とAIなどのモノを、フラットに扱ったり、類比的に捉えたりする演出が目立っているように思う。そして、こうした演出やそれを観る観客の感じるリアリティの背景には、すでに鈴木健からドミニク・チェン、濱野智史まで多くの論者が論じてきたように、ディジタルデバイスを含めた現代の情報環境そのものもまた、一種の「有機体」や「生態系」の様相に接近してきたという事態があるだろう。実際、この仰角のPOVショットでは逆光によるレンズフレアが強調された映像になっており、動物のまなざしを擬態すると同時に、むしろどこか「機械の眼」のような印象を観る者に強烈に惹起するショットになっている。

 あるいは、『イレブン・ミニッツ』では、ブフォンが飼い主の女性を主観的にまなざし、続けてリヴァース・ショットで女性がブフォンを見かえす切りかえしの構図が何度か登場する。この点で、わたしたちは『さらば、愛の言葉よ』でゴダールも参照していた、ジャック・デリダの最晩年の動物論を想起してもよいだろう。それというのも、そこでデリダは、西洋哲学がデカルトからハイデガー、レヴィナスまで、動物を人間が「見るべき対象」としてだけ考え、「動物から見られる経験」を一貫して否認していたと批判し、均質な全体=単数形(animal)にも複数性(animaux)にも還元されない「動物」(という語)の決定不可能性(animot)に注目しようとしていた★11。乱暴さを承知でいえば、このデリダのプログラムもまた、近代西洋哲学には存在しなかった、一種の「動物=オブジェクト志向の存在論」を拓こうとした試みだとも解釈できるだろう。

『イレブン・ミニッツ』の空間にたゆたうブフォンのまなざしは、いうなれば、オープニング・シークエンスでスコリモフスキが表現しようとしていた、ディジタルメディアにおける「オブジェクト志向」の世界観を象徴的に体現していたといえる。だからこそ、本作のラストで観客が目の当たりにする、すべての登場人物たちを飲みこむ、不条理なまでの偶然のカタストロフが、象徴的な意味での「絶滅」(「人間的なもの」の死滅)のモティーフという点で、じつはオープニングと見事な円環を描いて収束するのだ。

 わたしたちはこの老巨匠の巧緻な傑作から、映画の現在について、おそらく多くのことを学ぶことができる。
 

★1 本連載第4回「キャメラアイの複数化──鈴木卓爾監督『ジョギング渡り鳥』」、『ゲンロンβ1』。
★2 本連載第5回「60年後の『太陽の季節』──真利子哲也監督『ディストラクション・ベイビーズ』」、『ゲンロンβ2』。
★3 本連載第8回「ディジタルゴジラと『ポスト震災』の世界──庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』」、『ゲンロンβ5』。
★4 Warren Buckland ed., Hollywood Puzzle Films, Routledge, 2014.
★5 つまり、その意味でこのパズル映画の枠組みは2000年代初頭に東浩紀(『動物化するポストモダン』)やレフ・マノヴィッチ(『ニューメディアの言語』)がそれぞれの文脈で提示していた「データベース」という概念の延長上にあるともいえる。
★6 北小路隆志「亡命作家が流浪しながら紡ぐ映像世界」、野崎歓・渋谷哲也・夏目深雪・金子遊編『国境を超える現代ヨーロッパ映画250──移民・辺境・マイノリティ』河出書房新社、2015年、202-203頁。
★7 「監督の言葉」(遠山純生訳)、『イレブン・ミニッツ』試写用パンフレット、14頁(編註:原文の傍点部分を仕様により太字強調に置き換えて掲載しています)。ちなみに、スコリモフスキ自身はSNSのような現代的なコミュニケーションは好きではないと述べている。
★8 本連載第7回「映画の絶滅、絶滅の映画──ダン・トラクテンバーグ監督『10 クローバーフィールド・レーン』」、『ゲンロンβ4』。
★9 『さらば、愛の言葉よ』におけるディジタル表現と「動物映画」としての側面との関係については、以下の拙論も参照。「ディジタル時代の『動物映画』──生態学的ゴダール試論」、『ユリイカ』1月号、青土社、2014年、166-175頁。
★10 本連載第3回「イメージの過剰流動化と公共性のはざまで──想田和弘監督『牡蠣工場』」、『ゲンロン観光通信 #10』。
★11 ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』、マリ=ルイーズ・マレ編、鵜飼哲訳、筑摩書房、2014年。

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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