人文的、あまりに人文的(7)『人生談義』『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』|山本貴光+吉川浩満

シェア
初出:2016年11月11日刊行『ゲンロンβ8』

古代ローマ時代の人生相談


エピクテトス『人生談義』上、鹿野治助訳、岩波文庫、1958年
 

吉川浩満 前々回はモンテーニュの『エセー』新訳完結を祝って、前回はパスカルの『パンセ』新訳の完結を祝いました。

山本貴光 これからもどんどん祝っていきたいね。前回パスカルをとりあげたのは、彼がモンテーニュの愛読者でもあったからなんだよね。

吉川 そうそう。今回はさらに歴史をさかのぼって、モンテーニュとパスカル共通の愛読書をとりあげてみよう。

山本 というわけで、エピクテトスの『人生談義』をご紹介します。これは非常に面白い本で、吉川くんと私がずっと愛読している本でもあります。エピクテトスは、紀元1世紀から2世紀頃、ローマ帝政時代の「ストア派」と呼ばれる哲学者のひとり。出自がとても変わってる。

吉川 うん、奴隷から哲学教師になったんだよね。

山本 かっこいい。

吉川 学校を開いたところ大好評で、各地から生徒が集まったらしい。

山本 エピクテトスは、かのソクラテスと同じで書き物を残さなかったけれど、弟子たちにいろいろな教えを説いた言行録が残っている。それをまとめたものが、この『人生談義』という本。書いたのはアッリアノスという人で、『アレクサンドロス大王東征記』ほか、これ以外にもいろいろな本も書いている。
吉川 この本の成り立ちも面白いよね。昔の本にありがちな数奇な運命を辿っている。もともとはアッリアノスが自分の覚え書として記録したものなんだけど、それがなぜだか「流出」しちゃってさ。ネットにアップロードされたわけじゃないんだけど。

山本 うん、盛大にシェアされちゃった(笑)。

吉川 予想外の拡散に驚いたアッリアノスは、慌てて弁明の手紙を書く。これはもともと自分の備忘のために書いたようなもので、先生の言葉を直に書いた作品というわけじゃないんです、なのでそこんとこよろしく、って。そしたら今度はこの手紙がそのまま『人生談義』の序文になった(笑)。

山本 おもしろいよね。

吉川 古代ギリシャ・ローマの拡散力とまとめ力、あなどりがたし。

山本 エピクテトスの教えを仮に一言で言うとしたら、アタラクシアを目指すことと言えるかな。「アタラクシア」というのは、心の平静という意味の古典ギリシャ語。悩みから解放されて、心穏やかになるということだね。

吉川 いまこそ全人類に必要なんじゃないか。

山本 ほんとだよね。肝心なことは、どうしたらそういう心境に達せるか。たとえば、人は知らないことや分からないことについて、勝手に想像を膨らませて怖がったり苦しんだりする。

吉川 人間関係のトラブルとか悩みとかはその典型だね。

山本 そうそう。でも、世界がどうなっているかを学び知れば、そうした不安や苦しみを退けて心穏やかになれる、というのがエピクテトス流の考え方であり、ストア派の発想。

吉川 大きなところから言うとそうだよね。エピクテトス先生の時代、哲学にはストア派、懐疑派、エピクロス派という3派があったんだけど、どれもアタラクシアを目標にしていた。アプローチの仕方が違うだけで、目指すのは同じアタラクシア。

山本 つい「どんだけ生きづらかったんだよ!」と言いたくなる(笑)。でも実際大変な世だったわけだ。

吉川 うん、エピクテトスが生まれたのは、あの有名な悪徳皇帝ネロの治世だからね。たとえばエピクテトスを奴隷として雇っていた男は後に首を切られている。もちろんネロをはじめ歴代皇帝もロクな死に方をしていない。そういう物騒な時代なので、そんななか、いかに心安らかに生きられるかというのがテーマになったのは理解しやすいかもしれないね。

山本 現代でもわがこととして読めるし参考になる。ただし、この『人生談義』はいろいろなことが体系立てて述べられているのではなくて、エピソード集みたいな本。端から全部要約するわけにもいかないので、勘所を選んで紹介しましょうか。
吉川 なぜ要約しづらいかというと、この本に古代ギリシャ・ローマの人生相談みたいな趣があるからだよね。生徒がいろいろな相談をもってくる。あるいは先生が思考実験的に考えてそれについてしゃべる。そうした相談を通じてエピクテトスの、あるいはストア哲学の骨法が明らかになる、そんな感じ。

山本 具体的な問題が出されて、先生がズバっとそれに答える形をとっている。いまでいうとなんだろう、まさに人生相談。

吉川 中島らもみたいなね。

山本 そうそう(笑)。古いところだと『大正時代の身の上相談』(ちくま文庫、2002年)みたいなのもあった。

吉川 『人生談義』に寄せられた相談としては、たとえば、「先生、どうして私が首を切られなければならないのですか」なんてのがある。

山本 ぎょっとする相談(笑)。死刑に処されるところとか、カフカの小説で主人公が訳も分からず裁かれて殺されちゃう場面とか思い出すね。不条理。

吉川 極端といえば極端な例だけど、世が世だけにけっこう切実だった。恐怖政治とか秘密警察の時代と言ってもいいかもしれない。いつ捕らえられて、そういうことにならないとも限らない。そういう状況で発せられた言葉なんだよね。

山本 これに対してエピクテトス先生は、「じゃあ、みんなが首を切られたらいいと思うのか?」と応えている。

吉川 身も蓋もない(笑)。でも、彼はふざけたり突き放しているわけではないんだよね。これはむしろ修辞疑問と読んだほうがよいかもしれない。つまり、「みんなが首を切られたらいいかって、そんなことはないだろ?」と言っている。

山本 要するに、いまそんなことを思い悩んでも、ばかげた結論にしかならないと。

吉川 うん。そもそも本当に刑場に引っ立てられてる途中だったとしたら、できることといえばせいぜい誇り高く最期を迎えることくらいだし。もし逃げられるなら逃げればいいけどさ。

山本 エピクテトス先生のいろいろなアドヴァイスを見ていくと、そこにはひとつの考え方が通底しているのが見えてくるよね。訳書では「権内」と訳されているのがそれ。自分がコントロールできることという意味。対となる言葉は「権外」で、自分がコントロールできないこと。たとえば、天変地異みたいなことは権外にある。自分にとっての権内と権外をちゃんと見極めることが大事だというのがエピクテトス先生の言いたいことです。これは古びることのない普遍的な考え方だよね。

吉川 今風に言えば、できることはできる、できないことはできない。
山本 そう。

吉川 ものすごい簡単なことを言っているようにも見える。当たり前のようだけれども、でも、エピクテトス先生のポイントは、人はともすればできることとできないことをごっちゃにしてしまうということ。そしてこの混乱こそがいろいろな悩みの根源にあるということ。

山本 まさに。だから無駄に思い悩まないためには、これは果たして権内なのか権外なのかと吟味することがたいそう重要になってくる。だけど、吉川くんが言ったように、実は言うほど簡単じゃないんだよね。

吉川 実際それで人生のすべての悩みが片付くとか、そういう新新宗教的な話ではないんだよね。なにか自分が混乱してるなとか、悩んでいるときに、常にそこに立ち返る、そういう原理みたいなものとして理解するといいと思う。自分にはなにができるだろうってことを、自分は案外知らないかもしれないから。ちょっとスピノザっぽくもあるね。

山本 応用編としては、自分が分かっていること/分かっていないことなんていうのも、この話につながっている。現在の情報環境のなかで、ともするとデマに踊らされちゃうといった身近なことにも関連しているよね。

吉川 自分の責任じゃないことに責任を感じたりといったこともそうだね。

山本 そうそう。冒頭で述べたように、世の中がどれほど乱れていようが、心穏やかに生きるための指針のひとつにできる。そういう哲学なのです。

吉川 本のことを少し述べておくと、『人生談義』の比較的手に入れやすいものとしては岩波文庫版の上下巻本があります。1958年という古い本だけれど、根強い人気があって、ときどき復刊されている。ある種、2000年前の元祖自己啓発みたいなところもあって興味深い。

山本 この本は後世にもいろんな影響を与えています。最初に言ったように、モンテーニュやパスカルも愛読者だった。日本でも明治大正期によく読まれた痕跡がある。夏目漱石の『吾輩は猫である』でも、主人公の苦沙弥先生の書斎にこの本があると猫が報告してる。

吉川 『人生談義』上下巻を全部読むのが大変だという人は、ヒルティの『幸福論』もいいね。同書の上巻にはその名も「エピクテトス」という章があって、『人生談義』のダイジェストとコメントが載っている。ヒルティの『幸福論』といえば、若い人は知らないかもしれないけれど、世界三大幸福論としてラッセル、アラン、ヒルティというくらいだから、ひょっとしたらお父さんやお母さん、お爺ちゃんやお婆ちゃんの本棚にあるかもしれないよ。

世界をどう捉えるか――物体と非物体


エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』、江川隆男訳、月曜社、2006年
 

吉川 さて、今回はストア哲学について話しているわけだけれど、ストア派にはそれなりに長い歴史がある。紀元前3世紀頃にはじまったとして、エピクテトスやマルクス・アウレリウスは紀元後の人だから、400~500年続いているんだよね。

山本 一口にストア派といってもさまざまな論者がいて、たくさんの本が書かれたみたい。なんだけど、後期ストア派と呼ばれるエピクテトス、セネカ、マルクス・アウレリウスのように本が伝存しているケースを除くと、ほとんどが散逸してしまったらしい。断片的に残された初期ストア派の文章は、現在では京都大学学術出版会の西洋古典叢書に『初期ストア派断片集』全5巻にまとめられています。さらに知りたい人には貴重な資料。

吉川 その初期ストア派の代表者にクリュシッポスという人がいて、ストア派の思想を体系立てたと言われている。今回2冊目として紹介したいのは、この人の哲学を研究したエミール・ブレイエの『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』。書名からしてとても難しそう(笑)。

山本 実際これは骨のある本だよね(笑)。ブレイエという人は、19世紀後半から20世紀前半に活動したフランスの哲学者で、プロティノスの翻訳や哲学史の本で知られています。

吉川 日本では本書の他に『哲学の歴史』や『現代哲学入門』などが翻訳されているね。

山本 さて、この本だけれど、まずとても大きな前提を話すと、ヨーロッパの哲学には「この世界はなにからできているのか」という大きな問題と格闘してきた長い歴史があります。ごく簡単にいえば、一方には世界はすべて物体(物質)で説明できるという発想と、世界を説明するには物体だけじゃ足りなくて非物体的なものもあるという二元論がある。
吉川 たとえば、ソクラテス以前のタレスたちの「世界は水からできている」というのは物体による説明だね。唯物論的といってもいい。

山本 他方でプラトンのイデア論のように、個別の事物の背後にはそれらに共通するイデアなるものがあると考えた人もいた。

吉川 ストア派は、基本的には唯物論で、「すべての存在者は物体である」と考えている。魂や思考のようなものまで物体だというんだよね。

山本 そうそう。おもしろいことにブレイエは、そんな彼らの哲学のうち、物体に収まっていない部分に注目して、そこからストア派哲学の特徴をあぶり出している。

吉川 それが書名にある「非物体的なもの」だね。ストア派のすごいところは、構えとしては唯物論なんだけど、同時に「出来事」という、物体とは言えないが重要ななにごとかを位置づけようとしているところ。

山本 これはわれわれが『心脳問題』(朝日出版)★1で検討したことでもあったね。

吉川 ナイスバーディ問題という例で述べたやつだね。ゴルフのプレイ中、グリーン上でバーディパットが決まったとき、「ナイスバーディ!」となるわけだけど、このバーディは果たして物体的に説明できるか。たしかにパットで力を加えられ、芝の上を転がってカップの底に沈むボールの動きは物体の動きとして記述できる。でも、バーディという出来事は物体的なものではない。かといって、プラトンが想定したイデアのように物体から独立して存在するものでもない。

山本 ブレイエが挙げている例でいうと、ナイフで肉を切るという状況がある。ナイフと肉はそれぞれ物体で、ナイフが肉に触れて切る。けれども、このとき生じている「切られる」ということ自体は物体ではないと言うんだよね。

吉川 出来事としか言いようがない。思うにラディカルな考え方だよね。唯物論でほんとうに物体だけですべてを説明しようとすると、「切られる」という出来事はないことになっちゃう。かたやプラトン流の見方だと、イデアみたいな非物体的存在が、物体のようにあるという形になる。これはこれで背理に陥る。

山本 出来事は、言語でいうと動詞で捉えるしかない。後から見れば痕跡しか残らないかもしれない出来事をどう捉えるかという関心でもあるね。唯物論やイデア論は、どちらかというと不変のものに基礎を置いた静止した世界の見方。これに対して、ストア派の発想は、物体を土台としながらも生物を典型とする変化や動きをも捉えようとしている。
吉川 そう考えると、後のベルクソンの『物質と記憶』なんかともつながるアプローチの仕方だよね。彼が考察した運動も、物理主義で空間に還元すると失われるし、かといってベタな二元論では贋物をつくることになってしまう。そうじゃなくて、我々が運動という形で経験していることを、いかに正当にそれそのものとして遇することができるか。これがベルクソンの考えたことで、ストア派の出来事の考察に近い。

山本 ブレイエはこの本で、ストア派がそういう「出来事」、非物体的なものを扱っていることに注意を向けている。今回述べたことの他にも、意味(表現可能なもの)、空虚、時間、場所が非物体的なものとして考察されています。

吉川 彼は非物体的なものごとのあり方を「出来事」や「事実」と呼んだり、物体の「表面」というレトリックで言い表してもいるね。これは後にドゥルーズや蓮實重彦の仕事にも効いてくる。

山本 単に古い時代の哲学の学説というのではなくて、先ほど述べたように、この世界をどう捉えうるかという古くて新しい、いまでは自然科学が主に取り組んでいる問題や、あるいは存在や動きや変化を言葉でどう捉えられるかという、言語学だけでなく文芸や人工知能のような技芸術にまでおおいに関わる発想なんだよね。そういうものと重ねながら読むといっそう面白い。

吉川 うん、現代的な問題でもある。先に触れたベルクソンの現代的解釈としては、『ベルクソン「物質と記憶」を解剖する──現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続』(平井靖史、藤田尚志、安孫子信編、書肆心水)というベルクソン論集がこのあいだ出たね。

山本 昨年行われた国際シンポジウムの記録だね。これは楽しみ。

吉川 われわれの常識的な自然発生的哲学(アルチュセール)は基本的に唯物論か二元論しか認めないようなところがあるけれど、たまにはストア派的な物体的なものやベルクソン的な運動の概念にも思いをはせていただきたいね。

山本 今回はこのへんで、ごきげんよう。

吉川 また次回!

★1 山本貴光、吉川浩満『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』 朝日出版社、2004年。後に『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版、2016年)として増補改訂版を刊行。

山本貴光

1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。コーエーでのゲーム制作を経てフリーランス。著書に『投壜通信』(本の雑誌社)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文体の科学』(新潮社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川浩満との共著、太田出版)、『サイエンス・ブック・トラベル』(編著、河出書房新社)など。翻訳にジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川と共訳、ちくま学芸文庫)、サレン&ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ。ニューゲームズオーダーより再刊予定)など。

吉川浩満

1972年生まれ。文筆家、編集者、配信者。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、文筆業。晶文社にて編集業にも従事。山本貴光とYouTubeチャンネル「哲学の劇場」を主宰。 著書に『哲学の門前』(紀伊國屋書店)、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』(ちくま文庫)、『理不尽な進化 増補新版』(ちくま文庫)、『人文的、あまりに人文的』(山本貴光との共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(山本との共著、筑摩書房)、『脳がわかれば心がわかるか』(山本との共著、太田出版)、『問題がモンダイなのだ』(山本との共著、ちくまプリマー新書)ほか。翻訳に『先史学者プラトン』(山本との共訳、メアリー・セットガスト著、朝日出版社)、『マインド──心の哲学』(山本との共訳、ジョン・R・サール著、ちくま学芸文庫)など。
    コメントを残すにはログインしてください。