観光客の哲学の余白に(7) まなざしからタッチパネルへ|東浩紀

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初出:2017年11月17日刊行『ゲンロンβ19』

 はじめに言い訳になるが、今回はスケジュール調整に完全に失敗し、この原稿は配信当日の早朝に書いている。そのためいつもと比べて粗い文章になるのだが、ご容赦願いたい。今回の原稿はまた、先日、11月15日にボルボスタジオ青山で行った講演の補足にもなっている。 

 さて、前回ぼくは、近代には深さがあったがポストモダンにはないと言われる、けれど深さの隠喩は健全な批評のためには不可欠なので、新しい「深さの語りかた」を再発明する必要があると記した。その再発明のヒントを視覚メディアの変化に見る、というのがこの連載の主旨だ。 

 視覚論やメディア論にはさまざまな先行研究がある。ぼくは大学院の専攻が表象文化論なので、中途半端にそれらの知識をもっている。前々回に触れたクレイリーとかキットラーがそれだ。中途半端に知識をもっていると議論はどうしても防衛的になる。だからこの連載も妙にくねくねとしてきたのだが、今回は時間もないので、印象論と非難されるのを承知で結論から話を始めたい。 

 というわけで結論から言えば、ポストモダンの深さはタッチパネルのタップから考えるといいのではないか、というのがぼくの提案である。

 どういうことだろうか。繰り返し論じているように、近代の世界は視覚をモデルに考えられてきた。私が世界を見る。見る主体と見られる客体がある。特定の視角からは見えるものと見えないものがある。この構図のなかで世界観(世界観というこの言葉そのものが視覚をモデルとしている)が作られ、認識論から権力論までさまざまな議論に応用されてきた。それが近代だ。見る主体は権力の主体でもある。近代社会をかたちづくる規律訓練の権力は、権力者のまなざしの内在化によって構成される。フーコーは『監獄の誕生』でそう記した。 

 視覚的=近代的世界観においては、深さは「見えないもの」として想像される。いかなる視角も見えないものを生み出しはする。しかし、そのなかでももっとも見えないもの――というのも変な表現だが、つまり視角をいくら変更しても見えないもの――は視線(まなざし)自身だ。ここに「まなざし」が究極の「見えないもの」として立ちあがることになる。まなざしは絶対に見えない。見られる客体にならない。だから究極の力をもつ。まなざしこそ世界を世界たらしめる。これを美学で展開すればフレームやカメラワークに注目する映画論になるし、権力論に展開すれば「まなざし」の暴力を問うレイシズム批判やジェンダー政治につながる。まなざすものをまなざし返す、それこそが反権力の近代的戦略である。 

 しかしこのモデルは現在では成立がむずかしくなっている。なぜかといえば、現代社会では、まさにそのまなざしが拡散し遍在し、ひとつのものとして名指すことがむずかしくなっているからである。 

 その変化は権力の変化(規律訓練から生権力へ)としても記述できるが、ここでは視覚装置そのものの変化を指摘しておきたい。いまの時代、もっとも優勢な視覚メディアはなにか。それは写真でも映画でもテレビでもなく、監視カメラとスマートフォンである。ぼくたちの生はこのふたつのカメラに囲まれている。表面的には、このふたつの視線は性質がまったく異なっている。前者はぼくたちをまなざすものだが、後者ではぼくたちこそがまなざすものとなる。 

 しかし両者ともに数が多く遍在している点は共通している。そしてそれこそが本質である。ぼくたちはいま、あらゆる場所で撮影され記録され、またこちらも撮影し記録し返すことができる時代に生きている。監視カメラとスマートフォンはこの点ではまったく同じ性格を備えている。監視カメラはいまやおそろしく安価で、必ずしも政府や企業だけが設置するものではない。そもそもスマートフォンは監視カメラのように使うこともできる。まなざしが拡散し遍在し、だれにでも所有できる時代。この状況は、このポストモダン社会においては、前述のような「まなざし返し」の戦略がさほど有効ではないことを意味している。見る主体は権力の主体である。けっこう。しかし現代では、だれもが見る主体であり、だれもがまなざしの暴力を行使しうるのだ。ではそこで反権力はなにを「見る」べきか? これは、ポストモダンにおける深さとはなにかという問いと、哲学的には等価である。 

 だれもがまなざしを所有できる時代に、ぼくたちはなにをまなざし返すべきか。ふたたび結論から言えば、ぼくの考えではそれはまなざしではなくデータベースである。空間的関係ではなく時間的差異だと言ってもいい。

 21世紀の遍在する視線、監視カメラとスマートフォンに共通する性格が、いま指摘した遍在性とはべつにもうひとつある。それは、ネットワークを介してデータベースに接続し、図像の共有と事後的な検索を可能にしていることである。町なかで監視カメラに撮影されるとき、それは必ずしも、なんらかの主体がいま存在し、ぼくを監視していることを意味していない。というよりも、たいていの場合はそのような監視者は存在しない。監視カメラによる撮影は、むしろ、いつかどこかで、未来でなにか必要性が生じたとき、ぼく(いまのぼくのすがた)を監視する主体が事後的に現れる可能性の確保を意味している。 

 同じことがスマートフォンにも言える。スマートフォンの撮影はSNSへの投稿と不可分に結びついている。それがなければ、スマートフォンは単なるデジタルカメラである。そこでもやはり、撮影時には存在しない、いまのぼくのすがたを見る新たな主体が事後的に現れる可能性の確保が重要なものになっている。だからこそスマートフォンでの撮影には、可能性もあるが恐怖もある。ここでは、見る主体と見られる客体の時間的な関係が大きく変わっている。20世紀までは、見る主体と見られる主体は同じ時空に属していた。ぼくがあなたを見る。撮影する。記録する。そのまなざしはたしかに権力を孕むこともあるだろう。それでも、ぼくもあなたも時間を共有している以上、あなたもまたぼくを見返すことができたし、実際それこそが「まなざし返し」の有効性を規定していた。けれどもいまや、見るものと見られるものは時間を共有していない。監視カメラをスマホで撮影し返したところで、カメラのむこうにはだれもいない。スマホで撮影されるとき、ぼくをまなざすのはスマホを掲げる友人だけではない。数年後、数十年後にSNSに投稿された画像を発見する、すべての人々のまなざしがそこには潜在的に存在するのである。 

 近代の世界は視覚をモデルに語られていた。見るものと見られるものの関係からすべてが考えられていた。そこでは見るものと見られるものは時間を共有するものと信じられていた。 

 現代ではその条件が崩れている。見るものと見られるものは時間を共有せず、むしろその差異こそ権力と価値を生み出すようになっている。このような時代においては、重要なものは、まなざしへの抵抗ではなく、データベースの分析となる。ぼくの時代認識は、とりあえずはこのようなものである。 

 それでは、そこでデータベースの存在を「発見」するために、ぼくたちはなにをすればよいのだろうか。素朴に世界に接するかぎり、見えるものしか見えない。それは近代でもポストモダンでも変わらない。ただ近代においては、見えるものから見えないもの(まなざし)への遡行の技法が複数開発されていた。そのひとつがフレームやカメラへの注目である。世界をひとつの写真あるいは映画のように捉え、それを撮影したカメラを意識するという発想は、近代において批判的思考の雛形となっていた。ではポストモダンにおいては?

 ぼくがここで注目したいのが、タッチパネルである。絵画、写真、映画、テレビ、コンピュータのモニタ。歴史的にさまざまな「画面」がぼくたちの生活を取り巻いてきたが、いま急速に標準になりつつあるのがタッチパネルである。タッチパネルはきわめて新しい。その歴史は半世紀も遡らない。アイデアが生まれたのは1960年代で、最初の特許が取られたのは1970年代だ。にもかかわらず、それはいまや、ぼくたちが日常的に接する画面の大半を占めつつある。そもそもスマートフォンの画面がタッチパネルだ。そしてタッチパネルは、まさに見えるものとデータベースをつなぐインターフェイスだ。その媒介がタップ、すなわち触覚によるものであるという点も、先行するさまざまな視覚的な画面にはない、タッチパネルの脱視覚的な(非視覚的というわけではない)性格を示している。 

 近代では、世界を写真や映画として捉えることで深さ(まなざし)を発見し、批評を可能にしていた。だとすれば、ポストモダンにおいては、世界をタッチパネルとして捉えることで深さ(データベース)を再設定し、批評を可能にすることができるのではないか。ぼくが考えているのはそのようなことだが、このあたりで時間も尽きた。タッチパネルとはなにかについては、次回以降また考えたい。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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