亡霊建築論(5) ブロツキーとウトキンの建築博物館、あるいは建築の墓所|本田晃子

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初出:2019年12月27日刊行『ゲンロンβ44』

はじめに


 毎年大晦日になると、ロシアでは必ずTV放映される映画がある。エリダール・リャザーノフ監督の『運命の皮肉、あるいはいい湯を』(1975年)だ。物語の主人公は、モスクワに住む青年ジェーニャ。彼は友人たちと年越しのためにサウナ(ロシア語でいうところのバーニャ)に行き、そこでしこたま飲んで泥酔する。ここまではよくある話だが、その後、前後不覚となったジェーニャは、なぜか飛行機に乗って、レニングラード(現サンクト・ぺテルスブルク)に到着してしまう。そしてそれと気づかないまま、彼はタクシーの運転手に自分の住む通りと番地を告げる。タクシーが到着したのは、モスクワにあるのと全く同じ名前の通り、全く同じ外観の集合住宅だった。ジェーニャは自宅に戻ってきたと思い込んだまま、その一画にある部屋に入り、間もなく寝入ってしまう。それからしばらくして、この部屋に本来の住人であるナージャが戻ってくる。彼女は自分の部屋にいる見知らぬ男に驚き、もちろん追い出そうとする。しかしそこから紆余曲折をへて、結局二人は互いに愛し合うようになるのだった。

 別の都市にある住居を自分の住まいと勘違いしてしまうというプロットは、一見荒唐無稽に見えるかもしれない。だが当時のソ連の状況を考えると、必ずしもそうとはいえない。1960年代から70年代にかけてのソ連の都市では、昔ながらの入り組んだ石畳の街路は広いアスファルトの道路へと整備され、それらには全国一律の名前――レーニン通り、革命通り、五月通り――が付けられていった。さらに革命前から存在する低層集合住宅や戸建住宅は取り壊され、規格化された高層集合住宅によって置き換えられていった。その結果、住人たちですら容易に迷子になってしまうような都市が、ソ連全土に出現したのである。そしてそのような都市では、家はもはや住人にとって存在の拠り所となるような、唯一無二の場所ではなくなる。それはモスクワにあってもレニングラードにあっても大差ない、流動的で交換可能な空間となるのだ。

 住宅から商店や映画館まであらゆる建物が規格化され、カタログから商品を選ぶように建設可能となったこのソ連の大量建設時代――そこで不要の存在となったのが、皮肉にも、建築家たちに他ならなかった。『運命の皮肉』が製作された1970年代には、建築家の仕事は設計することではなく、設計書に署名することだ、といったジョークが語られるようになっていた。このような状況から1980年代のソ連建築界に登場したのが、意識的にアンビルトを目指した、一群の若手建築家たちだった。彼らは、1920年代のアヴァンギャルド建築を批判・侮辱するために用いられた「ペーパー・アーキテクチャー(紙上建築)」という呼び名を敢えて自分たちの運動に用い、建てることを前提としない建築の「イメージ」を描き出していった。

 しかし、そもそもなぜ彼らはこのような、いわば建築家にとっての一種の自己否定ともいえる道を選んだのだろうか。そして彼らは自らの作品を通じて、同時代の都市とどのような批評的関係を結ぼうとしたのだろうか。今回はこのペーパー・アーキテクチャー運動の中心にいた二人組の建築家、アレクサンドル・ブロツキーとイリヤ・ウトキンの作品を中心に、ソ連が停滞から解体へと向かう時期に出現した、この奇妙な運動について考えていきたい。

1 「停滞の時代」の子どもたち


 ブロツキーとウトキンは、共に1955年にモスクワで生まれる。時代はおりしもスターリンの死(1953年)からフルシチョフによるスターリン批判(1956年)へと大きく揺れ動いていた。建築の領域においても、スターリン時代の装飾過剰でメガロマニアなスタイルは否定され、一転して合理性と経済性が重視されるようになった。それに対して彼らが10代を過ごした1960−70年代は、フルシチョフの「雪解け」の時代からブレジネフの「停滞」の時代へと、再び極端な揺り戻しが生じた時期だった。ブレジネフ政権の厳しい言論統制によって、当時ソ連のアンダーグラウンドで活動していたアーティストたちは、国外に亡命するか、あるいはより地中深く潜るかの選択を迫られた。しかし建築の分野では深刻な言論弾圧は行われず、むしろこの時期には、短期的ではあるが、ユートピアへの情熱が再燃する。

 たとえば、モスクワ建築大学の学生が組織したグループ「新しい居住素 Новый Элемент Расселения」(以下NER)は、生物をモデルとする可変的な都市像を描き出した。イギリスのアーキグラムや日本のメタボリズムとほぼ同時期に、鉄のカーテンの向こう側のソ連でも、同じような未来都市が構想されていたのである。そしてこのNERのメンバーがモスクワ建築大学で教鞭をとるようになると、その教え子たちの世代から次第に変化の兆しがあらわれはじめる。NERのリーダーの一人イリヤ・レジャワは、自身の指導する学生たちに、自由に創造力を発揮することのできる国外の建築コンペティションへ参加することを勧めた。この彼の助言から生まれたのが、ブロツキーやウトキンら、ペーパー・アーキテクトたちに他ならない。

 とはいえ、海外との通信や海外渡航が厳しく制限されている状況下で、若い無名のソ連建築家たちが参加できるコンペは限られていた。建築家自身が海外へ渡航してプレゼンを行う必要があるコンペは、もちろん論外だった。設計図や模型を海外に送付することすら、当局から妨害される可能性があった。そこで彼らは、作品を友人知人に託してコンペの開催国に運んでもらい、そこで直接作品を投稿してもらう、という戦略をとる。もちろん巨大な模型の輸送は不可能だ。依頼できるのは、せいぜい数枚の図面のみ。このような厳しい条件ゆえに、彼らの参加できるコンペは、建設を前提とせず、一枚の図面でコンセプトを競うタイプのものに限られた。

 けれども、結果的にはこれが有利に働いた。西側世界の建築教育では既に時代遅れとなりつつあった、デッサンなどの表現力を高める訓練を嫌というほど受けてきたソ連建築家たちの作品は、海外では新鮮な驚きとともに受け入れられた。こうしてブロツキーとウトキン、ミハイル・ベロフ(1956年生まれ)、ユーリ・アヴァクーモフ(1957年生まれ)、ミハイル・フィリッポフ(1954年生まれ)ら「停滞」の時代の子どもたちは、日本の建築雑誌『新建築』やセントラル硝子株式会社、ユネスコなどが主催する国際競技で、次々に入賞を果たしていったのである。

 とはいえ、海外でどれほど高く評価されようと、ソ連建築界では彼らは依然として無名の存在に過ぎなかった。そんな彼らに、1984年、転機が訪れる。西側のコンペで入賞したペーパー・アーキテクトたちの作品を、モスクワで一堂に集めて展示する「ペーパー・アーキテクチャー展」が企画されたのである。ただしその実現までの道のりは、決して平坦ではなかった。というのも、ソ連最大の建築家団体である全ソ建築家同盟がこの企画に反対し、展示会場の提供を拒んだからだ。開催は絶望的に思われた。だがそこでペーパー・アーキテクトたちの窮地を救ったのが、雑誌『青春 Юность』の編集部だった。リベラルな傾向で知られる同誌は、急遽自社オフィスを展覧会会場として提供し、これによって展覧会は無事開催された。そしてこの会場で行われた、新しい時代の建築のあり方をめぐる自由で白熱した議論が、やがて停滞したソ連建築界に風穴を開けることになったのである。
 このように、当初ペーパー・アーキテクトたちの存在や彼らのアンビルト作品は、建設の時代に入ったソ連建築に対するアンチ・テーゼとみなされ、排斥の対象となった。一方ペーパー・アーキテクトたちの側も、都市の活発な建設活動の陰で失われつつあるものを、紙上の建築の姿を通して批判的に可視化しようとした。なかでもブロツキーとウトキンの二人組は、現代都市における記憶と忘却、保存と喪失という主題を、寓意的な手法で繰り返し描き出した。そのような彼らの作品の中から、今回は特に建築物を収集した博物館=墓所というモチーフを中心に、彼らの同時代の都市に対する姿勢を読み解いていきたい。

2 建築博物館、あるいは建築の墓所


 まず注意しておきたいのは、収集、保存、記憶といったテーマは、決してブロツキーとウトキンに、あるいはペーパー・アーキテクチャー運動に限られたものではなく、同時代のソ連の非公式芸術の世界では、広く共有されていたという点だ。たとえば既にコンセプチュアリズムのアーティストとして活躍していたイリヤ・カバコフ(1933年生まれ)は、ソ連型共同住宅コムナルカ(キッチンやバス、トイレなどを共有するタイプの集合住宅)の生活にまつわる、取るに足らない日用品を収集・展示するインスタレーションを繰り返し組織していた。そこではレディメイドの匿名的な大量生産品は、カバコフによって使用者の思い出や存在の痕跡(フィクションのこともある)を刻印されて、唯一無二のオブジェへと変貌する。これらの主題の背景には、指導者や英雄、英雄的な出来事ばかりを主題としてきたソ連の公式芸術へのアンチ・テーゼだけでなく、これまでソ連社会において人為的に生み出されてきた記憶喪失への抵抗を読み取ることができる。

【図1】アレクサンドル・ブロツキー、イリヤ・ウトキン《建築の墓所》1984年


 このような文脈を前提としてブロツキーとウトキンによって制作されたのが、「消えゆく建築物の博物館」という副題をもつ、銅版画《建築の墓所》(1984年)【図1】である。画面下段に示された博物館=墓所の全く開口部のないファサードには、おそらく既にこの町から姿を消したと思われる一軒の家の断面図が描かれている。横町からこの博物館=墓所の内部に入ると、そこは巨大な吹き抜けの一室空間で、天井はなく、青空を直接仰ぎ見ることができる。だが何といっても奇妙なのは、壁を埋め尽くす壁龕(ニッチ)だ。それぞれの壁龕の枠の中には、無数の建築物のミニチュアが収められ、その下にはその建築物の名前と、それが建設された年、そして破壊された年が刻まれている。これはロシアにおける典型的な集合墓地の形式――本来であれば建築物の場所には故人を示す碑文やレリーフが設置される――を踏まえている。つまりブロツキーとウトキンは、この空間を都市の中で様々な理由で破壊された建築物のための墓所として想定しているのである。

 さらに中段右端のコマには、アントン・チェーホフの短編小説「古い家――家主の話」の冒頭部分、取り壊された古い集合住宅について、かつての家主が思い出を語る場面が引用されている。
もとの場所に新しく家を建てるには、古い家を取りこわさなければなりませんでした。建築家を、がらんとした部屋部屋を案内して歩きながら、用事のひまひまに、いろんな話をして聞かせましたよ。破れた壁紙、薄暗い窓、真黒な暖炉――こういったものがみな、ついこのあいだまでの生活の痕跡をとどめていて、さまざまなことを思い出させます。★1


 既に喪われた建築物に対する哀切な感情は、中段中央のコマに描かれた、帽子をとって壁龕の前で首を垂れる男の姿によっても強調されている。活発な新陳代謝を繰り返す現代都市において、《建築の墓所》は破壊された建築物の面影を収集・保管する建築博物館として、さらにはかつての家主や住人たちの追憶のための記念碑として機能しているのである。

【図2】ブロツキー、ウトキン《住宅の墓所》1986年


 この《建築の墓所》を反復するように1986年に発表されたのが、『新建築』誌主宰のコンペに出品された《住宅の墓所》【図2】だった。四方の壁を棚状の構造が覆っている点は《建築の墓所》と共通しているが、建物自体のスケールはこちらの方がはるかに大きい。というのも、ここで一つひとつの棚の中に収められているのは、ミニチュアではなく実物の家なのである。この作品には、「人の住んでいる納骨堂、あるいは巨大な近代都市における古く小さな住宅とその住人たちの保留地」という副題が与えられており、都市計画によって取り壊しを余儀なくされた家をめぐる以下のような短い物語が添えられている。

家は二度死ぬ。最初は人びとがそこから去ったときであり(もしも彼らが戻ってくれば、その家は救われる)、二度目はそれが破壊されるときである。
[……]このような家の住人たちが住まいを守るための可能性は、ただひとつ。すなわち家を本来の土地から引き離し、都市の中心にある巨大なコンクリートの立方体からなる墓所へと収納することである。しかしながらそれが可能であるのは、持ち主と家族たちがその家――今はコンクリートの箱の中に建っている――に住み続ける限りにおいてである。彼らがそこに住み続けているあいだは、家もまた生きている。しかし彼らがこのような状況で生活することにもはや耐えられなくなり、それを拒絶するならば、彼らの家は破壊される。
 そして空になったその場所は、次の住宅が訪れるのを待つのである……。★2
《建築の墓所》が住宅の遺影を展示しているのに対して、《住宅の墓所》に保管されているのは、大地から切り離され、いわば既に半分死体となった家である。さらに一つひとつの家屋は影に沈み、《建築の墓所》のような細部の描写も省略されている。この空間における収集と保管の基準は、客観的で自明な建築物の価値ではなく、住人の建築物への主観的で個人的な愛着のみなのだ。現代ロシアの思想家ミハイル・エプシュテインは、博物館や美術館が依拠してきたコレクションの「一貫した」、「客観的な」、「自明な」価値体系が崩壊したポストモダンの時代に、それに代わる新しい基準として、コレクターと対象物との「親密さ」を提案した。個人の記憶を帯びた品々を収集・展示するカバコフのがらくたのインスタレーションや、住人の記憶を帯びた家そのものが収集・展示の対象となる《建築の墓所》、《住宅の墓所》は、このようなエプシュテインの「リリカルな美術館」の理念をまさしく体現しているといえるだろう★3

 ただし気を付けねばならないのは、ブロツキーとウトキンのふたつの博物館=墓所は、都市開発が不可避的に伴う破壊への単なる告発★4ではないという点だ。そこで注目したいのが、このふたつの博物館=墓所の空間の中心に垂れ下がっている球体である。実のところ、《建築の墓所》では建築物を悼むために訪れる人が絶え果てたときに、《住宅の墓所》では住人たちが棚の中の家に住み続けることを断念したときに、この球形の破壊槌によって、そこに保管された建築物は破壊されてしまうのだ。《住宅の墓所》の下段のキャプションの中央には、破壊された直後の、瓦礫と化した家が描かれている。ここにおいて、保管と記憶のための空間は、喪失と忘却の空間へと裏返る。言い換えれば、個々の建築物を均等かつ効率的に保管するシステムは、同時にそれらを効率的に破壊する装置としても機能するのだ。これらの空間は、したがって、現代都市において何かを記憶し保存しようとすることの両義性そのものを描き出しているのである。

3 快適な住まいを求めて


 ブロツキーとウトキンの作品では、このように住宅はもはや外部世界から人びとを守るシェルターではありえない。絶え間のない都市の変化によって、それらは容易に根扱ぎにされ、破壊されてしまう。このような都市の新陳代謝は、ブロツキーとウトキンの作品では、しばしば人や商品や情報の奔流として、さらには文字通り都市を飲み込む洪水や巨大な河として表現される。しかし、果たして人はこのような都市に、どのように住めばいいのだろうか。
 もし巨大な河と化した都市で快適に暮らそうと考えるならば、当然ながら都市の流動性に適合した住まいを選ばねばならない。そこでブロツキーとウトキンが提案するのが、街路を自由に移動することのできる住宅である。たとえば《ウィニー・ザ・プーの住まい》【図3】は、八角形の筒状の構造で、住人が内部も外部も自由にカスタマイズできるプレファブ住宅なのだが、自動車などに曳かせることで簡単に場所を移動することができる。たとえ周囲で再開発が始まったとしても、この住まいであればすぐに別の場所へと逃れ、破壊を免れることが可能なのだ。

 また船としての建築物というモチーフも、しばしば登場する。たとえば1989年に制作された《阿呆船、あるいは愉快な仲間たちのための木造の摩天楼》【図4】では、都市を航行する船を思わせる木造の高層建築と、その屋上で最後の晩餐を思わせる饗宴に興じている若者たち(ブロツキーとウトキンの姿もある)が描かれている。作中にはロシアの詩人アレクサンドル・プーシキンの詩「悪疫さなかの酒宴」の一節が引かれており、悪疫(ペスト)の蔓延する都市と、大洪水に見舞われた現代都市とが重ねあわされていることがわかる。いかにも脆弱そうな彼らの建築=船がこの洪水を生き延びられるのかやや心もとないが、いずれにせよ現代都市に適合するためには、人びとは進んで根無し草となり、この巨大な流れに身を任せるしかないのだ。

【図3】ブロツキー、ウトキン《ウィニー・ザ・プーの住まい》1983年


【図4】ブロツキー、ウトキン《阿呆船、あるいは愉快な仲間たちのための木造の摩天楼》1989年


 同じ航行系の住宅でも、より挑戦的なタイプが1985年に制作された《ヴィラ・ノーチラス》【図5】である。作中内のキャプションによれば、現代の隠者は人里離れた荒野に隠れ住むのではなく、大都市の中心にある巨大な道路の中央に住むことを決意する。この隠者のための住まいが、《ノーチラス》(もちろんジュール・ヴェルヌの小説『海底二万里』に登場する潜水艦の名にちなんでいる)である。道路の中央に出現した眼のようにも見えるこの住宅の地上部分は、壁も屋根もない吹きさらしの空間で、テーブルやベッドなどのわずかな家具が置かれているのみ。ここで生活するということは、都市という奔流に直接身をさらすことを意味する。しかもこの潜水艦=住宅は、一見したところ街路という河の中央に停止しているかのように見えるが、実際には流れに逆らって一定の場所にとどまろうと、休むことなく航行し続けている。巨大な流れに身を浸しながらも、それに逆らって航行する《ノーチラス》号は、まさしく「世界中で膨大な数の人びとを飲み込みつつあるノンセンスな虚無へと抵抗する」★5ための砦なのだ。

【図5】ブロツキー、ウトキン《ヴィラ・ノーチラス》1985年


 しかしこの過酷な戦いは、住人の中に対照的な欲求、すなわち外界からは完全に遮断された場所に隠れ住みたいという願いを生み出す。このような住人の欲求を反映して、実は《ノーチラス》の地上部分の住まいの下には、全く同じ家具の配置された、地下の住まいが存在する。地上での戦いに疲れた隠者は、この閉ざされた地下空間で休息することができるのだ。言い換えれば、この地上と地下に分裂した二重の住宅は、大都市に住まう人びとの分裂した欲望――常に大量の情報や商品の奔流にさらされていたいが、同時にそれらから完全に遮断された場所へ引きこもりたい――を表現しているのである。
 流れに乗るにしろ逆らうにしろ、安息からは程遠いこれらの住宅に対して、ブロツキーとウトキンはより希望に近いと思われる住まいの可能性も提示している。それが、「明日のための街」という副題を付けられた《橋の街》や、《穴のあいた丘》【図6】において描かれる、橋の形をした都市である。この橋は、同時にそこに住むことのできる街でもあり、他の都市に対しては、それを囲い込んで切り取る枠(フレーム)の役割を果たす。つまりここでは、あらゆるものを虚無や忘却へと押しやる流れに身を任せるのではなく、この河に橋を渡し、さらにはこの流れを切り取って対象化する試みが行われているのだ。

【図6】ブロツキー、ウトキン《穴のあいた丘》1987年


 ブロツキーとウトキンによれば、都市を浸すこの河は、記憶や保存を不可能にし、過去と未来を分断する存在でもある★6。それに対して、《穴のあいた丘》に描かれた橋状都市は、過去と未来のあいだの橋とも呼ばれている。ここでもう一度参照したいのが、博物館という形象だ。すなわち、「博物館は橋の別の形態なのであり、つまりそれは時間にかけられた橋なのである」★7。博物館と橋の形象は、《現代建築美術館》【図7】において、視覚的にも完全に一致する。聳え立つ高層ビルの谷間に橋を渡すように建てられたこの美術館は、巨大なドーム部分しか存在しない。来館者たちはこのドームから、その下に広がる都市の街路と、そこを行きかう人や車の流れを見下ろすことになる。この美術館における唯一の展示物は、したがって、この都市の流動性そのものなのだ。橋状都市と同じく、この美術館もまた、フレーム(ここではドームが作り出す枠)によって都市を浸すこの流れを切り取り、客観的・意識的に提示しようとするのである。もちろんこの美術館も都市の一部である以上、都市そのものの新陳代謝の運動からは逃れられず、いつかは破壊され、忘れ去られる運命にあるだろう。だが、絶えず忘却と虚無へと向かう都市の流れの中にありながらも、同時にこの果てしないサイクルを枠によって囲い込み、そこから身を引き離そうとすることこそが、ブロツキーとウトキンの都市においては、辛うじて希望へと続く細い道なのである。

【図7】ブロツキー、ウトキン《現代建築美術館》1988年


***



 反復する棚、壁龕、街路、ブロック――ブロツキーとウトキンの、あるいは彼らの同僚のペーパー・アーキテクトたちの作品には、フレームが繰り返し出現する。わけてもブロツキーとウトキンにとって重要なのが、フレーミングという行為そのものだ。彼らの作品においては、このフレーミングこそが、ほとんどオブセッシヴにも見える収集行為と結びついているのである。棚や壁龕といった無数のフレームの連なりは、彼らの建築博物館においては、終わりのない、まさにシーシュポス的な収集行為を意味する。保管の対象は尽きることなく、それらすべてを収集することは、明らかに不可能だ。しかも《建築の墓所》や《住宅の墓所》で見たように、この記憶と保管のシステム自体が忘却と破壊を内包しているために、収集の試みはそもそも失敗する運命にある。そのような意味では、ブロツキーとウトキンの博物館=墓所は、記憶と保存の場ではなく、まさに忘却と喪失の場なのである。
『運命の皮肉』の冒頭でも、オープニングのテーマ曲を背景に、モスクワの南西部ノーヴィエ・チェリョームシキの高層集合住宅の外観、とりわけ窓枠というフレームが繰り返し執拗に映し出される。これら反復される無数のフレームは、同作ではビルトの時代を体現するもの、すなわち場所から固有性を奪って均質化・抽象化し、住民を根無し草にするシステムの象徴として機能する。実際にこの冒頭の場面では、これら窓=フレームに覆われた画一的な集合住宅の波が、その傍に立つ小さな古びた教会を今まさに飲み込もうとしているかのように見える。

 しかしながら、これらのフレームの反復構造は、ブロツキーとウトキンの手によってそれ自体もまた枠に入れられ、一個の紙上建築作品となる時、「忘却の記憶」の判じ絵へと逆転する契機を秘めている。というのも、たとえ個々の対象を記憶し保管することが不可能であっても、彼らの博物館=墓所を通してフレーミング=収集という行為そのものが主題化されることで、われわれにはわれわれが不断に忘却しつつあること、常に喪失しつつあることに自覚的である可能性が残されるからだ。これこそが、ブロツキーとウトキンの二人組がペーパー・アーキテクチャーという形式を通して行った、ソ連社会における、あるいは現代都市における、忘却と喪失への抵抗の試みなのである。


【画像出典】
【図1】Alexander Brodsky, Ilya Utkin, Columbarium Architecture (Museum of Disappearing Buildings). 1984.
【図2】Alexander Brodsky, Ilya Utkin, Columbarium Habitabile. 1986.
【図3】Alexander Brodsky, Ilya Utkin, Dwelling House of Winnie-the -Pooh. 1983.
【図4】Alexander Brodsky, Ilya Utkin, Ship of Fools or a Wooden Skyscraper for the Jolly Company. 1989.
【図5】Alexander Brodsky, Ilya Utkin, Villa Nautilus. 1985.
【図6】Alexander Brodsky, Ilya Utkin, Hill with a Hole. 1987.
【図7】Alexander Brodsky, Ilya Utkin, Contemporary Architectural Art Museum. 1988.
ブロツキーとウトキンの作品については、両氏から掲載許可を受けている。

★1 アントン・チェーホフ「古い家――家主の話」『チェーホフ全集4』松下裕訳、筑摩書房、366頁。
★2 Brodsky & Utkin: The Complete Works, (New York: Princeton Architectural Press, 1991), p. 18.
★3 Mikhail Epstein, After the Future: The Paradoxes of Postmodernism and Contemporary Russian Culture, (Amherst: The University of Massachusetts Press, 1995), pp. 258-261.
★4 Lois E. Nesbitt, “Man in the Metropolis: The Graphic Projections of Brodsky & Utkin,” Brodsky & Utkin, p.4.
★5 Brodsky & Utkin, p. 66.
★6 Brodsky & Utkin, p. 50.
★7 Alexander Rappaport, “Paper Architecture: A Postscript,” Post-Soviet Art and Architecture, (London: Academy Editions, 1994), p. 139.

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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