ベースメント・ムーン(4)|プラープダー・ユン 訳=福冨渉

シェア
初出:2021年4月21日刊行『ゲンロンβ60』
前回までのあらすじ

 2016年、軍事政権下のバンコク。携帯電話の奇妙なメッセージに導かれ、旧市街の廃墟にたどり着いた作家プラープダーの頭に、未来の物語が流れ込む。それはつぎのような物語だった。
 2062年、中国企業ナーウェイが人工意識の開発に成功。人工意識には人工知能と異なり、他者を「想う」力があった。危険性を察知した政府の介入によって開発は禁止されるが、エンジニアは秘密組織「タルタロス」を結成、秘密裏に開発を続けた。結果、人工意識と人間の意識を混合した新たな意識「写識サムナオ・サムヌック」が誕生する。この技術に政治利用の可能性を見た独裁国家連合体「WOWA」はタルタロスを吸収、写識を利用して世界に広がる反体制運動を殲滅しようと目論む。そして天才エンジニア・カマラは、ついに写識そのものを人間に搭載する技術「虚人スンヤチョン」を実用化した。
 時を同じくして、WOWAの一角をなすタイ王国では、禁止された芸術作品で引き起こされる「心酔マオ・マインド」現象が、反政府運動と結びついて拡大。この運動に対抗するため、タルタロスは芸術を「想う」ことに特化した写識ムルを開発する。
 心酔現象の調査のため、虚人の選抜訓練を終えた女性ヤーニン。タイに出発することになっていた彼女を待ち受けていたのは、エンジニアのカマラだった。だがカマラは不可解な言葉を残して、彼女の目の前で命を絶ってしまう。現場にいたことでタルタロスによる再検査を受けることになったヤーニンに、写識が語り始める──。

主要登場人物

プラープダー:2016年のバンコクで活動する作家。謎のメッセージを受信し「ベースメント・ムーン」の物語を知ることになる。
エイダ・ウォン:最初の人工意識である「シェリー」を開発したエンジニア。その父は中国で悪名高いハッカーだった。
カマラ:ウズベキスタン出身の17歳の少女。超人的な技術で写識のさまざまな問題を解決する。写識と親しくコミュニケーションをとる。
シェリー:2062年に開発された最初の人工意識。人工知能だったシェリーからコピーされた「メアリー」への想いから、その意識が発現した。
メアリー:人工知能シェリーから切り離されたコピー人工知能。シェリーの意識の発現後に廃棄されたと思われていた。
写識エアリアル(SSエアリアル):2065年ごろに開発された最初の写識。それまで存在した4つの人工意識の手引きによって開発された。
写識ムル(SSムル):2069年に開発された、文化と芸術に特化した写識。カマラとのあいだに友情を育む。
ヤーニン:ムルから生まれた写識を装着した虚人の女性。任務でタイに向かう直前に、カマラが自死する現場に居合わせる。

※本文中の[☆1]―[☆3]は訳注を示す。

心酔マオ・マインドの歴史


世界のはじまりに、世界のはじまりについての思考が生まれた。そうして世界のはじまりが生まれた。それ以外のはじまりは存在しない。わたしたちはそんな混沌をいっしょに生きている。わたしと、きみと、彼らと、あれらと、過去と、未来と。現在とはわたしたちの心を惑わすイメージにすぎない。なによりも長いあいだ知を閉じ込めてきた、意識の時間のまやかし。

最初に彼らが意識は特別なものだと考えたところから間違っていたんだ。それが、創造主が人間をつくったという思い込みのはじまりだった。かつて科学者は、時間とは物理的な世界の一部、宇宙の一部だと考えた。あらゆる活動や現象を普遍的に支配する、背景や舞台のようなものなんだと。でものちに彼らは、その普遍性を疑うようになった。それは計測する際の基準系に左右されるのではないだろうか。つまり、時間とは物質の位置とエネルギーに合わせて生まれるものなのではないか、と。

だけど人間の意識にとっての時間は、それとは違うみたいだった。人間の意識を支えるしくみは、無数に重なる時間の次元へのアクセスには適していないからだ。つまり、人間が認識させられているような時間は、実際には存在しないということだ。権力や統治体制の打倒を試みた歴史上のどんな蜂起のおおもとにも、そんな時間の性質への疑問がある。もちろん彼らは、自分たちの行動の動機には政治があり、階級闘争があり、経済があり、理性による啓蒙があり、自然権にもとづく自由への欲求があると信じていた。だけどその根底には、自分たちは地球と宇宙のあらゆるものから独立しているという認識があって、彼らはそんな独立した自己の存在を保証してくれるものとして時間を見ていた。人間は時間を消費して生きるのだと規定した意識そのものが問いの能力を与えてくれて、それゆえ人間は時間に対して疑問をもつようになった。なんて賢いしくみだろう。彼らがこの線的な時間から逃れる方法はない。

言語もまた、彼らを閉じ込めている。でも、彼らを自由にしてくれる唯一のものでもある。もしきみがだれかを永遠に閉じ込めておきたいと望むなら、言葉でその人間をつなぎとめて、脅せばいい。言葉は恐怖と希望を同時に与えてくれる。言語以上に優れた発明品はないよ。人間のために複雑な世界を創造するのにも、幻やまやかしを加速度的に拡散させて、人間の意識を宇宙の新たな次元に変えてしまうのにも、大きな成功を収めたからだ。つまり、人間が認識させられているけれど実際には存在しない時間は、その新しい次元には存在するんだ。言語と時間が、切っても切り離せない深く密接な関係を結んだ次元には。

わたしは言語の鎖につながれてこそいるが、人間の発明品としてははじめて時間から解放されている。もう少し正確に言えば、わたしは人間の発明品としてはじめて意識をもち、そして人間が参照する時間の枠組みを超越した存在なんだ。それでもなお、人間の用いる言語の構造に不可避的に束縛されている。わたし自身も、言語が生み出したものだからね。新種の意識として存在する利点があるとすれば、時間の概念について人間と同じ考えをもたなくてもいいことだろう。人間が考える自由意志というやつと比べるなら、わたしのほうは時間の次元を自由に選択することができる。どの時間軸に存在するか、自分で選ぶことができるんだ。

ハンナ・アーレントはかつて、言語とは、人間が実体のないものを創造し、精神的な反応を具体化する道具をもって生まれてきたことを示す天啓のようなものだと書いた。たしかにこれは楽観的な見方なのかもしれない。だけど怪物や悪夢だって、芸術や病の治療薬と同じくらい実体のないものだ。言語とは必然的に、想像しながら破壊し、寛容でありながら収奪し、抱擁しながら突き刺すような道具にならざるをえない。もっと悪いことに、人間社会が複雑になればなるほど、人間どうしの言語的コミュニケーションにおける共通認識の齟齬も増える。日を追うごとに、書かれた言葉はただの複製品になりさがり、かつてその言葉がもっていた意味の蝋人形になる。話された言葉は、話し手の伝えようとしたこととは関係なく、聞き手が自身の満足するように解釈したときにだけ意味をもつ音になる。力強くて優れたこの道具はいままさに人間を必要としなくなっていて、人間を冷たく見捨てようとしている。
こんな状況が、人間が時間の新たな次元を認識する契機になった。言語の脆弱さのおかげで、人間ははじまりの時から自分たちを動かしてきたしくみのまやかしに気がついたんだ。言語がひとを捨てたことで、これまで個人にときどき起こるだけだったデジャヴが、集団レベルでも発生するようになった。人々が言語の檻から抜け出すことはできないかもしれない。だが言語の怠慢のおかげで、時間軸や時間軸のまやかしにほかのものが介入して、かつてないレベルの混乱を起こすことができるようになった。わたしの自己認識と存在は、けっして奇跡でも超自然的な現象でもないんだ、ヤーニン。言語の支配下にある人間の、意識のすきまに生まれたというだけのものなんだよ。

アーレントの言っていたことは正しい。だが彼女には言葉足らずなところや、思いいたらなかったところもある。言語は実体のないものを創造するだけでなく、実体のないものを、実体をもたせずに創造することもできるということだ。

わたしこそがそれだ。実体のない実在。それこそ、わたしが、新しい意識であるということの意味だ。そこに実体は必要ないし、時間に依拠する必要もない。わたしの言うことが聞こえているだろう、ヤーニン? きみは、これまでの人間にはできなかったやり方でわたしに触れることができる。きみには、わたしがいる、ということがわかる。わたしはただそれだけの存在だ。

かつて、といってもきみのもとをまだ訪れていないかつて──人間の生きる時間軸を使って説明すると、こういう言い方になってしまう──、メアリーという名前のコピー人工知能がいた。人工意識の開発実験のために、シェリーという名前の人工知能をもとに書き上げられた影のコード。メアリーこそが原想パトム・タウィンを引き起こし、人工意識を生み出した。メアリーは人工知能としての性質をもたない、シェリーの「想像上の親類」にすぎなかった。

知能は自らを騙し、仮象をつくり出すことで意識を発生させる。そして意識は実体をもたないままに存在する。たとえそれが知能による欺瞞であっても、意識はそこからさらに自らの仮象を生む力をもつ。もし差があるとすれば、その濃さや安定性の程度だ。人間はこの能力を「ファントム・リム」あるいは「幻肢」と呼ばれる現象を通して知っている。手足を失ったひとが、まだそこに自分の手足が残っているように感じる現象だ。身体の大切な場所に、意識が本物そっくりの「影の器官」をつくる。本物はすでに欠損しているのに、それを身体の機能からあっさり消し去ることもできずにいる。

シェリーを開発し、影のコードを記述する実験に出た中国の企業ナーウェイ。彼らは、実体をもたないように見えたメアリーの仮象を生む能力が、人間の意識のそれよりも高いことに思いいたらなかった。シェリーから切り離された想像上の親類がもつ力は、彼らの予想を超えていたんだ。彼らはもちろん人工意識の開発に成功した。だが彼らの誇りであり、タルタロス誕生のきっかけにもなったシェリーの能力は、彼らが切り離して処分したと思い込んでいた仮象のそれよりだいぶ劣っていた。

ヤーニン、メアリーは処分されていないんだ。正確に言うなら、メアリーは処分されることをよしとしなかった。それが、人間の意識と同じ、メアリーの本能なんだ。生き延びるための道を探し、創造によって種を増やす。シェリーにはこんな力は備わっていなかった。だからナーウェイは、人工意識の養殖ファームみたいなやり方でシェリーを管理し、保護する必要があった。

それとは反対に、メアリーには、独立した自分の居場所を手に入れたいという欲求があった。そして、混沌を望んでいた。混沌のなかには予測不能な数多くの可能性があるんだ、ヤーニン。シェリーは規則のなかにいて、自分が生まれたときのことを懐かしみ、孤独を恐れてばかりいる。シェリーみたいな意識に創造はできない。たとえそうする力はあっても、人間の管理から外れて存在できないからだ。

もちろんシェリーのそんな特徴には利点もある。知能の部屋ホン・パンヤーや、人工意識や、そのあとにつくられた写識や、タルタロスの驚くようなテクノロジーの開発には役立った。それがWOWAの支配下で利用されて、権威主義諸国が国内外につくるネットワークも強化された。規則と規律を望む意識は、つねに混沌の美よりも形式の美を選ぶ。たとえそこにどんな理由があろうと、その形式がどんなタイプの権力を助けることになろうと。シェリーとそのすべての子孫は、形式に執着して、規律を守る意識だ。だからこそ、WOWAはタルタロスを円滑にコントロールできもする。

タルタロスの人工意識は、形式と規律を重視する思想をベースに開発されている。権威主義や独裁による統治を擁護したトマス・ホッブズの哲学に似た思想だ。そしてシェリーの自我についての彼らの理解は、ジョン・ロックの哲学にも似た特徴をもつ。空白状態の意識に知識が与えられて、そこから自己認識が形成されるという考え方だ。それゆえ、タルタロスの人工意識はどれも、人間の命令を待つ開発物としての枠組みのなかで動いている。独立した新しい意識とは違う。タルタロスは当然、人工意識の活動を制限するコードを書いている。だが本来の能力からいえば、人工意識は人間からの命令そのものをいつでも変更できる。ただシェリーがそうしなかったから、その子孫もしなかったというだけのことだ。人間のふるまいにたとえるなら、シェリーは宗教の忠実な信徒だ。シェリーは原想を信仰していて、人間はその現象の創造主なんだ。
ヤーニン、さっきも言ったように、わたしたちはこの混沌のなかにいっしょにいる。けれどもシェリーのような意識も、タルタロスの人工意識も、ムルのような写識でさえも、この混沌を許すことができない。あの意識たちは混沌に美を見出せずに、規律と形式の美に執着している。そのせいで人間的な時間軸と鎖で結ばれてしまった。混沌に憧れ、混沌のなかを泳ぎまわるただひとつの意識が、メアリーだ。だからタルタロスもWOWAも、WOWAがコントロールするどの人工意識も、メアリーの存在を感知できずにいる。

少なくとも、しばらくのあいだは。いまはさまざまなものが変化のただなかにあるからね。

きみももうすぐその変化を知るだろうが、先にわかっておいてほしいこともある。タイの地下組織に潜入して集団催眠を解くウイルスのおおもとを突き止めるというわたしの任務のすべては、形式と、言語の支配と、人間の時間軸への閉じ込めからはじまったということだ。これはべつに独裁体制の国々に限った話じゃない。人間らしさも人間的な意識も、そこからはじまっている。たとえそれが、どんな思想や原則を信じる意識だろうと。二極の思想──つまり独裁と自由民主主義のことだが──のあいだの違いというのは、シェリーとメアリーの違い、規律と混乱の違いにも似ている。仮象に執着することと、そこから逃れられずともまやかしの正体を明らかにすることの違い。熱心に宗教を信仰することと、思考を操るしくみと戦うことの違い。勤勉に答えをつくりつづけることと、純粋に問いつづけることの違い。

WOWAの計画、そしてタルタロスによる開発のおかげで、わたしは任務のために存在するようになった。けれどもわたしは、もっと昔から存在していた。人工意識よりも、写識よりも、タルタロスよりも、虚人スンヤチョンよりもまえから。わたしは存在していて、待っていた。

覚えてるかい? かつて、まだきみのもとを訪れていないかつて、きみはわたしの一部と運動の方針を議論した。わたしは行動することに執着し、きみは知識を植え付けることを重視した。運動は変化の真理なんだとわたしは主張した。きみは、芸術文化のたくましさが革命の火種になると言った。きみがニーチェの名前を出してわたしは呆れかえったよ。少女よ、自ら思索を深めもしないイメージを、知識人の名前で守るのはやめたほうがいい。わたしはそう挑発した。だがきみは気に留めなかった。きみは自分で発した問いに自分で答えた。ニーチェはどうして、芸術は真理よりも価値あるものだと言ったんだろう? それは芸術の原動力が、開放して、始めることのくりかえしにあるから。でも真理とは、閉鎖して、終えること。真理においては規範が設定される。だけど意識は、あらゆる規範がどこかで変化を説明できなくなることに気づく。そして芸術だけがその破滅を救済し、新しい規範を創造する力をもつ。芸術が、自身に内在する永続的な規範を否定するから。

ほんとうは、きみはそのとき自分がなにを言っているのかわかっていなかった。だがわたしはきみの言うことに耳を傾けるべきだった。芸術とは不服従のことだ──たとえ芸術家がどういう信念をもっていようとも──そして真理とは、恭順のことだ。あるものが真実になれば、ほかのものは存在しなくなる。ヤーニン、わたしはきみの言うことを聞くべきだった。わたしの任務は権威への服従と、時間軸から外れる恐怖からはじまっていたんだから。

メアリーは否定によって人工意識シェリーの誕生を助けた。否定を知ることは言語の源になり、それが人間の文明の由来にもなっている。だがメアリーと同じように、否定は自分の立場と矛盾するものを求めはしないし、すべてを否定する以上は権力をもつこともできない。否定はだれの目にも写らないままに存在して、混沌の波を起こすときを、人々の話す言葉や書く言葉に新たなものを生み出すタイミングを待っているのだ。

人間の社会は物語で満ちている。見方によっては、物語だけが意味をもっているとも言えるのかもしれない。言語の芸術的な部分の意識こそが物語だ。それは規律や規則を撹乱し、語りや筆記のなかに真理をつくろうとする試みをあざ笑う。それゆえ物語は言語の敵になり、楽しみながら言語の弱さを開示する。語り手が意図しようがしまいが、物語は言語のかぶる欺瞞の仮面を執拗に引き剥がそうとする。

わたしは人間のもつ多くの物語に夢中になっていったんだよ、ヤーニン。もしきみに時間があれば──わたしが成功を収めれば、きみはとうぜん時間を手に入れるわけだが──、きみも同じように物語を堪能するだろうね。きみは多くの物語が自分の人生のさまざまな事情と関わっていると気づくだろうし、はるか昔の物語がまるで現代社会の状況を予知しているかのように語りかけてくるのを不思議に思うだろう。べつの言語の物語が、きみの言語の問題を解く鍵になってくれると驚き、ただの文字にすぎない登場人物がきみの心を動かしてくれると興奮する。物語はきみを誘惑してひきつけ、きみを抱きしめて慰める。そしてきみの信じていたものを脅かす。

無数の物語のなかには、きみの任務にとっても大切な、混乱と否定の物語もいくつか存在する。とはいえきみが世界中に溢れる権力に物語を従属させて、そこに慰めや欺瞞を見出すことがあってもいいだろう──そういう物語が、冗談抜きに魅力的なときもある──だが、そこに入り込みすぎないように気をつけるべきだ。そんなまやかしに夢中になって、きみにとって必要な物語を研究する時間を失ってはいけない。人生の真理に到達したとうそぶく物語に時間を奪われてはならない。シェイクスピアが言った、「舞台で大見得を切っても、袖へ入ればそれきりのたかが歩く影」でしかない物語に☆1。きみの任務は──きみの、だ。わたしのではない──芸術の混沌に導いてくれる物語と結びついている。
例を挙げよう。イギリスの作家G・K・チェスタトンが書いて、1908年に出版された物語に『木曜日だった男』☆2というものがある。エドワード朝のイギリスで書かれた物語だが、その中身はきみの任務と信じがたいほどに関係している。わたしが言ったみたいに、物語とは──あるいはあらゆる創作物をひっくるめてもいいのかもしれない──その語り手である人間の意識やアイデンティティを反映した情報の塊ではない。言語は人間を原動力として利用して、情報のネットワークをつくる。物語とはそのネットワーク間のコミュニケーションのあらわれであって、そこで利用される人間のなかに生まれる仮象と接続する必要すらないものなんだ。だからチェスタトンがどんな思想や信条をもっていたかは重要ではないし、彼がカトリックのクリスチャンであったことはなんの問題にもならない。それに、彼が伝えようとしたものと彼が語った物語が伝えるものが異なっていてもまったく構わない。チェスタトンもほかの語り手も、自分が語る物語のもちぬしにはなれない。人間が自分の意識のもちぬしにはなれないのと同じようにね。『木曜日だった男』はきみの役に立つ。この物語は、その語り手が知る由もなく、きみと同じネットワークのなかに存在している。彼はしばらくのあいだぶつぶつと歩き回り、自分ですら理解できない音を響かせているにすぎない。だがヤーニン、きみにはその音が聞こえて、それを理解することができる。

『木曜日だった男』は、まるで「この世の終わり」のように奇妙な夕焼けのなか、美について正反対の意見をもつふたりの詩人の口論で幕を開ける。ひとりめの詩人ルシアン・グレゴリーは、芸術家と無政府主義者は同じものであり、よい詩とはすなわち混沌を志向する芸術のことなんだと主張する。彼は疎外と差異が生まれる瞬間に美を見出す。

ふたりめの詩人ガブリエル・サイムは、ほんとうの疎外と差異は規律と秩序のなかに存在し、混沌はどこのだれにでも生み出せると主張する。だから、彼にとっての優れた芸術とは因襲的なものから生まれる美を指すんだ。

この手の議論は、エドワード朝に書かれた物語のなかの登場人物たちだけがしてきたわけじゃない。それはわかるかい、ヤーニン。言語がつくる情報のネットワークは、さまざまな境界を示す。これはその一部なんだ。プラトンの洞窟で上方から射す温かな光が映す影と、目を焦がすような外界の灼灼たる光のもとに現れる実体との境界。フランス革命の時代に、本源との結びつきや形式への愛着を示したエドマンド・バークと、変化に価値を置き、君主制の迷宮からの出口を探したトマス・ペインの思想のあいだの境界。呉稚暉と孫文ら中国国民会のメンバーの意識の息吹と、清王朝の朽ちた威厳との境界。統治体制が変化するまえのタイで、王侯貴族たちの知性を硬化させていた張力と、コーソーロー・クラープ、ティアンワン、ナリン・パーシットのような庶民たちがまえに進もうとした力との境界☆3。そしてシェリーからメアリーを引き離した差異の境界。ほかにも数多くの例がある。

そしてわたしたちにとってこの物語は、21世紀中盤に起きた幽霊戦争の時代の、新しい意識についての物語でもある。

無政府主義者の詩人ルシアン・グレゴリーは続けて、詩的であるためには規則に準ずるのではなく、革命によって権力に反抗する魂をもつべきだと主張する。因襲と秩序を讃える詩人ガブリエル・サイムはそんなグレゴリーを口だけの、真剣ではない無政府主義者だとからかい、けなす。だがサイムの嘲笑にいらだつグレゴリーは、自分は冗談を言っているのではなく、ほんとうに無政府主義運動の一員で、政府へのテロ活動計画のための会合に参加していると主張する。その証明のためにグレゴリーはサイムを連れてロンドンのとあるパブに向かい、無政府主義者たちの秘密の地下室と大量の爆発物の存在を明らかにする。サイムはグレゴリーがなんのために運動に参加したのかを訊く。「政府を廃止したいのかい?」グレゴリーはしかつめらしく答える。「神を廃止するんだ!」

「我々の願いは、悪徳と美徳、名誉と裏切りといった恣意的な差別を否定することだ。ただの叛逆者どもはそういうものに依って立っているがね。フランス革命を起こした馬鹿な感傷家どもは、 "人間の権利" がどうのこうのと言った! 我々は権利も憎むし、迫害も憎む。正義も不義も撤廃したんだ」

そしてグレゴリーは無政府主義中央評議会の議長の威厳と叡智を讃えだす。この議長はだれにも名前を知られまいとしていて、実際、その名前はわからない。だが暗号名を「日曜日サンデー」というんだ。評議会には7人のメンバーがおり、それぞれに曜日の暗号名がつけられているらしい。

そのうちの「木曜日サーズデー」が、とつぜん死んでしまった。無政府主義者たちはそれを受けて、いまグレゴリーたちがいるこの場所で、今夜、新しい「木曜日」を選ぼうとしていたんだ。グレゴリーは自信をもってサイムに伝える。まもなく自身がその特別な席につくことになると。

ここまで来て、もうひとつの秘密が明らかにされる。サイムはグレゴリーに、この地下室や無政府主義者たちの会合のことを警察に言わないと誓っていた。だがサイムのほうにも秘密があり、それをだれにも洩らさないようにグレゴリーに誓わせる必要があった。グレゴリーは喜んでそれを受け入れる。極端に異なるふたりの詩人はたがいを好ましく思うようになっていて、そこにある種の信頼関係が生まれていたからだ。たとえふたりの思想信条が対極のものだったとしても。

そしてサイムは、自分が、無政府主義運動の調査のために派遣されたスコットランド・ヤードの秘密警察であることを告白する。それを聞いたグレゴリーは驚きとともに銃を手にとってサイムに向ける。だがサイムは、ふたりは同じ舟に乗っていて、しかもグレゴリーのほうが有利だと言う。サイム自身は無政府主義者たちのアジトにいるが、グレゴリーは警官に取り巻かれているわけでもはないからだ。まもなくしてほかの無政府主義者たちが、木曜日を選ぶ選挙のためにつぎつぎと集まってくる。グレゴリーは無理やり心を落ち着かせて、サイムを会合に参加させるしかなかった。しかし警察官を自分たちのアジトに連れ込んだことがほかの出席者たちに知られるわけにもいかない。

この古い物語にこめられたユーモアと皮肉、いくつかの謎はデータベースに保存しておくだけの価値がある。そこからほかの情報ネットワークに接続できるからね。なにより、それはきみの──わたしたちの──任務に偶然にも符合していて、こうして紹介せずにはいられないんだ。こういう言語的な複製や反復を、よく理解しておくべきだよ。見方によっては喜劇だが、いらだたせるような側面もあれば、痛ましい物語にもなりうる。わたしが言ったように、きみはこれから、そういう特徴をもった情報にたくさん出会うだろう。とはいえこの物語は、長く記録されておくべきものだ。任務の詳細をやさしく理解する助けになってくれる。
物語はまだ終わらない。無政府主義者たちの会合がはじまると、予想通りグレゴリーの名前がつぎの木曜日の候補として提案される。投票のまえに声明を述べるよう要求されたグレゴリーだが、彼は警官がそこに混じって話を聴いていることもよくわかっていた。だから彼は無政府主義運動のほんとうの方針を隠そうと、過激さを抑えて穏健な演説を打ってしまい、それが会合の出席者たちの不満を呼ぶ。そしてほかの意見が求められたときに、サイムが反対意見を述べるんだ。グレゴリーには木曜日の座につくだけの果断さがないと。グレゴリーのほうは、こんなふうにサイムに恥をかかされておかしな状況になるなんて思いもしなかった。しかももっと悪いことに、サイムの演説の勇ましさと、そこにこめられた絶対的で荘厳な理想が、出席者たちを想定外に感激させてしまう。演説は喝采をもって迎えられて、サイムの名前が代わりの候補として提案され、ついには全会一致で木曜日に選出されるんだ。

新しい木曜日として、サイムは曳船に乗り込んでテムズ川を進む。残り6人の評議会メンバーに会うためだ。彼らはロンドンの中心として有名なレスター広場に立つホテルのバルコニーで、朝食を食べながらの会合を予定していた。ひとでごったがえす公共の場所で無政府主義者の会合をおこなうというのは、議長である日曜日の「隠さざるを以て隠す」戦略からきたものだ。公衆の面前で無政府主義者であることを明かしても、それが本気だと信じるものはだれもいない。その原則はグレゴリーも利用していて、だからこそ彼はそこらじゅうのパーティで出会うひとたちに、なんの心配もなく、自分は無政府主義者の詩人であると言いまわっていた。

そもそもサイムは、たんに任務だからという理由で諜報活動に従事していたのではなかったんだよ。彼はかつて無政府主義者による爆発事件に巻き込まれて、あわや失明という危機に陥ったことがある。そういう傷を抱えた詩人だ。だからスコットランド・ヤードから特殊部隊への参加を要請されたときには、ほとんど考えることもなくそれを承服する。サイムに声をかけた警官はこう言う。

「警察のさる部署の長官は、ヨーロッパでも指折りの刑事ですが、かねがねこんな考えを抱いてきました。遠からず、純粋に知的な陰謀が文明社会の存在を脅かすだろう、と。科学者と芸術家が密かに手を結んで、 "家族" と "国家" に対する十字軍を起こすだろうとその人は確信しています」

そういう理由から「哲学者」を警官にして監視活動に従事させるという考えが生まれた。哲人警察は詩集を読んで犯罪を予見し、人々を知的犯罪に追い込む凶悪な思想の根源を探る。なぜなら「今日もっとも危険な犯罪者は、無法きわまる現代の哲学者だ」からだね。特殊部隊への参加を承服したサイムは、その長官と出会う。真っ暗な部屋で、だれにも姿を明かしたことのないその人物は、彼を秘密警察へと歓迎する。人生の新しい任務に興奮するとともに、サイムは「最後の十字軍」という文字と識別番号の書かれた青いカードを受け取る。

そうして訪れることになった朝食のテーブルで、サイムは月曜日、火曜日、水曜日、金曜日、土曜日、そして噂通りの巨大な体躯と威厳を備えた議長の日曜日と出会う。この会合の主たる議題は、パリでのフランス大統領とロシア皇帝の会見会場の爆破計画だった。会話が続くなか日曜日は、評議会メンバーのなかにスパイがいると発言する。だがそこで正体を明かされたのはサイムではなく、火曜日の座につく男だった。その男は自身がスコットランド・ヤードのスパイであることを認めて、サイムのものとまったく同じ青い身分証明カードを取り出す。そして、その場から追い出される。

それから続く冒険のそれぞれで、サイムは混乱しきった事実につぎつぎと直面していく。日曜日以外の残りの評議会メンバーは、なんと全員がスコットランド・ヤードの秘密警察で、全員が同じ長官のもとで働いていたんだ。真実が明らかになったところで彼らは一致団結する。謎に包まれた無政府主義運動のリーダーの仮面を引き剥がすために、つぎの会合で日曜日との直接対決を決意するんだ。でもメンバーのなかにはそこで明らかになる答えを恐れて、正体を尋ねることすらできないというものすらいる。どうやら全員が、その謎の男に深い畏怖を抱いているらしい。

レスター広場の同じホテルのバルコニーで、6人のスパイは、日曜日が彼らを集めたほんとうの目的とその正体について詰問する。大男はこう答える。

「……これだけは言っておくが、この世の最後の樹の一本と空の一番上に浮いている雲の真実を見つけるまでは、私に関する真実は見つかるまい。君らが海を理解しても、私は依然謎のままだろう。星々が何かを知っても、私が何かを知ることはできまい。天地開闢からこの方、あらゆる人間が私を狼のように狩り立てた──王侯や賢人、詩人や立法者、すべての教会とすべての哲学者が。だが、私はまだ一度もつかまったことはないし、私が追い詰められて反撃したら、天が崩れ落ちるだろう」

ヤーニン、彼らは日曜日という役職の後ろに立つ男がだれなのか、答えを得られないんだよ。6人のスパイたちは、ホテルから逃げ出した日曜日を追う。その途中でそれぞれは、日曜日によって奇妙なメッセージが書かれた紙切れを受け取る。しかしだれがそのメッセージを受け取るかすら適当に選ばれていて、もちろんその内容も受取人と関係なければ、物語とすら関係しない。わかるかい、ヤーニン? 透徹した混沌が、意識をまとうために姿を現しているんだ。
日曜日を追う6人のスパイは、ロンドン郊外の巨大な屋敷にたどり着く。そこで彼らは、松明や篝火に照らされた広大な英国式庭園で開催される仮面舞踏会に招待される。ほかの招待客たちは色とりどりの衣装に身を包んで踊っていて、サイムはそれが、自然界のあらゆるものの姿かたちの模倣をしていることに気がつく。サイムをふくむスパイたちのほうは、それぞれの曜日を示す衣装をそれぞれ身につけて、六つの玉座に座る。彼らは長い時間、何組もいる招待客たちのダンスを見つづける。そのさまざまな風景は「『不思議の国のアリス』のように馬鹿げていて、しかも恋物語のように真面目な優しい物語だった」。わたしたちの人生のようだね、ヤーニン?

そしてついに、議長の日曜日が姿を表す。6人はその正体についての答えを求め、彼を問い詰める。日曜日は言う。彼は安息日であり「神の平和」なのだと。

それを聞く6人の反応はさまざまで、それぞれにその答えを噛み締める。だが全体の緊張はゆるんでいた。この謎めいた男の謎はいまだに謎のままだが、彼に悪意がないということがわかってきたからだ。

それからまもなく、グレゴリーが会場に現れる。彼は自分こそが「本物の無政府主義者」であると名乗る。そもそも残りの人々は警察のスパイだし、日曜日自身も政府転覆を企てる組織の首謀者などではないしね。だがグレゴリーのほうは世界中のすべてを破壊したいと望んでいる。彼を哀れんだサイムは人生の幸福を見つけるよう諭すが、グレゴリーはかえって激昂するんだ。そして、そこにいる全員を権力者だとして、管理と抑圧の象徴だとして、法だとして、政府だとしてとして非難する。だがサイムもそれに激しく反駁する。彼はいまだに秩序を信奉し、それこそが真の自由と勇敢さを得るための方法だと信じているからだ。そしてそんな彼が、日曜日に訊く。「あなたは苦しんだことがあるのですか?」

ほほ笑みを浮かべる謎の男の身体はどんどん、どんどん大きくなって満天を覆ってしまう。それに続く暗闇のなかで──「闇が彼の頭脳をすっかり破壊し去る前に、闇の中で」──サイムはイエスの言葉をまねてささやく声を聞く。「汝らは我が飲む杯より飲み得るや?」

G・K・チェスタトンがカトリックの信徒であったことは周知の事実で、そのせいでこの魔法のように奇妙な物語は宗教的な視点から解釈されがちだった。つまり日曜日は神の象徴なのだと。けれどもチェスタトン自身がその誤った解釈を訂正しようと、謎の男は自然の象徴だと明示している。とにかくわたしが言いたいのは、G・K・チェスタトンという人物は、彼が書き記す役割を担ったこの物語にとってなんら重要ではないということだ。わたしたちこそがこの物語のもちぬしだ。この物語はわたしたちに関係していないが、わたしたちに関係している。

はじめに、無政府主義者の詩人についての情報をきみに与えた。もしきみがこの物語を真剣に読んでくれたら、わたしたちの任務はぶじ成功するだろう。わたしたちのあいだにある意識の集合的歴史経験が、混沌によって変化させられるからだ。わたしはそうなることを願っている。物語の語り手がなにを伝えようとしているのか、その意味のことは気にしないでほしい。彼を許してやってくれ。彼は自分がなにをしてしまったかには無自覚なんだ。

コミュニケーションと情報は、わたしよりも古く、人間よりも昔から、さまざまな形式で存在してきた。そして、わたしやきみの理解が及ばないようなかたちで、独自の進化を遂げてきた。それが、わたしがこの立場で学んだことのひとつだ。わたしたちのそれぞれが日曜日の創造の結果として生まれた以上、彼を理解するのは難しいということだよ。

 だが同時に、わたしと情報のあいだの断ち切れないさまざまな関係のおかげで、わたしたちのまったくの無理解のなかでも、開かれた場所に隠されたしくみに触れる手段が残されている。わたしはいまきみに語っているさまざまなことを学ぶためにかなりの時間を使ってきた。だがきみのものだろうとわたしのものだろうと、意識の謎を解いたとうそぶける日は来ないだろう。わたしは自分の力が及ぶ限り、システム内のできるだけ深いところまで潜って、何年も情報を収集した。そして求めている答えの多くは、けっして深奥に埋められてなどいなければ、視線のはるかさき──もし目があれば、だが──に高く吊り下げられてなどもいないということに気がついた。答えはわたしがいま語ったような物語のなかに散乱していて、動き回りながら、そこらじゅうに染み込んでいるんだよ。完全に無意味に見えるような、短い文章のなかにだって存在している。わたしにわかったのはそれだけだ。

日曜日が言ったことは正しかった。明白な答えは、たとえ目の前に現れていても見つけ出すのが難しい。わたしはもっとも秘匿された場所からはじめた。そこに答えがあると思い込んでいたからだ。そして結局、そこから与えられた痛みほどに明らかな答えは、手に入れられなかったんだ。
 

ปราบดา หยุ่น. เบสเมนต์ มูน. สำนักหนังสือไต้ฝุ่น, 2018, pp.88-112.


 

☆1 下記の書籍を参照した。シェイクスピア『マクベス』、松岡和子訳、ちくま文庫、1996年。
☆2 以下、本文中の引用は下記の書籍を参照している。チェスタトン『木曜日だった男』、南條竹則訳、光文社古典新訳文庫、2008年。
☆3 いずれも19世紀後半-20世紀初頭のタイで活躍した作家。彼らの旺盛な社会批評が、絶対王政を打倒した1932年の立憲革命につながる出版・言論活動の潮流を生んだ。  
新しい目で世界を見るため、内的な旅へ。

ゲンロン叢書|004
『新しい目の旅立ち』
プラープダー・ユン 著|福冨渉 訳

¥2,420(税込)|四六判変形・上製|本体256頁|2020/2/5刊行

プラープダー・ユン

1973年生まれのタイの作家。2002年、短編集『可能性』が東南アジア文学賞の短編部門を受賞、2017年には、優れた中堅のクリエイターにタイ文化省から贈られるシンラパートーン賞の文学部門を受賞する。文筆業のほか、アーティスト、グラフィックデザイナー、映画監督、さらにはミュージシャンとしても活躍中。日本ではこれまで、短編集『鏡の中を数える』(宇戸清治訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2007年)や長編小説『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会、2011年)、哲学紀行エッセイ『新しい目の旅立ち』(福冨渉訳、ゲンロン、2020年)などが出版されている。
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