日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(11) パブリック・マネーの美学/感性論について──1月31日から2月17日|田中功起

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初出:2022年2月25日刊行『ゲンロンβ70』

 コロナ・ウイルスの感染が拡大してから2年間ほどがすぎた。

 かつてのスペイン風邪のようなパンデミックならば2、3年は終息までに時間がかかるかもね、と言われていたけど、そのとおりになった。感染の波は大きくなったり小さくなったりしながらそれでもつづいている。この2年、感染拡大を抑止するためにステイホームが求められ、緊急事態宣言によって多くの飲食店などが営業を自粛し、さまざまなイベントが中止になった。やっと日常的な生活が戻りつつあった2021年後半は一瞬に過ぎ去り、2022年の今年に入ってオミクロン株が感染拡大し状況はまた不安定になった。

 どのくらいのひとが覚えているかわからないけど、コロナ禍初期、文化芸術に関わる人びとから公的な緊急支援を求める声があがった。ミニシアターや小劇場での映画や演劇、音楽のイベントも多く中止になっていたから、それらのジャンルでは早い段階でさまざまな声が集められた。そして美術も、少し遅れて、政府によるコロナ禍下における文化支援の第二次補正予算が組まれるころ、アーティストを含む関係者が集まり「美術への緊急対策要請書」★1がまとめられた。それは2020年7月の話。

 ちょうどそのころ、ぼくはといえば娘が産まれ、育児の日々が本格化する。art for all という名前でいまも継続している上記の要請書をまとめたグループには、なかなか貢献できていないけれども、付かず離れずな感じで関わっている。このグループの当初の目的は美術分野への公的な緊急支援を求めるものだったが、次第にアートの労働環境の改善に向けた動きに移行している。

 



 少し確認しておきたいけど、日本国内の現代アート業界はそもそも規模が小さい。それでもときにマーケットがバブルで沸くことがある。数年でだいたいバブルは下火になり、そのサイクルをくり返している。アート業界を支えるものとして、さらに地方公共団体が資金を提供する地域芸術祭(いわゆる「ビエンナーレ」や「トリエンナーレ」)があるが、これもコロナ禍以前は活発だったと思う。かつてぼくがまだ大学出たてのころ、市場とビエンナーレを対立軸としてとらえていて(少しでもヨーロッパやアメリカでの動向を知っていたらそういう結論に達する)、市場中心主義的な作品とビエンナーレなどで発表される実験的なプロジェクトを対比し、ラディカルなアーティストは後者であるべきだと思っていた。ある時期まではこの枠組みは有効だったかもしれない。でもいつからか(あるいははじめから?)この対立は対立ではなくなっていた。

 国内の状況は正直、残念な感じだけど、それはマーケットも地域芸術祭も、それぞれを所与の条件として「傾向と対策」で生み出されたアートが多いからだ。現代アートは隙間を埋めるお飾りか内容がないもの、と思われているゆえんはここにある。無難な美しさか、行政の都合のよいものしか作られない、と書くと怒るアーティストもいるだろうか。でもこれは仕方のないことでもある。人間は環境に適応して生きていくから、漫然と制作をつづけていれば自ずとそうなってしまう。ぼくが生活の拠点を変えたり、新しいテーマを求めてきたのは、自分の怠け癖がわかっていたからで、そうでもしないと環境や雰囲気に飲まれてしまう。

 海外の状況は個々の地域で大きく異なるし、切実な表現も相対的に多いから一概には言えないけど、主にヨーロッパのアート・フェアやビエンナーレが主流だから、それについて書いてみる。例えばスイスで行われるアート・バーゼルとイタリアのヴェネチア・ビエンナーレは、それぞれ傾向が違うにもかかわらず、出ているアーティストがかぶっている。アート・バーゼルというギャラリー主導で行われる見本市に出品するアーティストたちも、美術館などのキュレーター主導で行われるビエンナーレや企画展に参加するアーティストたちも、顔ぶれにほとんど差がない。

 もちろん政治色の強いマニフェスタやドクメンタという展覧会では多少アーティストのリストに変化があるけど、それでもそれらのメジャーな展覧会に参加したということだけですぐに市場価値が上がるのは確かだ。例えばヴェネチアでもドクメンタでも、参加すると、その前後に行われるバーゼルで売買されやすくなる、という関係がある。ぼくもヴェネチア・ビエンナーレに参加したことでヨーロッパで知られるようになり、それが多くの別のビエンナーレや美術館の展覧会へと繋がっていったし(いまでも海外での展示が中心だ)、バーゼルを含むアート・フェアでも取引されてきた。

 



 そもそもマーケットに順応することも、ビエンナーレに順応することも、ともに問題があり、それらの活動を支えるお金の出所も、グローバル資本か、パブリック・マネーかの違いがあるにせよ、それぞれにそれぞれの問題もあって、白黒はっきりした潔癖な態度では臨めない。むしろその複雑さのなかで、できることをする、しかないというのが、つまらない結論だけど、さしあたりのやりかたになる。

 



 マーケットが多少とも分かりやすいのは、作品とその金銭的な価値がシンプルに交換されるだけだから。あいつは売れる作品しか作っていない、という批判はできるかもしれない。でも売れる作品を作りつづけることもなかなかたいへんである。

 他方、パブリック・マネーはそれを提供する公的機関の権威と紐付いているから、その点、かえって関係がグレーだ。もちろんパブリック・マネーを使ったプロジェクトや支援を受けたアーティストも独立していると見なすべきだし、そもそも本人たちも資金を提供する公的機関におもねる必要はない。とはいえ、怒りを買えば支援のカットは容易に、恣意的にされてしまう。公的支援を求める声は、ロビーイングなどによって政治家への働きかけがしやすい団体だと通りやすい。現代アートにはそうした業界団体がいままでなかった。アーティストは立場が弱いから★2、ユニオン(労働組合)を求める声は前からあった。だからコロナ禍で集まったひとたちがグループを作っていったのは必然だったと思う。アーティストに限らず、アートに関わる活動すべてを「労働」として見直し、その労働環境を改善していくことは必要だ。仕事しやすい環境の方がいいし、無償ではぼくらは生きていけない。環境改善には法的な整備なども含まれるから行政機関とも連携が必要になってくる。

 とはいえ、公的支援を求める/公的援助を受けることの危うさも忘れてはいけない。環境に飲まれて忖度するかもしれないことはどこの世界にいてもあるからだ。

 今回書いてみようと思っているのは、ぼくのなかでここ数年、気になっているこのパブリック・マネーをめぐること。

 



 先に結論だけ書いておけば、危機の時代において、公的支援をアーティストやアート関係者が求めるとき、その求め方の美学(どのように見えるか)が、やっぱり重要なんじゃないか、と思う。自分たちが困っているから助けてください、というのは前提だとしても、ストレートな嘆願や要求ではなく、より大きなフレームを用意する必要がある。

 なぜなら現代のアートがもし社会変革に関わるものだとすれば、それは業界の地位向上のため(だけ)ではなく、あくまで社会の、あるいはひとの感覚の変化に触れなければならない。例えばフリーランスあるいは個人事業主はこのコロナ禍で困っている、だから支援が必要、という前提に立つ。その上で、さらにその個人事業主のなかにアートの仕事をするさまざまな関係者(プロジェクトのコーディネーターからチラシのデザイナー、そして施工業者まで)も含まれますよ、加えてアーティストもフリーランスだし、そしてアート業界の現状は……、というような構えでないと、広く支持をえることは難しい。

 



 ヴァルター・ベンヤミンに「生産者としての〈作家〉」というテキストがある。これは文学者のあり方について書かれているテキストだけれども、現代アートの文脈ではそれを芸術の作り手全般に拡張させた上で参照されている。

 とくにぼくの興味を引くのはこのなかでベンヤミンが「正しい政治的傾向」と「文学的な質」の関係について書いているところ。「[……]ある作品の正しい政治的傾向は、それがその作品の文学的傾向を内包しているからこそ、その作品の文学的な質をも内包しているのです」★3。政治的な正しさを求めると芸術的なクオリティは落ちてしまう、そう考えがちだけど、これに対して、政治的な正しさのなかに文学的なクオリティも含まれちゃいますよ、とベンヤミンは言う。
 ぼくはとあるひとに「あなたのような「正しさ」を求めるひとがいるから業界は窮屈になるのです」と言われたことがある。でもベンヤミンによれば、業界を窮屈にさせるどころか、芸術的なクオリティも上げることになる(さらに業界の労働環境が良くなればそれにこしたことはない)。

 ベンヤミンは同じテキストのなかでこうも書いている。「〈ある文学作品は時代の生産関係に対してどういう立場にあるのか〉と問う前に〈ある文学作品は時代の生産関係のなかでどういう立場にあるのか〉と問いたいのです」★4。「生産関係」を「労働環境」と言い替えてもいい。ある労働環境の現状を肯定しているのか、批判しているのか、と問うことが「対して」に含まれる意味だ。そして、ある労働環境の現状を実際に変えようとしているかどうかを問うことが「なかで」に含まれる意味である。肯定か批判かいずれでもいいけど、現状に対して何かをコメントするだけか、あるいはその労働環境を実際に変えているか、そのいずれかが問われているわけである。もちろん批評的なメッセージは大切だ。でもベンヤミンがここで言っているのは、実際に労働環境をどう改善をしているのか、を問うてみようということである。口先ではなく行動で示せという話ともとれる。

 ただぼくはこの2者を、つまり現状への批評(メッセージ)と現状の改善(行動)、いずれか一方を選べとベンヤミンは書いているのではないと思う。

 社会変革を促すプロジェクトがあったとして、そのプロジェクトは現実を批判するメッセージを発している。バックヤードとして、プロジェクトを進めていく組織の労働環境がある。メッセージとそれを支える行動、というふうにこの2者をひとつのことの表裏ととらえる。もし劣悪な労働環境のなかで社会変革のためのプロジェクトが行われているとすれば、メッセージと行動は相容れず、本末転倒となる。ソーシャリー・エンゲイジド・アートを推し進める美術館やアートセンターがそこで働く人の労働環境を顧みないとすれば、それは間違っている。だから、まずは自身のプロジェクトの労働環境を向上させる。その「生産関係のなかで」生産の手段に関わる、労働環境の問題を改善する。言ってみれば手続きの正しさ、事務を正しく行うことをベンヤミンは言っているじゃないだろうか。

 



 なんとなくまとめてみると……。
A:「対して」 アートのテーマやコンテンツ/メッセージ
A1:社会的に善きことを行う
A2:社会規範からずれているように見えることを行う

 



B:「なかで」 コンテンツを生み出す組織のあり方/行動
B1:政治的に正しい手続きとあり方(ジェンダー平等とか)
B2:間違っている手続きとあり方(隠蔽とか改ざんとか)

 



 そのアートがどんな内容をもっていてもいい。社会貢献でも倫理的に危ういものでも。でもそれを生み出すバックヤードとしての組織のあり方、観客からは見えないその部分は最低限、政治的に正しい必要がある。A(A1でもA2でもいいけど)プラスB1。これがあるべき方程式。

 



 そしてぼくは、背後にある政治的正しさも、結果的に知覚されなければならない、と考える。B1とB2の違いはAという表層でもわかるようになっているべきである。それはアートが社会に、つまりは観客に開かれているかぎり必要な感覚の倫理だと思う。

 以前、アラン・バディウによる道徳(抽象的な普遍性)と倫理(個別の具体性)の違いについて、伊藤亜紗さんを経由して書いたことがある★5。同じ考えを引用したアーティストのワリード・ベシュティのテキストから倫理を知覚することについて書いてみたい。
 ベシュティはバディウによる倫理の定義(普遍を扱う道徳と違って、倫理は個別の状況に対応したもの)を紹介した上で、アート作品の倫理分析とは作品の倫理性がポジティブかネガティブかを問うことではないと言う。問いはもっと複雑で、「芸術作品の倫理的次元は、感性論的な面ではどういう形で顕在化するのか」★6だと。ベシュティはつづけてこんなふうに書いている。アート作品が観客に影響を与えることで観客どうしの新たな関係を作っているとすれば(ベシュティはそれを「社会契約を修正する提案」と言う)、その倫理性はどのようにして作品に見えるようになっているのか。つまり、作品の倫理分析とは、作品のなかで倫理がどのようにして知覚可能かを問うことだ、と。

[……]倫理の感性論とは何かと問うことは、感性論の条件を再定義することであるからだ。感性論が主として知覚の条件を扱い、何を知覚できるか、知ることができるか、何を感覚器官によってとらえることができるか(ランシエールの語彙でいえば「感性的なものの分割=共有」)を駆け引きネゴシエーションを通じて決めていく営みであるとして、自らが社会に基盤を置いているという事実を生産の原材料として受け容れるアート実践を定義してみせるならば、知覚可能にできるもの、見えるようにできるものとは何かを考える際、選択の幅がラディカルに広がるからだ。とすれば、こんなふうに問いかけてみてもいいだろう。現代のペインティングは、自らの制作を取り巻くより広範な社会的含意、たとえば様々な流通モード──この一例が、 ケルシーあるいはジョーズリットが論じているとおり、雑誌、ディーラー、批評家などからなるネットワークだ──に考察を加えるという行為を必然的に取り込むのだとしたら、そうしたペインティングは、上記のような諸力に関する考察から生まれてきたのではないペインティングとははっきり違って見えるだろうか? ★7


 同じ絵画でも、絵画制作と発表をめぐるネットワークをメタ視点から社会的に考察した絵画と、単なる(?)絵画とは、どう違って見えるのだろうか、とベシュティは問う。

 これはもちろん政治的なアートにも言えることだ。ぼくはこの視点を先のベンヤミンに繋げてみたい。社会問題にコミットする政治的なアートを考えるとき、その実現のための組織のあり方が政治的に正しいものと間違っているものがあるとする。同じ社会問題に対する同じメッセージの2つの作品があるとして、その2つの作品はどのように違って見えるのか。はたして観客はどのようにしてその違いを知覚できるのだろうか。

 いや、問いはむしろ逆かもしれない。アーティストはどのようにしてその違いを観客に感覚させることができるのだろうか。

 



 ちょっと遠回りしたようにも思うけど、このベンヤミンとベシュティをパブリック・マネーの話に接続する。

 資金の出所がどこなのかはバックヤードの話。パブリック・マネーを社会変革のために使うのはなかなか難しいと思う。また、マーケットで活発に取引される作品が資本主義のオルタナティブを標榜しても相手にされないだろう。批評的な振る舞いとその批判対象との距離を確保することは必須だ。それによってはじめて自由な批評ができる。批評的な振る舞いという「メッセージ」と、その組織のバックヤードの正しき「行動」は連動していなければならない。

 それでも、一見矛盾に思える組み合わせを可能にする方法もあるだろう。パブリック・マネーを社会変革に「あえて」使う。マーケットでの取引のなかに市場批評的要素を「あえて」込める。もちろん公的機関は一枚岩ではないから社会環境をよくしていこうと考える人たちも多くいるはず。マーケットに関わるひとのなかにも適切な価値の交換が行われるように努力しているひとたちもいるはずだ。しかしアートが、アーティストが、美学つまり感性を扱っているのだとすれば、「あえて」の態度はどのように観客に見えるのか。ベシュティにならってそう問うべきかもしれない。

 例えばそれは文化芸術に携わる人たちが公的支援を求めるときの美学にも関係する。はたして、コロナ禍で困窮した文化従事者が公的支援を求めている、と単に人びとに思われた/知覚されただけでよかったのだろうか。先に書いたようにより大きな枠組み、個人事業主/フリーランス、あるいはもっと広げて市民、いや「市民」に含まれない人びとも包摂するために「住民」と言ってもいいかもしれないし、もういっそ「ひと」でいいと思うけど、つまり、ひとはだれもが等しくベーシック・インカムを受け取るべき、ぐらいの大きな話ができたかもしれない。

 



 なーんて書いているとき、オミクロン株の感染拡大によって多くの保育園/幼稚園が一時閉鎖になり、ぼくらも数週間ほど、娘を家で見ることになった。エネルギーがありあまったその小さな身体を前に、ぼくらは振り回された。楽しかった反面、その疲れが出たのか、ある夜、ぼくの寝言がかなりひどかったようだ。たまにうなされて寝言を言うらしいけど、今回はその寝言というか叫び(?)が長すぎた。夜更かしをしていた妻は近隣でだれかがケンカでもして女性が泣いている、と最初は思っていたらしい。でもどうもこの家のなかでその不気味な泣き声は響いている、と気づく。声の主はぼくであり、隣で寝ていた娘も目を覚ましていた。その悲痛な叫びは静まりかえる近隣にしばらく響いていたようだ。

 もちろんこれはコロナ禍と育児の日常的な風景である。でも同時に、自らの業界について多少配慮しつつ書いている、そんな今回のアート業界について配慮しつつ書くというストレスもあったのだろう。この原稿のなかにどこか防衛的な響きも行間から感じ取れるかもしれない。公的支援なんていらない、と一刀両断にすることもできるけど、コロナ禍下の状況ではそう端的に切り捨てられない。公的支援が必要な、本当に困っているだれかがいることも知っているからだ。知ることで歯切れは悪くなる。それでも状況を一概に言い切れない複雑さも共有したい。これもいわば感覚の倫理である。いかにこの複雑さの感覚を共有することができるのか。業界にいる読者とも、業界の外にいる読者とも。

次回は2022年4月配信の『ゲンロンβ72』に掲載予定です。

 


★1 美術への緊急対策要請書 URL=https://sites.google.com/view/artforall-jp/#h.96saie1p95lp
★2 社会学者の吉澤弥生が『若い芸術家たちの労働』(2011年-2014年)としてまとめた、アーティストを含む、アートを仕事にしている人びとの証言集を読むと、労働環境の過酷さがよくわかると思います。10年前のインタビューにもかかわらず、現在もあまり状況は変わっていないというか。
★3 ヴァルター・ベンヤミン「生産者としての〈作家〉」、『ベンヤミン・コレクション5 思考のスペクトル』、浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、2010年、388頁。
★4 同書、390頁。
★5 「日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(8) 未来の芸術と倫理の未来のため?──7月30日から8月27日」。https://webgenron.com/articles/gb064_03/
★6 ワリード・ベシュティ「倫理の感性論に向けて」、『美術手帖 二〇一六年六月号』、中野勉訳、美術出版社、2016年、89頁。
★7 同書、90頁。
 

田中功起

1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之
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