イスラームななめ読み(10) これからのクルアーン翻訳、あるいはアダプテーション|松山洋平

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初出:2022年12月23日刊行『ゲンロンβ79』
 クルアーン(コーラン)にはいくつもの日本語訳がある。

 最も有名なものは井筒俊彦訳(改訂口語訳版)だろう。岩波文庫に収められ、価格も手ごろなため、手に取ったことがある読者もいるかもしれない。生き生きとした文体が好まれ、今日でも読者は多い。日本ムスリム協会訳『日亜対訳注解 聖クルアーン』は、アラビア語のクルアーン本文も併記されているため、研究者の間でよく用いられている。その他、中公クラシックに収められている藤本勝次・伴康哉・池田修訳も比較的広く読まれてきた。

 さらにここ10年ほどの間にも、以下のような新しい翻訳、および改訂訳が出版されている。



1 中田考監修『日亜対訳 クルアーン』(作品社、2011年)
2 澤田達一訳『聖クルアーン 日本語訳』(啓示翻訳文化研究所、2013年)
3 モハンマド・オウェース・小林淳訳『聖クルアーン 日本語訳アラビア語本文及び、注釈つき[改訂版]』(イスラム・インターナショナル・パブリケーションズ、2016年)
4 サイード佐藤訳『聖クルアーン 日亜対訳注解』(ファハド国王マディーナ・クルアーン印刷コンプレックス、2019年)
5 水谷周監訳『クルアーン やさしい和訳』(杉本恭一郎訳補完、国書刊行会、2019年)
6 クルアーン日本語読解制作委員会訳『クルアーン 日本語読解』(東京ジャーミイ出版会、2022年、電子版)
 以上で言及した翻訳はいずれも、日本語の多少の古さを感じさせる井筒訳を除けば、標準的な現代日本語を用いており、とても読みやすい。「やさしい和訳」を謳う水谷訳にいたっては、「ですます調」が採用され、平易な単語・構文のみを用いることが心掛けられている。小学生でも、高学年であれば挑戦できそうな文体である。

 それぞれに細かい翻訳方針の違いはあるにしろ、読んでわかりやすいこと、そして、意味が正確であることが目指されている点は共通している。言いかえれば、これらの翻訳では、リズム感のある日本語にすることよりも、起点テクストの意味を正確に伝えることがより重視されていると言える★1

「リズムをとるか、意味をとるか」は、かつて、クルアーン口語訳を編むに至る前に、井筒を悩ませた問題だった。後述のように、クルアーンのアラビア語原文は押韻を有し、意味だけでなく、音声的な価値も重視されている。しかし、意味的な正確さを重視すれば、クルアーンのリズミカルな特徴を翻訳に反映させることはできない。逆もまたしかりである。

 結局井筒は、クルアーンのリズム──井筒自身は「リズム」とは言わず(クルアーンの)「口調」と言ったが、これはつまりアラビア語の音が持つ響きのことで、ここでは「リズム」と言い表しておく──を自身の翻訳に反映させることをきっぱりと諦め、クルアーンの持つ「散文的」な側面、「非常にくだけた、アンチームな」★2要素を、ラフな口語体を用いて表現する道を選んだ(なお、今日において、井筒訳の採用した文体を「荘重」だとか「格式張っている」と捉える向きがあるが、それは勘違いであり、井筒訳の文体は極端にくだけたものである)。
 井筒より後、今日までに出版された全ての日本語訳は、「リズムか、意味か」という点においては、井筒の方針──リズムよりも意味を伝えることを重視する方針──を踏襲している★3。完全な逐語訳ではないとしても、およそ訳者の創造性を抑制し、日本語として不自然でない限り、起点テクストの表現をそのまま目標テクストに移す翻訳スタイルで、いくつも日本語訳が出版されているのである。

 しかし、クルアーンを日本語で理解するための優れた翻訳がこのように出揃った今日、意味的な正確さを目指すことから離れ、リズム感のある文体を目指すことに振り切れた新しい翻訳が1つくらいあってもよいのではないだろうか。もちろん、アラビア語のリズムを日本語で表現するのは端から不可能なことだ。筆者が「リズム感」と言っているのは、翻訳された日本語の文章が、日本語としてテンポがよいかどうか、という単純なことである。

 誤解があるといけないので言い添えておくと、筆者はなにも、上述の6つの新訳を含め、これまで出版された様々な現代口語体訳を貶めようなどという意図は持っていない。いずれの訳も、翻訳の文体や語彙の選択において、日本のイスラム教理解の実情と、訳者の学研あるいは経験を反映させた、優れた翻訳である。だからこそ、クルアーンの意味を理解することへのニーズはこれらの翻訳に任せてしまって、文体の問題に主要な関心を向ける、別のスタイルの翻訳が試みられてもいいのではないだろうか。これが筆者の所感である。

文語訳のクルアーン


 じつは、近年出版されている日本語訳とは大きく趣向の異なる翻訳もこれまでに出版されている。

 井筒訳より前には、クルアーンを文語で訳す例が多かった。たとえば、坂本健一訳、高橋五郎・有賀阿馬土訳、大久保幸・小林元訳、大川周明訳などは、文語訳に分類することができる★4

 このうち、大川周明訳を見てみよう。

 大川訳は、井筒が口語訳に反映させることを諦めた「荘重さ」を具えた文語体で書かれている★5。なお、文語体と言ってもさほど古い文体ではない。

 以下は、クルアーンの中でも最も短い章の1つである第94章の大川訳である。

第九四 開胸章 [章の説明略:引用者]
   大悲者 ・大慈者アㇽラーㇵの名によりて
 吾は汝の胸を開き  汝の背を圧したる  重荷を去らざりしか  また汝の名を挙げざりしか。げに苦は楽に伴ひ  げに楽は苦に伴ふ  されば時を得れば即ち刻苦し  専ら汝の主に求めよ★6
 この章は、今日読まれている翻訳ではどう訳されているだろうか。「やさしい和訳」を謳う水谷訳を見てみよう。

94. 胸を広げる章 [章の説明略:引用者]
    慈悲あまねく、慈悲深いアッラーの御名において
1.われらは、あなた(ムハンマド)の胸を安堵させたのではないでしょうか。2.あなたの重荷を降ろしたのではないでしょうか。3.それは、あなたの背中に押し付けられていました。4.またわれらは、あなたの評判を高めたのではないでしょうか。5.だから苦あれば楽ありで、6.確かに苦あれば楽ありです。7.それで仕事を終えたら、次に取り掛かり、8.そして、あなたの主に(何かにつけて願い)求めるのです。★7


 2つの翻訳の雰囲気は大きく異なっている。

 アリ・安倍治夫によれば、大川訳はかつて「夜空に輝く彗星のような存在として、コーランの愛読者から尊重された」★8時期もあったようだ。しかし、現在では記念碑的な位置づけを与えられているだけで、研究者の間でも、信者の間でも、ほとんど用いられていない。

 しかしながら、顧みられなくなった文語訳にも、未だ今日における実用的な価値があるのではないだろうか。

 たとえば、クルアーンを口頭でリズミカルに読み上げる必要がある場面──たとえば、金曜集合礼拝の説教──や、クルアーンの荘重さを保ったまま、大まかな意味を伝達させることが目指される場面──たとえば、宗教間対話の場──ではどうか。これらの場面では、必ずしも現代口語体訳が最適な選択肢とは断言できない。現代口語体訳は、ゆっくりと黙読する場面には適しているかもしれない。しかし、リズム感が犠牲になっているため、口頭で読み上げるとどうしても間延びした印象を与えてしまう。素早く詠み上げる必要があり、細かい意味の解説が必要とされない場面では、未だ、大川訳のような文語訳が役立つはずである★9

七五調の翻訳


 アリ・安倍治夫訳は、七五調を用いた点に大きな特徴がある。

 訳者の安倍は、「訳者の 長年の悲願は/聖クルアーンの 言語的な意味よりは/その荘厳な 内面的な韻律を/朗誦にかなう 明解な日本語によって/日本人の心に 伝えることにあった」★10と述べている。全ての漢字にフリガナが振られているのも、訳文を音読することを念頭に置いてのことであろう。

 なお、クルアーン全体を七五調に訳すのは無理があったのか、安倍が翻訳したのはクルアーンの最後の30分の1の部分──ここには、比較的短い章が集まっている──および第1章のみである。

 大川訳と同じく第94章を見てみよう。

第九四 胸開章[中略]
めぐみあまねく 慈悲じひふかき かみ・アッラーの みにより
1 なんじむねを おしひら
2 重荷おもにすでに りぬ
3 ひしぎたる その重荷おもに
4 なんじ名声めいせい たかめたり
5 ともないて らくいた
6 ともないて らくいた
7 寸暇いとまおしんで はげみつつ
8 しゆ御心みこころに いまつれ★11


 好みは分かれるだろうが、少なくともテンポのよい日本語に訳されている。

 しかし、七五調で訳すとなれば、当然、使用できる表現と語彙の選択肢が狭まり、原文の意味を正確に訳すのは難しくなってくる。実際、安倍の翻訳には精密でない部分もある。語調を整えるために原文には無い言葉が挿入されることもあれば、反対に、原文の言葉が省かれることもある。品詞の転換も、翻訳のために最低限必要な程度を超えて行なわれているようだ。リズム感のある語調は、意味的な正確さを犠牲にすることで成り立っている。

「神の言葉」を訳すということ


 ところで、クルアーンをこのように「自由」に翻訳してしまっていいのだろうか、という疑問を持つ人もいるだろう。

 この問いに対して、「クルアーンの翻訳は、本質的に、一種のアダプテーション、あるいは翻案に近いものである」という視点を導入してみたい★12

「本質的に」と書いたのは、次のような理由による。

 そもそも、「翻訳」と「翻案」の境目は曖昧である。起点テクストを別の言語体系に移し替える以上、多くの場合、翻訳には翻案としての側面が常に伴う。もちろん、翻訳を通じて目標言語の可能性を押し広げるために、起点言語の構造を限界まで翻訳に反映しようとする翻訳スタイルもあり得るだろう★13。しかしながら、クルアーンの場合には、こうした極端な逐語訳の方針を採用したとしても、まだなお、翻訳の末にできあがったものが、一種のアダプテーション、あるいは翻案に近いものであると言える事情が存在する。

 



 そこには2つの背景がある。

 第1に、イスラム教の教義上、クルアーンが他言語に翻訳されたものは、もはやクルアーンとはみなされない。目標言語に移されたクルアーンは、クルアーンとは異なる別のもの、クルアーンの理解を助けるための注釈書として位置づけられる。

 イスラム教の教義では、クルアーンは「アッラーのことば」(كلام الله)であると解されている。それは、アッラーの意志を受けて書かれた書物でも、アッラーの教えをムハンマドが説いた言葉でもない。信者の理解では、それは「創造主のことば」である。したがって、クルアーンが異なる音、異なる言語体系に移し替えられた時点で、「彼のことば」ではなくなる。

 クルアーンと、それが他言語に翻訳されたものは、例えれば、ゾウという動物それ自体と、そのゾウを見ながら紙の上に写生されたゾウの絵のような関係にある。写生されたゾウの絵は、実物にどれほど酷似していたとしても、インクと紙でできた2次元の写し絵であり、生命ある動物ではない。

 クルアーンの翻訳も同様で、たとえ卓越した翻訳者の手によって精緻な翻訳が行なわれたとしても、クルアーンとしては扱われない★14。そのため、世界中のイスラム教徒は、非アラビア語話者であってもアラビア語のクルアーンを読誦する。礼拝の際には、アラビア語のクルアーンを唱えることになっている。

 クルアーンは、翻訳された時点でクルアーンとは別のものになる。そう信者に信じられている。

 クルアーンの日本語への翻訳は、「アッラーのことば」の意味を、現代日本語に移し替える作業である。この移し替えの作業は、イスラム教の教義の上では、単なる2言語間の翻訳というよりも、別の媒体への移し替え、あるいは、「クルアーンの日本語訳」という解説書執筆の様相を呈する。これが、クルアーンを翻訳したものが、一種のアダプテーション、あるいは翻案に近いものであると言える第1の背景である。

 



 第2の背景は、クルアーンが、意味と同時に、その音声的な美しさに価値を置く聖典だということだ。

 ムハンマドが生まれたアラブの社会では、詩に高い価値が置かれていた。部族や個人の栄誉が、詩の美しさによって保たれ、高められた。これらの詩は、文字として書かれ、黙読されるものではなかった。詩の優劣は、人々の前で朗々と謳い上げられることで競われていた。

 クルアーンは、そのような社会の中に、ありとあらゆる詩を凌駕・圧倒する美しさと完全性を有することを自ら宣言する聖典として出現した。「それとも彼らは、彼(ムハンマド)がそれ(クルアーン)を捏造した、と言うのか。言え。それならばおまえたちが、それと同様の章を一つ持ってこい」(クルアーン第10章第38節)という箇所がその宣言にあたる。

 イスラム教の教義では、「使徒」(رسول:特定のメッセージを伝えるために神に召命された預言者)には、彼が本物の「使徒」であることを証明する超常現象=奇蹟(معجزة)が与えられるとされる。ムハンマドには数多くの奇蹟が与えられたと信じられているが、その中の1つがクルアーンである。クルアーンの言葉は、被造物に同様のものを作ることが不可能である(「إعجاز:模倣不可能性」を有する)ことから、神によって与えられた奇蹟に数えられる。

 クルアーンのこの奇蹟性は、意味における卓越だけではなく、音声的な面にも宿っている。

 クルアーンにはときおり、アラビア文字をいくつか並べただけの、意味不明な文字列が登場する。たとえば、第19章・マルヤム(マリア)章の冒頭は、「カーフ/ハー/ヤー/アイン/サード」(كهيعص)という5文字で開始される。

 日本語で「神秘文字」(الحروف المقطعة)と訳されているこれらの文字列は、アラブ人であっても(少なくとも諸学説を学ぶ前に初見で見た限りは)その意味を汲み取ることはできない。一見、完全に無意味な文字の羅列である。

 これらの「神秘文字」が存在する目的の1つは、意味を持つ言葉に耳を傾けなかったアラブの多神教徒の耳に、クルアーンの音を届けることであったと言われる。クルアーンは、意味を持つ言葉によって詩人たちを圧倒したのみならず、意味を持たない文字の羅列が奏でる音声的な美しさだけで、アラブの心を捉えようともした。

 クルアーンの音声的側面が重要であることは、ムスハフ(مصحف)──クルアーンを本の形にしたものをこのように呼ぶ──を開いてみてもよくわかる。

 ムスハフのページ上には、文字だけではなく、文字の上下(ときに左右)に、発音の方法を示すための様々な「発音記号」が書かれている。今日では、記号だけでは表すことができない発音上の規則を、さらに文字に色を付けることで示すムスハフも流通している[図1]。

 
図1 それぞれの色の意味が説明されている。出典=Muṣḥaf al-Tajwīd: Juz’ ‘Amma, n.d., Damascus, Dār al-Ma‘rifah, p. 25.

 
 ムスハフは、「譜面」通りに読むことで旋律が口から流れ出る点で、音譜に似ている。実際、クルアーンの旋律を楽譜に写しとった研究者もいた[図2]。日本の芸術の枠内で言えば、ムスハフは吟譜にも似ている。ムスハフにおいて文字の周囲に振られた発音記号は、ちょうど、吟譜において文字の横に書かれる吟符のようだ[図3・図4]。

 
図2 クルアーン第一章の旋律を西洋楽譜で書き記したもの。出典=Edward William Lane, An Account Of The Manners And Customs Of The Modern Egyptians, fifth edition, London, John Murray, 1860, p. 376.


 
図3 吟譜の一例。文字の右側に吟符が書かれている。出典=野村邦近監修『略符及注解入 吟詠教本 漢詩篇(二)』、日本詩吟学院岳風会、1990年、140頁。


 
図4 ムスハフの一例。アラビア文字の上下に書かれた小さな文字・記号は発音の規則を表す。出典=Hafız Boy Renkli Kur'an-ı Kerim, 2013, Istanbul, Hayrât Neşriyat, p. 587.

 
 イスラム教徒がクルアーンを読む際には、この発音記号の付いたムスハフが用いられる★15。クルアーンの音を正確に発音することは大変重視され、クルアーンを正しく、かつ美しく読む能力は、その人間に社会的な栄誉を付与しもする。宗教学校の初等教育では、クルアーンを正しく学ぶための訓練は欠かせず、今日では、多くの国でクルアーン読誦大会が大々的に開催されている。

 クルアーンは、音声を発し、読誦法に基づいて朗々と読み上げられる聖典である。

 このような性質を持つクルアーンを翻訳する営為は、詩を翻訳することに近い。

 翻訳──特に詩のそれ──において、「文調」「詩想」を移すことの重要性を強調し、それこそが「翻譯における根本的必要條件である」★16と言ったのは二葉亭四迷だった。萩原朔太郎は、外国語の詩を日本語に翻訳する際は「ムード」を伝えることが重要であり、「翻訳」するのではなく、「翻案」しなければならない、と断言した★17。「翻訳王」森田思軒は、原作の気勢を活かすために、原作の「しん」を翻訳すべきだと述べている★18

 言葉の意味を伝えるだけではなく、起点テクストの「文調」「詩想」「ムード」「神」を伝えることは、クルアーンのような聖典を翻訳する際に、第1に目指さなければならない主たる目的(Skopos)であろう。

 クルアーン日本語訳の文体と語調を整える──朔太郎の言葉を借りれば「ムード」を出す──ためには、彼を我に、我を彼に変え、名詞を動詞に、形容詞を副詞にし、文の順序を入れ替え、ときに原文から(少なくとも表面的には)遠く離れる勇気も必要である。

 もちろん、「そんなものはクルアーンではない」と言う声はあるかもしれない。しかし幸い、どのような形であれ、翻訳された全てのものがクルアーンではないことは、イスラム神学が元より保証してくれるところである。

 


写真提供=松山洋平



 


次回は来春刊行の『ゲンロン14』に掲載予定です。

 


★1 もちろん、これらの翻訳間にも方針の違いがあり、特定の視点から見れば全く両極端な翻訳の手法が採用されていると考えることもできる。例えば、「自国化翻訳・同化」(domestication)か「異国化翻訳・異化」(foreignization)か、という基準で考えれば、自然な日本語であることを第一に重視している水谷訳は前者、日本語としてやや不自然な構文も躊躇せずに用いる中田監修訳は後者の方針を採用していると言える。
★2 井筒俊彦訳『コーラン(上)』、岩波文庫、1964年(改版)、305頁。
★3 ハガグ・ラナは、井筒訳を「口語体」、日本ムスリム協会版を「文語体」に分類し、両者の文体を対照的なものとして分析している(ハガグ・ラナ「文体の選択に関する翻訳ストラテジーについての考察──クルアーンの日本語訳を例にして」、『言語社会』、第11号、2017年、78-95頁)。本コラムは、「意味か、リズムか」という点に焦点を当てるため、このハガグの分類とは重ならない。なお、協会版の日本語は話し言葉としての「口語」ではないが、現代の標準的な書き言葉である言文一致体が採用されている。
★4 これらの翻訳の訳者と成立の経緯は、後藤絵美「日本におけるクルアーン翻訳の展開」、松山洋平編、『クルアーン入門』、作品社、2018年、125-173頁に簡潔にまとまっている。
★5 大川周明訳注『古蘭』、岩崎書店、1950年。書肆心水から出ている大川周明訳・註釈『文語訳 古蘭(コーラン)』、上下巻、書肆心水、2010年がより読みやすい。
★6 大川周明訳・註釈『文語訳 古蘭(コーラン)』、下巻、書肆心水、2010年、675頁。
★7 水谷周監訳、杉本恭一郎訳補完『クルアーン やさしい和訳』、国書刊行会、2019年、580頁。
★8 アリ・安倍治夫「大川周明とイスラーム教——闇を照らした大きな流れ星」、『マージナル』、第6号、現代書館、1988年、56頁。
★9 もちろん、声に出して朗誦するからこそ、文語体ではなく、口語体のほうが「親しみ」を持てて良い、という評価もあり得る(ハガグ、前掲論文、92-93頁)。この辺りは完全に好みの問題かもしれないが、既存の翻訳が読者に与えるものが「親しみ」なのかどうかは、検討することもできるだろう。
★10 アリ・安倍治夫訳『日・亜・英対訳 聖クルアーン』、谷沢書房、1982年、278頁。
★11 同155頁、157頁。
★12 アダプテーションとは、ある対象を、その対象が存立する媒体とは異なる形式の媒体に移し換えることを意味する。たとえば、小説を原作として映画を作製したり、反対に、映画を基にした小説を執筆することは、典型的なアダプテーションである。  翻案は、アダプテーションと同義に用いられることもあるようだが、ここでは、ある原作を下地にした上で、その作品の内容を(主に目標言語を使用する人々の文化的環境に沿う形で)改変し、2次創作的な作品を新たに創ることを特に指している。
★13 ルドルフ・パンヴィッツが述べたように、起点言語に究極まで近づいていき、目標言語の型をあえて破綻させるような翻訳を行なうことで、目標言語の可能性を逆に拡張させるような、1つの翻訳の理想がある(ルドルフ・パンヴィッツ「『ヨーロッパ文化の危機』補説(1917年)」、三ッ木道夫編訳、『思想としての翻訳:ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで』、白水社、2008年、166-169頁)。
★14 下村は、クルアーン本文とその翻訳の関係を、国際条約の解釈においてよりどころとなる「正文」と、その「参考訳」との関係に例えている(下村佳州紀「クルアーンはなぜ奇蹟とされるのか」、松山洋平編『クルアーン入門』、作品社、2018年、47-48頁)。
★15 イスラム教の最初期においてはこうした発音記号は発達しておらず、ムスハフには用いられていなかった。しかし、今日では文字のみのムスハフは流通しておらず、必ず発音記号が振られている。
★16 二葉亭四迷「余が飜譯の標準」、『二葉亭四迷全集』、第4巻、筑摩書房、1985年、168頁。
★17 萩原朔太郎「詩の飜譯について」、『萩原朔太郎全集』、第9巻、筑摩書房、1976年、88-98頁。
★18 森田思軒「坪内逍遥宛の書簡」、加藤周一・丸山真男編『翻訳の思想』、岩波書店、1991年、289頁。

松山洋平

1984年静岡県生まれ。名古屋外国語大学世界教養学部准教授。専門はイスラーム教思想史、イスラーム教神学。東京外国語大学外国語学部(アラビア語専攻)卒業、同大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『イスラーム神学』(作品社)、『イスラーム思想を読みとく』(ちくま新書)など、編著に『クルアーン入門』(作品社)がある。
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