韓国で現代思想は生きていた(3)「親日派」問題でみる韓国現代史|安天

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初出:2012年2月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #1』

「親日派」問題


「親日派」という言葉から何を連想するだろうか。多くの方は「日本と親しくしようと思っている外国の人たち」を思い浮かべるだろう。しかし、少なくとも韓国で「親日派」という言葉がそういう意味で使われることはほとんどない。「親日派」は一般名詞として使われるのではなく、例えば「ジャコバン派」のように、歴史の特定の時期に存在した人たちを指す固有名詞としての意味合いが強い。

 僕は韓国と日本がより親しくなり、お互いに対する理解が高まることが両国にとってプラスになると考えているが、だからといって僕が自分を「親日派」として認識することはないし、他の人たちが僕を「親日派」を呼ぶことも一度もなかった。韓国における「親日派」は「昔、日本による朝鮮の植民地化を積極的に推し進めた朝鮮人、あるいは植民地化に賛成しその恩恵を受けた朝鮮人」を意味するのであって、「現在において日本とのより良い関係を重視する韓国人」という意味で使われることはあまりないことを、まず確認しておきたい。だから、「韓国で親日派についての議論が高まる」というニュースが流れたとすれば、それは韓国国内で歴史問題が議論を呼んでいるということで、現在の日本との関係についての議論と直接的な関係はないのだ。それでは、なぜそれが今になって問題になったりするのだろうか。

 今のような形で「親日派」が本格的に問題になり始めたのは80年代である。前回言及したように、「反共」という視点で語られてきた公の韓国近現代史が、軍事独裁を正当化するための支配イデオロギーとして疑問に付され、民主化運動勢力の一部が「民衆」の視点から描き直した韓国近現代史を提示した際、植民地時代から解放を経て軍事独裁に至るまで、一貫して韓国を支配してきた支配層の一部として「親日派」とその子孫という系譜が見出された。

 その裏には冷戦構造が隠れている。日本の敗戦が知れ渡った1945年の8月15日、朝鮮半島では独立運動家でもあったヨ・ウニョン(呂雲亨)を中心に朝鮮人による全国的な自治組織である「建国準備委員会」が急遽組織される。この建国準備委員会は解放後の流動的な状況のなか、日本の旧朝鮮総督府と連携し、朝鮮に在住していた日本人の安全確保にも寄与するなど、治安と行政の維持に成功し、新政府に準ずる機能を担っていた。当時、朝鮮半島では長らく植民地支配に抵抗してきた左派が勢いを得たので建国準備委員会も中道左派的な性格をもっていた。しかし、北緯38度の南側を実質的に統治するため9月に韓国に上陸した米軍は建国準備委員会の政治的地位を一切認めなかった。米軍は冷戦の始まりを意識して、韓国の左派勢力を政治空間から排除し、日本の植民地支配に協力的だった、既存の支配層を重用するようになる。
 続いて起きたのが朝鮮戦争である。この戦争によって韓国社会では「反共」が絶対的な価値として君臨し、「赤」は悪魔の象徴と化し、左派的な思考は徹底的にタブー視され、結果的に左派自体が完全に消滅する。こうして韓国では解放直後、自国の植民地化を歴史的に清算することに失敗し──それから40年もの歳月が流れ──80年代の民主化運動のなかで改めて自生的に左派が誕生すると同時に、植民地化に協力した人たちに対する歴史的な清算問題も再び浮上した。冷戦によって冷凍された問題が、脱冷戦で解凍されたとでも言おうか。図式的な説明であることを承知で強引に簡略化すれば、これが韓国のいわゆる「親日派」問題である。

韓国の左派と右派


 ここからは「親日派」問題を念頭に置きつつ、今の韓国社会を論ずるにおいて最も基本的な枠組みとなる、韓国の左派(進歩改革派)・右派(保守派)の話をしてみよう。先も言ったように、今の韓国左派は80年代に誕生した民主化運動勢力をその母体としており、比較的新生勢力である。特徴的なのは左派と呼ばれているにもかかわらず、民族的な価値を重視する人たちが結構いることだ。これは植民地化を経験した第三世界の左派に共通する特徴ではあるが、韓国の場合は南北分断という独特な状況のため、さらに強化された側面がある。

 軍事独裁時代に「民主化はまだ早すぎる」という論理を支えていたのは、北朝鮮との軍事的対立であった。この論理に対抗するため民主化運動勢力は「同じ民族」の名のもと北朝鮮との関係改善を重視するようになる。一つのネーション(民族)が一つのステート(国家)を構成するという近代国家の形を韓国は成し得ていないため、この「未完のプロジェクト」に相変わらず魅了される側面も無視できない。彼らが韓国近現代史から「親日派」問題を見出したのも、この民族重視の視点と無関係ではないだろう。もちろん、韓国の左派には色々な諸派があり、ナショナリズムに批判的な人たちも多くいる。

 それでは右派はどうか。韓国右派を象徴する人物は、1961年に軍事クーデタを起こし、それから約20年間韓国の最高権力者であり続けたパク・ジョンヒ(朴正煕)である。注意すべきは、彼が単なる独裁者ではなかった点だ。政治的混乱をクーデタの理由として挙げたパクは、当初の約束通りそれから2年後大統領選挙を行い、そこで大統領として当選する。その後も再三大統領に当選するも、実際には不正選挙が行われたとされている。しかし、ともかく形式的には民主主義が維持され、彼が明示的に独裁体制を築くのは1972年である。
 彼が大統領だった時期に韓国の経済は大変貌を遂げる。50年代には世界最貧国だった韓国の経済構造を組み替え、戦後日本の経済的繁栄を見習って輸出中心の産業構造を作り上げることに成功する。今ではにわかに信じられないかもしれないが、韓国が経済規模で北朝鮮を上回るようになるのは70年代である。「反共」のもと政治的自由は制限されたが、経済的発展を成し遂げ、北朝鮮を追い越したのがパクの時代なのである。左派が追求する基本的な価値が民主主義・自由と平等の拡大・経済的な不平等の改善であるなら、韓国の右派が追求する基本的な価値は安保意識の強化・経済成長優先であるが、パクはまさに右派的価値を体現している人物であり、右派においては英雄と化している。

 パクは植民地時代、満州軍官学校と日本陸軍士官学校に通い、日本が敗戦した時は満州国の将校だった。では、彼も「親日派」に分類されるだろうか。これは微妙な問題で、なかには彼も「親日派」に属すると判断する人もいる。一方、僕は、独裁者として彼が韓国社会に残した負の側面は非常に大きいが、「親日派」には入らないと思う。彼が満州国の将校として職務遂行した時期は短く、例えば彼が朝鮮の独立運動家たちに対する鎮圧に関与した明確な証拠などないかぎり、積極的に植民地支配に寄与したとは言いがたいと思われているからだ。よって、一般的には、彼を「親日派」と見る人は少ないだろう。どこまでを「親日派」とみなすかをめぐる明確な基準はないので、この議論は収束することなく、今もなお断続的に問題化するのである。

 彼の残した影響力は今もなお強力だ。今年末に行われる大統領選挙で保守与党の候補として最も注目を浴びているのが、彼の娘であるパク・グネ(朴槿恵)で、彼女がここまで上り詰めたのはひたすら彼女がパク・ジョンヒの娘だから、と考える人がかなり多い。現在、与党のハンナラ党が大危機に瀕しており、大統領選挙の前に総選挙も控えているので予断は許さないが、今のところ保守派の候補は彼女以外思い浮かばないのが現状であり、左派は彼女に対抗する候補を出すことになるだろう。彼女はつい最近まで、次期大統領選挙に関する世論調査の度に、次点者と大差をつけての最有力候補であり続けたが、4ヶ月前、概ね左派に分類されるアン・チョルス(安哲秀)という一人のダークホースが一気にその座を奪ってしまった。

 80年代に形成された左右対立の構図は、その姿を少しずつ変えながら、今も韓国政治の基本的な構造を形作っている。「親日派」問題はこの構図が形成される際、付随的に産み落とされた問題であった。この左右対立の構図が、今ほころび始めている。アン・チョルス現象はその徴候である。次回は、その話をしてみたい。
 

安天

1974年生まれ。韓国語翻訳者。東浩紀『一般意志2・0』『弱いつながり』、『ゲンロン0 観光客の哲学』、佐々木中『夜戦と永遠』『この熾烈なる無力を』などの韓国語版翻訳を手掛ける。東浩紀『哲学の誤配』(ゲンロン)では聞き手を務めた。
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