ライプツィヒから〈世界〉を見る(6) ライプツィヒの面影を感じて|河野至恩

シェア
初出:2013年10月1日刊行『ゲンロン通信 #9+10』
 3月中も雪に埋もれていたライプツィヒの長い冬の生活から、桜が散り始めて新緑と陽光がまぶしい4月の東京へ戻り、その陽射しのギャップにめまいがするような気がした。帰国後、勤務先での仕事がすぐに始まったが、そうした日常の思わぬ瞬間に、ふとドイツでの経験の影を追い求めていることがある。

 たとえば、ドイツ語を聞き逃すまいと耳を澄ましていた頃の感覚が恋しくなるのか、気がつくとドイツのニュースサイトを読んだり、MDR(ライプツィヒの放送局)のラジオ番組のストリーミングを聴いたりしてしまう。

 それもあって東京でのドイツ語講座の情報を集めているのだが、NHKの語学講座は意外に質が高いと感じた。NHK教育テレビ「テレビでドイツ語」の今年・2013年度の上半期のロケ地はドレスデンやライプツィヒを中心としたザクセン州。親しみを感じつつも、最近までいた場所をテレビの画面で見るのは不思議な感じがする。また、ライプツィヒ大学日本学科出身のアンナ・シュルツェさんとライプツィヒの音楽大学出身のヨズア・バーチュさんがスキットの合間にする東ドイツ時代の話を聴くと、ライプツィヒで感じたことを再確認できて楽しいのだった。

 また、飲み物にもドイツの生活の面影を感じることがある。ドイツでは無添加の炭酸水が食料品店やスーパーで簡単に手に入る。炭酸の度合いも、刺激の強いものから飲みやすいものまでさまざまだ。夏場で特に美味しいのが、アップルジュースを炭酸で割ったアプフェルショーレと白ワインを炭酸で割ったワインショーレだ。帰国してからアプフェルショーレの味が恋しくなり、近所のスーパーでアップルジュースと炭酸水を買って試してみたのだが、炭酸が弱すぎるうえにアップルジュースが甘く、どうもドイツで飲んだもののようにはいかない。もっとも、ドイツで日本食を作っても食材の微妙な違いによって味が異なるのと同じで、少しずれたような味になってしまうのかもしれない。ドイツでは日本の、日本ではドイツの食事が恋しくなるというのは、贅沢なことなのかもしれない。

 



 さて、この連載エッセイの第1回では、東京からライプツィヒに移り住んだときに感じたちょっとしたずれの感覚、具体的には、まったく土地勘のない場所に身を置いてから、自分の位置を周りの世界との関係の座標軸を定め直すまでの身体感覚について書いた。
 今回、ライプツィヒでの滞在を終えて、土地勘も十分にある東京での生活を再開している。しかし、ライプツィヒに住む前の自分とまったく同じではありえず、そこで身につけた感覚の残像を引きずっているような気がする。それは先に述べたような、ドイツ語を求めてしまう言葉の感覚であり、ドイツの食べ物や飲み物がほしくなる感覚でもある。または通勤電車の中など、ふとした瞬間にドイツとの違いが感じられることもある。

 こうした、文化の違う街から街へと移動したときの不安定な、ゆらぎを多分に含んだ身体感覚は、やがてなにか意味のある文化認識の枠組みとして固定されていく。しかし、そのように文化認識が固定されるときに陥りやすい落とし穴があるのではないかと思う。

 異文化を理解するうえでよく用いられるのが、「AとBの比較」という見方だ。たとえば、日本とドイツの文化を比較し、日本にあってドイツにないもの、ドイツにあって日本にないものをいくつかリストアップする。いってみれば、二つのよく似た絵の違いを見つける「間違い探し」のような見方だ。海外に長期滞在して帰国した人が「海外にあって日本にないもの」に気づく、というよくあるパターンの認識は、このような例の一つといえるだろう。

 しかし、こうしたものの見方には弊害もある。二項対立で二つの文化を比較することは単純化をともなうからだ。たとえば日本とアメリカを比較して「日本はタテ社会だが、アメリカはヨコ社会である」とまとめた場合、アメリカ国内にあるヨコ社会ではない特性は見逃されやすくなるだろうし、両国それぞれに存在する地域・階層・社会集団などのさまざまな多様性は捨象されてしまう。そして、こうした二項対立によって単純化された「日本」像が、日本文化論または日本人論として固定する可能性がある。アメリカにはない「日本」のものや性質が、そのまま「日本の特殊性」として認識されてしまうのだ。特に「日米比較」「日独比較」などの比較文化論には長い歴史があるが、このような弊害を持つ語られ方も多かったように思う。私自身も、長いアメリカ経験を経て日本という場所で生活する中で、いつのまにか日本とアメリカを対比する、いわば「AとBを比較する」枠組みに陥っていたように思う。

 では、このような弊害を回避するには、どのような見方をすればよいのだろうか。

 プラハを訪ねたとき、カフカが住んでいた頃、またそれ以前のユダヤ人社会の様子を想像しながら街を歩いていて感じたことがある。カフカの頃はともかく、19世紀以前のユダヤ人街だった地区は、19世紀後半の大規模な再開発により現在は当時のシナゴーグが点々と残っているだけだ。しかし、19世紀当時の地図や、当時の写真などを念頭に置きながら街を歩いていると、現在見える街というのはほんの表層に過ぎず、その背後にはいくつもの層があるように感じられた。また、プラハ自体が「チェコの首都」であるだけではなく、ドイツ語住民、ユダヤ人など、さまざまな文化が共存していた街だと知り、街のイメージはさらに多層的なものとなった。
 同じことはライプツィヒの街を歩いていても感じた。ベルリンの壁崩壊後、ライプツィヒにも西側の資本が大量に流入し、再開発が進んできた。しかし、市街地には第二次大戦以前にさかのぼる古い建物、東欧時代のややチープで各フロアの天井が低い建物、そして直線的なデザインで光沢がある90年代以降の建物が混在している。市街の中心を取り囲む道路、市役所(ラートハウス)や市場は数百年昔の街の配置を伝えているし、18世紀には出版・印刷街だった通りも残っている。街の中心から少し離れると、ショッピングモールやIKEAなどの大型店舗が建設されている。ライプツィヒという街も、建物の建て替え、戦災などによる破壊、そして再開発などの歴史を経て現在の姿になっていることが、街並みから想像できる。このようなことはどの街を訪ねても感じることができた。

 現在目に見えている街はほんの表層であって、その下にはこれまで積み重ねられてきた文化や歴史の層が透けて見える……。ライプツィヒに住みヨーロッパの街をいくつか訪ねながら、その街の歴史について読み、重要な局面での街の姿を想像し、今も残る過去の断片を手がかりにしながら現在の風景に重ね合わせる。そのようないくつもの層を透視する見方が自然に身についたように思う。

 振り返って、同じ方法で東京やほかの街を見つめ直してみたら、今まで見えていなかった文化や歴史の層、そして社会の仕組みまでもが見えてくるのではないだろうか。この1年のライプツィヒでの生活は、日本とアメリカの二項対立的なものの見方の枠組みからすこし距離を置いて相対化し、そのうえでさまざまな層を透視する見方を身につけることができて、意義深い経験となった。

 ところで、先ほどの日本の食事・ドイツの食事という見方はまさに二項対立的な発想なのだろう。そこでドイツのアプフェルショーレのない日本の食生活はどう相対化したらよいのだろうと考えていたとき、最近近所でフランス産のアップルサイダーを発見した。アプフェルショーレの恋しい夜は、このアップルサイダーを飲みつつ、ライプツィヒで得た新しい感覚をもって、東京からヨーロッパを、世界を見ていこうと思う。

河野至恩

1972年生まれ。上智大学国際教養学部国際教養学科教授。専門は比較文学・日本近代文学。著書に『世界の読者に伝えるということ』(講談社現代新書、2014年)、共編著に『日本文学の翻訳と流通』(勉誠出版、2018年)。
    コメントを残すにはログインしてください。