ポスト・シネマ・クリティーク(11)「回帰する幽霊」としての写真 黒沢清監督『ダゲレオタイプの女』|渡邉大輔

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初出:2016年11月11日刊行『ゲンロンβ8』

「幽霊映画」の新境地


 薄暗い部屋のなかで頭頂部の少し禿げあがった髭面の男が、厚い緑のカーテンを払うために腕を上げる。左手にカーテンを寄せると、その下から冷たい壁に架かるようにして、大きな額に入った1枚の画像が姿を現す。男の横で、いまひとりの青年がこわごわと見上げるそれは、時代がかった瀟洒なドレスをまとい、自分の腰元に右腕を回しながらほぼまっすぐに前方を見据えるひとりの若い女性の写真である。生きているのか死んでいるのか判然としない、鈍く銀色に光るその女性──「ダゲレオタイプの女」のまなざしが、スクリーンいっぱいに不穏な影を宿してゆく。

『ダゲレオタイプの女 La Femme de la Plaque Argentique』(2016年)は、黒沢清がはじめて海外資本(ロケーションはフランス、出資国はフランス、ベルギー、日本)で製作した「フランス映画」である。

 曇天の冬空が開けたやや仰角気味の画面に、右側から電車の屋根がフレームインしてくる。キャメラはそのままゆっくりとティルトダウンしてゆき、駅のプラットフォームに到着した車両から物語の主人公である青年ジャン・マラシス(タハール・ラヒム)が降りたつ様子を写したあと、画面にはタイトルが浮かんで映画がはじまる。

 物語のおもな舞台は、大規模な再開発工事がおこなわれているパリ郊外の一角にたたずむ古い屋敷。ジャンは、そこに住む中年の写真家ステファン・エグレー(オリヴィエ・グルメ)に撮影アシスタントとして採用された。気難し屋のステファンの「ある奇妙な仕事」を手伝ううちに、ジャンはステファンの一人娘であり、かつて自殺したかれの妻ドゥーニーズ(ヴァレリ・シビラ)に代わって撮影モデルを務めている美しい女性、マリー(コンスタンス・ルソー)にしだいに心を奪われてゆく。ところが、妻の幻影に悩まされるステファンと、後述するようにそんなかれを追うようにして、マリーがある忌まわしいアクシデントに見舞われるところから、ジャンの周囲の世界はどこか夢幻的な不穏さを増してゆく……。

 オールフランスロケ、ヨーロッパ資本、外国人キャスト・スタッフ、全編フランス語……と、あらゆる点でこれまでにはない、新たな環境と条件で撮られながらも──あるいは、それゆえに、その種々のモティーフや演出の細部にわたって、『ダゲレオタイプの女』は、まぎれもなく黒沢清らしい「ホラー映画」ないし「幽霊映画」として仕上がっているといえる。

ダゲレオタイプと「幽霊化」する女


 さて、まず『ダゲレオタイプの女』の物語の重要な主軸を担っているのが、邦題にも掲げられているとおり、作中で写真家ステファンが扱う「ダゲレオタイプ」という原初的な撮影機械(撮影術)である。

 知られるように、ダゲレオタイプとは、その名称の由来にもなっている、フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが1839年に開発した世界最古の実用的な写真撮影術だ。これは銀メッキを施した銅板の表面に写真像(ポジ画像)を直接感光させて現像する技術であり、したがって、19世紀後半以降に急速に普及する、今日において一般的な「ネガ・ポジ法」の銀塩写真(いわゆるアナログ写真)とは異なり、ネガをかいさない複製不可能な一点性を特徴としていた。また、ポジ画像を直接銀板に定着させるため、きわめてクリアな像をえることが可能な反面、長時間の露光が必要であり、人物撮影の場合、その間、被写体は不動でいることを強いられた。ともあれ、さきに述べたステファンの「ある奇妙な仕事」の正体とは、ほかならぬこのいかにも反時代的なダゲレオタイプを用いて、屋敷の地下スタジオで青いドレスを着させた娘マリーをモデルに、偏執的に撮影をすることであった。しかもそのさい、かつてダゲレオタイプの撮影で実際に用いられていた、身体を固定するための異様な拘束器具を彼女にあてがうのである。

 そして、『ダゲレオタイプの女』では、このふたりの男性たち(ステファン、ジャン)によるダゲレオタイプ撮影が、かれらと対になるふたりの女性たち(ドゥーニーズ、マリー)を一種の「幽霊的」存在に変えてゆく。

 作中、ステファンは、当初、青いドレスをまとって被写体となっていた亡き妻の幽霊と地下で遭遇する。妻の影に誘われるようにして階段を昇ってゆくステファン。そこへ父親を捜して現れたマリーがさらにそのあとを追って階段を昇る。彼女が階段を昇りきって姿が見えなくなった瞬間、沈黙のなかで轟音とともに彼女の身体が階段を激しく転げ落ちてくる。ちなみに、このマリーの階段落下のシーンは、地下スタジオのやや奥まった隅に据えられた固定アングルからのワンシーンワンショットで撮られており、名高い『回路』(2001年)の飛び降りシーンや前作『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)での刑事の取り調べシーンの圧倒的な長回しを思わせる。

 何にせよ、ジャンが恋心を募らせるマリーもまた、その不穏な階段落下を境として、不意に姿が消えたり、すでに死亡している可能性が観客にあいまいにほのめかされる、これまたすぐれて「幽霊的」なたたずまいを濃密に帯びはじめるのだ。おそらくだれもが想起するだろう、小津安二郎の『風の中の牝鶏』(1948年、タイトルの「鶏」は正しくは旧字体)から溝口健二の『雨月物語』(1953年)まで[★1]、往年の名作を不敵にブレンドした『ダゲレオタイプの女』は、こうして「幽霊映画」として相貌を鮮やかに現すのである。

『ダゲレオタイプの女』

「幽霊/ゾンビ化」する現代日本映画


 もとより、黒沢清が本作におけるマリーやドゥーニーズのような「幽霊的」な存在を、自作の重要な構成要素として一貫して召喚し続けてきたことはよく知られているだろう。

 ごく初期作の『スウィートホーム』(1989年)からテレビドラマ演出作品『学校の怪談』(1994年)、いわゆる「Jホラー」の系譜とも密接に関連する『降霊』(1999年)、『回路』、『LOFT ロフト』(2005年)、『叫』(2006年)、そしてカンヌ国際映画祭ある視点部門で監督賞に輝いた近作『岸辺の旅』……にいたるまで、かれの作品群には生と死のあわいを徘徊する幽霊的人物たちがいたるところに姿を見せる。そして、たとえば『回路』では映画の作中にネット環境をいち早く取りいれたように、あるいは本作でダゲレオタイプという古典的なガジェットを起用した理由のひとつとして、コンピュータとディジタルの安易な氾濫のなかで「撮影」という古風な儀式をもう一度再考してみたかったと語っているように[★2]、黒沢的な幽霊のモティーフは、ほぼつねに、映像のメディア形式に対する批評性と一体となっていた。

 これも現代日本の映画批評の文脈ではつとにいわれていることだが、蓮實重彦の薫陶を受けた黒沢や万田邦敏、篠崎誠、青山真治ら、あるいは北野武といった、おもに90年代以降に本格的な活動を開始した日本の映画作家たちは、意識的か無意識かを問わず、いちように幽霊的かつ「ゾンビ的」な存在──生死のあわいを生気なく行きかう宙吊り的人物──を自作で繰りかえし描き続けた。すでに死んでいるにもかかわらず、生者のもとへ不断に再来する幽霊にせよ、または死んでいるのに生きているという矛盾を体現するゾンビにせよ、それらの表象は──郊外の「廃墟的」な舞台設定と相俟って──図らずも、かれらの世代のシネアストが直面していた、かつての正統的で実質ある「大文字の映画史」の慣習や記憶が撮影所システムとともに雲散霧消しつつあることを自覚しながら、なおもそのシミュラークルに神経症的=再帰的に接続しようとする倒錯的な姿勢を如実にかたどっていたと評価しうる。

 とりわけ黒沢は、たとえば今年の『クリーピー』でも、まさに『悪魔のいけにえ The Texas Chain Saw Massacre』(1974年)を髣髴とさせる舞台装置のなかで、主人公夫婦の西島秀俊と竹内結子をまたもやみごとな「ゾンビ的」人物に変貌させたことでも明らかなように(クライマックスの黒いバンのなかで手錠につながれたまま、いっさいの生気を欠いて座る西島の黒い影のおぞましさ!)、これらのモティーフをつうじて、映画史との距離感覚や作家的な「倫理」をきわめて自覚的に確保してきたといえる。その意味で、『ダゲレオタイプの女』において、いかにもアナクロニックな写真術のモデルとなる女性たちも、ひとまず黒沢らしい幽霊的存在として振る舞っているわけだ。また、本作の舞台となるパリ郊外の大規模再開発が行われている風景も、どことなくかつて哀川翔主演の『勝手にしやがれ!!』シリーズ(1995~96年)で描いていた90年代的郊外につうじている。
『新記号論』『新写真論』に続く、メディア・スタディーズ第3弾

ゲンロン叢書|010
『新映画論──ポストシネマ』
渡邉大輔 著

¥3,300(税込)|四六判・並製|本体480頁|2022/2/7刊行

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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