ポスト・シネマ・クリティーク(25) ポストシネフィリー映画としてのVRゲームSF──スティーヴン・スピルバーグ監督『レディ・プレイヤー1』|渡邉大輔

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初出:2018年5月25刊行『ゲンロンβ25』

VR世界を描く巨匠の新作SF


 電車の車輌を思わせる細い矩形のガレージがいくつもの鉄骨で組みあげられた集落に、ドローンのようにたゆたうキャメラがゆっくりと近づいてゆく。その高所に積まれたガレージのひとつから、冴えない顔つきの少年が現れると、上方から吊るされたチェーンのようなものを器用に操って、軽やかに地上へと降りてゆく。

 スティーヴン・スピルバーグ監督の最新作『レディ・プレイヤー1 Ready Player One』(2018年)は、このように主人公の少年の鮮烈な「下降」のイメージからはじまっている。この下降は、巨匠の前作『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 The Post』(2017年)のラストシーンの「上昇」のイメージとひそかに呼応しあっているはずだ。そこでは、広い印刷所内部を俯瞰で捉えたロングショットのなか、画面奥に並んで歩いてゆくメリル・ストリープとトム・ハンクスの小さな背中とともに、画面中景にベルトコンベア状に印刷された『ワシントン・ポスト』紙が下から上へとつぎつぎに昇ってゆく光景が写されていた。ひとまずメディアの支持体の物質性を重力という要素と結びつけてみた場合、この両者のイメージは興味深い矛盾、あるいは両義性をはらんでいるといえる。すなわち、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』の場合は、紙(paper)というアナログメディアを題材にしながら、それらは重力を欠いて上昇してゆき、他方、『レディ・プレイヤー1』の場合は、圧倒的なディジタル空間を舞台にしながら、主人公の身体は重力を伴って下降する。このふたつのイメージのはらむ矛盾、両義性は、本論で述べるように、先駆的なシネフィル世代として大文字の映画史への信仰を吐露しながら、同時にこの半世紀、ほかのだれよりも今日のディジタルシネマにいたる映像革命を成し遂げてきたスピルバーグにふさわしい身振りだといえる。

 ここ数回、東浩紀の「触視的平面」の議論(「観光客の哲学の余白に」)をわたしなりに引き受けるかたちで、ポストシネマなるものの内実を理論的に整理する試みを続けてきた。気づけば2年以上も続けてきたこの奇妙な映画の旅をそろそろ終えるにあたって、今日アクチュアルな(東のいう「能動性と触覚性を加えた」)画面に接近しつつもスクリーンにとどまる「ポストシネマ」的平面の探究として、『レディ・プレイヤー1』ほど、取りあげるのに適格な新作もないだろう。

 本作は、共同脚本も手掛けたアーネスト・クラインの同名の小説(邦訳題名は『ゲームウォーズ』)を原作にした近未来SFである。舞台は地球規模の気候変動やエネルギー危機でスラム化したオハイオ州コロンバス。そこで暮らす主人公の少年ウェイド・ワッツ(タイ・シェリダン)は、世界最大規模のネットワーク型ヴァーチャル・リアリティ(VR)〈オアシス〉に仮想的なアバター「パーシヴァル」として没入し、さまざまなゲームや娯楽に興じることを唯一の楽しみとしていた。そんななか、5年前に亡くなったオアシスの創設者でもある伝説的なゲームデザイナー、ジェームズ・ハリデー(マーク・ライランス)が遺していたあるコンテストが、オアシスのユーザたちに宣告される──生前、自分はオアシス世界の内部に宝の卵「イースターエッグ」(隠し機能)とそれを見つけるためのみっつの鍵を隠していた。それを最初に見つけた勝者には、オアシスの所有権と5000億ドルものハリデーの遺産を相続する権利を与える、と。

 こうして広大なVR空間を舞台とした世界規模の争奪戦(アノラック・ゲーム)の火蓋が切って落とされ、ウェイド/パーシヴァルも、エイチ(リナ・ウェイス)、ダイトウ(森崎ウィン)、ショウ(フィリップ・チャオ)といった親しいオンライン仲間とともにイースターエッグを追う「エッグハンター」(ガンター)として参戦する。ところが、そこにノーラン・ソレント(ベン・メンデルソーン)率いる大企業「IOI社」が絡んできた。ウェイド/パーシヴァルはひそかに想いを寄せる謎の女性ガンター、アルテミス(オリビア・クック)とともに、IOIとの攻防戦に加わることになる。

『レディ・プレイヤー1』のポストシネマ性


 後述するように、映画冒頭に軽快に流れるヴァン・ヘイレンの大ヒットロックナンバー「ジャンプ」をはじめとする80年代ポップカルチャーや日本のオタク文化にかんする膨大な引用でも注目されている『レディ・プレイヤー1』だが、物語や画面のいたるところにこれまでにも論じてきたようなポストシネマ的な主題を見いだしてゆくことはさほど難しくないだろう。

 そもそも本作のモティーフとなったVRゲームというガジェットそれ自体が、これまでにも論じてきたインターフェイス/タッチパネル的画面のひとつだし、あるいは映画冒頭から全編にわたって登場する無数のドローンもそうだろう。また、『GODZILLA 怪獣惑星』(2017年)を取りあげたさいにも注目した、ホログラムのように空中に浮かびあがるディジタル映像のモニター画面が本作のVR空間にもいたるところに登場する。映画冒頭の印象的なワンシーンワンショットにおいて現れる、ウェイド/パーシヴァルが住む集合住宅(スタック)の無数の窓は、まさにこのあとのインターフェイス的な「ウィンドウ」の氾濫を観客に予示しているかのようだ。さらに、異常気象や環境汚染などによって人類の生存に決定的な荒廃がもたらされている近未来社会のイメージは、『10 クローバーフィールド・レーン 10 Cloverfield Lane』(2016年)の回などでも論じたポストヒューマン的な世界観であり、あるいは近年、「人新世 Anthropocene」という仮説的な地質年代で称される人類文明と地球生態系との深甚な影響関係に着目する観点ともつうじあっている[★1]

 そのようなわけで、本論で注目して考えてみたいのは、まず第1に、いわば本作の映画=スクリーン的な画面によって「VR/ゲーム的」=インターフェイス的イメージを表象しようと試みたことから起こっている映像の特異性である。それは、これまでに「ポストキャメラ」(ウィリアム・ブラウン)や「多視点性」という術語で名指してきたものとも重なる「反擬人的」なキャメラワークだ。また第2に、人新世的世界観ともつながる本作のオブジェクト=ガジェットが氾濫する状況設定についてである。

VR、ビデオゲームとのかかわり


 それでは、第1の点から確認していこう。
 
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『新映画論──ポストシネマ』
渡邉大輔 著

¥3,300(税込)|四六判・並製|本体480頁|2022/2/7刊行

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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