ポスト・シネマ・クリティーク(最終回) 「07年」とポストシネマの時間性=歴史性──水崎淳平監督『ニンジャバットマン』|渡邉大輔

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初出:2018年7月20日刊行『ゲンロンβ27』

「転回」の年から


 いまからおよそ2年半前、本連載の第1回の冒頭で、わたしは「ポストシネマ post cinema」という耳慣れない言葉とともに、つぎのような問いを掲げた。

 メディア環境、社会的制度、ひとびとのリアリティ……、昨今、じつにさまざまな側面で「映画が映画であること」の輪郭が、かつてとは明らかに異なったものになりつつあるように思えるが、いったいその内実はどのようなものか。あるいは、それらの作品群が生きる現在をアクチュアルに掬い取る、従来型の映画批評の枠を越えた、新たな映画のための批評言語は、いかにして可能か。

 以来、基本的には拙著『イメージの進行形──ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院)や拙編著『ビジュアル・コミュニケーション──動画時代の文化批評』(限界研名義、南雲堂)から続けてきた、今日の映画を取り巻く新しい状況と、それらに影響を受けた映画の表象システムそのものの変容について思考をめぐらせてきた。もちろん、(前身の『ゲンロン観光通信』を含む)本誌『ゲンロンβ』という稀有な媒体のささえによるところが何よりも大きいが、率直にいって、これだけの長期にわたって、そのときどきの多彩な新作映画のレビューを、先端的な理論言説もふんだんに交えながら、しかもそれなりの分量を使って「定点観測」するという試みは、日本の映画批評の歴史においてもなかなか珍しいものだったのではないかと思う。

 そして、具体的には2016年の1月からはじまったわたしのこの連載は、いま振りかえると、まったくの偶然ではあったものの、上記の問いにとって絶好のタイミングであったということができる。年間をつうじて歴史的な大ヒット作や傑作がつぎからつぎへと公開され、「日本映画の当たり年」「アニメの当たり年」などとも呼ばれたこの1年は、おそらく21世紀の映画にとって、ひとつの巨大なパラダイムシフトになったからだ。事実、この連載でも、濱口竜介監督の『ハッピーアワー』(2015年)、庵野秀明総監督の『シン・ゴジラ』(2016年)、山田尚子監督の『聲の形』(2016年)、そして片渕須直監督の『この世界の片隅に』(2016年)など、現在でもなおいたるところでさかんに言及される重要作を主題的に取りあげて、レビューしてきた。本論は今回で最終回となるが、ここであらためて、まずは第1回の『ハッピーアワー』評のさいにわたしが差しだしていた問題意識に立ち戻ってみよう。

『ハッピーアワー』の時間


 5時間17分の長さをもつ濱口の『ハッピーアワー』には、ある特異な時間がたたみこまれている。映画前半で描かれる、震災後の東北の海岸で活動していたという怪しげなアーティストが主宰するワークショップのシークエンスを例に挙げながら、その回でわたしはそう指摘した。わたしはその特異な時間を、その後の連載のなかでもたびたび参照することになるミシェル・セールをひきつつ、「可塑的 plastic な時間性」と名づけておいた。それは、セールが「ミゼラブル misérable」と呼ぶような、それぞれがバラバラに孤立した棒のような人物たちが、競合的な相互干渉のプロセスによって生成させる、「リニアな時間軸を絶えず複数に分岐させてゆく冗長で潜在的な時間性」のことである。

 約2年半前にわたしがこう表現した『ハッピーアワー』の可塑的な時間性は、いみじくもこのときにわたしがその仕事を援用し、最近ほかならぬこの映画についてじつに精細に読み解いた三浦哲哉の素晴らしい新著が記す、「『ハッピーアワー』は、登場人物たちの人間関係の総体が変容していくプロセスを、「重心」の劇として造形する。均衡が維持され、ときに破れ、またそれがべつのかたちで回復する過程が微細に描かれる」[★1]という言葉とも、さほど距離をかいさずに呼応しているように思える。

 わたしの見るところ、ここには、この連載がたどってきた「ポストシネマ」なるもののもつそれまでの映画(史)とは異なる、固有の時間性=歴史性の内実がたしかにこめられているはずである。その点について、ここでは水崎淳平監督の新作アニメーション映画『ニンジャバットマン』(2018年)にも触れながら、およそ10年前の蓮實重彦のある命題から説き起こしてみよう。そして、以降の論述をつうじて、この連載の企図と今後の展望を総括しておきたい。

『ニンジャバットマン』と蓮實重彦の奇妙な主張か


 『ニンジャバットマン』は、題名の通り「DCコミックス」を代表するヒーローキャラクターを、ワーナー・ブラザースが日本人スタッフの手によってアニメーション化したスピンオフ作品である。現代の犯罪都市ゴッサム・シティで悪と戦っていたバットマン/ブルース・ウェイン(山寺宏一)は、謎の光る球体につつまれ、中世(戦国時代)の日本にタイムスリップしてしまう。そこには、キャットウーマン/セリーナ・カイル(加隈亜衣)らおなじみのスーパーヴィランたちも現代から転送されており、ポイズン・アイビー(田中敦子)、デスストローク(諏訪部順一)、ペンギン(チョー)、トゥーフェイス(森川智之)は各地の実在の領主と入れ替わり、「ヴィラン大名」として全国を支配していた。なかでも、バットマン最大の宿敵であるジョーカー(高木渉)は、ハーレイ・クイン/ハーリーン・クインゼル(釘宮理恵)を小姓に据えて、日本制覇を企んでいた。バットマンは飛騨の忍者集団「蝙蝠衆」の助けをえて、タイムスリップの装置を開発したヴィラン、ゴリラ・グロッド(子安武人)の居所を突き止め、ジョーカーらの魔の手を阻み現代に戻ることを決意する。
 前回取りあげた『レディ・プレイヤー1 Ready Player One』(2018年)、あるいは『パシフィック・リム:アップライジング Pacific Rim: Uprising』(2018年)、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー Avengers: Infinity War』(2018年)などの昨今のハリウッドのヒーローもの、ロボットものなどの世界観と同様、『ニンジャバットマン』もまた、映画に描かれる時間や歴史にまつわる、ある奇妙な手触りをわたしたちに感じさせる作品だといえる。つまり、本作ではDCコミックスのヒーローやヴィランたちが、あたかも絵巻物の鳥獣戯画の動物たちのように、そのキャラクター=オブジェクトだけアメコミの文脈を背負ったまま、ゴロッと16世紀頃の日本の風景に重ねられているのだ[★2]

 『ニンジャバットマン』の分析については本論後半であらためて立ち戻ることにしたい。そのために、ここで触れておきたいのが、この連載で三浦とともに何度もその仕事を参照してきたのが、蓮實重彦のことである。かつて『聲の形』を取りあげた回でも触れたように、近年のかれには「あらゆる映画はサイレント映画の一形態にすぎない」といういっけん奇抜な主張がある。すでに既出の拙稿でも論じたことだが[★3]、この蓮實の主張は、じつはある側面では、80年代以来のかれ自身が一貫して示してきた重要な批評的根拠を、自ら否定するようなものでもある。そして、おそらくこの蓮實の「転回」を意味を知ることが、じつは『ニンジャバットマン』のポストシネマ性の解明にも深く関わってくることになるのである。

「映画史」の雲散霧消


 近年にとりわけよく指摘されているが、蓮實の批評的営為には、かれが責任編集者となった季刊映画批評誌『リュミエール』(1985‐88年)が創刊された85年前後に、その思想に重要な転換点が認められる[★4]。すなわち、それ以前の蓮實においては、「表層批評」というかれ独特の批評理念に象徴されるように、映画なり小説なり「作品」の具体的かつ物質的な「表層」(画面)とのある種絶対的な「遭遇」の体験=「事件性」こそが特権的に称揚されていた。そして他方で、それら「作品」が律儀におさまる相対的な歴史的パースペクティヴのほうは、むしろ否定的なニュアンスで語られがちなものであった。ところが、「85年」以後の蓮實は、まさに『リュミエール』創刊号の巻頭特集に掲げられた「73年の世代」、そしてその用語とも密接に関連する「50年代ハリウッド作家」などのキーワードを積極的に打ちだすことによって、急速に「歴史的」な文脈の重要性を訴えることにむかうのである。

 だがその後、この80年代なかば以降の蓮實のいわば「歴史的転回」は、ある時点で、不意に、また終わり=「転回」を迎える。それが、21世紀初頭に開催されたとある国際シンポジウムの講演ではじめて表明された、さきの主張に端的に示されている認識なのである[★5]。ここで蓮實は、それまで『ハリウッド映画史講義』など、無数の著作で再三繰りかえしてきた自らの映画史的見取り図を反故にするかのように、映画という複製メディアがその19世紀末の誕生から現在まで、「声」という現前性の禁止と「視覚の優位性」という本質的要素においてまったく変化=前進がなかったのだという、いかにも反動的かつ「非歴史的」な見解を披瀝するのである。

 本論がここで注目したいのは、リニアで理念的な映画史的パースペクティヴや記憶の連続性を徹底的に無化してしまうこの蓮實の主張が提示されたのが、2007年のことだという事実である。というのも、わたしはかねてから今日のポストシネマの台頭にいたる歴史的帰趨を考えるにあたって、この07年という年が、きわめて象徴的な意味をもつと考えてきたからだ。

ポストシネマ的時空の起点としての「2007年前後」


 とはいえ、こと映画に限らず、07年、あるいはその前後に現代文化のひとつの分水嶺を見いだすというこの視点は、ひとまずはいささかも独創的なものとはいえないだろう。

 たとえばわたしたちは、まさにこの年に注目し、「10年代文化」の震源を鮮やかに抉りだしたさやわかのすぐれた見取り図をすぐに想起することができる[★6]。また、一般的にはこちらのほうが広く知られていそうだが、この07年前後というのは、いわゆる「Web2.0」──iPhone、Twitter、USTREAM、そしてニコニコ動画、初音ミクといった新世代のデバイスやプラットフォームが相次いで登場し、双方向型のコミュニケーションスタイルがわたしたちの文化的世界を大きく変えてゆく端緒になった年でもあった。そうまとめることも可能だろう[★7]

 さらにこのことは、以上の流れとも深く関連しつつ、今日の映画・映像文化に関してもより厳密に当てはまるように思われる。

 たとえば、日本映画の文脈で考えれば、この07年前後に台頭してきた重要な動向として、「若手インディペンデント映画作家の相次ぐ台頭」があった。映画美学校や東京藝術大学映像研究科などの大学内外の映画教育機関の充実や製作機材のディジタル化、あるいは新しいかたちでのウェブ配信の普及などにより、関連上映イベントも含め、インディペンデント映画シーンの活況が目に見えて高まっていったのである。具体的には、この連載でも取りあげた濱口や真利子哲也、松江哲明、そしてほかにも入江悠、石井裕也、空族(相澤虎之助、富田克也)、深田晃司、三宅唱、瀬田なつき……などなど、2010年代以降の邦画の重要な一角を担ってきた新世代作家たちがほとんどこの時期に、そろって頭角を現しはじめているのだ(わたしは蓮實に倣って、かれらを「2007年の世代」と呼んでいる)。そして興味深いことに、わたしとの対談で土居伸彰が語ったところによれば[★8]、同様の事態は、ほぼ同じ時期に、やはりインディペンデント・アニメーションの分野でも同時多発的に起こっていたのだという。

 すなわち、ディジタル化/ネットワーク化の深甚なインパクトを受けた新たな映画・映像のパラダイムが、まさにこの「07年前後」を起点にはじまっているのだ。なるほど、たとえば最近でもアレクサンダー・ザルテンは、日本のエンターテイメントコンテンツを世界に紹介する最大規模の総合イベント「JAPAN国際コンテンツフェスティバル」(コ・フェスタ)が、やはり07年の9月から映像産業振興機構(VIPO)の主導のもとでスタートしたことにわたしたちの注意をうながしている[★9]。すなわち、そこでは映画が、マンガ、アニメ、ゲーム、テレビドラマ、J-POPなどとともに、無数の「コンテンツ」のひとつにフラットに集約され、本格的にプレゼンされてゆくことになった。事実、それまで単独で開催されてきた東京国際映画祭やSKIPシティ国際Dシネマ映画祭などのイベントは、以後、東京ゲームショウやAnime Japan、また国際ドラマフェスティバルin TOKYOなどのイベントと包括的・横断的に組織されることになったのである。

 ここであらためて結論を記せば、この連載がはじまった16年に起こった映画をめぐる巨大なパラダイムシフト(=ポストシネマの全面化?)とは、直近では、このほぼ10年前の07年の文化的地殻変動を重要な起点にしているといってよい。ただ、ここで重要なのは、そうした「歴史」自体がもはやわたしたちがよくなじんでいるリニアで連続的な性質のものではなく、まさに『ハッピーアワー』の時空が体現していたような、「リニアな時間軸を絶えず複数に分岐させてゆく冗長で潜在的な時間性」に近いものであったように思えることだ。そして、「あらゆる映画はサイレント映画の一形態にすぎない」かのように、ありとあらゆる年代の映画がすべて前後の文脈を脱臼されてレイヤー状(幽霊的?)に重なりあってしまうような様態に、映画史と映画の現状をことごとく還元してしまった07年の蓮實の見立ては、図らずもその「ポスト歴史的」、しいてこういいかえてしまえば「ポストYouTube的」な、ポストシネマの時空を正確になぞっていたようにも思うのである。

 そして、その地平は、まさに「ポストYouTube的」なインパクトを如実に背負った『ニンジャバットマン』の画面にまで確実に続いている。

ポストシネマの時間性=歴史性


 ひとつの画面、ひとつのシークエンス、あるいはそれをまなざすひとりの観客の身体のなかに、複数の映画や映像のリズムの記憶がたがいに薄紙のように張りついてそれらがかすかに重なりあう。それらの遠さと近さ、こことよその幅がいっさいの自明性を欠き、それどころか、ときにはつらなった画面同士が、たがいを場違いな幽霊のようなものに感じさせもする。それでも、それらのあいだにつかの間にありうる連関をぎこちなく模索し続ける。あるいは観客の身体も、そうした連関になんとか同調しようと試みる。──『わたしたちの家』(2017年)の清原惟も描いていた、こうした幽霊的な時間性=歴史性こそが、ポストシネマが本来的にかかえる条件だといってよい。

 これはありていにいえば、すでにYouTubeの動画群の画面が示す時間性が映画の領域に全面化したということだろうし、もしくは歴史哲学的概念としての「時間層 Zeitschichten」(ラインハルト・コゼレック)が、ディジタル環境の氾濫のなかでベタに体現されつつある、と表現してもよいのかもしれない。ともあれ、この連載が2年半のあいだにたどってきた、多視点的転回、準-客体、ノンヒューマンとオブジェクト、擬似シネマティズム、パズル映画、スロー・シネマ、そしてポスト・シネフィリー……などといった個々の論点は、すべてこうした特異な時間性=歴史性の周りをひたすら周回していたのではなかったか。そして、いままた三浦の『ハッピーアワー』論を参照すれば、このポストシネマ的な時間性=歴史性とは、おそらくはかれのいう「震災後の映画」とも重なるものでもあるだろう。そこで三浦は、こう書いている。

既存のやりかたを疑い、基礎の基礎から問い直しつつ再開することの必要性は、震災以後の地平において、より一層、切実に感じられていたのではないだろうか。思い出してみよう。東北という、日本の過疎地域を破壊したこの地震は、時計の針を早回しして遠い未来にいたるところで起こるだろう崩壊の光景を先取り的に現出させたと、しばしば表現された。[…]
このような認識は、おそらく作品制作の姿勢を根本から変えるだろう。作品を支える伝統という、いわば無意識の足場それ自体の検討がいまや要求される。もはや伝統へ無条件に依存しつづけることはできないように思われるからだ。だから「一から」やり直し、制作の営みそれ自体が再検討される。また、再検討の過程そのものが作品の内容へと組み入れられる[★10]


 「時計の針を早回しして遠い未来にいたるところで起こるだろう崩壊の光景を先取り的に現出」させるかのような、このアナクロニックな「震災後の映画」たちの時間性は、まさに「もはや伝統へ無条件に依存しつづけることはできない」という従来の映画史的記憶やパースペクティヴからの離脱にこそ由来しているのであり、その意味で、それはまぎれもなくポストシネマ的なときを生きているといえるだろう。

 そして、たとえばS・S・ラージャマウリ監督の『バーフバリ Baahubali』2部作(2015‐17年)やウェス・アンダーソン監督の『犬ヶ島 Isle of Dogs』(2018年)など、ここではもはや触れられない無数の新作とともに、ようやくあらためてここで立ち戻りたい『ニンジャバットマン』もまた、こうしたポストシネマ的な歴史感覚(アナクロニズム)に貫かれた作品だということができる。

『ニンジャバットマン』のポストシネマ的時空か


 『ニンジャバットマン』の物語世界において、以上のようなポストシネマ的アナクロニズムの表れはいたるところに見いだすことができる。たとえばそれは、映画前半の木々が生い茂る森のなかの戦いで、ジョーカーが「自然を大切にとプライマリースクールで学ばなかったのか?」と不意に口にする、何とも場違い(時代違い?)な単語にも顔を覗かせる類のものでもあり、戦国日本の時空に飛ばされてしまった現代アメリカのキャラクターのミスマッチをたくみに際立たせている。

 こうした感覚は、やはり『ニンジャバットマン』の映像を作りあげたスタジオの存在に由来するところが大きいだろう。知られるように、本作の映像を手掛けたのは、数々のテレビアニメ作品のオープニング映像やミュージック・ビデオ、ディジタルゲームのアニメーションパートなどを手掛け、今年初頭にはテレビアニメ『ポプテピピック』(2018年)の制作でも大きな話題を集めたアニメ制作会社「神風動画」であり、『ニンジャバットマン』は、同社によるはじめての長編アニメーション作品でもある。

 ウェブやディジタルコンテンツに近いこのスタジオが手掛けた本作の映像は、従来の「映画」というよりも、はるかにウェブ動画やゲームのメディア生態系に親和性の高い表現で作られている。たとえば(声優を替えただけの同じエピソードが「再放送」として反復されるという『ポプテピピック』の構成にも象徴されていたことだが)通常の長編映画のように適度に起伏をつけた物語が構築的・連続的に展開されるのではなく、あたかも短い動画で描かれるようなクライマックスシーン(見せ場)だけが、そのあいだをつなぐ「ダレ場」を挟むことなくえんえんと連続していくという印象をもたらす。したがって、観客の視線は、マーベル映画を観ているときのように、超高速で動く情報量の多い画面を忙しく追うのと同時に、逆にそれらのシークエンスがいつでも中断し、バラバラにモジュール化もされうるような印象も感じてしまう。実際、日本では6月に劇場公開された『ニンジャバットマン』だが、北米では4月にウェブ上でのディジタル配信が先行していた。

 あるいは、そこにはやはりあからさまに「動画的」なレイアウトや演出も随所に見られる。たとえば、作中で挿入される複数のヴィラン大名をバットマンたちや観客に紹介するシーンの映像では、CGキャラクターの周囲を視点が360度クルクルと動き回り、あたかもディジタルゲームのアニメーション映像(キャラクター紹介シーン)のような映像演出が凝らされており、物語のなめらかなつながりに異質な滞留をもちこんでいる。

 他方、これもまた作中で登場するのが、高畑勲の『十二世紀のアニメーション』の主張をそのまま実装したかのような、中世の「絵巻物ふう」のレイアウトだ。そこでは、場面転換の説明描写がモンタージュを挟むことなく、右から左へ、横へ横へとスクロールして描かれてゆく。かつて高畑は今村太平や奥平英雄らの戦前の先行言説も援用しつつ、12世紀後半の連続式絵巻群(語り絵)の表現に、今日のマンガ・アニメの起源を見いだし、精緻に分析した。ここで高畑は、『信貴山縁起絵巻』や『伴大納言絵詞』の画面に仮想的なキャメラアイを想定し、さまざまなキャメラワークに相当する図像表現をそこに当てはめていっている。とはいえ、たとえば高畑はそこで「同ポジション」や「カットバック」といった高度な編集技法まで絵巻に見いだしてしまうのだが[★11]、わたしたちがこれまで本論で追ってきたポストシネマ的表現の動向を踏まえるとき、その見立てはいささか牽強付会に思えてくることも事実である。つまり、むしろこの中世絵巻のレイアウトは、コマ割りやモンタージュでショットやシーンを構成してゆくマンガやアニメというよりは、前回中心的に論じたような、現代の映画やゲーム映像に典型的な「反擬人的キャメラ」(エドワード・ブラニガン)の画面にこそ近いだろう。そして、何よりもこの絵巻物(巻き絵)という形式こそ、この連載の後半で主題的に論じてきた触覚的なデバイスのすぐれた歴史的先行例にほかならない。高畑の遺作『かぐや姫の物語』(2013年)の作中でも描かれたように、絵巻物は両手で端の巻き筒を繰り展げたり畳んだりしながら画面を自在に収縮して眺めることができる。ここには、玩具映画のような映像のはらむインタラクティヴな触覚性の萌芽がはるかに宿っているだろう。その意味で、中世絵巻にはポストキャメラ的な多視点性と同時に、07年に生まれたiPhoneのような、触覚的なインターフェイスの肌理も織り込まれている[★12]。このような、ウェブやゲーム、そしてタッチパネル的画面とつうじる要素が、『ニンジャバットマン』にポストシネマ的な可塑的時間性をもふんだんに流れこませているのだ。

 いずれにせよ、わたしは以前、この連載で、今日のディジタル化したコンテンツがアナログメディアの時代のような安定的で自律的な規模を失い、極端に短尺化するか、極端に長尺化するかの2極に分かれる傾向にあると指摘した。たとえば、今夏に話題の劇場公開アニメーション映画企画は、スタジオポノックの『ポノック短編劇場 ちいさな英雄-カニとタマゴと透明人間-』(2018年)にせよ、コミックス・ウェーブ・フィルムの『詩季織々』(2018年)にせよ、奇しくもいくつかの短編を集めた「オムニバス」形式という点で共通している。ディジタル化に伴い、映画はかつての規格を踏みだし、伸縮自在にうごめくのだが、神風動画による『ニンジャバットマン』も基本的には同様の秩序にもとにあるといってよい[★13]

 そして、これも前回の議論で指摘したことだが、こうした映像に対するむきあいかたは、わたしたち観客にも、かつての映画や映像の歴史的記憶に根ざしたシネフィル的身体性からの離脱──いわば「ポスト・シネフィリー」への問いをうながしているだろう。前回はその問題を『リメンバー・ミー Coco』(2017年)における「記憶喪失」のモティーフに見ておいたのだが、それは『ニンジャバットマン』においてもまた、ほぼまったく同様に、ジョーカーの記憶喪失にいたる展開として反復されているだろう(しかも、本作のジョーカーはその失っていた記憶を花の匂い=嗅覚によって取り戻す。それは音楽=聴覚によって記憶を取り戻す『リメンバー・ミー』の非視覚的な身体性の前景化とも重なるところがある)。

 以上のように、『ニンジャバットマン』にもまた、07年前後に芽生えはじめたと考えられるポストシネマの奇妙な時間=歴史の圏域の痕跡がいたるところに認められる。そして、21世紀の映画は、おそらくはまだとうぶんのあいだ、この圏域でさまざまな未知の可能性を探索してゆくことになるのだろう。むろん、わたしも批評家として、今後もその広がる方向に引き続き伴走してゆくつもりだ。

 



 さて、2016年の年明けから、「いっぷう変わった映画の旅」と名乗ってはじまったこの連載も、前号の黒瀬陽平氏の連載に続き、いったんここで締めくくろうと思う。

 もちろん、この連載でわたしが提起してきた「ポストシネマ」なるコンセプトも、まだまだ荒削りで、個々の論点も散漫に終わった部分もあり、議論が充分に煮詰められたとはいいがたい。とりわけ今年に入ってからのここ数回は、掲載時期も大幅に空いたりしてしまい、読者のみなさんには不便を強いたことをお詫びしたい。また、けっして毎回読みやすい内容や分量でもなかったとも思うが、それでもここまで辛抱強く連載を追ってくださり、そのつどの感想をいただいた読者のかたがたには深く感謝している。そして、長期連載をここまで伴走してくださり、毎回、緻密で情熱のこもったコメントで励ましてくださったゲンロン編集部のみなさんにも感謝は尽きない。

 とはいえ他方で、近年、ますます多様化し、複雑化をきわめる映像環境において、映画についての原理的な思考を深めようとしたときに、この連載がそれなりの有意義な道具立てを提供できたのではないかという自負も、いまは感じている。わたしはこのポストシネマ論を、たんに映画批評や映像文化論をめぐる任意の選択肢のひとつというよりも、今日における映像と社会、映像と人間の関係それ自体を批評的=批判的に検証するのに不可欠なプロジェクトとして育てあげるべきだと考えている。新作映画評の形式を借りたこの連載は、そのひとつの実践的なテストでもあった。

 また、現代のメディア状況は、もはや必ずしも「映画=スクリーンの時代」とは呼べないものになっている。そして他方で、映画批評のほうは、いまなお、えてしてこうした大きな問いには目をそむけがちである。ただ、前々回の原稿でも触れたように、ポストシネマの問いは、たんにネット動画やゲームやVRやタッチパネルに映像メディア論の争点を見いだすアプローチがややもすると取りこぼしてしまう、重要な文脈にひとびとの目をむけさせることができるだろう。あるいは、どこか旧態依然とした現在の映画批評の言葉を、よりアクチュアルに開いてゆくこともできるはずだ。

 その意味で、おそらくいまは、「映画批評」をやるのには最良の時代なのである。間もなく平成も終わり、2020年代も間近に迫ったいま、この連載が描いたヴィジョンが、ささやかながらでも映画の現在と切り結ぶひとつの手がかりになってくれれば、筆者としてはとてもうれしい。

 


★1 三浦哲哉『「ハッピーアワー」論』、羽鳥書店、2018年、137頁。
★2 この点にかんしては、とりわけ近年の『バットマン』映画が、「9・11」以後のアメリカ社会を描いた『ダークナイト The Dark Knight』(2008年)にせよ、「トランプ以後」の世界(ポスト・トゥルース)を描いたといえる『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 Batman vs Superman: Dawn of Justice』(2016年)にせよ、むしろそのモティーフや設定に、この現代世界の状況を重ねることにこそ意を用いていた事実からも、『ニンジャバットマン』の特異性が際立ってくるように思われる。
★3 拙稿「『歴史的/メディア論的転回』の帰趨をめぐって──『ポストメディウム的状況』と蓮實重彦」、『ユリイカ』10月臨時増刊号、青土社、2017年、209‐216頁。
★4 ちなみに、蓮實らの主導で、東京大学教養学部に表象文化論コースが設置されたのは、87年である。
★5 この講演は以下に収録されている。蓮實重彦「フィクションと『表象不可能なもの』──あらゆる映画は、無声映画の一形態でしかない」、石田英敬、吉見俊哉、マイク・フェザーストーン編『デジタル・スタディーズ第1巻 メディア哲学』、東京大学出版会、2015年、17‐39頁。
★6 さやわか『一〇年代文化論』、星海社新書、2014年。
★7 このいわば「07年の断層」とも呼べるパラダイムシフトは、おそらく日本の文化表現に限ってもいたるところに認められる。さやわかが注目したのは、おもにネットコンテンツやライトノベル、アイドル文化だったが、批評の文脈ではこの年に東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』を刊行し、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』の連載を開始した。また、ジャンル小説の分野でも、SFでは円城塔と伊藤計劃がデビューし(いわゆる「伊藤計劃以後」)、本格ミステリでは「『容疑者X』論争」が起こり(「新本格=第3の波の終焉」)、ラノベ界隈では前年末に西尾維新の「物語」シリーズがはじまる(「セカイ系的なものの終焉」)……。平野謙ふうにいえばこの「07年前後」の問題は、さやわかや「Web2.0的」な文脈とはまた別に、一種の同時多発的な「文化運動」として整理できるはずである。
★8 土居伸彰・渡邉大輔「21世紀の地殻変動──『個人的』な『私たち』へ」、『クライテリア』第2号、2017年、169‐170頁を参照。
★9 Alexander Zahlten, The End of Japanese Cinema: Industrial Genres, National Times and Media Ecologies, Duke University Press, 2017, pp.214-215.
★10 前掲『「ハッピーアワー」論』、141‐142頁、傍点原文。
★11 高畑勲『一二世紀のアニメーション──国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』徳間書店、1999年、28、96頁。
★12 余談ながら、『ニンジャバットマン』と同様、中世絵巻物のレイアウトに強くインスパイアされた『かぐや姫の物語』の企画が本格的に始動したのもまた、07年前後のことであった。「月報」、高畑勲・田辺修・百瀬義行・佐藤雅子・笹木信作・橋本晋治『かぐや姫の物語』(スタジオジブリ絵コンテ全集20)徳間書店、2013年。
★13 本論で論じた「07年前後」の問題に絡めていえば、『ポプテピピック』で神風動画の梅木葵とともにシリーズ構成・シリーズディレクター(監督)を務めた青木純は、東京藝術大学を卒業した非商業的なアニメーション作家でありながら、商業アニメにもコミットするという、まさにディジタル以降のクリエイターだが、この青木が自身の会社であるスペースネコカンパニーを立ち上げたのも、07年のことだった。
『新記号論』『新写真論』に続く、メディア・スタディーズ第3弾

ゲンロン叢書|010
『新映画論──ポストシネマ』
渡邉大輔 著

¥3,300(税込)|四六判・並製|本体480頁|2022/2/7刊行

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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