亡霊建築論(6) ガラスのユートピアとその亡霊|本田晃子

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初出:2020年4月17日刊行『ゲンロンβ48』

はじめに


 二〇世紀のユートピア・イメージは、しばしばガラスという素材と密接に結びつけられてきた。ガラスの家、ガラスの集合住宅、ガラスの都市――空間を可視化する透明なガラスには、人びとを分断する不透明な壁を打ち破り、互いを可視化し、彼らをひとつの共同体へと結びつけることが期待された。とりわけ社会主義のコミューンの理念には、その最初期からガラス建築のイメージがつきまとっていた。革命後のソ連においても、新しい社会主義共同体とモダニズム=アヴァンギャルドのガラス建築は、ごく短い期間ではあったが、固く結びついていた。

 しかし同時に、ガラスという素材は常に両義性を孕んでもいた。ガラスのユートピアは、時に容易にディストピアへと裏返りもするのだ。透明なガラスを通じて「見る」ことは搾取や支配を生み、あるいはその透明性は背後で作動する抑圧的なシステムを不可視化する。これまで五回にわたって連載してきた「亡霊建築論」では、折に触れガラス建築のシンボリズムについて論じてきたが、最終回となる今回は、改めてソ連におけるガラス建築とユートピア・イメージの関係を振り返っていく。そしてソ連という共同体の末期に、まるで亡霊のように廃墟の姿で蘇ってくるガラス建築のユートピアについて、考えてみたい。

1 社会主義とガラス建築


 建材としてのガラスの大量生産が可能になったのは、一九世紀半ばだった。一八五一年には、ジョセフ・パクストンの水晶宮がロンドン万博でお目見えしている。この先進的な素材に早速目をつけたのが、当時やはり台頭しつつあった社会主義者たちだった。フランスのシャルル・フーリエは、「ファランステール」と呼ばれる自給自足のコミューン=共同住宅構想に、いち早く鉄とガラスを取り入れている。

 ロシアでも、実際に水晶宮を見たニコライ・チェルヌィシェフスキーが、自身の小説『何をなすべきか』(一八六二年-六三年)の中で、ガラスのファランステールを描いた。同作の主人公、悲惨な立場に置かれた女性たちを集めて縫製工場を営むヴェーラは、あるとき未来のコミューンの夢を見る。水晶宮を思わせる鉄とガラスから構成された巨大な温室のような空間には、常にさまざまな果樹や草花が茂り、このコミューンの構成員たちが(家族単位ではなく)集団で自給自足の生活をおくっていた。このガラスの建築空間は、いわば技術と社会改良によってもたらされた第二のエデンの園なのだ。『何をなすべきか』は、レーニンを筆頭に、同時代のロシアの知識人階級に大きな影響を与えた。十月革命後に大量発生したガラス建築のイメージの起源のひとつは、このような一九世紀の空想的社会主義のガラスのユートピアに見出すことができよう。

 最初にガラス建築を社会主義と結びつけたのは、このように非建築家たちだった。ソ連建築家たちがこの新しい素材に夢中になるのはもう少し後、一九二〇年代後半からである。連載第一回目に取り上げたロシア・アヴァンギャルド建築運動のリーダー、アレクサンドル・ヴェスニンらは、発行していた建築雑誌『現代建築』の中で、ガラス壁の出現は「不可欠な支えとしての壁という古い概念を根絶やしにし、壁を必要に応じて隔離する膜へと変えた」と述べている。彼らにとってガラスは、単なる新しい素材以上のもの、「新しい社会主義的生活様式の物理的フォルム」だった★1。光や視線を透過させ、建築物の構造をむき出しにするガラスの壁に、合理的で開放的な来るべきソ連社会の姿が投影されていたのである。

 しかし興味深いのは、アヴァンギャルド建築家たちが実際にガラス建築を設計・建設しはじめる以前に、社会主義のガラスのユートピアを裏返しに描く試みが行われていたという点だ。ソ連では長らく禁書とされることになる、エウゲーニー・ザミャーチンの小説『われら』(一九二〇-二一年)である★2

 『われら』の舞台は社会主義の実現された未来世界で、労働者たちはガラスの集合住宅に住み、その生活は他人の視線や監視カメラの視線に常時さらされている。もっとも主人公のD-503はじめ、完全に平準化された社会で育ち、所有という概念をもたない住人たちが、このような空間を疑問に感じることはない。そんな彼らが唯一不可視性を求めるのが、性行為の際だった。この未来社会では夫婦という概念もすでに存在せず、男女がそれぞれ行政の窓口にセックスの許可を申請して、それが受理されると、指定の日時にガラスの個室にブラインドを下ろすことが許されるのだ。

 だが主人公D-503の前に、彼のファム・ファタールとなる女I-330が出現したことによって、この一見透明なユートピアに潜む不透明性が、徐々に明らかになっていく。体制の転覆を狙うI-330に主人公は欲望を抱くが、それはまさに彼女の「見通せなさ」――たとえばI-330は、D-503の前で何度となく瞼という「ブラインド」を下ろし、文字通り彼の視線を遮断する――のためだ。I-330は優秀なエンジニアである主人公を誘惑し、自らの陣営に引き入れようとする。しかし彼女らの反乱は失敗に終わる。連座して捕えられたD-503は、頭蓋という密室にまでメスを入れられ、不透明性は物理的に摘出される。このようにザミャーチンの『われら』では、透明なユートピアはそのままディストピアへと反転するのだ。透明性を追い求める社会は、最後には人間の身体と精神という不透明性を破壊せずにはいられないのである。
 一九二〇年代半ばに映画監督セルゲイ・エイゼンシテインによって着想された未完の脚本『ガラスの家』でも、ガラス建築の透明性と可視性が問題となる★3。物語の舞台となるのは、『われら』とは対照的に、近未来の資本主義社会に建設されたガラスの集合住宅。すべての壁がガラスからなるこのアパートメントでは、もちろん隣人同士の私生活は、些細な点まで見通すことができる。しかし住人たちは、あたかもそれが不可視のものであるかのように振舞う。たとえば彼らは、隣の部屋で夫が妻を殴っている光景が見えていても見えないふりをする。飢えに苦しむ子どもたちの姿が見えていても見えないふりをする★4。このガラスの家は、資本主義社会のエゴイズム、とりわけ他者の苦しみに対する無関心を、寓意的に表現した空間なのである。

 けれどもやがてこの集合住宅に、「詩人、キリスト、あるいは技術者」★5たる人物が闖入し、本当は壁の向こうが見えていることを暴露する。これを契機に、住人たちはいわば視力を回復し、ガラスを通して隣人たちを眺めはじめる。

 だがこの視力の回復は、共同体の構成員としての共感を高める方向には向かわない。間もなく住人たちは、ヌーディストと仕立屋たちの組織(身体を可視化する組織と、それを覆って不可視化する組織)に分かれ、抗争を開始する。そして両者の争いの末に、「唯一の人間的存在」★6と呼ばれるロボットによって、ガラスの集合住宅は粉々に破壊されてしまう。エイゼンシテインからすれば、ガラス壁やヌーディストのような表面的な意味での可視化は、資本主義体制下においては、けっして共同体意識の基礎とはならない。透明なガラス壁はあたかも隣人との境界を無化するかのように見えるが、しかしそこには依然として心理的・社会的障壁がそびえているのだ。そのような意味で、『ガラスの家』における透明な壁面は、その向こうにある対象を可視化することによって自らを不可視化し隠蔽する、ある種の欺瞞の装置なのだといえるだろう。

 さらにこのガラスの集合住宅では、「見る」「見られる」関係は均等ではない。普通に考えれば、ガラス壁を通して隣人同士は等しく互いを見ることができるはずだが、この物語では弱い立場の住人は、他の住人たちから一方的に見られ、娯楽のように消費される。より正確にいえば、この作品におけるガラスの壁面とは、何もかもをスペクタクルに変えてしまう装置、つまり映画のスクリーンに他ならないのだ。対象を見世物として搾取するガラスのスクリーンは、「見る」欲望をどこまでも昂進させ、それが極点に達したとき、暴力によって破壊される。まさにそれゆえに、映画の終わりとガラスの住宅の倒壊は一致するのである。
 これに対して、連載第二回で論じたエイゼンシテインの映画『全線(古きものと新しきもの)』(一九二九年)のガラスとコンクリートからなるソフホーズは、対照的な位置にある。ロシア・アヴァンギャルドの建築家アンドレイ・ブーロフによって設計されたこのソフホーズのセットは、工業化されたソ連の未来の農村の象徴として描かれる。ル・コルビュジエ風の水平連続窓をもつモダンなソフホーズでは、研究者たちが遺伝子交配の実験を行い、肉や牛乳が出荷のために加工されていく。社会主義体制下では、ガラス建築は見る=消費する装置ではなく、生産システムの一部となるのである。

2 ガラスのユートピアの回帰


 このようなアヴァンギャルドのガラスのユートピアは、スターリンの独裁体制と指導者への個人崇拝が強化される三〇年代半ば以降、社会主義リアリズムと呼ばれる様式によって取って代わられる。過去の建築の批判的引用を肯定する社会主義リアリズムの下、建築物は再び重厚な壁で覆われ、装飾とモニュメントによって埋めつくされていった。そして指導者の絶対的な権威を表現するために、再び不可視性が建築へと導入される。

 その最たる例が、連載第三回で論じた、スターリンの《ソヴィエト宮殿》プロジェクトである。計画によれば、モスクワの中心かつ頂点を占める地上三〇〇メートルの《ソヴィエト宮殿》の頂には、一〇〇メートルのレーニン像が設置される予定だった。アヴァンギャルド建築家らは、このスケールと構造ではレーニン像を地上から眺めることができないとして《ソヴィエト宮殿》の設計を批判したが★7、彼らの声は無視され、建設は開始された。

 もちろんこれらの批判は正論である。しかしソ連建築史家のウラジーミル・パペールヌィによれば、スターリン文化においては、像が「見えない」ことは設計上の失策ではなかった。都市の日常空間ではなくイデアの世界に属する指導者の像は、街路からは不可視であるべきなのだ★8。いずれにせよ、ナチス・ドイツの侵攻によって《ソヴィエト宮殿》はアンビルトに終わり、レーニン像だけでなくこのソ連史上最大の建築プロジェクト自体もまた、理念の領域にとどまることになった。

 スターリンの死後、彼の後継者となったフルシチョフは、このような非合理的で経済性を度外視したスターリン建築を激しく非難した。これによって、再びガラス建築の時代が到来する。連載 第四回で取り上げたフルシチョフの《ソヴィエト宮殿》計画や《大会宮殿》は、ガラスのカーテンウォールを大々的に取り入れることによって、スターリン時代とは異なる新体制の透明性や水平性をアピールしようとした。しかしながらこの透明な壁面の背後で作動していたのは、スターリン時代と大差ない抑圧的なシステムだった。党指導部によって承認されたこれら「合理的」で「経済的」な新しい建築様式は、それ以外のスタイルを政治的誤謬としてソ連建築界から排除しようとした。ガラスの透明性は、その背後にあるものを隠蔽し不可視化するために利用されたのである。この「雪解け」の時代に、ガラス建築はソ連でも一般化していったが、皮肉にもというべきか、一九世紀から続く理想の共同体とガラス建築の結びつきは、むしろ弱まっていった。

 それでは、フルシチョフ時代以降のソ連では、ガラスのユートピアはもはや過去の遺物となったのだろうか。
 確かに、ポストモダン以降の社会において、ガラス建築に理想社会を投影することは、決定的に時代遅れとなったように思われる。けれどもガラスのユートピアのイメージは、ソ連解体直前のソ連建築界にひっそりと舞い戻ってくる。連載第五回で紹介した、建築することを目指さずペーパー・アーキテクトと呼ばれた建築家たち、なかでもアレクサンドル・ブロツキーとイリヤ・ウトキンの作品には、繰り返しガラスのユートピアが出現するのである。

 一九七八年にモスクワ建築大学を卒業したブロツキーとウトキンは、閉塞したソ連建築界に飽き足らず、八〇年代前半より西側世界の設計コンペティションに秘密裏に参加しはじめる。特に彼らの「得意先」となったのが、日本の企業セントラル硝子が主催する、実現を前提とせずコンセプトを競うタイプのガラス建築のコンペだった。ブロツキーとウトキンは、一九八二年に開催された「クリスタル・パレス」を主題とする同社のコンペで最優秀賞を受賞し、以降同様の設計コンペで次々に入賞を果たしていく。
ブロツキーとウトキンのペーパー・アーキテクチャー作品の特徴としてまず挙げられるのが、寓話的形式だ。たとえば彼らの《クリスタル・パレス》【図1】には下記のような物語が添えられている。

【図1】アレクサンドル・ブロツキー、イリヤ・ウトキン《クリスタル・パレス》1982年

 《クリスタル・パレス》は美しいが実現不可能な夢であり、その蜃気楼は視界の端から常にあなたに呼びかける。[……]
そこを訪れようとする者は、周辺の街やスラム、ゴミの山を抜け、長い道のりを歩かねばならない。しかし最終的に宮殿に到達してみると、彼はそれが屋根も壁ももたない、砂場に突き刺さった巨大なガラスのプレートであったことを発見する。たとえ触れることができても、蜃気楼は単なる蜃気楼に過ぎない。ガラスの隙間から隙間へと歩を進めながら、訪問者は宮殿を通り抜け、そして風景の始点となる小さな広場の端へとたどり着く。果たして彼は《クリスタル・パレス》の本質を学んだのだろうか? 彼はもう一度ここを訪れたいと思うだろうか? それは誰にも分からない……。★9

 猥雑で混沌とした現実の都市の上に超然とそびえる、ガラスの高層建築。それは人を惹きつけてやまない。だが実際には、これらのガラスのタワーは蜃気楼のような平面的なイメージに過ぎない。もちろんそれは、紙の上のイメージの域を出なかった一九二〇-三〇年代のソ連の無数の建築プロジェクトを、ひいてはユートピア建築一般を示唆していると考えられる。ブロツキーとウトキンは、ガラスのユートピアを、平面上に描かれたガラス板の平面として、つまりは建築的奥行を二重に欠いた平坦なイメージとして、描き出したのである。

 一九八四年のセントラル硝子のコンペに入選した作品《ガラスの塔》【図2】では、物語はさらに錯綜している。画面いっぱいに描かれた、崩れ落ちたガラスの塔。ここにはバベルの塔からモダニズムのガラスの高層建築、さらにはスターリンの《ソヴィエト宮殿》まで、古今東西のユートピアとしての塔のイメージを読み取ることができるだろう。この塔は海浜から内陸部へとまっすぐ倒れているために、真上からの鳥瞰視点で描かれているにもかかわらず、まるで立面図のようにも見える。そして作品には、次のような短い物語が挿入されている。

【図2】アレクサンドル・ブロツキー、イリヤ・ウトキン《ガラスの塔》1984年

 この海辺の塔が、いつ、なぜ、誰によって建設されたのか、そしてそれがいつ、なぜ崩れ落ちたのか、知る者はいない。しかしそれは倒壊して、無数のガラスの破片となり、透明な山脈、死んだ街、あるいは先史時代に絶滅した恐竜の化石のように横たわっている。その基礎は浜辺に置かれ、その頂は大陸の奥深くへと消えている。周辺に暮らす人びとは、そこに再び新しい街や塔を築き、その高さを競っており、この破壊されたガラスの塔の存在に気づく者も、その頂が雲に隠れるほどであった時代を思い出す者もいない……。
 はるかな高みから眺めた時にのみ、太陽の光に輝きながら横たわっているであろうそれに、気づくことができるのだ。★10

 まず留意しておきたいのは、この塔の存在は――まるで亡霊のように――「見えない」ということだ。アヴァンギャルド建築家たちがあれほど重視した透明なガラスの可視性は、建築物自体が粉々となったことにより、そもそもの見通すべき内部を失って、全くの無意味と化している。ガラスの断片は、その透明性ゆえにただただ自らを不可視化し、ひいてはガラスの塔全体を不可視化するのみだ。

 この《ガラスの塔》は《クリスタル・パレス》と同じく、内部や奥行をもたない平面化された建築だが、一方で《クリスタル・パレス》のように人びとの眼を惹きつけ、魅了することはない。塔の残骸の周囲に暮らす人びとは、塔の存在にきづきもしない。そしてまさにそれゆえに、人びとはこのガラスの塔の倒壊から教訓を得ることなく、この塔の亡霊に憑りつかれたかのように、その周りに新たな塔を築こうとするのである。当然ながら、そこでは倒壊のモメントもまた、何度でも繰り返されることになるのだろう。

3 ユートピアへの郷愁


 現代ロシアの建築批評家グリゴリー・レヴジンは、ペーパー・アーキテクトたちの作品に回帰する曖昧なユートピア・イメージを指摘し、ここに同時代の西側のポストモダニズム建築との相違を見出している。レヴジンによれば、「建築の分野におけるポストモダニズムは、到達すべきユートピアにおける対立の解消の正当性よりも、《複雑性と相互対立》を、建築に内在する固有のポジティヴな性質として主張した」★11のであり、その点で、西側のポストモダニズムは基本的に「反ユートピア」なのである。対照的に、ロシアのペーパー・アーキテクチャー運動では、「引用の遊戯、文学性、歴史の多層性は、簡単にユートピア性と結びつく」★12。確かにペーパー・アーキテクトの作品には、エデンの園からタトリンの《第三インターナショナル記念塔》まで、過去のユートピア的イメージが頻繁に引用される。それでは、果たしてブロツキーとウトキンの《ガラスの塔》にも、過去のガラスのユートピアへのノスタルジーを読み取ることは可能だろうか。

 セントラル硝子のコンペは基本的に問題提起的な性質をもつもので、建設を前提としていないが、投稿作品は「設計図」の名の下に描かれている。設計図は本来これから建設されるものを、つまりは未来を志向するものだ。けれども《ガラスの塔》では、将来建設されるはずの対象が過去の遺物として、重力に抗して建ち上がるべきものが倒壊した姿でもって描かれている。つまり未来へ、建設へと向かうベクトルは、ここでは過去へ、破壊へと向かう等しい力によって打ち消されているのだ。ブロツキーとウトキンのガラスのユートピアは、このように二重の意味であらかじめ失われているのである。

 フランスの思想家ウラジーミル・ジャンケレヴィッチは、自身のノスタルジー論の中で次のように述べている。「郷愁は不合理だ。[…]郷愁がそれ自体、その原因なのだから。郷愁は同時に原因であり結果だからだ」★13。あるいは「郷愁の対象点はいたるところのほかだ。《あの世》のようにいたるところよりほか、つまりどこでもないところ★14と。この言葉に従うならば、ノスタルジーの対象とはそもそも存在しない、ノスタルジーそれ自体によって作り出された虚構の場所、まさしくユートピアに他ならない。ノスタルジーとは対象をもたない、より正確には、「対象の欠如」によって成立する感情なのだ。こうしてみると、ブロツキーとウトキンの描く廃墟が、失われたユートピアへのある種の郷愁のようなものを漂わせているように見えるのも理解できるだろう。

 ただし気をつけねばならないのは、彼らのガラスの廃墟は、過去のユートピアへのノスタルジーを掻き立てると同時に、当のノスタルジーの対象そのものがもつ虚構性も明らかにするという点だ。寓話の中の塔の存在に気づかない人びととは異なり、鳥瞰的視点からこの作品を眺めるわれわれ鑑賞者は、ガラスの塔の存在を認識することができる。そしてそれが廃墟の設計図、つまりこれまで存在したこともなければ、これから建設されることもない、二重に存在しない虚構の建築物であると気づくことができる。ブロツキーとウトキンのガラスの廃墟は、ザミャーチンの『われら』のような、ユートピアへの直接的で痛烈な批判を含まない。しかしこのように自らの虚構性をあらわにすることによって、失われた理想郷へのノスタルジーに耽溺することも許さないのだ。現代ロシアの建築批評家エフゲニー・アスは彼らの作品の性格を、「激しいパトスも、破壊的なアイロニーも欠いた」、「批判的センチメンタリズム」と評している★15。彼らの《ガラスの塔》は、過去のユートピアへと人びとを誘いながらもけっしてその建設へと彼らを駆り立てたりはしない。むしろそれは、ユートピアを決定的にアクセス不可能なものとして示すのだ。

 チェルヌィシェフスキーやアヴァンギャルド建築家たちによって夢見られた社会主義のガラスの楽園は、こうして一度も実現されることなく、ガラスの廃墟となった。おそらくガラスは、彼らが信じていたような対象を可視化する透明な板であるよりも、視線を反射する鏡に近かったのだ。そしてこの鏡面には、一九世紀このかた、理想の建築の、ひいては理想の社会のイメージが投影されてきた。

 だがこれらの美しい鏡像は、あくまで平坦なイメージに過ぎない。だからこそ、それらを空間へと翻訳しようとする試みは、総じて失敗に終わってきたのではなかったか。それに対してブロツキーとウトキンは、ユートピアをアンビルトの廃墟として描き、このイメージの平面性・虚構性を暴露する。そうすることで、彼らはこの透明なユートピアの亡霊を可視化し、その力を紙の上に封じ込めようとしたのである。

***


 ソ連建築史の泰斗セリム・ハン=マゴメドフは、ソ連建築の歴史において真にユニークといえるのは、一九二〇年代のアヴァンギャルド、三〇年代の社会主義リアリズム、そして八〇年代のペーパー・アーキテクチャー運動のみであると述べたことがある★16。奇しくもこれら三つの時期は、紙上建築が盛んに生み出された時代と一致する。だがこれは、おそらく偶然ではない。連載初回で述べたように、ソ連は自らの理想像を建築によって具現化しようとし、常に失敗し続けてきた。しかし裏返してみれば、紙上建築という形によってこそ、ソ連という共同体は正しく表象されてきたといえるのではないだろうか。
ただし、建設を前提として描かれた二〇年代、三〇年代のプロジェクトと、八〇年代に描かれた紙の上のイメージは、もちろん分けて考える必要がある。二〇年代、三〇年代の建築プロジェクトは、そのユートピア性ゆえにアンビルトに終わった。八〇年代のペーパー・アーキテクトたちは、そのようなユートピア建設の歴史をいわば物語の枠に入れて示そうとした。だからこそ、われわれは《ガラスの塔》の寓話に描かれた、ガラスの塔を繰り返し建設しようとする人びとの行為の愚かさを、客観的な距離をもって眺めることができる。そして同時に、われわれは自分たちもまた、不可視の廃墟の傍らに暮らす住人であるということに気づくのだ。

 《ガラスの塔》が描かれてから四半世紀が経ったモスクワから改めてこの作品を振り返ってみると、それがいかに予言的であったに驚かされる。ソ連という神話的な建造物が倒壊してから十数年後、モスクワの新しい経済の中心シティには、ロンドンのシティに倣って、資本主義の権化のようなガラスの高層建築が次々に建設された。《ガラスの塔》の物語そのままの建築ブームに沸くロシアにおいて、多くのペーパー・アーキテクトたちもまた、普通の建築家へと転身していった。

 とはいえ、ソ連解体とともにペーパー・アーキテクチャー運動が有していた建築への批評的眼差しが、すべて忘れ去られたわけではない。たとえばブロツキーは、今でも一貫して建築を通して建築へのニヒリズムを表現し続けている。二〇〇〇年以降に彼が手掛けたレストラン《オギ通り Улица ОГИ》(二〇〇二年、現在は閉店)やカフェ《アプシュー Апшу》(二〇〇三年、現在は閉店)、ギャラリーの複合体《ワイン工場 Винзавод》(二〇〇七年)【図3】は、いずれもモスクワ市内の既存の廃墟化した建築物を、最小限の改修のみで(つまりはほとんど廃墟のまま)、別の用途をもつ施設へと転用したものだ。これらの作品は、いわば《ガラスの塔》の透明な廃墟を、現実空間において可視化したものに他ならない。紙上から現実のモスクワへと活動の場を移しても、ブロツキーはこのように意識的に「建てない」建築家にとどまっている。ソ連時代の残滓というべき廃墟に身を置き、「廃墟の建築家」を名乗る建築家は、今もなおロシアをさまようユートピアの亡霊と、対峙し続けているのである。

【図3】ギャラリー《ワイン工場》の外観


【図4】ギャラリー《ワイン工場》の内部




【画像出典】
【図1】Alexander Brodsky, Ilya Utkin, Crystal Palace. 1982.
【図2】Alexander Brodsky, Ilya Utkin, Glass Tower. 1984.
【図3・4】著者撮影(二〇一四年七月)
ブロツキーとウトキンの作品については、両氏から掲載許可を受けている。

★1 Стекло в современной архитектуре // Современная архитектура. 1926. №3. С. 64
★2 『われら』には三つの日本語訳が存在する。最も新しいのは、ゲンロンでもおなじみの松下隆志氏による光文社古典新訳文庫版(二〇一九年)で、他にも小笠原豊樹訳(集英社、一九七七年、のち二〇一八年に文庫化)、川端香男里訳(講談社、一九七〇年、岩波書店より一九九二年に文庫化)がある。いずれも名訳なので、ぜひ読み比べてみてほしい。
★3 エイゼンシテインは、一九三〇年にハリウッドのパナマウント映画との映画制作の契約に基づき、この『ガラスの家』の脚本を書いた。しかし脚本が完成することも、契約が実現することもなかった。『エイゼンシュテイン全集第二部 映画――芸術と科学 第六巻 星のかなたに』山田和夫他訳、キネマ旬報社、一九八〇年、二九四頁。
★4 他にも、自分の部屋で自殺する男の様子を、透明な壁越しに近隣の住人たちが見物するシーンや、隣人女性の浮気現場を盗み見て恐喝を企てる男のエピソードなどがある。
★5 "Стеклянный дом" С. М. Эйзенштейна. К истории замысла // Искусство кино. 1979. №3. C. 107.
★6 Там же. С. 108.
★7 Гинзбург М. Я., Веснин В. А., Веснин А. А. Проблемы современной архитектуры // Архитектура СССР. 1934. No.2. С. 67.
★8 Паперный В. Культура Два. М., 2006. С. 24.
★9 Brodsky & Utkin: The Complete Works, (New York: Princeton Architectural Press, 1991), p. 24.
★10 Ibid., p. 40.
★11 Ревзин Г.И. Бездомный архитектор // Михаил Белов. М., 2006. С. 11.
★12 Там же.
★13 ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ『還らぬ時と郷愁』、中澤紀雄訳、国文社、一九九四年、三八〇頁。
★14 同上、三九〇頁。強調は原文。
★15 Асс Е. Проект архитектора и [или / как] художника // Проект Россия. 2006. №41. С. 73.
★16 Ревзин Г.И. К 20-летию бумажной архитектуры: 20 лет спустя // Проект классика. 2004. С.110.

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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